Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0
当時はおそらくジョイントLIVEなどがメインになって新しい曲もなく、Shoyanのご活動に安穏と埋没を感じて忸怩たる思いだったのでしょうワタシ^^;。勝手な放言お許しください。
・・・
私の個人的見解だけど
でもShoyanのLOVESONGSの多くには、表から見えないところで密やかに指を絡めあっているような二人だけの秘密が匂う無意識があった。
スマートで映画のワンシーンのような時もあれば、情けなさに近いような切実なパッションもあった。だからすごく多彩で混沌として新しい生命さえ発生しそうな力があった。
さそり座の森には遊歩道はなくて
・・・
Shoyanが草食系男子でいるほうが
物事は安定しているのかもしれない?
美しく清くいられるのかもしれない
本来の熱を隠すために"装って"いただけの
今はもう脱げないほど着心地がいいのかな
・・・と、こんなことを書くと
「キミの考え方は偏りすぎじゃナイ?」
なんて誰かに苦笑されそうだ。
「校歌が色っぽかったら大変デショ?(笑)」って・・・
ただ、同じM川清氏の他の歌で
♪~そしてほほでも ぶっていいから
『CI 008便』
などと、そんなフレーズを聴くと
※この文を書いた当時、M川氏への提供曲『あかり灯して』のことが話題になっていました。
・・・
森は本来、森だけで存在出来るはずなのに・・・
青い苔も枯れていないのなら
"さそり座の森"は一番奥が深いから
本当は私だって
2009年06月15日
さそり座って
確かにそんなところがアル・・・よね!?
(*´∀`)ノ Shall We Dance♪
2010年04月29日
そして今2025年、装っていたものすべて投げ捨ててギラギラに本性スパークしているShoyanが爆誕されていることに感慨深く想います。やっぱり枯れてなかったさそり座のサンクチュアリ!☆(涙)
~続☆さそり座の森につづく
といっても()であります。歌の内容に関しては今日は書かずに・・・
ここでは普段、いかに自分がその曲を想っているかということを書こうと思っていますが、今回は逆に自分で掴めなかったもどかしさを書いてみようと思います。
・・・
この歌を初めて聴いたのは1982年頃だと思うのだけど、1975年の風のシングルヒットから7年しか経っていないのに、その時点でこうした”叙情的なフォークソング”色の歌は私達中学生にとってはすでにとても古い歌に思えた。
それは私個人の問題なのだが、自分が音楽を聴き始めた頃はちょうどアイドル達や荒井由実ではないユーミン、サザン、八神純子氏や寺尾聰氏、すでに垢抜けたオフコースのシングルなどが世を賑わせていた頃だったので、このかぐや姫の三階建の詩や風の長髪ジーンズ&ロンブーのフォークの世界は江戸時代と明治時代くらいの激変に思えたのでした。
(14歳時の素直な印象なんです。風の後期の色っぽさや、ソロでリアルタイムにAORに挑戦していたShoyanに気づくのはまだ先なので、この未熟な第一印象どうぞお許しください 泣)
その頃の世の中は、青春時代はここまで・社会人になったら大人の世界!という明確な境界線というか、大きな線引きがあったような気がする。だからティーンエイジャー(学生時代)の頃に聴いていた曲は社会に出たら卒業しなくちゃいけない・みたいな風潮がなきにしもあらず。子供時代の感性のままのオタク心を持ち続けて表に出している人はまだそんなにいなかったと思うのだ。
(これまた個人の勝手な記憶とイメージですが)
だから、、、
その頃の青春を生きた人たちの想い出の一曲に対する思い入れって凄まじいものがあったのではないだろうかと今思う。それによってまた余計にこの歌に一種の孤高さを私は感じてしまうのだ。
・・・
実は私思うに、伊勢正三ファンの中ではむしろ、『なごり雪』より風の『22才の別れ』に思い入れや思い出が深い人が多いのではないか?という印象がある。だからこの歌は絶対に外せないし、正ヤンのフラッグシップ曲であると常に思っています。
けれど、こんな事を言うとまた真正面から鉄槌を食らわされそうですが、実は、、、
私にとってはこの歌は一番”伊勢正三らしくない”歌のような気がして、いつも聴く度にショーケースの中の特別展示品を拝見している気持ちになっていたのです。代表作なのに遠い気がして・・・
それは私の時間が違いすぎるからなのか、感性が違いすぎるからなのかワカラナイのですが、伊勢正三のコア部分なのに私には通り抜けてしまう感触が長きにわたってありました。
Shoyanの実験的な試みとか、寝かせて仕込んできた言葉とか、独自の角度のカメラワークとか、そうした今現在は完全に熟成された”感性力”のニュアンスが、この歌はまだ未遂な気がして、それまでの作詩だけの曲とも違う、あまりにもストレートな”意識して書いた感”が顕著に思えて、他と一線を画す感じなのであります。
でもだからヒットしたとも言える!?モチロンだ!と。一番最初に作詞作曲した歌ですものね!素直な直球が最強なのかもしれません・・・
2大巨頭の『なごり雪』と『22才の別れ』には、”無意識”と”顕在意識”・”生まれた曲”と”作られた曲”の違いはあるような気がする。そして、そのどちらにも『春』と『さようなら』が出てくるのが意味深いのです。
(近年中でも最高生意気な意見、平にご容赦下さい)
・・・と、やっぱりこの歌のことを書くとこんな感じの内容になるということで何度も書いてはいつも途中でやめて引き返してきていたのだけれど、何十年もの葛藤の末に今一回ここに書いておくことにしました。
・・・
・・・
今までコンサート・テレビ出演などなど、あまりにも沢山の機会で聴き続けてきましたが、歌い方の変化やキーの変化、その度にどことなくレコード音源の印象との違和感?やズレ感?を感じることが多々あったけれど、実は最近の演奏・歌唱はものすごく万全な完成形だなって深く想い始めています。
歌や演奏のパフォーマンスももちろんだけれど、LIVE!を聴きに来る今現在のすべての聴手を納得させる感動の深い説得力がこの『22才の別れ』に今凝縮されていると感じるのです。ヒットした時点が最高だったのではなくて、この今こそこの歌は完成したのじゃないだろうか?と、心の底から偽りなく思うようになりました。
だから今この歌がとても好きだし、大切だと真っ直ぐな気持ちで想っています。
40年以上聴いてこられて、今が一番この歌を解れてると思えたし、一番好きな心で聴けています。嬉しいです。
ヒット曲の呪い(時代の呪い)が解けて、今100%伊勢正三ご自身の歌だって堂々と輝いている素晴らしい歌だって想います。
美しいギターの弦の音と、湿っぽくならない弾むシャッフル感、少しだけ不思議な言葉選び、悲しさをキラメキに変えてしまうShoyanの魔法が濃縮された、青春を葬る名曲なり・と今想っている次第です。
今のコンサートでは正座して聴く気持ちで臨む一曲です。早く次のステージで聴きたい、今のShoyanの手漉き和紙のような柔らかいお声で切なく奏でて欲しいと、とても楽しみにしている2025年令和7年の今日このごろです。
※何か自分にも心境の過渡期なのか、思いもよらぬ生意気の極致を書いてしまいました。笑止千万の乱暴な呟きをどうぞ生暖かくスルーしていただけましたら幸いです(汗)。
結構好きなんだ。
正直言うと、今までは全部委ねて聴いていた訳ではない。だって、この歌だって"私にとっては痛みソング"だもの・・・ファーストアルバムの屈託のないバージョンならなおさら・・・眩しすぎるやろ。
「そんなんでキミはLOVESONGを語る資格あるのかネ?」
と、突っ込まれそうだケド、人生、愛に恵まれないことの方が実際は多いのだと思う。だからなおさら、小さくてささやかなことを大切に思えるんだ。
・・・
「お前だけがいてくれたら それでいい」
「僕は何もいらない」
そうは言っていても
その先にはやっぱり
"僕とお前の可愛い子供"が産まれることを想像するし、長い夜をも欲することになる。歳をとっても二人変わらないことを望む。
それが自然なんだ。
男女が一緒になることは"欲"だから、そこからプラスの何かが沢山産み出されていく原動力。とても大事なものだと思う。欲のない愛なんて空蝉みたいなものだ。心が動いてこその愛だと思う。その欲の純粋さを追求してごらんと、とっても"難しいBasic"を問う『お前だけが』。
・・・
"何もいらない=でもお前だけは絶対に欲しい"と、普段は散らばっている欲求がゼロと100になったのが恋愛のピーク?その歓喜を、その達成感を臆面もなく高らかに歌うこの歌が今は好き。
最近、ずっとライブで歌われる度に最高で、歌が現在進行形で活きているって思う。だからこそ私は今この歌をよく聴くようになった。Shoyanがこの純粋さ・単一さを今も大事にして(もしかしたら自ら見直して)ちゃんと命を持って歌われているから・・・
歌は懐かしさだけでは存在出来ない。音になったときに心がこもっていなくては、形骸なんて時の中で磨耗して性が抜けて、そのうち可哀想なくらいにスカスカなものになってしまうだろう。何年経とうとも、幾人の人を経ようとも、音になったときに血が通っていればその歌はいつでも生きてるんだ。今のShoyanが歌ってくれるから好きなんだ(*´∀`*)
説得力あるでショ♪
だって「アイシテル」をビシバシ感じるもの!
・・・
私と一緒にギターやろうねって言ってる年上の友人にも子供はいない。だけどこの歌が大好きで、まず第一にやろうって決めている。私もとうとうこの歌を通り過ぎてしまおうとしている。10代の頃から聴き続けてきたけど、結局、LOVESONGの中に入ることは出来ずにそろそろ扉は閉まってしまうみたい(寂)。
でも、優しい友人を見ていて想う。その人の中にLOVESONGがあればそれでイイじゃない(^^)って。誰も知らない愛の歌は、そこにあれば滲み出てくるんだなって、そしてまた誰かを癒して励ましていく。
二人がカンケイして何かが生まれたら、それらはすべて可愛い子供たち。そう思うと色んなものを愛せるんです・・・と、私は単体生殖?雌雄同体?ミジンコ並み@@@にしぶとくいこう自分(笑)。
・・・・・・
そうそう、追伸で思うことダケド・・・
『お前だけが』ってShoyanにおける"カヤマユウゾウ部門"ではないかしら・・・と。
♪シアワセダナァ・・・(´∀`)
という、アレをやりたくて、じゃないかなと。
ナンチャッテ
でも、"カヤマユウゾウ部門"って、男の人なら誰でも持ってるくすぐったい部分じゃないかしら?"脱・臆面"!
でもでも、なんというか、実際のところは「それ以上!」で、「牡羊座と蠍座」くらい違う。
Shoyanが歌う愛は
♪死んでも君を離さないぞ・・・イイダロウ?
だ!(キッパリ)
2011年8月記
・・・
この曲はイルカがカバーしたのではなく、イルカのために書き下ろした歌ということで「ぼく」と平仮名なのかと思う。
しかしそれを近年Shoyanご自身がセルフカバーされるようになって、「僕」と漢字にして音源にしてくれたのはとてもとても嬉しかった。
聴き比べるとわかること
イルカの歌は往年の少女雑誌の読み切り連載を読む心地。「この漫画短編凄く切ないのよ、、、」「そうなの、この彼と彼女どうしてケンカしちゃったの?」「なにも飛び出していくことないのにねぇ」「私も髪伸ばそうかしら」などと、放課後に部室で読みまわすような雰囲気があるようで、それが優れたストーリーテラーとしてのイルカ氏のキャラと相まって親しさを感じるのかもしれない。。
※この頃のベースラインの贅沢さよ(T_T)。編曲は『神田川』と同じ木田高介氏。この少し速いテンポもシングル化を意識してのものか。
いま改めて聴き返したらShoyanご自身が歌うものとイルカバージョンは全く別物の曲に聴こえるほど。Shoyanが歌うと音と音の間にある音が多くて想像もつかない情報量だと思う。(どちらが良い悪いではないですヨ)
Shoyanバージョンの場合は”我が事”として聴いてしまう。
※それはまた最近の『雨の物語』でも始まったような気がしている。
この歌、よく聴くと本当は謎が多い。
「君の気まぐれ」ってどんなことだったの?
彼女の行動が原因だったのに、それを謝る訳でなく逆のような「やさしさ」で、とは?
これ、Shoyanの歌に時々あるねじれ現象フレーズ・何も決めないフレーズシリーズ?の特徴的な部分かと思う。それこそ、カタチは嵌るのに絵柄が違うジグソーパズルのピースのような?遠目に視ればちゃんとわかるモザイク画のように。音源だけで完成させないShoyanの無意識の高度なテクニックだなと思うのです。(「テクニック」というとちょっと具体的すぎる・・・もっと、なんか、神の領域的なこと!?)
こういう、カッチリと組んでしまわない保留部分があるので、永~くフレキシブルに聴けちゃうんだなぁと、いつも想っています。現に、Then&Nowの音源が確定ではなく、歌われるその時々その度に”その頃”が反映されて、その場で都度違うカタチになってゆく不思議な歌なのだと思っている。
※でも井上陽水氏のような”絶対無理なルービックキューブ”までいくと、ついていけなくなるので(笑)、そこが伊勢正三曲の絶妙な匙加減であると思っています。
・・・
想い出すことって甘い・・・
(※コンビニコーヒーも好きですが (´ω`*))
実際「君の長い髪はとても素敵だった」「ひとつの甘いフレーズとして」と、いいことばかりがふるいにかけられて今は残っている。そうしないと後悔を荷下ろしできないのかもしれない。
♪別れの言葉が夢の中でこんなにきれいに響いてます
だって、自己完結している節がある。
去っていった者はもう関わりのない存在。
※そんな言い方をしたら身も蓋もないではないか七氏よ・・・自分がそんな別れしかしてこなかったからって、、、
きっと作者の中にも誰にもわかりえない時間がある。Shoyanが時々おっしゃる「引き出し」の中身。ご自身でさえ意識されない無意識の引き出しと、聴く者それぞれの心の引き出しの中身(それを想い出というのか)、その両方が交じり合って誰にも書けない自分だけの癒しになる。
きっとそれが”合挽”のコーヒー。
時間というミルが挽いてくれた豆を蒸らす薫り、彼女も忘れてはいないはず。味を忘れても香りのように消せないものがあるんじゃないかな。
・・・などと、1974年から半世紀経ってこの歌の息の永さを深く感じている。歳をとったって、若すぎたって、人の心の中は案外変わらないもので、その時寂しかったことは今でも寂しいんじゃないかな。
これもまた、ひとつになれなかった”片心”の歌なのか、と近しく想う一曲です。
(少し涙)
※”長い髪”は伊勢正三ファンの嗜みとして(笑)、高校生の時から30歳になるまでずっと背中まであるロングソバージュだった自分を懐かしく思う。本当は長い髪をずっと続けたかったけれど、それは大好きだった人との想い出と一緒に”あの頃”に置いてきた。今はShoyanより短い髪で毎日頑張っている。長い髪の私は”あの頃”で今もきっとあの人に愛されているだろう。それでいいのだ。
それは時の流星
夜流れる
君は時のしずく
アルバムタイトルにもなっている『時のしずく』という単語が入っている一節。
でも、どういう意味?
夜空に一瞬見えて一瞬で消える流れ星と
このひと夏のこのひとときだけのキミの姿
若さと純粋と、ときめきの面影
ハッとする儚き一瞬、それらを重ね合わせたフレーズだろうか
"時のしずく"は時間の断片の一種ではないかと思うのだけれど、それは紙片やポラロイドのように情報量の多いものではなくて、すっと滴り落ちる光の液体みたいな儚いキラメキなのかと思う。掌で受けたはいいが、すぐにこぼれ落ち、蒸発してしまう・・・どうしたらコロンとしたガラスのドロップにして保存できるのかな。
Shoyanの歌のスタンダードな素材がここでもちりばめられていて、「石段・浴衣・風鈴・通り雨・夏この頃、風が止まる・・・」と他の歌たちともリンクしている。それだけShoyanご自身の思い入れの風景なのかなとも思うが、一方で「ロケット花火」なんてチャレンジもある。
ロマンチックな歌にしやすい花火?と言えば「線香花火」・・・の引用は処々多いと思うけれど、そうしないのが伊勢正三のこだわり・というか心意気というか、私がShoyanの歌を好きでいるポイントでもある。「ブロック塀」とか「コンビニ」とか「戦闘機」から「和菓子屋の前でチョコ好きな君」「ネパーリアン」まで、Shoyanの"スタンダード崩しの妙"にやられるわけです。
ロケット花火で遊んでいいようなおおらかさ、今はない。この歌の頃1996年頃だってもう住宅街では遠慮してたのではなかろか。すでにこの歌が懐かしい。8月の夜には秋のイントロ、その熱帯夜の無風の中に響く一抹のせつなさだ。
橋を渡る夜行列車、ロケット花火の音、は今ここにないもの、遠いもの。今、目の前にいる君に釘付けで、心はそれでいっぱいなはずなのに、逆に遠い広い空間を感じさせるフレーズが挟まれるために、更に彼の"今この時"の凝縮感は増す。
浴衣ということは夏祭りでもあっただろうか、けれどこの静けさはその外か終わった後か、、むしろこれからが欲しかった時間の始まり・・・という若さの期待感が見え隠れしているように思う。
この時、彼女が弾いた風鈴はまさに彼の純情そのもの、彼の心をじかにそのウブな白い指と爪でツンと弾く・・・男子はタマラナイだろうなぁ~とちょっと悶絶。通り雨でアタマ冷やしたのかな・などと、フフとなる。
この 『夏の流星』の風鈴は薄いガラスの丸い風鈴なイメージ。
『月が射す夜』の風鈴は南部風鈴のような鋳物のイメージ。
手元でチロリン♪と鳴る可愛さと、遠くまで幽けき音で届くオトナの音とのちょっとの違いを想像して楽しんでみたりする。
夜店で彼が買ってあげたのかな♪
そして後半突然に
♪閉ざされたビルの窓
ふと都会の憐みすら感じた
と、この二人の風景と関係なさそうなふり幅の引用。我に還るよね。このビル視線が今現在で、君の浴衣姿は記憶のまぼろし(想い出の中)なのか、それともこれは同時に別の場所にあることなのか、それはわからない。「夏この頃」とあるから、今なのかな。
でも歌の作者からのひとことコメント・みたいな感じで、通り雨もない虚しい無限猛暑の都会と若き日の瑞々しさの対比がハッキリして立体感が出る。この作り込みがShoyanの歌の命の永さなんだと思う。この「安易な作業(あの頃だけ)で終わらせない」というShoyanの姿勢が大好きなのであります。尊敬の極みです。
・・・
このアルバムは海外で録音して、海外のベテランミュージシャンたちのプレイがカラっとして今でも味わい深い。
当時Shoyanご自身の演奏が少なくて不満だったが(笑)実際はモノスゴ確かなミュージシャンたちの演奏だったので、今聴くとまったく色褪せず、とてもしっかりした出来上がりで経年を感じない。人の生身のプレイがガツンガツンときて、全編どの曲も聴きごたえがある。ドラムなんて超~カッコイイ!
この歌も、♪チュクチューン(謎)の佐橋氏の、イントロとエンディングの掬い上げるようなエレキのフレーズも歯切れよく男前で、"女々しくない叙情"が溢れてくる。アコースティックでメロディアスなアレンジではなく、カッコヨクしたのがメチャいいなぁと思っている。
メインのShoyanの声はユニゾンになって、なんとなく遠近か今昔の二つの世界の重なりを感じさせてくれる。Shoyanの最強武器のひとつであるファルセット(裏声)が、ちょうどそのフレーズの"空間感""膨らみ感"を引き出していて、ノスタルジーの夜風景に聴き手も引きこまれてたまらない気持ちになるのだ。
・・・
今になって、その"憐れみ"は都会だけのものではなくなりつつあるように思う。
通り雨に夜温が下がらず、日中は植木も枯れるほどの極端な夏は・・・
自分が自分に目覚めた頃の、あの瑞々しい時間が湛えられていた夏。そこで遇う君の一瞬一瞬が流れ星のようにすっと浮かんでは消え、通り雨のように窓を流れては消え、蝉・花火・朝顔・かき氷・祭りの夜店・帰省の想い出・・・夏とはなんと儚いものの多い季節であるかと、歳をとって今余計に想う今日この頃です。
8月の歌でしたね。お盆前には流星群があります。夜空でも眺めてみましょうか・・・☆
