Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0

2026/09    08« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  »10
♪
今でも僕は
君に何かしてあげられるのかな
まだ 今でもいつまでも・・
たったひとつ
思い続けること以外に

・・・

と、

でも、

それ、

「してあげる」こととちゃうやん!?

思うことは
独りよがりで
自分のためでしかないんだ

自分の苦しみを
むなしさを
昇華したくて
”思い”なんて言葉ですり替えて

忘れられないんだ
忘れられないんです
あなたが誰かのものになってしまっても
もう忘れてしまっていても

この狭くて果てしのない世界の中で
あなたのことを愛している者が
ここにいるよと示したい
せめて同じ空に・・・と


でもこの彼がまず「してあげる」べきことは

やはり、やはり、
”忘れてあげること”
しかないのではないだろうか・・・

その”もしも”が事実だった場合
それは余計に・・・

でも、忘れるなんて無理じゃん?
能動的に忘れるなんてこと出来ない
諦めてあげる?
いや、そんなエラソな気分にもなれない

哀しい
哀しすぎる

だから、
何もしてあげなくていいじゃん、
と思う。

彼女のためではなく、
自分のために心ゆくまで思ってみたら
いつか自然に辿り着く境地がある。

そこにはもう彼女のカケラもないかもしれないし、
でも、思いもよらぬカタチでまた逢えるかもしれない。

一寸先はカオスで
人の心には
マニュアルはないのです

なぜならば、
心とは誰のものでもなくて
自分自身でさえ所有者じゃなくて
大きな意識の水底から茎を伸ばした
一本の睡蓮の花みたいなものなのじゃないかと・・・

でも、だから、
今でも繋がっている
とも言えるのですけれどもね

(とことん哀しいなぁ(*´ω`*)愛は哀なり)


♪恋とはすべての時が
  過ちなのかもしれない

そう、多分、それが”愛”ではないからでしょう?

「恋愛」なんて単語に惑わされて
愛と恋をごっちゃにしている。

宇宙の仕組み的に言えば?
もしかすると、
愛と恋は真逆のものかもしれません。


自分はおそらく”思い続ける方”として
この歌のこと
近頃はそんな風に思いながら
聴いておるのです。


※お盆休みに未視聴の家人と『インターステラー』を観返したりしてたので、急に脳内が壮大になっております(ノ∀`)。


”街のはずれにある店で会う”
=そもそも正当な理由のもとに会うカンケイじゃなさそう。

”気まづく出したタバコ”
=相手への引け目。

そんなビミョーな雰囲気漂うひとときに、

”火をつけてくれた”
=それは彼女の優しさや気遣いではなく、能動的な突き放しに思える。

「私はあなたのことすべてわかってしまったから先回りしてここで火をつけてあげる事は出来るけど、でも、私があなたから得るものはもう何も無いのです」

という、無言の薬指。
そもそもそも、先に薬指に指輪が光っているのが目に入ったから”気まづい”のだ。会うまでは「久しぶり」なんて言ってチョット取り付く島があるんじゃないか、なんて、淡い期待を持っていたのかもしれない彼。

でも、決定打に打ちのめされて気まづい場面転換のためのタバコなのだ。

この”気まづい”にはきっと二種類の意味がある。
その、指輪現実に敗北した今更感と、
今はタバコを吸わない彼女の前で吸おうとする方向性の違い。

どちらにしても彼女の冷たい優しい目が虚しい。

・・・
ナゼこんなこと急に思ったのかといいますと、フトこの彼女、どこからその火を持ってきた??と思ったわけです。

彼が胸ポケットからタバコと一緒に出してテーブルに置いたそのライターをわざわざ手を伸ばして取る?

いや、この頃の喫茶店やBARのテーブルにはきっとその店オリジナルの紙箱入かブックタイプのマッチが置いてあったのだろうと。ごく自然にそこにあったマッチをごく普通に使っていた、そんな一昔前の日常を懐かしくしみじみと思い出してみたわけです。

(といっても実は彼女も自前のライター持っていたかもしれませんが(笑))

・・・

この歌、作詞だけがShoyanなのだけれど、短い中に時系列が3つも織り込まれていて複雑なのだ。

・赤い自転車に乗った彼女を逸る気持ちで二階の窓から眺めて待っていた、数ヶ月から数年前の『あの頃』。

・髪が伸びるほどの日が経って見違えた彼女に久しぶりに会った最近の『あの日』。

・街なかを独り歩いて同じようなセーターを来た女性に人ちがいをして、肩寄せたラブラブの二人連れに追い越されていく『今日』。

めっちゃ多動な視覚の詰め込み感に、Shoyanのスケッチブック的な取材欲の濃さを感じるのです。

3拍子のノンビリ曲調と♪ラララララ〜のハミングに、ちょっと聴き流し気味で今日まで来てしまったけど、あの頃と今日の振り幅だけではなく、生身の彼女と接触した超現実時間が加わってトライアングルになっているのが実はこの歌の面白いところだと、今頃気づいた次第です。


心が残っていると目のフィルターはいつまでもその時のままなんだな。

「あ、違った・・・」

そういう時ってホントにエグられるものです(涙)。

♪ラ〜ララ〜ララのフェイドアウトな彼のひとりぽっちさが哀しくて、かぐや姫らしい歌だなって今は思いながら聴いています。



※このあとほんの数年後にはオトコがオンナの咥えタバコに火をつける展開になっていくのも興味深いですね♪

それから半世紀以上経って、そんなオトコもオンナも今は健康のために禁煙しているのでしょうか。恋もタバコも煙の立たない加熱式や電気式の味気なき世になったので、それもいいかもしれません。
(でも口さみしくて甘〜いキャンディ舐めすぎて太っている彼もまた微笑ましからずや(*´∀`))

・・・いやいや、やはり
隠れて吸う背徳感も捨て難し・ですヨ☆



(結局また最後に脱線しました  ^^;w)
♪
あぁ 君の長い髪と胸のふくらみを
 愛して時は流れた つい昨日までは

こんなエロスを歌うのを許されるのは伊勢正三以外いないと思います。
Shoyanご本人にはこういう肉感的なことをサラリと歌い上げて人の心を掴みとってしまうスマートさが完備されているので、聴く方はうろたえずに済むのです。まるで藤田嗣治の裸婦画のようで。

一歩間違って違うキャラの人物が歌ったりしたら印象大反転して「無理無理無理!」となるでしょう。
歌う人を選ぶ歌である。

そもそも作者もShoyanなのである。
一歩間違って違う感性の人が創ったりしたらもっとナマナマしくなっちゃうかもしれない。でもこの歌の虚しみが美しくて、寂しい温度の方が優先されるのだ。

この絶妙なバランス。
聴く者はうっとりとしてそれを”ロマン”として受けとめて浸る。
さすがなのだと想うわけです。

・・・
♪
 あぁ 僕の心の中に寂しい椅子がある
 そう昔 君もそこに座っていたんだね


では、その僕は一体どこにいるの??
僕の”心の中”と言いつつ、そこに彼いない。
この彼の愛し方は最初から乖離なんだ。
彼女が望んで座ったのではなく、
彼がそこに座らせたのだ。
Shoyanの歌の根底にある愛の形がよくわかる例だと思いながら聴いてきた。

(だがしかし、今現在はどうなのかわからない。1周回って今もそうなのかな・・・)

人は、対象を自分の中で計る。
自分が発した価値なのに、それが対象の真実だと思ってしまう。
だから、違和感が浮上してくるとそこで「別物になった=わかれた」のだと思ってしまう。
むしろその違和感こそ対象の真実の姿だと気付かずに。

でもそもそも道がわかれたのではなく、最初から同じ道なんて歩いていないんだ・と、何十年も何千回も聴いてきた今はそう思う。同じ景色に見えて、それは個人個人の薄いフィルムが何層も重なった同時上映なのだと、この歌を聴くときに並走の難しさをつくづくと想うのだ。

何十年寄り添っても
一瞬で追い出された!とか
一瞬しか会っていないのに
前世からの運命だ!とカンチガイとか

♪あぁ 君がいた頃は〜

とは、

「あぁ、君が僕の思い描く理想の姿だった頃は」

となるのかもしれない。

(なんか醒めてるわね七氏w)

後悔するほどもう少し早く識りたかった”本当の愛”とは何なのか?そこに答えがあるような気がする。

自分発の欲求
ではなく
相手の寄り添い
に気付けるか受け入れられるか
という心の機微が解れたら・・・
と想うのだ

・・・

Shoyan独特のシャッフル感に準チャンが差し込む美しいストリングスが普遍的に瑞々しい。そしてその存在感を尖らせてきたギターのソロPlayも。
何回聴いてもその抒情が色褪せない。

オトナの街の陰りのある虚無感と愛の虚しさ=虚像が同時に語られているようで、きっと新しいShoyanのまなざしが始まった一曲でもあったと思う。TODAYなかぐや姫でもなく風でもなく、伊勢正三のエアポケット的な底の曲としてずっと好きだ。

(私の中ではなぜか雨の物語とセットなのである)


六本木という街が最近になって下火なのだという。この歌の頃はまだバブル前、すごく昔ですね。半世紀も前なのだ。そのバブルで膨れに膨れたギロッポンなロッポンギが、とうとうそのパワーを変化させていると聞く。

賑わいは高層の新しいビルの中ばかりで、”街”・”通り”というもののニュアンスが変わってきたとネット記事で読んだ。実際どうだろう?集う人たちも変化していると。バブルの頃の外国人さんたちと今のインバウンド来訪も違うような気がする。確かに、、遠くから感じれば現在の六本木の影が薄いのかもしれない。

そう、ビルの中のモールには雨は降らないだろう。
地図アプリやSNSを見るためにうつむいて自分の後悔にさえ気づけない、そんな人たちがこの令和の今右往左往している都会の底。

憧れ続けて、結局追いつけぬままに遠ざかっていった70年代の街の息遣いを懐かしく想う一曲なのです。


※確かに、あのあたりは青山通りと六本木通り、首都高は谷町JCTで3号や2号に、あっちからもこっちからも”分かれ道”なのであります。


※※風・風・風の今、ナゼこの曲を!?ですが、ずいぶん前から書き出していたことなので、タイミングおかしくてもお許し下さい^^;
果たしてもう何回この曲と共にこの季節を過ごしただろうか。

40年とちょっと♪
毎年毎年毎年聴いてきた。
中学生の自分と、50代も半ばを過ぎた今の自分と、全く同じように深く聴けていることが無上の幸せです。

・・・

雨の降り出しにトキメイて、しかも車で君を連れて午後の街なかへ・・・何をするでもなくどこへ行くでもなく、雨の中一緒に出かけるだけで嬉しい時間。そんな何気ない瑞々しい新緑の景色と雨に濡れた街の灰色の景色の対比が面白いなって想っていた。


♪街の何処かで今日もまた誰かが生まれ変わった
♪五月雨に洗われるのは汚れた街と耐えられぬ心

幾千年も繰り返されてきた自然の中で
自分が生きている時間て一瞬だ
ましてやキミと過ごす時間はもっと少ない

「キミはこの五月の雨のように
   自然に在ることが出来るかい?」

そんな風に問われているような気がした。
人は自然に憧れてナチュラルであろうとするのだけれど、天然な自発は協調じゃなかったりする。
心待ちの雨の昼下がりも数時間後にはケンカしてたりして^^; 人の幸せって均一じゃない。

でも、五月雨は等しく強制的に降ってくる。
公園の緑や街路樹も高層ビルもアスファルトも同じように圧倒的に濡らしていく。
なのに無衝突だ。
梅雨の雨や秋の雨のように重くなくて、ただひたすらに潤いをもたらす化粧水のような安堵。不確定な日常を一刻忘れたくて無意識に人は心を委ねてしまうのだ。そんな共感をこの曲で得てきた。

一見アコースティックだから風からの流れのように感じるかもだけど、でも、Shoyanの意識はもう次の『渚ゆく』にリンクしていたのではないかと思う。
『北斗七星』のアルバム曲はShoyanがその後携えていくことにしたものと置いていくことにしたものとに分かれる気がしている。
『通り雨』や『雨の物語』『わかれ道』のようなドラマチック深刻さと言うよりは、実生活的と言うか身近な充実を感じるのだ。自分自身が好きな瞬間とよく似ている。雨が降るだけで・木々が芽吹くだけで・アナタが隣りにいるだけで・日々が過ぎて生きているだけで尊い、そんな感触。特別なことはなくてもいい。でも本当はそれが深いことだとサラッと織り込んである。

♪こんな雨の日
  気付くのは
  晴れた日々の素晴らしさ

雨の日には晴れた空を、
晴れの日が続けば雨の訪れを、
人はいつもあっちとこっちを行き来したがるものなのかもしれない。

・・・

アコギの刻みにWahったエレキ、男声のコーラスでザックリと確実なサウンドがカッコイイ(*´∀`)☆
イキナリからしてShoyan自声のハモリにユニゾン、心は静かに鷲掴み(泣)。そういう音の部分でも瑞々しくて、シュッと絞まっていて型くずれしない男前な曲だと思う。ツンツンしたギターソロにフルートの音色もドライで鋭く、勢いが途切れない。

そしてイントロと同じフレーズの繰り返しがまたアウトロで始まる。絶え間ない雨は降り続いていくのだ、時代の匂いを抱き込んだまま・・・


昔はよくコンサートの客席からリクエストの声があがっていた。今でも私もライブで聴いてみたいと想っている。Shoyanご自身が思うより?きっと聴手はこの曲が好きですヨ♪


一時、若い頃、未熟な私はこの緑の季節の生命感と祝福感が苦しくて、新緑や咲き誇る花々に背を向けていた時期があった。子供も持てずに何も産まれず恵まれなくて孤独で空っぽの自分。でもこの歌を聴く時、寂しくはなかった。生まれ変われずに終わってもそれはそれで人生だよと、それくらい自然とは寛容なものだよって、この歌を裏返したら何故かそう感じたから。そんな寄り添いがこの歌には在るのです。

ひと粒だけが雨じゃないって、Shoyanの歌には決めつけがないからずっと好きでいられる(涙)。

その美しい糸で、想い出を織るも良し・縫い合わせるのも良し、なのだ。
"他の誰かを好きになっていいの"?

!
またもや彼女のセリフ斬りで袈裟懸けにされる悶絶!
誰よりも愛している彼女からこんなこと言われて(目で訴えかけられて)この彼、どんなリアクションしているのだろう?
ちょっと不機嫌そうに口をへの字に曲げて目線を逸らせても、内心では今すぐ路地の壁に抱き倒したいほどの衝動を熱く握りしめているでしょう。

(これが疑問形なのではなく、もしくは"あなたは他の誰かを好きになってもいいの(よ)"という突き放しの可能性も含めて)

互いに滅茶苦茶愛していて、好き過ぎて思い詰めすぎていて逆に相手に想いが伝わっていないこの状況が、非常にShoyanの歌らしくて好きだ。この悶絶、もどかしさ、キレキレである。彼女の意識していない翻弄もまたShoyanの歌の王道。

♪逢いたくて逢いたくて今日まで
   ずっとこの日を待ち続けた
♪今でも誰よりも君が好き

そんなに久しぶりの邂逅なのに、一旦背を向けて振り向きざまに彼を試すような彼女の態度は・・・

どんな理由でこの二人が離れていたかわからないけれど、未だ熱いフライパンに落ちた水滴みたいに、じれったく一つになれないでジリジリしている感じが当時の歌らしいと想う。彼の方では”逢いたくて逢いたくて”と待ち続けていたこの機会でも、彼女の方ではその時間は”放っておかれた”なんてワザと想ってみたりして、拗ねたような気持ちを手間かけて解いて欲しいと思っているのかな。
互いの一途さが拗れた感じがタマラナイのです。

・・・

1995年、池田聡氏とのISという限定ユニットの曲とは言え、これは伊勢正三が濃ゆい一曲だとずっと想ってきました。

ほぼギターだけの伴奏にShoyanのシリアスな声。
甘いのに冷たい声。
マイナーでそっけないのに畳み掛けるメロディ。

そんなシチュエーションで

♪君の髪が濡れたままで
   冷たいほど愛しさは募る・・・

なんて歌われてしまうと膝から崩れ落ちそうになる。
罪の塊のようなヴォーカルだ。
この頃の熟れて艶のあるShoyanの声でこのシンプルなアプローチは、常識の防弾ガラスさえ突き破りそうなインパクトでした。
池田聡氏の甲高い非日常的なコーラスが入って我に返るけど、そうでなきゃギターのシックなアルペジオにくすぐられてこのShoyanの声の密室から永遠に抜け出せなくなるでしょう。ある意味キケンな歌であります。

・・・

♪愛することの他には何も
 出来なくしてくれてもいい

とは・・・
そもそも私もあなたも、愛することしか取り柄のない者同士なのだ。
もの凄い決意のようだけれど、愛することの他に出来ることに意味があるのだろうか? 歌うことも怒ることも食べることも根底は愛だよ・って匂わせてくれている気がする(愛)。


雨音に包まれているのにまだひとつじゃない二人。
背中や髪や唇、立てる襟は外見だ。
心の中はどうなの?
この後、この恋の雨の中を歩き疲れて静かな褥に倒れ臥す時、そこは果たして独りなの?二人なの?と、またもどかしい。

「君が好き」と意識的に伝える言葉は、眠る=無意識下では自覚出来ないことだから彼は焦っているのかもしれない。本当は焦らなくてもいいのに・・・

いつか
静かな雨音に目覚めたら
心が繋がって同期しているって気付くのに。
振り向いて動いた唇は
声にならない想いの発露だったかもしれず・・・

同じ雨でもこの歌における雨は緊張感と揺らぎの風景だ。

四半世紀経ってみてまたこんな雨の歌が懐かしい。
直情的で色っぽいのにウブな感じもまたShoyanの歌の振り幅の一端だと、毎年新鮮な気持ちで聴いている一曲です。



※蛇足
ISという企画は池田聡氏側主導だった(と思う)ので、当時情弱な伊勢正三ファンの私が知ったときにはもうライブのチケットは売り切れていました。本当に悔しくて、そういう情報の偏りに多々悲しい思いをしたものです。そういうやるせなさもこの歌は含んでいます。

この頃ご出演になったラジオで、Shoyanが使用したギターについて(D45だったか?)
「事務所の倉庫にしまいっぱなしにしてあって、カビだかサビだらけのヤツを引っ張り出してきて録音した」
というようなことをおっしゃっていました^^;
あんなに良い音なのにそんなリアルなの!?と苦笑したものです。

Shoyanらしい放置事案だなと思います。

「他の誰かに弾かれてもいいの?」

と、Martinたちが言っていたかもしれませんね(*´ω`)。
「この街の川の流れには
     まるで自由がないのね」

!!Σ(・_・;)
いきなりのこのシビアなセリフ、
ガーン!と来るわけで、ちょっと体温が下がる。

冒頭は街の中、そう両脇を護岸で固められてソコしか流れない不自由な川の風景。ガッチガチに固められた逃げ場のない強制の景色。

『神田川』にも通じるような、そんな価値観の自縛がある。

でも歌はいつしか山の中のダム建設現場のような環境破壊の場面に移る。大自然と都会ならば本来は非なるものだけれど、その2つを並べれば大自然を大規模に破壊して変えてゆく重機と圧倒の現実に、小さな個人の恋など入り込む余地がない、と、どこか諦めの哀しさを示してくれる。
(ように、当時は思えた)

前作アルバム『海がここに来るまで』の『レミングの街』で酸性雨を歌い、『JunkFood』で地球温暖化にプルトニュウム。そしてこのアルバム『メガロポリスの錯覚』ではこの自然開発環境破壊、タイトル曲のホームレスから育親書まで、この復活2枚組(敢えて2枚組にしちゃう)のシビアでシリアスな新しい伊勢正三の切っ先には当時張り倒された気持ちで痺れまくったものでした。

新しいShoyanの世の中に対する多角的な向き合いを感じて、その本気度に感動していました。


だがしかし、その歌詞のシビアさに反してこの『時が沈む湖』のメロディーはわかりやすく叙情的でロマンチックなのだ。陰りを帯びたマイナーな青緑色の音は聴く者の胸にストレートに来る。そのギャップがShoyanの歌らしくてさすがだなって想っていた。

イントロの重実徹氏の表現力が凄い。岩の合間を高低つけて流れ下る奔流と苔むす源流と森の奥行き、一山超えた平野に広がる人工の街の佇まい、そこにShoyanのやるせなきスキャットが絡んできて、俯瞰と意識の底が同時に顕されていて非常にドラマチックなのである。かなり能動的に創られたのだなって、当時のShoyanとその周りのミュージシャン方の意気込みを感じる。


Shoyanお得意の
コンクリート
ブルドーザー
ダンプ
河口堰・・・
リアル過ぎる言葉の数々、その一方で実はその”森”とは恋をする者の胸の中のことだったりする。その振り幅がまた堪りませんでした。


しかしながら、
恋とはそんなにピュアでなくてはいけないものだろうか?
自由で自然でなければいけないのか?
それが答え?

この歌を聴いた当初、私もまだ20代、純粋で一途で自然な発動こそ至上の恋だと想っていました。もちろん今でもそうあるに越したことはないと思いますが、でも、いつまでも恋がせせらぎのままでは脆弱ではないか・とも思うようになりました。

30年聴いてきたら、もっと強い恋もあると想うようになった。コンクリート護岸を打ち砕いて越水して床上浸水するくらいの暴れ川になれると。

「まるで自由がない」とは、彼女の”逃げ”なのではないか・と今では想う。答えではなく彼女の言い逃れなのかもしれない・・・と。

・・・

ダンプやブルドーザーはなんの比喩なのだろう?
想い出を濁らせるほどの”超現実”のことだろうか。
この表題の”湖”とは、元から自然の中にある湖ではなくてダム湖なのだとしたら、そもそも人の恋心も人工物なのだと想う。せせらぎや自由な流れに幻想を抱いてそのままでいたいとしても、他との関わりは開発であり変化なんだ。

それを受け入れて自然な不自然を自分のものに出来たらホントウの自由が得られるのではないだろうか。


ダンプやブルドーザーじゃなくて
一輪車とスコップとミニユンボくらいで
里山のため池みたいな環境が作れたなら
その恋は長続きしそうな気がする。

そんな、”時が沈むビオトープ”に辿り着きたいものです。

年齢を経てから聴くと柔らかく聴けるようになって、今またこの新緑の季節に好きな歌であります。
あれから(どれから?w)ずっとシブ風BESTを聴き続けていますが、中でも『まぶしすぎる街』のアノShoyanの独特の歌い方にハマっていまして、今になって悶絶めっちゃカッコよすです。

作詞は喜多條先生ですが、Shoyanが嵌めたメロディは半音がちょっと多いような、軽く登っては降る節回しが独特で、譜面通りではなく、なんとなく街角のスケートボードのスラロームのようにすり抜けていく感がある。そこにちょっと重ねてダミった声がオトコっぽくて、今になって心地よく、また新鮮な感じになんだか赤面しながら聴いています。(ちょっとハードな荒木一郎風味も感じたりして)
石川鷹彦氏の(珍しい?)エレキさく裂のハードなアレンジも突出していますね。

十代二十代の私ではこのボーカルは「なんか入れ込んで変わってるな」ぐらいにしか思えなかったのです。でも、今聴いてみるとこれはとても新鮮で、若き日の当時のShoyanのチャレンジが今になって良いインパクトで押し寄せます。ちょっと線の細いイメージで白面の貴公子だった当時のShoyanは、本当は中の人はワイルドで開拓精神に溢れるお方だったのだろうなって垣間見えます。

(でもこの後マクロビオテックや西海岸系仙人潮流に傾いていって、前向きというより深化沈降なイメージになっていくのも興味深いものだと、後追いファンの私は思っていました。)



初めて聴いた頃当時、1980年代の十代の私には

♪俺はどうしてこの暮らし 倖せと名づけない~

なんて、「なにイキがってるねん」と想っていたけれど、今、人生五十代後半になってそんな境地もドンピシャだったなと想って震えるのです。このフレーズが今凄く好きです。喜多條先生の斜に構えたニュアンス?が大人になったらハマるという、実はそれはリアルだったという、悔しいようなさすがだなという気持ちで偲んでいたりします。

短い曲ですが、息の永さとインパクトの強さは異色だと思います。こうやっていつの日か必ず引っかかって浮かび上がってくる歌がある。

だからShoyanの詞やメロディはいつでも何年経っても油断ならないのだ(*´ω`)b
ソロの曲でまず最初の最初、一番に初めてに聴いたのがこの曲だと思う。非常に意味深い出遭いであった。

かぐや姫・風の曲を知って伊勢正三という個人に大興味を持った私が”ソロアルバム”という存在を知り、『スモークガラス越しの景色』のLPジャケットの美しさに惹かれて最初の購入を決意、レコードの針を落とした第一発目の曲がこの曲なわけです。それはとても幸せなことだった。

・・・

以前から時々言っていますが、この歌は特別好き過ぎて人事不省なまま聴き続けてきたので、深く考えずに毎回良いな・カッコイイな・好きだなの気持ちだけで聴いてきてしまった。なので、実はずっと変な覚え方をしていた部分がある。

♪せめて言葉だけは慎んでくれと
 勝手に男は”やさしさ”それを
 女に押し付けていたような気がするよ
という冒頭部分、幼き14才の私はヘンな受けとり方をしていて、

♪勝手に男は”(自分の)やさしさ ”
   それを女に押しつけていた

のだと思っていた^^;
中学生の時、前後の歌詞何も考えないでその行だけ聴いて何故かそう思いこんでしまったのだった。
本当は"女はやさしく慎み深い存在であれという要望”を押し付けていた気がする・というニュアンスだよね?

そういうことを実感としてわかるようになるのは
やはり結婚して他人と暮らすようになってからの
ことだったのですが・・・

男の人って自分の優しさを「いいものだろう?」と女の人に押し付けて自己満足しているのかな、なんていう勘違いだったのでした。

ナンナンソレ(汗)

・・・

自己満足とか要望とか2人の人間がいると毎日のすり合わせが必要になってくる。

"他者と己"はひとつになれるのだろうか?
と、今でも想う。

(Re-bornの後の今現在でもそう想う)

この二人の心から生まれたそれぞれの星は結局、衛星にはなれなくて、よその宇宙の影響で軌道を外れていったのだろうか、それに気づいた時には2人の時は流れていて繰り返しのつかない地点まで分岐してしまったのだろうか。愛し合っていない今ではその二つの星はいずこへ・・・

月は元々地球を含めたいくつかの星のカケラであったらしい。それが互いに何度もぶつかり合って衝突を繰り返し、いつかまん丸の球になって惑星のパートナーになっている。

月という星に、地球に見せない裏の顔があったとしてもそれはそれでいいじゃないか。
いつも一緒で、いつも一定の距離に在って愛し合ってる心の、お互いのその周りで優しく光っていれば大安心じゃないのかな。そもそも月は地球の衛星ではなく、月と地球は連星であるという説も濃厚らしい。触れ合わずとも同じことを想えるふたつでひとつの連星もイイ☆

だがもしくは、流れ星になって離れていってどこかの星で果てるのと、どんな結末がいいのだろうか・・・


♪いやす傷ほど愛しくて ひろげてしまう

このフレーズがすごく好きだ。

これはひどい傷を負ったことがないとわかりにくいフレーズではないだろうか。
きっと「(傷を)どの程度までひろげても大丈夫か」
を知っているから痛みを楽しめるのだ。

深い傷が癒える時ほど快感が深いってことをかつて経験したことがあるから、"さめるほどしみ込んだ甘美"を味わいたい欲求にかられてしまうのではないだろうか。

だがしかし、やはりそれは健康的な解決ではなく・・・どちらかが疲れ始めてしまえば、いつか癒えなくなって言えなくなってしまうのかもしれない。

その辺の、ノッてる時の、ちょっと加虐的なShoyanの表現力に幼き私は早熟な自分を開発されてしまったような気がする。この曲はサウンド的にも歌詞においてもオトナの世界の導きであった。


この曲のイントロ・間奏のブラス系の音がShoyan自らのギターシンセ?であるというのだけど、もしそうなら、これや『Heartbeat』のエンディングの演奏等と共にShoyanのPlayって本当にキャッチー(>_<)!
(もし間違っていたらごめんなさい)

スタジオミュージシャンや専門職は多々あれど、やっぱりShoyanご本人の音は何にも代え難い。歌声とまったく同じ筆遣い♪どう聴いても必ず胸に残る。

『THE 伊勢正三』収録のLIVE音源などでも合間のエレキがメチャ格好イイ。どうかShoyanご本人の演奏であって欲しい。
『二人の周期』のエレベのチョッパーっぽい躍動や余計なもののないドラムスの確実なグルーブ、フルートの効果的な風通しの良さ、そしてチョットだけ不思議な高低差の続くメロディ。ほんっとにメチャお洒落で程よい力の抜け加減。いつ聴いてもいつも堪りません!

風・かぐや姫で纏っていたある意味”アイドル”的なニュアンスを全力で振り払って大人のオトコに脱皮した当時のShoyanの充実が濃縮されていると想うのだ。

今想うに『二人の周期』との出遭いと『テレポーテーション』の降臨は私にとって同じタイプの重要なインパクトでありました。ポジションが一緒・という感じかな。

伊勢正三はいつでもカッコイイ(*´ω`*)
それを象徴する2曲であります。


・・・・・

その大昔、Shoyanは『バイオリズム』ということをちょっと気にしてたみたい?
それは自身一人称の体調・気分みたいなことだと思っていたけれど、今考えるとそのサイクルは『色んな他存在とのかかわりの巡り合わせ』であったかと思う。

"二人の周期"って
最初からあるもの?
後から構築するもの?

周期ということは、留まっていないで動いて巡っているカンケイかもしれない。
この歌はその決めつけない感じがとてもお洒落だと想う。

オトコとオンナも二人でいる時は互いに違うものなのだけれど、物質的な身体を剥いて心が剥き出しになったとき、”二人の同期”が起こるロマンもあるかもしれないのであります☆



☆蛇足

♪あの頃は出来たてのマッシュポテトに似て〜

それは国生み神話のオノコロ島のように、Shoyanの感性の矛先から滴り落ちた、熱い生まれたての”アノコロ”。

Shoyanの永きにわたる"歌造り神話"は"あの頃島"から始まるのかもしれない。
数々の歌を聴いていてそんな風に感じていた。

(それは以前ここで少し述べたが)
アノコロ 参照

自分の好きな歌に”あの頃”が多いのも自然なことだ。
だけれども、何度も何度も年月が巡り、いつしか”あの頃”さえ通り越しての、時の逆行がいよいよ始まっているとここ数年で感じるようになった。伊勢正三の現在の音楽活動は未来行きと過去の遡りとを同時に発生させるLOVESONGを体現されているような気がしてならない。それがまた深まっている。

そんなShoyanの進化の機微を私もリアタイでまだまだ感じたい。肉体が消えて魂だけになった100年後だって私は大好きなShoyanの歌を聴き続けていると想う。生まれ変わっても私の感性とShoyanの音楽の巡り合わせは必ずあると、神話級に好きなんだなと、今改めて想っている。

プロフィール

HN:
No Name 七氏−1.0
Webサイト:
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆コンタクトはこちらまで
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