Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0
それで今頃改めて思い出したのですが、昔からビートルズの『Girl』を聴くと、『アビーロードの街』を想ってしまうのであります。ド直球すぎるかな^^;
リズムが似てるから??
歌い出しがなんとなく色が一緒みたいな気がして、なんかこのやるせない感じが自分的には合ってるのでイイナと思っているのです。
♪ビートルズの歌がきこえてきそうと
二人で渡った交差点・・・
これは別に具体的な歌ではなく、あの横断歩道を渡る的なシチュエーションと被せて・・という意味だと思うのですが、『Abbey Road』のアルバムにはこの『Girl』は入っていないから関係薄い。でも年代的にはこの曲もアビー・ロード・スタジオでレコーディングされていたみたいなのでお許しを。
・・・
♪好きなんだ
これは、恋を始めたいのか確認したいのか、
「私もよ」って彼女は言うのかな?
「え、そうなの?」って戸惑うのかな?
何故、今日水曜日は逢えないのか?
普段は意識しない二人のままで行動している時間も多いみたい。
無理して笑わせるくらいだから二人の心はまだ別みたい。
喫茶店や交差点、日常の延長。
この二人、学生か何かで取っているゼミの時間割が違うのだろか。彼女は電話が通じる実家か下宿先にいる水曜日。
彼もきっと今日は用事(講義)がないのに、部屋に一人いても図書館に行っても原宿あたりをぶらぶらしても、モチロン彼女がいるわけもなく・・・
でも逢いたくて、いつもの風景に身を置きたくて雨の中来ちゃった。
彼女の存在が欠けている日常を再確認しちゃって、余計に寂しさ募らせて、それを埋めたくて賭けてしまうその十円玉。
吉と出るかどうなのか・・・(悶)。
♪ガールフレンドと気軽に呼べば
君はいつだって腕を回した
『地下鉄は空っぽ』
地下鉄つながりの後年のこの曲では、”あんなこと言わなきゃよかった”と後悔やぎこちなさが先にたっていて恋のゆくえが切実なのだけど、アビーロードの街では聴く者にはその顛末は知らされないまま♪青山通り雨通り~でフェイドアウトになってしまう。だからロマンチックな気持ちで歌を置いておける。
「うん、ありがと」
って言われたのかなぁ・・・
などとこちらも考えながら外苑あたりの雨の遠景に想いを馳せるわけです。
一周回ってまたビートルズを聴いてみようかな。
同じアルバムの『Michelle』なんかもいいですネ♪
(むしろコッチ?)
この歌イキナリ色っぽい。
素肌にそれだけなのだろう・・・
けれど、独り寝なのが哀しい。
借りたままのフリースと違って
いっそ消えてなくなってしまいたいという眠り。
=時を止めている様子が手に取るように解って温度が低い。だから一層ぬくもりが欲しくなる(涙)。
それとも、”男らしく”自分を鼓舞するために自ら纏ったものなのか?
あの頃暮らした街から離れて棲む彼女の、傍らにまだあるそのシャツが不変に白くて苦しい。
♪風が吹き荒れた夕暮れの街は
とはいかに?
水槽ってガラスなどで囲われている限られたエリアというイメージだけど、なぜここではどこまでも遠く視えるのだろう?
街はどこまでも見渡せるようでいて彼女の意識はまだ”あの頃”に囚われた水槽の中にある。遠く見渡せる街並みが果てしなければ果てしないほど、彼女の時はここで留まったままで哀しい。
夕暮れの
たゆみないBossaのリズムが揺れてそれを運ぶ。
閉め切った窓の外
動いているのは景色の方で、自分はそこから動けない。置いていかれた時間。もうこれ以上考えたくない程、思考停止するほど囚われた愛(と思っていた)の時間。もう届かないのに、それを葬るまでの哀しい凪の時間をひとりいる彼女をずっと痛ましくも親しく想ってきた。
今書いていても涙が出る。
・・・
つもり・が積もって
そんなに激しい衝突じゃないから、アスファルトに沁みた水が凍ってひび割れる路面のように、微細に進行する哀しい瑕(キズ)が表面下で広がっていたことに人は気付けない。だって、自分自身の心の中のダメージだって自覚出来ない時がある。ましてや他人の心の中なんて・・・人の心が何層にもなっていると気付くのは、こんな哀しい時間を幾度ももがいた後のことなのだろう(涙)。
二人過ごした時間が崩れて、壊れて粉々になって、 砂時計の粒になる 。
まるで水槽の中に閉じ込められた魚のように・・・
Shoyanのガットギターは熱帯魚水槽のエアレーションの泡のように柔らかくたゆみない。差し込んで伸びる西陽のような準氏のエレピとシンセが背景を作り、斎藤ノブ氏の色っぽいパーカッションで胸の鼓動が時を穿つ。
イントロはまるで水鳥の着水のようで、曲が始まれば水中を縦横に泳ぐ魚の翻り、枯れた穂がたなびく荒野のような侘びたアレンジにオトナのオトコ極まったShoyanの声で切ない言葉が乗っていく。なんというハンサムなサウンドなのだろう。至高です。
繰り返しになるけれど、その昔ShoyanがA.C.Jobimがお好きだとおっしゃっていたのを聞いた時からいつかBossaNovaテイストの曲を作って歌って欲しいと想っていた。単に編曲の形態としてだけではなく、そのスピリットな部分・サウダージとして・・・ということ。
それが叶ったのですから、この歌の登場は本当に嬉しかった。
せつない愛の粒をパンニングするのにBossaの揺らぎはとてもマッチする気がして、時にはそんな容れ物もいいなと思うのです。
~時は
ここに時の正体が散りばめられている。ただ一方向に流れてゆくだけではない、時を経て飴色になった象牙のように曖昧な出処と行方とが陰陽のようで非常に美しい。この歌の真意なのだと想うのです。この頃、Shoyanはその”時の本質”にお気づきになられたのではないだろうか。そんなひとつの到達を感じる一曲でもあるのです。
ジャスミンの、官能と癒しのふたつの意味。
いつかの軽井沢大賀ホールで佐藤準氏と歌ってくれたあの数分が私の一生の想い出です。ステージで歌われることはほとんど無いけれど、いつか自分の時が止まるその刹那までずっと聴いていたい宝物の一曲であります。
※追
『水槽の街』は私にとって伊勢正三の音楽と自分の心の中とをダイレクトに繋ぐ臍の緒のような存在で、時間と想いの行方を何十年も共に見つめてきた大切な曲だ。1994年当時アルバムに収録されたこの歌を聴いた時、私の心は寸分たがわずShoyanの歌の世界と嵌って離れなくなった。
この歌は私の顕在意識と潜在意識のどちらにも深く入り込んで、きっと何かを少しづつ動かした。辛いことも奇跡も伴って今ここに在る。実際は全部自分自身の責任なのだけれども、この歌はどこか聴く者の行方をも孕んでいた気がしている。
もう何年前になるだろう、Shoyanが大久保氏と風を再び始めたいと願いながらチケットまで発売済だったのに実現されなかったあのツアー。それが不可能になった時にShoyanが選んだ”ひとり旅”というスタイルのことを想うとこの曲がまず浮かんでくる。
平成・2000年代の伊勢正三が”風”をまた始めるのならば、絶対に歌って欲しい曲があった。
『時の流れ』がそれです。
果たして、そこまでの何十年の間にこの歌がコンサートで歌われたことがあったのだろうか?
もちろん、風のオンタイムではステージで歌われていたと思うけれど(1977年の音源がありますね)、ソロ〜フッカツ以降は個人的にはこの歌の印象ってほとんど無くてずっともどかしかった。
示唆的なフレーズが沢山あってメロディーも演奏もめっちゃカッコイイこの歌、ブラスとギターの風通しのいいサウンドがアニキっぽくて憧れた。こういう歌があるから風は深いんだ、と独りで息巻いていたし、ステージ映えするだろうなぁ〜とずっと想って待っていた。
だから、風ひとり旅で演奏されるようになって感激した。永き時間を重ねられたShoyanの中でこの歌の存在感が濃くなってきたのかもしれないと感じた。この今も一線で演奏されることを尊く想う。
・・・
♪目の前の砂時計をうら返せば
時はすぐに流れてゆく
この砂時計の砂は物質だ。
昔、”アレとコレ(物質)の距離があるからソコからココまでの時間が発生する”というようなことをどこかで聞いて、なるほどと思いながら歌を聴いてきた。砂も上から下に移動するから時間を計れるのですよね。
そしてこの歌も基本的に”時は流れてゆくもの”という前提だ。この頃のShoyanの歌の中ではまだ時は留まったり重なったり共時したりしない。自分では干渉できない運命のような不可避なもの・そんな存在として歌われていたように思う。
それがこの後解釈が広がっていき、様々な歌が生まれていくことに繋がっていく。これは”時間”というものの考え始めな、出発点の曲だと思うのだ。
♪どんなに遠くに離れても
季節の風が追いかけてくる
どこかでぼくが立ち止まらないように
時は流れてゆく
この彼の立場は言い換えると
「時が流れてゆくから
ボクは立ち止まらないで前に進むのだ」
てなふうに聴こえる。
自分でも何十年も前に聴き始めた頃は、四季や時間の流れって絶対的で不変だと思っていた。だから、”時”は自分を立ち止まらせないように分岐・別れの直後から強制的に先に運んでくれる単純明快な存在だと思っていた。
サラッとカラッとひとつの別れのあとの再出発のようで、少し”空元気”とも思える内容に若さを感じるのです。
でもこの何十年も聴いてきて歳を重ねると、実はそうとも言えないんじゃない??と想う気持ちも並行して湧いてきた。時間も季節も実はあやふやで、そして流れない時もあるのではないか?と。
タバコも砂時計も”反映”に過ぎない。
目に見える物質だから時が流れていくを感じることが出来るのだけれど、でも、自分の意識がそんな物質の変化と添えなくて独り動けなくなってしまったらどうする?
実際のところ時間は手を掴んで連れて行ってはくれない。
自我が傍観者であるうちはその時の流れは目の前の通行人だ。
この”僕が立ち止まらないように”と思えるようになるまでの苦悶はこの歌ではまだ埋もれて語られてはいない。
その時全てだと思った”君”が目の前から消え去ったあと、”君がいたから”こそ流れていた時間が欠落してしまって自分が空っぽになってしまう。そんな時、時間の本流はどこにあるのだろうか?
この歌の内容からは少し脱線するかもしれないけど、弱い人間は時の流れに置いてけぼりにされることも多々あると近頃では思うのです。
そして物質のない世界=心の中・意識の世界では時間はどんな風に在るのだろう?そのあやふやな”時の真実”の部分をShoyanご自身もその後何十年も歌の中で考証されて来たのではないかと思っている。
♪いつになれば ずっと前の出来事だと想えるの?
♪今でもまだ ほんの前の出来事だと思えるの
(水槽の街)
そして
♪その時 同じこと 同じ素振り
瞬く間さえないくらい
(テレポーテーション)
まで。
それが興味深くてずっとShoyanの歌たちを追ってきた私なのですが、物質的に離れていてもソコとココで同じ時間が流れているという最近のLOVEタイムラインの到達点は納得の極みなのだ。
と、そこに行き着いて今振り返ると、この『時の流れ』はすべての根本にあるはじめの一歩な曲だと思っているわけです。
・・・・・
♪君はわかっていたのかもしれない
を想うに、
それこそが自分と他人(愛した存在)はそもそも”別タイムライン”だったのだ・という前提が虚哀しい。
♪壊すためにつくる積木のように時は流れてゆく
という凄まじい特級フレーズの意味は、密かにShoyanの歌たちに潜む虚無を如実に語っている。
伊勢正三の歌たちのそこここに潜んでいる冷徹なリアルの象徴。恋人たちの甘い時間や、努力や思いやりという心尽くしや、子どもの成長や仲間との信頼関係なども、みないつかは色褪せてしまうのだという、人間不信とも思える虚しさをはらんでいるようで震えるのだ。
嫌なことを忘れられるのも時の流れだけれど、良いことすらも劣化して風化していくのだと言う。このクールな虚しさ、堪らんのです。伊勢正三って凄いなぁ・・・と平伏するこの至高フレーズです。
別れの直後から、君がいたさっきまでの時間はもう別のタイムラインで、分岐したらもう一切交わらないよ・振り向きもしないよ・無かったことレベルだよ、、、という”理想”みたいなものがここにあるけれど、そうもいかない剥がれきれない現実もあり。それをまたその後追求していくShoyanの二重スタンスが興味深いと思っている。
・・・
(そしてまだ続く^^;)
♪別れることが終わりならば
別れることが始まりだと言えないだろうか
この逆説引用はある意味、別れを認めたくない強がり理論なのかもしれないけれど、十代の自分にはモノ凄く大切な導きとなった。
この後、
「想い出すなら忘れよう」
「寒さの中にかくれているのは暖かさ」
「悲しさは楽しさにも似て」
「悲しみなんて幸せの前触れ」
「遠ざかるほど君は近づく」
「気にしながら見過ごしてたの」
などなどなど、物事の表裏や多角的な視方を示してくれるShoyanの歌の黎明だったと思う。失恋して哀しい寂しいこの世の終わりだ・じゃなくて、そもそもの
「”別れ”って何よ!?」という考え方が本当に面白くて興味を惹かれた始まりでした。
※『夏この頃』の"山で死んだあいつ〜今朝早く男の子が生まれた"もその類かもしれない。
季節の風が吹いてきたことでやっと自分の胸の中の風車が回りだした。それが自分時間の再開。
季節の風は”他”や”偶然”みたいなものだろうか。
もしくは”縁”みたいなものかもしれない。
また春が巡るように
人は本当はひとりではなくて、
孤独だけれど一人ではないのだよって、
時の流れに漕ぎ出すための帆を張れたなら、
そこに感じられる季節の風がある。
何かを壊すために時は流れていくけれど、
でも・・・
時計の針が時を流しているわけではないって、Shoyanの歌の中でさえその意味は彩りを増していくから、聴手だって自分時間のバリエーションを増やして行けばいいのだ。
この歌をステージで聴く時は、歌をお作りになった時のちょっとツッパった感じの若き日のShoyanと、熟成に熟成を重ねた今の熟れ旨味マシマシのShoyanとを同時に感じて考えてみたりします。
これからも”新しい時の流れ”を感じられるように、そして自分がそこを吹き抜ける季節の風でいられるように、これからの時間、一音たりとも聴き逃がさぬようにと想う2026年の幕開けです。
またもやのとりとめなき、ご容赦。
冷たく 透き通る前に・・・
温もりで滲む・とは
きっと暖かい息
寄り添いの体温
カップから立ちのぼる湯気
二人だけの部屋の
現在進行形が包み込む密室の曇りガラス
けれどそれがいつしか、立ちはだかる現実の前で冷たく透き通る=すべてがあらわになって我に還ってしまう時が訪れてしまう。
そうなる前に
愛し合っているまま
あたたかい苦しみのままで
二人のことを永遠にしてしまいましょう
という別離なのだよなと。
何年経っても涙する。
真冬の黄昏時、日没に背を向けて
奈落のような暗い空に想うのは
いつも同じこと・・・
#冬の恋~parallel
妹のままでいたほうが
よかったかもしれない
今更ながらこれ、妹(のような存在)のままでいたらどうなっていただろう?などと思うことがある。
結局近い将来、彼がこの街を離れることになって淡く終わるのか・・・
それともその何年も何十年も先の未来にまた巡り合い新たに始まるものがあったりしたのじゃないだろうか、そんな風に”しないこと”の方が未来が多様であるような気がしている。
それでも恋というものはどうしてもその渦中ど真ん中に飛び込んですべてを見極めたくなるのかもしれない。その欲求は(単なる性欲ではなく^^;)抑えがたく、”過ち”だとしても身を投じてしまいたくなる。
妹を超えたら、、その身を重ねたら彼を繋ぎ止めることが出来るのではないかと無意識に想っていた可能性も無きにしもあらず?
それとも、いっときの想い出だけあればそれでいいと自分を慰めようとしたのだろうか。
『JUN』の時に”未遂美”ということを考えた。
普通の物事は何でも一応やってみる・チャレンジしてみる、ということのほうが前向きだしポジティブだし生産的なのだと思う。
けれど、”始めないこと”が満たしてくれることもあるのだと最近実感することが多い。
妹的存在のままなら、ずっと・・・たとえ逢えなくなっても、忘れられてしまっても、哀しくはないじゃん?
切ないだけじゃん(涙)。
恨まなくてもいい
憎まなくてもいいんじゃん
ずっと愛していられるのに・・・
本当に好きな人とは一線超えないほうが心は溶け合うのかもしれない。
そんなことを想わせてくれる『海岸通』。
♪夜明けの海が悲しいことを
あなたから教えられた海岸通
これは直接実際に教えてもらったわけではなく、彼女がその時を迎えて自分で気付いてしまったことなんだよねきっと。
本当は凄くナマナマしい歌なのだと、そんな視点を忘れないで聴いていきたい今日此の頃なのです。
(最近こういう後付けが増えていて恐縮です(汗)。書き急ぎ過ぎ自分^^;)
と、そんな慌てものですが、今年も無事にかつしかの駐車場を予約完了!次の日の渋谷の駐車場も予約完了っ。なんと一日24時間1500円平置き♪
で、今週はまた汐留に山田パンダさんのLIVEで行くのでそこでも前回と同じ地下駐車場を予約っ。駐車場予約三昧(笑)。
ギリギリセーフでアメリカ大統領来日と被らずに済みました。一足先に秋の東京を下見してきます。
90年代当時、Shoyanの活動大復活に際して用意されていたであろう『海がここに来るまで』と『メガロポリスの錯覚』が一段落して、次の『時のしずく』の発売が決まった時には、Shoyanの復活後のリアルタイムが感じられるだろうという期待で自分的に最高に盛り上がっていた。ドキドキし過ぎて待ちきれなくて色んなところで情報収集に務めた。(ま、単に音楽雑誌チェックと電話問い合わせなんですが(笑))。
収録曲目がわかってくると『さそり座の森』に衝撃を受けて「さそり座の森ってナニ!?さそり座の森ってナニ〜〜〜!?!?」っと字面だけで興奮しすぎて鼻血が出そうになったのであった。
以下また個人的思い入れ羅列の巻ですが、、、
それは私の動機のひとつでもある特別な『あいつが生まれた朝』に”さそり座”が出てくるということと、Shoyanご自身がさそり座の生まれであることと、自分がさそり座だから親近感が・・・というこの自己満足の象徴であった”さそり座”がタイトルの曲があるっという事実に嬉しくて目眩がしそうだったのである。
(実は、Shoyanが11月13日さそり座生まれだということを知ったのは、当時の占い雑誌MyBirthdayのさそり座特集記事にお名前があったからなのです。かぐや姫や風当時をご存知の方々はきっとリアルタイムのプロフィール欄でお誕生日など知る機会もあったかもしれませんが、Wikiなどない時代、貴重な邂逅でありました)
・・・なのですが、
いざ発売になって聴いてみればこのシンプルな最短の歌に足元を掬われたような、急に崖の上に出てしまったような硬直がそこにありました。絶句というそのままです。こ、これだけのことで何を解れというのですか!?楽器の伴奏もなく、最短の言葉に人の声と音階だけでグーパンチされたような衝撃でした。難しすぎるよShoyan、と。
この数行の文字列、
縦(横)読みなのかっ!?
折句なのか!??
どこかを斜め読みなのか??
とか、色々考えましたが、やはりこれはこのままこのままの意味なのか!?と到達して更に興奮したものです。
「言わなくてもわかってるデショ?」
的な、Shoyanのニヤリ顔が悔しいっ(;''∀'')ウヌヌ
それでも具体的に考察してみたくていくつか考えてみた。
◆どこかにある、とある共通認識の森さそり座の森。
そこに忍び込んだ君。
僕も同じくその森に忍び込んで君を探してみる。
追いついたら全力で捉えてもうそこで離さない離れないよっ。
◆さそり座の僕の内なる森(真相?深層?意識)に外からコッソリ忍び込んできた君を発見!>捕捉!>もうここから出さないゾ、覚悟してっ。
◆さそり座の君の、その中にある秘密の森に忍び込んで隠れてしまった君自身を僕は外部から侵入して捉えて、もう隠れてしまわないように離さないっ。
などと、当時は目一杯の解釈を考えたのですが、果たして果たして???
少しづつ違うように見えますが、でもそれはすべて同じことだと永年考えて来て今現在納得しています。やはり、そのまま、一番短い歌が一番深いのだよ・・・ということだと。
>もう離さない、抱き締め過ぎて君の身体や僕の理性が壊れてしまっても離さないぞっ!
これぞさそり座の本質=”互いを壊して一つのものになろうよ”という衝動なのだと思います。
Shoyanの、アンタレスのような熱いまなざしを忘れられないのです(涙)。伊勢正三の感性の大深海に眠る深紅のマグマの中に身を投じて、分子に戻ってしまいたいレベルの”一体感”を感じさせてくれる歌なのであります。
この幾重にも重ねられた豊潤なコーラスと、高い音から低い音までのShoyanの声のスロープが心地良くて、蕩けてしまって何度でも繰り返しその高低を滑り落ちたくなる。クセになる造りが堪りません。
アルバムブックレットのこの曲ページのレトロさ、縦書きの文字、大胆な色使い、何か60年代の雑誌装丁みたいでカッコイイ。凄く好きなデザインです。
もう30年近く経ちますが・・・
あぁ、永久の秋に繰り返される愛の問答なのでありマス。
↓デジタルで撮影したら右半分のデザインが浮かび上がって謎が深まった^^;
(何かの部品のような・・・)
探していたのさ
傍にあるのに
Ringは要らない
柘榴の実のよう
残された色に
戻る想いは
理由もなくて・・・
当時はおそらくジョイントLIVEなどがメインになって新しい曲もなく、Shoyanのご活動に安穏と埋没を感じて忸怩たる思いだったのでしょうワタシ^^;。勝手な放言お許しください。
・・・
私の個人的見解だけど
でもShoyanのLOVESONGSの多くには、表から見えないところで密やかに指を絡めあっているような二人だけの秘密が匂う無意識があった。
スマートで映画のワンシーンのような時もあれば、情けなさに近いような切実なパッションもあった。だからすごく多彩で混沌として新しい生命さえ発生しそうな力があった。
さそり座の森には遊歩道はなくて
・・・
Shoyanが草食系男子でいるほうが
物事は安定しているのかもしれない?
美しく清くいられるのかもしれない
本来の熱を隠すために"装って"いただけの
今はもう脱げないほど着心地がいいのかな
・・・と、こんなことを書くと
「キミの考え方は偏りすぎじゃナイ?」
なんて誰かに苦笑されそうだ。
「校歌が色っぽかったら大変デショ?(笑)」って・・・
ただ、同じM川清氏の他の歌で
♪~そしてほほでも ぶっていいから
『CI 008便』
などと、そんなフレーズを聴くと
※この文を書いた当時、M川氏への提供曲『あかり灯して』のことが話題になっていました。
・・・
森は本来、森だけで存在出来るはずなのに・・・
青い苔も枯れていないのなら
"さそり座の森"は一番奥が深いから
本当は私だって
2009年06月15日
さそり座って
確かにそんなところがアル・・・よね!?
(*´∀`)ノ Shall We Dance♪
2010年04月29日
そして今2025年、装っていたものすべて投げ捨ててギラギラに本性スパークしているShoyanが爆誕されていることに感慨深く想います。やっぱり枯れてなかったさそり座のサンクチュアリ!☆(涙)
~続☆さそり座の森につづく
