Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

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※オリジナルの『海風』を一言も語らないままに、セルフカバーセレクションの『海風』のことを書いてみたのを載せておきます。でも『海風』って語れます? イヤイヤまだ無理。まだまだ、38年感じてる最中ですよ!(>_<)

・・・

普段、自由な心を持つことがままならない自分としては、CDの音源に浸るだけでも貴重な時間。ただ、生の音に逢えないのはやはり少し寂しい・・・ 

でもそんな私を一番奮い立たせてくれるのはこの海の風!!あなたの海のあなたの風だ!!

メロウな『置手紙』などとは逆で、ヘッドフォンではわからないバリバリと空気が弾ける生のスパークがスッゴクいいのだ。店や車の良いスピーカーでガンガンにかけたいセルフカバーの『海風』。聴くたびに思わず身体の方が先に動く。

でも、CDで初めて聴いた時はそんなにインパクトがあったわけではない(汗)。アレンジもそんなに変わっていないし、ライブ盤のようだなって思った。

『海風』も原曲が完全な出来のような気がするし、Shoyanの"海抜ゼロm"の大事な曲だから、セルフカバーは容易ではないと思ってた。小細工は出来ないゾ・という歌だと思うんだ。だから正面から体当たりの"LIVE"感というのは、とても大事なことだと思った。でも今回その点がバーーーン!と第一印象にきたので、手放しで音の渦の中に飛び込めた。それはインパクトと言うよりはむしろ安定で・・・キャッチャーの捕球のような、ずっしりとしたものを感じた。

間奏のハモンドオルガン系の音は、海流がぶつかってうねる潮目に泡が渦を巻いてる感じでサイコーにイイ!!! 海水の中で泡立つ大小の気泡、ハモンドオルガンの音が大好き♪海の中まで見えた『海風』はこれが初めてじゃないかしら。(だからShoyan-Clockは「海」なのか)

その上では中野督夫氏のエレキギターが、大型のミズナギドリのように海面すれすれに飛翔していく。

Shoyanのギター(ギブソンか!?)は、潮辛い風にはためくシャツの裾・・・ちょっと砂を含んで・・・その立ち姿を私は遠くで眺めているだけで幸せ。

ドラムスとベースとパーカッションのリズムは、どこまでも漕ぎ出していける広い彼方の海鳴りを聴くようでカナリknot数高いゾ ヨーソロ♪

特に、本当に今回のドラムスは素敵で、(センチの演奏の中でドラムに一番興味アル)ベースとパーカッションはちょっと"乾き過ぎ"かなと思うのだけど、それは悪いわけではなく、もっともっと!!!というコト。知れば知るほど欲張りにナル。


それらのゴキゲンな演奏が進んでいくうちに、ほんの少しの人工物を景色の端に感じる。リゾートや世界遺産のような大仰な自然ではなく、どこか、人間の暮らしがある海辺を想う。消波ブロックを砕いてしまう波と、トタン屋根を赤く錆びさせる濃い海風!蜃気楼の向こうのかすかなコンビナート群。ステージでShoyanがジーンズの膝を曲げて左右に身体を揺らすステップを想う。人が生きている海の風を想う。

センチの演奏は(いい意味で)重たいので、海水の比重さえ感じる雰囲気になったのが良かったと思う。お洒落だとか洗練だとかじゃなくて、欲しいのはあの日からの時間を含んだ"故郷の風"!それはこのセルフカバーにギッシリ詰まっている。大満足だ。

その日からずっとShoyanの胸の中に吹いている風はその歌を聴く人の胸にも届いて、こんな私の幼い日の想い出さえ湛えて今も吹き続けてくれるんだ

「あの日の夢 とてもきれいな夢」は、そのまま聴く者も共体験できる"原風景"なのだと思う。今は、Shoyanの感性そのものが私たちの『海風』なのだ。

・・・

こうせつおいちゃんは「もう、今はない」と歌った故郷。でもShoyanの中には「今もふるさとに吹く」海風がある。

あの頃の幼き頬にはためいた風にはもう二度と逢えない。けれど風は今も吹いている。自分がそこにひとりで立つ時感じられるもの、それらはすべて自身の投影なのだと、教えてくれる不変の感触が「海風」なのかもしれない。

・・・

その後、風ひとり旅の音源もCDになったが、やはり"バンド感"ありきの海風が聴きたい。コロナが収まったら、ちゃんとしたバックバンドを従えたShoyan のステージが観たい。

それが今の私の夢、とてもきれいな夢、なのです。


(追)
実は昔、何十年も大昔、中野督夫さんと同じ町内会に住んでいた。組も一緒で町費を集金に行くレベルでご近所だった。ステーションワゴンにギターケースを積んだりするお姿が素敵でした。ギタリストなのは存じ上げていたが、その後Shoyanと共演されることになるとは、驚きとともに感無量です。

現在、ご闘病中とのこと。一日でも早い平癒お祈りしています(願)。
※これまた昔書いたものに加筆。

・・・

『夜のFM』という歌は、ちょっとだけ可哀想な曲かもしれない。

いや、"可哀想"は不適な言葉だ。だけど、今・現在は他の曲より一歩下がって、仄かな蔭があるような、特殊な位置の歌に思われる。

BEST盤のWORKSやソロ・シングルス・プラスには何故か収録されていなくて、チョット寂しい。一時期(大昔)、この歌はLIVEの華的存在で、その頃のShoyanの傍にいつも居た。ステージの盛り立て役だった。

その後、休養してたShoyanが復活してからはBossaスタイルにドレスアップして、数々の新曲たちの中で時折アダルトな色を添えてくれた。けれど、知らず知らずのうちに段々と有名曲オンパレードのジョイントライブやKAZEひとり旅などが増え、ソロの曲が演奏される機会が減るにつれ、この歌に遭う機会が減っていったように想う。

(これも私が聴きにいけていないだけかもしれないが)

でも、だから、それを60thのアニバーサリーライブに持ってきてくれたのは嬉しかった。この歌は、なんだか"昔の恋人"みたいな、どこかに置いてきたもの・みたいな、止まっている時を含んだ曲だ。

・・・

♪はりさけそうな心 打ち明けられないままで・・・
♪渡したくない気持 君を誰の手にだって・・・

この歌を知った当時は、情熱的な部分が印象に強くて、恋の中にいる時間のことばかり聴いていた。歌と一緒に軽い興奮をいつも感じていた。

だけど、、、最近はやっと、「突然思い出して」の前後の機微を深く感じる。
ソレガマタ セツナイ

2011年11月13日の佐藤準氏との色っぽい演奏でRealizeしたように、この歌の本当の切なさに近づけたような気がして今また違う感じ方で聴いている。たぶん、自分も歳をとったのだろうと想う。

当日のShoyanのヴォーカルも"はりさけそうな心"よりは、聴き流している夜更けのラジオ越しのベルベットVoiseみたいに静かに沁みた。そんな経年が愛おしかった。


「抱きしめるより 見つめて欲しい」

そんな感じで昔の恋人が言う。
少しだけ、想い出してくれる時もあるンだね・・・と。

・・・

初めて聴いた当時は、恋の翻弄ばかりに気が向いて、長い髪や細い肩・など、絵的な事ばかり考えていたのだけど、きっとこの歌の彼女、ワケアリの女? 口説いてはいけないヒトだったのかもしれない・・・

だから、彼の願いがかなっても、彼女的には"blue shade"だったのか・・・と。


♪そう言えばあの日 
君が見つめていたのは
沖行く船の灯り・・・

これもただの景色ではなくて、彼女の"束縛"の象徴だったのかも・と想う。

沖行く船の行く先。 水平線の向こうへ旅立ってゆける自由な心。 籠の鳥のような彼女のまなざしを今、想うと凄く切ない。
デモソレハ安穏・・・

「帰さないよ」というフレーズをもしも彼が口に出していたら、彼女は自由になったのだろうか・・・。この彼の"内部完結"癖はShoyanの歌の基本色。ゆえに過去と現在の層が出来ている顕著な例だと想う。

しかし、夜のFMからは何が流れていたんだろう。何か歌がかかっていたのか、誰かのトークだろうか、自分的にはボズ・スキャッグスやNed DohenyのValentineがかかっていたら胸キュンだろうなと想ってたけど(ストレート過ぎるかな?) 今は、ヴォーカル(言葉)のないメロディーだけの曲だったかもしれない・なんて想ってる。

・・・

人も歌も、近づいたり離れたりしながら時の流れを身につけていくんだ。

♪ふっと現われる時・・・

まさにそんな感じで在るのがイイ。
常に一緒にいて常に盛り上がっているなんて・・・そんな"サイコーの持続"なんて不自然なことかもしれない。そういう点でこの『夜のFM』は翳りを帯びながらも、とても自然にShoyanの一部になっていたのだと想う。

この歌を聴くとき、旧友に遭えて嬉しいような気がする。あの六本木の夜のことはこれからもずっと忘れ難い(涙)。出来ればまたいつか聴きたい。

※Shoyanの歌はリバーシブルになっていて、裏と表の多重構造になっている歌が多い。色んなアレンジでそれを紐解くのも楽しいと想うのだ。

2011年12月

・・・

で、その後『オールタイムベスト・Then&Now』のボーナストラックとして、近いアレンジでスタジオ録音されたのだが・・・、やはり私は佐藤準氏のピアノとShoyanご自身のエレアコで収録して欲しかったと今でも密かに想っているのだ。(岩井さんや細井さんの演奏がどうこうではなく) お二人の演奏はなんとも他に代えがたいものがあるのです。

そのあたりはせっかくなので、六本木のアニバーサリーライブの感想を再アップしてみようと思う。Shoyan&JUNちゃんの演奏に関してはそこにて・・・つづく。

最近ではエレガットで立ったまま、片膝を軽く曲げて刻むShoyanがメチャカッコよかった。84年ころにNHKFMか何かのスタジオライブでやった、バンドでバリバリの『夜のFM』もカッコよかった。あのエアチェック音源は死ぬほど聴いた。(高校生の時、本屋でバイトしながら隠し持ったラジカセで必死に録音したものだ(笑))

君焚きのラジオ番組内でラストの英語歌詞の説明があったと聞くが、私は君焚きをあまり聴きこんでいないので(個人の事情)いつかそのうちに、、とは思っているけど、「ふっと現れる時派」の自分はずっと放置のままでいくかもしれない。
(でも六本木音源をオンエアしてくれたのは嬉しかったですが)

・・・

夜更けにふと聴くFMの、ちょっとチリっとした音に大人の時間を感じていた懐かしさ。私は想い出す方だろうか、それとも想い出される方だろうか・・・

新音源のラストのラストのほんの消え際に、うっすら聴こえる唯一のガットギターの幽かなフレーズは、遠い昔の面影からの問いのようだ。
※少し前に書いたものです。

・・・

まず、河合徹三氏のアレンジに驚き歓び。
この期に及んでBossaNovaなShoyan曲が聴けるなんて・・・
シンプルにベーシストらしいリズムと、ほんの少しの音を加えただけでギターは岩井氏の生でメリハリをつけて、とても聴きやすいアレンジだったのですんなりと歌の中へ入っていけた。

が、それがクセモノ・・・
最初のひと聴きで泣け過ぎて、ちょっとしばらくは放心していた。

曲調はいわゆる、80年代の演歌歌謡のようなテイスト。ちょっとベタ・・・?せつない、とことん切ない直球勝負で、シチュエーションもテレ○・テンが歌ったらハマりそうな(それは私には非常に懐かしいもの)どっぷり浸ってしまう系の、"Shoyanの原液"みたいだなと想った。

でも、ちょっと変わった単語の選び方と、決して日陰の線の細い女性像ではない印象で、その"ベタ"の中に微妙な揺らぎが生まれて面白い。

切ない過去の恋歌に「大阪城」というシブい単語が出て来たり、白いシャツの彼を「天使」と表現してみたり、この、クリームあんみつみたいな"異種マッチングの妙"を感じる。こんな風に"ひっかかる箇所"があるのがShoyanの歌の魅力であって、後を引く原因なのだけども・・・

でも、私が白いシャツを好きな理由と同じ様なこと、Shoyanも感じてるのかな・・ナンテ、ちょっとドキドキした(謎)☆

・・・

♪夜にかくまわれて

「匿われる」というのは結構特別な言い回しだよね。相当に人目をはばかって逢う間柄だったことが伺える。

そして、"淡い(色の)ネクタイ"を選ぶ女性とは、きっと対照的なこの彼女。「淡い」の反対は「自己主張」?その淡くないセンスは彼女を強く見せる。

♪私のために"遠回りした"
 その分だけ誰かと 
 幸せになってね

と、ここに、この彼女の視点の高低差を感じるワケで、もしかして、、、この彼女が愛した彼は"年下くん"だったのではないか・・・などと、何度か聴いていくうちに想えてきた。若い女の子と年上上司・みたいなアリガチを超えて、人目を忍ぶ恋のパターンには色々あってもいいよね・と。 
※これは私の100%妄想ですが。

そんな風に想わせてくれるこの歌。
Shoyanのオトナの優しさを感じてしまって、女性目線の歌なのに、Shoyanの男らしさが匂う・・・新しい歌にそれを感じられるなんて嬉しい。今のShoyanだから醸せるSmokyなフレーバーに咽ぶ。

・・・

現在は"快速"の電車で帰る遠い街。それは特急で去るほどの遠い地方ではなく、ベッドタウン~外環の街、都会の末梢神経のような新興地かもしれない。大阪なら他にも大きな街が隣接していそうだから『街』なのかな・・・

特急で山でも越えてしまえば思い切れるかもしれないケド?"快速の電車"という、その遠過ぎない日常的な距離感が哀しい。

放射状に広がる時の流れの外枠へ、別れた彼も今は環状線のいずれかの方向にOutOfTownしているのだろうか?家族と共に、知らない人生を生きているのだろうか・・・。

曲中の"環状線"、ラストの環状線はリアルの交通機関だけど、一節目の環状線は彼女の胸の中に沈む夕陽のオレンジで染まった電車なのだろう。

心の中と外、恋の時間と現実の結界の二重構造が交通機関なのが切ない。自分の意思で動かす乗り物じゃないからね・・・電車。

・・・

"白いシャツ"と"思い出逃れて遠い街に住む"という、永遠のモチーフは、BossaNovaの鼓動で刻まれるのがとても自然で心地良く切ない。

この痛いほどのフレーズは、ブラッドノットの最後の糸を通してギュっと引っ張り締めるみたいな一体感。提供曲ではあるけど、それが嬉しい。

久しぶりに全部の感性を解放して聴ける歓び。そんな切ない歌との豊かな今日からの暮らしがまた始まったのだなって・・・。

Shoyan、今もこのセツナサは約束のように私を泣かせます(涙)。
それはとても良い涙。 大切にしたいと想う。


※青木まり子さんのところどころ情感を濃くする歌い方に耳を委ねる。彼女の低めの声は、結構Shoyanもお好きなのでは?なんて想いながらまた繰り返し聴いてみる。このCDを購入した時、おそらくまり子さん直筆でメッセージと宛名が書かれていて感激した。ずっと大切に聴きたいと思います。

・*・・・*・

☆~追記 誰そ彼のホーム


♪会いたさに 言葉じゃなくて 
 そっと肩を 抱き寄せてくれた

その感じ・・・それでいいんだ・と、とても欲しかったシーンだ。

「言葉じゃなくて」は大切なキーワード。

でもホントはもっと、、、
もっと深いカンケイの仕方もアル。

♪今でもそばに あなたがいるようで
 黄昏のホーム ふと振り返る時

と、そんな風に想ってしまう時、きっと相手も同じ様に想っているのだ。同時に瞬時に発生している機微がある。

コレハホント

でも、確認できないことは事実にはならない。「そんなことある訳ない」と否定しないで。
別のタイムラインのもう一人の自分のためにも・・・涙。

・・・

 僕が君を抱きしめたり…
 くちづけを交わしたり…
 見つめたりすることは…
 いけないことかな?

そう訊かれたら
こう応える

 ねぇ、 
 "いけないことでも必然" 
 ということが
 この世に沢山あるんだわ…
 きっと

と、そう素直に・・・♪



☆Send ale to OSAKA!
もう、何年も聴いているのに、歌詞カードがなかったので、印象がいつもふわふわとして定まらない歌がある。聴くたびに綿飴のように溶けてしまって、甘い名残りだけが・・・

そういう歌って定期的に何度も聴きたくなる。サビから始まる作りも珍しい。そしてまたアヤフヤな印象のまま忘れられないのだけれども・・・


『雨の土曜日』
『なおさらせつなくマリンブルー』

両曲とも、歌い手の幼さ・あどけなさにマッチして、独特のニュアンスがあって、たまらなく好きだ。歌の作りや歌い手が自分のリアルタイム世代なので、(当時は興味なかったのに)今になって"尚更に切なく"、CDで音源を買いなおしてから懐古趣味でまた良く聴いている。

・・・

「ダリの絵に囲まれて過ごしてみたい」

なんて、それは相当の変わり者ではないか>彼。そして、かなり"精神年齢上昇志向症候群"の男性じゃないかしら・・・?この彼女のおっとりさと反するイメージで、それが既にこのふたりの"不毛"を予感させる。

だけど、そういう異質同士ってすごく惹かれあう時期があって、特に芸術肌の感性には、そんな惹かれ合いがぶつかり合いになる過程を痛みながら楽しんだりするキライがあるのでは?と想う。彼女の激情を引き出してしまうのは、この彼の"暖簾に腕押し"な、罪な感性のせい。

でも、女のコはそんな精神的な遊びが苦手だから、もっとリアルに愛して欲しいんだよね・・・キット。

風の星座のような、自由で垢抜けた男心には、雨の土曜日のような物憂さは、ただの束縛でしかないのかもしれない。

・・・

他の女優さんが歌った『転校』もそうだけど、Shoyan"Drawing SONGS"はちょっと特別・・・。最近になってよく美術部の部長云々なエピソードが紹介されるけど、それよりもずっと以前から、Shoyanと絵のカンケイは私には大切な歌の軸なのだ。

『ヨーロピアン・ニューヨーク』『JUN』あたりにチラリと出てくるけど、Shoyanご自身が大切にされている絵の想い出が、どこか深いところにソッと埋められているのではないかって想像してみたりする。(何故なら、、、私もそうだからだ(妄))

「歌の中に感じる色」は合言葉みたいなものだ。
ふたりで聴いていた歌の中に、色を感じられるなら、いつだって恋は出来る・と言うけれど、
彼の残したスケッチに果たして彩色はしてあっただろうか?

素描だけで、恋をすべて写したとする彼の、ピリオドがイニシャルだなんて、なんと酷い置き土産なの・・・。本当に子供っぽいのは、そんな彼の方じゃないのかな。

・・・

「風邪をひいたあくる日の朝」

Shoyanのお得意な、リアルなフレーズの引用。愛や恋を歌う中に急に肉体が出てくることで歌が絵空事でなくなる。このワンフレーズはとてもShoyanらしい場面転換Magicだと想う。

歌自体は印象派♪
前後のつなぎ目が、少し不安定な歌詞もShoyanの歌においては言葉という名の絵の具。塗り絵のように型に嵌めなくても"ニュアンス"で感じれば遠めに見て美しい。

離れて眺めたり、近くで見たり、その度に聴こえ方が違っていいじゃない・・・って、どこまでも曇りガラス越しの景色なのが切なくていい。

背伸びして聴かなくていいから私には優しい曲です。
※そうそう、当時の伊藤つかさの写真を見ると、もしかして、彼女の雰囲気は案外Shoyanの"隠れ好みのタイプ"なのでは? なんて想った。理由はなくて、何か直感!?

妄想オユルシヲ~☆
作詞のクレジットの順番は「大久保一久・伊勢正三」となっているので、ほとんどの部分は久保やんの作なのだろうかと思いながら、では、Shoyanが書いたフレーズはどの部分なのだろう?と、何十年も漠然と聴き流していた。

そんな聴き流しの歴史の途中『水槽の街』で、♪白いmen'sのシャツにせつなく包まれ~眠りに就くひとときも・・・などという大事なフレーズが現れたりして、となるとそもそものタイトル=「男物のシャツ」自体からしてShoyanが関わった可能性が高いのか?と、それ以来"メンズシャツの沼"にはまってしまったのであった。

久保やんが出してきた"男物のシャツ"というフレーズがヒントになったのか、Shoyanご自身が今一度このシチュエーションを育ててみようと試みられたのか、どちらかはわからないけど、『水槽の街』でもう一度このシチュエーションが出てくるということは、これが意味の濃いフレーズであることは確かだ。

私自身が『水槽の街』を特別に想っているからなのかもしれないけれど、この過去(心)に影のある女性がメンズシャツを纏って眠る・というシチュエーションのなんと萌え度の高い景色か!と、何年経っても聴くたびにざわめいてしまうのだ。

この眺めが好きなのだ。私は一応女性だけれど、女性が自分と異質なもの(メンズグッズ)を纏う"変化henge感・コスプレ感"にドキドキするのだ。彼が残していったシャツなのか、自分で何かを託して買ったシャツなのか、今目の前にいない存在の"残り香"を身に纏って眠るなんて、心底切ないではないかと・・・。それは『男物のシャツ』という曲ではシャツの所有者は明確でなく、彼女の私物のようでもあり、"今彼"のシャツを私物化してるのか、よもや"元彼"のそれなのかはわからないけど、でもこの、部屋には二人しかいないのに、時間差の三角関係が匂う平穏な不穏がたまらない。元カレや秘密の心の存在をシャツ一枚で組み込んでくる、とてもオトナな歌であって、風というグループの一種の成熟を感じるのであります。表記は「Kaze」になりそな感じです。※ドイツ語の「Katze(カッツェ)」ならば「猫(雌猫)」になるのだけども?

奇しくも?『古暦』のジャケットは一枚の軽やかなシャツだ。ブラウスかもしれない。男物なのか女物なのか袷を確認しようと思っても、写真には裏焼きというトリックもあるので、写真家の意図なのかそれはブレていてよくわからない朦朧だ。

※LPの中の歌詞スリーブにはブレていない写真がある。しかもこの電話を持つ正やんがメッチャクチャカッコ良くて堪らんのです(悶絶)。このひねり立ちポーズが大好きな訳です。


で、話戻るけど、なので『男物のシャツ』の

♪男物のシャツを着けて眠る癖を
 僕は君におしえないのになぜ

♪男物のシャツの袖を折るしぐさ
 君はまるで黒猫の目をして

の、どちらかのどこかの部分がShoyanの関与した部分ならいいのにナと思ってしまう。(私は自分が黒猫大好きだから余計にそう思ってしまうのですが)でも、この部分て肝なので、いずれにせよ気になるフレーズであることは間違いない。"黒猫の目"って怖いようなイメージがあるかもしれないけど、実際の黒猫のまなざしはとても深くて可愛いものです。だから、この彼女の"過去の翳り"はこの後、二人に問題を起こすようなものではなく、いつか癒えていくものであって欲しいと、飼い主的に想うのです。また、ここが100%久保やん的フレーズなのだとしたら、それはまた違う意味で惜しいと、こんな思わせぶりな色っぽさ、この部分もっと延ばしていって欲しかった・・・と思うのでした。

でも一方で、

♪君の別れと幸せ 肩でおどけている

は、どうなのかな〜?
ヨクワカラナイ、な部分に思える。

・・・

Shoyanが創る歌たちはその後を聴けば尚更に、不偏的に主役級なのはモチロンなのだけれど、久保やんの歌もアレンジ次第では非常に素敵でまろやかな味わいのものであったとオトナになってから気付く。

海風~MoonyNightあたりの久保やんの歌はアレンジと共にとても好きで、もっと聴きたかったなと思うのです。

Shoyanの歌の世界は酒の肴のように旨味の凝縮が激しいものだけれども、久保やんの歌は産地限定米や全粒粉のパンのように、優しい"待ち"の味があったように思う。そのバランスがやっと取れてきた時が風の活動休止だったなんて、機というものの流れはナカナカ難しいのだなと思う。

・・・どうも、当時を全く知らない私が想像だけで思ったことをあれこれ言うことは、不遜で不明なので、語らない方が賢明だとは思うけれど、妄想で関わる自由をお許し下さい。もうどこかでこの歌の解説やエピソードは公式に既出で、フレーズの謎も解明されているのかもしれないけど、まぁイイヤ(笑)。

・・・

『男物のシャツ』『水槽の街』両曲とも本編はシンプルで、長めのエンディングで聴く人それぞれの胸の内を揺り起こす仕組みになっている。そんなアレンジが大好きだ。佐藤準アレンジの醍醐味かもしれないと想いながら聴いている。

Shoyanご自身はどこかで「MoonyNightは外国人アーチストを使ったけど、古暦は日本人だけでやりたかった」みたいなことをおっしゃっていたと思うが、私はこの外国人プレイヤーたちの音もいいなと思ってる。特にエンディングのあのフィョフィョしたソロフレーズとか気になってしょうがない♪。吹いてるの?弾いてるの?あれがエレクトリックSax?なのか?シンセなのか?とか、久保やんが弾くエレキってどこだ?とか、この2021年になっても楽しめている。この頃の本当に贅沢なミュージシャンたちの手の演奏の妙味に浸っているんだ♪


☆準チャンのアレンジは時々猫が鳴きますネ。言葉では喋りたくない・ような時に(笑)。nya~♪



My cat
 Manyaco
#大久保一久
そしてチョット再びの、

「抱きしめてみても 心は奪えない」
「人の心 人は見えない」

のことを少し・・・追記。


先日、「奪えないのは"無い"からではないか」と書いた。

そして、そもそも奪う必要はなかったのだ、と。

ボクとキミのカンケイは

奪わなくても

欲しい心は

すでに互いの胸に在ったのだと。

同じココロが二人の胸に在るんだから
そのままでヨカッタんだ☆

で、

そしてもしもそれでも「見えない」と感じるなら、やはりそれはそこに無いことと同じであって、”カンケイ"の終焉・もしくは未発動なのだと思う。自分の胸に同じココロがあるのなら、見えなくても在ることはわかるはずだから・・・

・・・

人は大昔から全然全く見えないはずの「心」や「想い」にこだわってきた。その正体を明らかにしようと色んな芸術家が音や言葉や色形で表そうとしてきた。でも作品は終点じゃないんだよね。作品自体に答えはなくて、アーティストの想いと同じ分だけの自分の想いの待ち合わせの目印のようなものかもしれない。

Shoyanの歌ほど深い森は他にはない。
一生かけても聴ききれない想いがあるのだろう。
その想いの最深部には私は到底辿り着けないけれど、せめて峠を越えたら遥か遠くに雪の頂が見えたらいいなぁ。

「ヤッホー!」の代わりに「ショーヤーーン!」って叫べばきっとコダマが還るでしょう(*´ω`)。歌を聴くことってなんか、そんな、感じデス。
※超長文ご容赦


「どんな時も~初めての旅」とはいかに?

やはりそれは"他日"なのだろうか。
抱きしめてみても、触れ合ってみても、他は他のまま?

「抱きしめてみても 心は奪えない」
「人の心 人は見えない」

この二つのフレーズを初めて聴いたとき、

「この世界が闇になって もしも君とはぐれても、抱きしめるとわかる・・・」

と、言っていたShoyanの歌の中で、この四半世紀近くの時を経て何が移行したのか!?と激しい衝撃を受けた。違和感のように思えたけれど、それはすぐに濃い同感になった。なぜなら自分もこの長い時間の中でそう思うことがあったからだ。"抱きしめるとわかるもの"="君"は、他ではなく自分の中にいたのだ・って。


ナゼ奪えないのか?
ナゼ見えないのか?

それは、人の心なんて初めから「無い」からではないだろうか?

Shoyanは風に例えて「行方 誰も知らない」と歌われているように、人の心は橋の上から見下ろす川の流れのようなものかもしれない。

常に流れているから"川"だけど、その底石の上を流れていった水は一瞬で去っている。固定して存在する時間はナイ。人の心もそんな風に無常なのではないだろうか。心は胸の中をずっと吹き抜けている風なのだ。花が揺れたり、雲を運んでくるから見えるように思うけれど、、、頬の冷たさもぬくもりもKeepは出来ない・・・。

それをとどめたように錯覚させるのが、言葉や誓いのジュエリーや肉体関係だ。人はそれに執着するのが価値観だと思っているかもしれない。けれど、東から吹いていた風が急に北風になることだってある。川の水も干上がることも濁ることもある、そして蒸発して雪になったりコップの雫になったりする。人の心だけが"確かなもの"であるわけはなく、この世の自然の理と同じく、疑問以上の説得力で散ったり凝縮したりしながら存在を移していってしまう。それが"心の正体"なのではないか?と、最近想っている。


無きゃ見えないはずだ。
無いんだから奪いようがない。

「しかしそれではあまりにも虚しいではないですか?」

とも思うのだ。

そこで、Re-born発売から一年以上経って、毎日毎日何度も聴いて、もう少し考えが進んだ。

 キミの心、奪わなくていい
 既にココに在る

と。

だから、抱き締めなくても離れていてもココに在る、と。それがこの冷たい言葉の裏に在るShoyanの提案なのじゃないかと想っている。

(そしてそれは『テレポーテーション』などにも繋がっていくコトなのかもだけど、それはまた別の機会に)

・・・

昨日の二人と今日の二人は違う、今二人は昨日よりもっと愛し合っている。けれど、明日の二人は別のルートに一歩づつ踏み出して薄く小さくちぎれ始めるかもしれず・・・二人の旅プランにはルールがない。ルーツは「混じったっていいジャン」というけれど、逆算のルーツ・・・この歌では過去であるルーツが後から"改編"出来て、不確かなはずの未来が"約束"されている。それがとても面白い。

しかも、「抱き締めてみても心は奪えない・人の心人は見えない」という冷たい"断言"のすぐ裏に「愛しい君ここへおいでよ」という絶大な"甘言"がある。 (※いい意味での甘言)

おそらく、、本当に他人の心が虚しいときがある。奪った=得たと思って信じていた対象に裏切られることもある。キミやお前やあなたという存在が、永遠に"一心同体"であるわけではない・というその虚しさと、哀しさと、表裏一体の甘い「ア・イ・シ・テ・ル」が同時進行して語られるこの曲の凄さを今痛感している。何度聴いてもザワめく両極SONGだ。

コタエハ デマセン

・・・

♪愛したくて 好きにはなれない

スキになってしまうと、キライになる日が来るかもしれない、だから、永遠に愛してるままでいたいから好きにならないでいる!

私にはそう聴こえた。凄い真理だと。

でも・・・
ナゼ、"真心"は存在するのだろう?

音楽は・音は目に見えないけど人の心を捉える。目に見えない者同士感応しあうのかな。私はShoyanの一連の歌詞・メロディ・歌声・楽器のPlayに誠実な真心を感じるのだ。抱きしめてみても奪えないけど、抱かなくても心を奪えるということを、Re-bornでは身をもって悟ることが出来た。なんて素敵なカンケイだろうって、伊勢正三という人の50年近い超絶なキャリアをずっしり感じるのだ(涙)。

前奏間奏のたゆとうエレキギターももちろんだけれど、この歌のShoyanの、饒舌な愛撫のようなベースのPlayは最初から最後まで全部カッコイイ(特に連打!)!ので、全部覚えたくて毎日のように聴いている。(ちなみにドラムスの途中のブレイクなどもカッコイイですね)

モールス信号が被さってくる部分のベースのPlayは大きな大きな上げ潮の波のようで、しかも広い砂浜を「ここまでは来ないだろう」というすぐ足元まで伸びて迫ってきた波にくるぶしをくすぐられて悶絶する。

いつか、、、ひき潮で遠く去った波だろうか・・・。「アイシテル」が溶け込んでいたあの日の波がまた満ちてきた、と。もうその波に掬われて、同じ海に還ろう・と言ってくれているようで、全編本当に素晴らしい演奏だと、心の底から涙が出る。旅の終着と始発にある安寧を感じて「あぁ、やっぱり」と得心するのだ。


「愛しい君 ここへおいでよ
 ここからは 約束の未来」

と。この言葉はこのアルバムの中で一番心に触れるフレーズで、聴く度に胸が熱くなる。

gardenの頃は「今も遠い未来」と「いつの日かきっとたどり着ける気がした未来」だった。この歌の未来は"約束の未来”だと。すでに今未来だと、とうとうShoyanは"あの頃"から"未来"にスタンスを移されたのだなって思った。過去と未来は同じ源にアルと二人とも気付いたのだ!って。

『テレポーテーション』の二人は何も確かめ合ってなどいないけれど、こうしてきっとひとつになったのかなって想ったのだ・・・(また涙)。

『テレポーテーション・冬の恋parallel・旅する二人』は、それぞれ前後しながら「愛の過渡」を教えてくれる3つの連書のようだ。カラダはいつか終わってしまう、でも二人の意識は交わえる。ひとつになったり、何か生まれたり、消滅したり?ひきずったり、、、目に見えないところで繰り広げられていく人の心の中の愛の結び目がよくわかる。

その、見えない部分を感じられれば自分自身も愛したい人のこともわかるようになるのだと、そう教えてくれる気がするのだ。

Shoyanのラブソングのお仕事はそういうところにあるのだと思う。やはり、何度も言うようだけど、人の心は見えなくてもいいのだ。
・・・

この歌、凄まじい歌なので(ある意味ナマモノ)、次に聴くときにはまた違うことを想ってしまうかもしれない。粘菌のように?姿を変えたり移行したりするこのDEEPな世界に、多分これからは永遠に迷い込んで出てこられないと思います。
なんという至福でしょうか!!
この、一曲には永いShoyanの歌作りのボトム(底)のような果てのようなものを特別に感じる。そして伊勢正三のLOVESONGにアセンションきたー!と愛の軸の回転現象を目の当たりにした感です。

聴きどころが満載で、いつも聴き終わると涙と冷や汗が出ます。
まだまだ先は永い・・・

※以上、イミフメな長文ご容赦(汗)


追:1
余談だけど、車を運転しながら聴くときは低音をMAXにしてドアに腕をもたれる。ブレーキペダルやドアスピーカーからShoyanのベースが全部振動で伝わって身体で感じることができる!耳以外でもShoyanのPlayを感じることが出来るんだ!って、触れているのと一緒だ!と私の密かな愉しみ方を発見した。ベーシストが一番モテる理由もこれでよくわかる?(やはり自分はカナリのヘンタイかもしれない^^;)

追:2

波という字と・彼という字は似ている
色々な愛の波形を想う。
重なり合う波、引いたり満ちたりする波、パルスのような波、留まらぬ波、気を許している波・・・次のテーマは、、波の正体を!

追:3

「チョコ好きな君」が一番ザワめきます(>_<)「ネパーリアン?」よりザワめきます(>_<)(>_<*)タマラン


 
☆~海辺のジャパニーズレストラン

『海辺のジャパニーズ・レストラン』は、なんとなく『渚ゆく』と同じ海が見える。カモメが出てくるからかな?
とっても好きな、夕暮れの杏色の空と海。そして月影の飛沫が光る夜の海。でも"せつなさ"は違うみたい。

『渚ゆく』が(たぶん)現在進行形なLOVESONGであるのに対し、『海辺のジャパニーズ・レストラン』は、どこか第三者的・・・。60年代チックな"渚ソング"の踏襲を感じる。それはきっと、Shoyanご本人の大好きな世界観であって、歌作りのとても基本的な習作ノートの一部なのだろうと思う。

~あの日恋の渚に長い手紙を書いた
 砂の文字をまた波が洗う

なんて、ロマンチックなフレーズはリアルな色恋じゃない・・・ような。
だが、それがイイ☆

そういった"リアルじゃない"風景が、現実で疲れた心を癒してくれる時がある。それこそ、波に浮かぶカモメの水兵さん♪みたいに、ちゃぷん・・・て波に身を任せていたい時がある。この歌のリズムというのか、バウンスな感じのアレンジが、そういった"波揺られ感"でいいナ。

一時、ステージでこの歌を何度も続けて歌われていた時は、「ん、またこの歌?」と単に思っていたけど、いつしかそれも収まり・・・また今年の夏はこの歌がセツナクテしょうがない。

今はこんなに優しくて穏やかな気持ちになれないから、特に恋しいのだこの海が。戻ればいいのか、先に進めばいつかまた辿り着けるのか、、、ニュースで見たら、湘南の海は人出が凄くてにぎやかだったけれど、それは本当の賑わいなのだろうか・・・。私には波が止まって見える。留まった波はいつ動き出すのかな。

いま私は昔のようにShoyanの歌の海に慰めてもらっている。歌の中には愛しいアイテムが沢山あるけれど、Shoyanの"海"は特に不滅だ。『入り江』以降、そんなことばかり考えている。


~綺麗だった貝殻もいつしか砕けて
 夢のかけら拾い集めそっと海へ帰そう

この部分が一番好き。
眠れない貝殻も、罪な波に翻弄され、苦しみぬいてその身が砕けた頃、やっと海に帰れるのだ。
粉々になって無に還る夢・・・そこからが本当の独りの始まりだ。破れた恋の当事者だったら、「誰のせいでもない」なんて思えない。
本当に終わったんだ・本当のサヨナラをしたんだ・と、わかってしまった時、人の"移り変わる心"が全くの自然現象であると、個人では抗えない大きな流れを知る。

その"暖かい空しさ"。
この歌のそんな部分が今は好きだ。

人は何度か古い自分を捨てて、以前の自分とは違う暮らしを生き続けていくのだ。

暖かい空しさを胸に抱いて、愛したり、愛されたりしたことを受け入れる。その痛みを、褪めてゆく陽焼けの痕みたいに懐かしく撫でながら歳をとっていくのかな。

しかし、塞がらない生傷にはいつまでも海の水が沁みて沁みて・・・ピリピリとチクチクと答えを欲したり我慢したり・・・片想いはセツナイものです(涙)。(*´ー`)

暖かい渚の歌はホントに私のシェルターです。


・・・・・

☆~眠れない貝殻

♪だから綺麗になれないの・・・
 あなたが遠すぎて

それ、哀しいね。
もしかして"日常"に還ってきたら、二人の時間はナイものなの?秘密の恋さえしていてはイケナイの? 離れていても繋がっているから恋は甘いのに、物理的な距離=二人の距離だったらせつなすぎる。

そのくせ、恋の波打ち際で、いつまでたっても寄せて返す気まぐれなさざ波が二人のカンケイを翻弄してコロコロゆらゆら)))。。

独りじゃ何も出来ないもどかしい貝殻。
陸にもあがれない
海にも潜れない
セメテ  ヤドカリ ダッタラ ヨカッタノニ・・・?

想いをくりかえすのもきっと同じ巻貝の貝殻。出口と入り口を間違えるとその迷路の行き先が大きく違う。

波任せの恋はなんだか哀しい。
貝殻を砕いて砂に還してしまうのも、たぶん同じ波だから・・・

せめて、つがいの外れた二枚貝のように、ずっとずっと離れたあなたを想っていたいものだ。



※昔書いたものと、今の気持ちを茫洋と記してしまいました。ご容赦。

#海辺のジャパニーズレストラン
#眠れない貝殻

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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