Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。
或る穏やかな春の一日が終わり暮れる
一見日常
けれどそれは
春そのものが終わる頃合い・・・
いくつかの出逢いや別れや
傷つけあいと慈しみあい
そんな転がり跳ね回るような青春の勢いが
フト収まる時が来る
不確かな春が終わる
確かな愛を得ての安堵
自分以外の"他"との
いずれ新しい季節
その幸せをかみしめる
・・・と
そんな歌だと最初の頃は思っていた
『サンルームの鍵』とセットになっている気がして
錯覚していたかもしれない
(いやそれはもちろん正解なのだけども)
さみしい自分とは一番遠くにあるような歌だ
だがしかし、"君"を凌駕する"春"の存在感に
無意識に親近感を持ち
何故かずっと大切な歌だった
この"甦るうしろ姿"は何処にいるのだろう?
ずっと長いこと一番近くに想う
大切な人のことかと思っていた
「君がいるから」だと・・・
だがしかし、それが"うたかた"なのだとしたら
それは
「君がいたから」
だったのかもしれない、と今は感じたりもする
今ここにいなくてもいい・・・と
40年以上も時が経ったなら
歌の中の"君"もいくつかの分身になって
今のあなた
違うあなた
新しいあなた
それぞれに寄り添う変化(へんげ)
でもいいではないか・・・
うしろ姿なら尚更だ
春のあやふやさはやはり
時を超えてFitするために永遠なのだ
Spring Forever☆
※で、「終り」「終わり」どっち?♪
一見日常
けれどそれは
春そのものが終わる頃合い・・・
いくつかの出逢いや別れや
傷つけあいと慈しみあい
そんな転がり跳ね回るような青春の勢いが
フト収まる時が来る
不確かな春が終わる
確かな愛を得ての安堵
自分以外の"他"との
いずれ新しい季節
その幸せをかみしめる
・・・と
そんな歌だと最初の頃は思っていた
『サンルームの鍵』とセットになっている気がして
錯覚していたかもしれない
(いやそれはもちろん正解なのだけども)
さみしい自分とは一番遠くにあるような歌だ
だがしかし、"君"を凌駕する"春"の存在感に
無意識に親近感を持ち
何故かずっと大切な歌だった
この"甦るうしろ姿"は何処にいるのだろう?
ずっと長いこと一番近くに想う
大切な人のことかと思っていた
「君がいるから」だと・・・
だがしかし、それが"うたかた"なのだとしたら
それは
「君がいたから」
だったのかもしれない、と今は感じたりもする
今ここにいなくてもいい・・・と
40年以上も時が経ったなら
歌の中の"君"もいくつかの分身になって
今のあなた
違うあなた
新しいあなた
それぞれに寄り添う変化(へんげ)
でもいいではないか・・・
うしろ姿なら尚更だ
春のあやふやさはやはり
時を超えてFitするために永遠なのだ
Spring Forever☆
※で、「終り」「終わり」どっち?♪
~胸さわぎには 二通りあるわ・・・
なんて、ドキっとするフレーズ。
これが男性であるShoyanから生まれた言葉だと思うと不思議なようで・・・だけどとても説得力のある"気付き"だったりする。
胸騒ぎのネガorポジ・・・
サスガ、Shoyanのまなざし。
きっと人間の"内面は、男性も女性もなくて、本当は人の感性に性別はないのだと思う。
サッカーなどの女子プロチームのプレイなど見てると更にそう思う。枠を取り払って前に進むパワーが炸裂してた。その両方の特性をモノにして開花させた人が芸術でもスポーツでも一つ飛び越えられる能力を持てるのだと思う。(それは本来、誰にでも出来ることだと思う)
Shoyanの歌の世界って、実経験なのか?とか、誰宛に作っただとか、男目線だの女目線だのってことで解かるような浅さではなくて、伊勢正三という感性のフィルタがすくい上げたエッセンスを、とても丁寧に編纂した図鑑か標本のようなものだと思うんだ。
その構築とチョイスの繊細さ・丁寧さが良い歌の所以なのだと思う。
だから聴く人の性別を超えて陰と陽、両方にバランス良く届くんだキット。
・・・
この『ひき潮の海』。
歌っているのがダ・カーポのお二人で(主にご主人の方)、それがややソフトネス過ぎて情景の印象が薄くなっていた感がある。 違うアレンジで妙齢の?女性シンガーが歌ったら、もっと涙の量が増えたかもしれない・・・なんて思う。
知ったのは音楽誌の広告で、90年代にCDを見つけて初めて聴いてから普段は何気なく聴いていたのだけど、最近いくつかのフレーズでグサっときて、ため息の逆で息を呑む・・・
"予感"なども胸騒ぎの仲間で、恋愛などにおいては得てして現実になるので哀しい。
砂浜の恋の波打ち際の別れ際・・・立っているだけで足元の砂をすくわれていくような、眩暈のような"不確かな時"が哀しい。
引くか満ちるかで結末が大きく違う二人の海。
私は海を嫌いにはなりたくないな・・・
二人の海はそのままにして去りたい。
イツカ カエッテ クルトキノタメニ
・・・
~あなたを待つ人がいる
こんなにストレートな言葉に表すなんて珍しい気がする!
しかも"許されない恋"なのだと・・・
"愛した人には愛した人がいる"
"愛した人は愛されている"
"愛されているのに愛してはいけない"
物質的には耐えられない。
でも、寄せて返す波は答えを教えてはくれないんだよね・・・
~今はだれかが 私のせいで
苦しむのが わかるほど
でも、そんな彼女自身も苦しんでいるでしょ?
その苦しみには誰が報いてくれるの?
"先か後か"ということだけで、ナゼ、愛する資格に優先順位が出来てしまうのだろう。 私はこの彼女の存在が悪いものだとは思えない。
むしろ、自分に苦しみを選んだ潔さに男らしささえ感じる(泣)。
だけど最後に 独り言のように
~あなたがもしも 行くあてもなくて
ふとあの頃を思い出したら・・・
ドアをたたいて いつでも心は
熱いときのそのままで・・・
と、別れを切り出しているようで、そうでない想いもあるのが切ない。
"本心は自然"だ。
未練でも往生際の悪さでもなく、何か確信的に置いていく言葉が別れの出発点。
これが"いつか満ちてくる潮"なのだろうか?
キット、この彼、彼女に想いを残しているんだね・・・
"現実"という水平線より下の海の中では「アイシテル」が溶け込んでいる、ってわかっているからこの砂浜で別れるんだね。
・・・
・・・
誰もいなくなった砂浜が教えてくれるのは
"得られなかった者に与えられる
唯一の祝福が「せつなさ」なのだ"
ということ。
ずっと、熱い心のそのままで
潮のひいたその遠浅の浜辺を想うのは
ホントにせつないことだね
・・・涙
なんて、ドキっとするフレーズ。
これが男性であるShoyanから生まれた言葉だと思うと不思議なようで・・・だけどとても説得力のある"気付き"だったりする。
胸騒ぎのネガorポジ・・・
サスガ、Shoyanのまなざし。
きっと人間の"内面は、男性も女性もなくて、本当は人の感性に性別はないのだと思う。
サッカーなどの女子プロチームのプレイなど見てると更にそう思う。枠を取り払って前に進むパワーが炸裂してた。その両方の特性をモノにして開花させた人が芸術でもスポーツでも一つ飛び越えられる能力を持てるのだと思う。(それは本来、誰にでも出来ることだと思う)
Shoyanの歌の世界って、実経験なのか?とか、誰宛に作っただとか、男目線だの女目線だのってことで解かるような浅さではなくて、伊勢正三という感性のフィルタがすくい上げたエッセンスを、とても丁寧に編纂した図鑑か標本のようなものだと思うんだ。
その構築とチョイスの繊細さ・丁寧さが良い歌の所以なのだと思う。
だから聴く人の性別を超えて陰と陽、両方にバランス良く届くんだキット。
・・・
この『ひき潮の海』。
歌っているのがダ・カーポのお二人で(主にご主人の方)、それがややソフトネス過ぎて情景の印象が薄くなっていた感がある。 違うアレンジで妙齢の?女性シンガーが歌ったら、もっと涙の量が増えたかもしれない・・・なんて思う。
知ったのは音楽誌の広告で、90年代にCDを見つけて初めて聴いてから普段は何気なく聴いていたのだけど、最近いくつかのフレーズでグサっときて、ため息の逆で息を呑む・・・
"予感"なども胸騒ぎの仲間で、恋愛などにおいては得てして現実になるので哀しい。
砂浜の恋の波打ち際の別れ際・・・立っているだけで足元の砂をすくわれていくような、眩暈のような"不確かな時"が哀しい。
引くか満ちるかで結末が大きく違う二人の海。
私は海を嫌いにはなりたくないな・・・
二人の海はそのままにして去りたい。
イツカ カエッテ クルトキノタメニ
・・・
~あなたを待つ人がいる
こんなにストレートな言葉に表すなんて珍しい気がする!
しかも"許されない恋"なのだと・・・
"愛した人には愛した人がいる"
"愛した人は愛されている"
"愛されているのに愛してはいけない"
物質的には耐えられない。
でも、寄せて返す波は答えを教えてはくれないんだよね・・・
~今はだれかが 私のせいで
苦しむのが わかるほど
でも、そんな彼女自身も苦しんでいるでしょ?
その苦しみには誰が報いてくれるの?
"先か後か"ということだけで、ナゼ、愛する資格に優先順位が出来てしまうのだろう。 私はこの彼女の存在が悪いものだとは思えない。
むしろ、自分に苦しみを選んだ潔さに男らしささえ感じる(泣)。
だけど最後に 独り言のように
~あなたがもしも 行くあてもなくて
ふとあの頃を思い出したら・・・
ドアをたたいて いつでも心は
熱いときのそのままで・・・
と、別れを切り出しているようで、そうでない想いもあるのが切ない。
"本心は自然"だ。
未練でも往生際の悪さでもなく、何か確信的に置いていく言葉が別れの出発点。
これが"いつか満ちてくる潮"なのだろうか?
キット、この彼、彼女に想いを残しているんだね・・・
"現実"という水平線より下の海の中では「アイシテル」が溶け込んでいる、ってわかっているからこの砂浜で別れるんだね。
・・・
・・・
誰もいなくなった砂浜が教えてくれるのは
"得られなかった者に与えられる
唯一の祝福が「せつなさ」なのだ"
ということ。
ずっと、熱い心のそのままで
潮のひいたその遠浅の浜辺を想うのは
ホントにせつないことだね
・・・涙
- ポ ラ ロ イ ド -
今、あまり見ないですね。
♪色褪~せたポラロ~イドの~四角い世界から~
『涙を連れて旅に出ようか』と『Hideの秋』も繋がっていたのかな?
この、簡易的にプリント出来るけどモヤ~っと浮かび上がってくるまでの時間が不思議な写真ポラロイド。そして儚くもあり・・・今のスマホやデジカメで撮る写真もなんとなくポラロイドの世界に近い気がするのだ。Instagramの四角い世界が好きなのも、この頃の雰囲気に寄せているからかもしれない。だからShoyanご本人もこの今こそ、Instagramやってくれたらいいのになぁっていつも思っている。
『Hideの秋』は一番多く自分で演奏した曲だなきっと。以前にも書いたが、昔はエレクトーンが少し弾けたので(エレクトーン!(笑)←苦笑するほどコンプレックス(悲))、高校の時にバイト先に借金してまでアノ音楽春秋の楽譜※を買って、テキトウな略コードで弾いて、それでも充分気分良くて(*´∀`*)~♪BossaNova風味でのほほんと、私の一番のナゴミSONGだった。
だって、謎っぽい曲で飽きないでしょ!!!?
銀色のプラスティックの指輪ってナニ!?
ナニ?ナニして遊んでんのかな!?
弟って誰?
レモネード!
部活の時の必須飲料ですよね!←それは自分
この、体育会系日暮れ色センチメンタル風景は、私の中では最初からもう何十年も横浜の実家のそばの某私立T学園の、野球とラグビーのグラウンドがある小高い旧い丘の夕景なのだ。個人的過ぎる風景がこの歌の中にある。
今みたいに近代的な建物はなくて、子供が遊びに入っても怒られなくて、犬の散歩ついでに家族みんなで草ぼうぼうのグラウンド脇で遊んだりした。新興住宅地の残された山の上、だだっ広いところって夕陽がきれいに見えるんだ。ゴールポストの影が長く伸びて・・・チョークの痕が残る大きなスコアボード、色んな競技の道具が静かに佇んでいた。
今でも、その時間を想い出せばチョト涙。
一緒に散歩した大好きな祖父も犬ももういない。
その時間はもう還らないから・・・
この歌は私の大切なノスタルジーのコラージュなのだ。
Hideの秋は本当に名曲。
3分に満たないこんな小さな歌。
だけど息が長い。
登場人物のモデルが誰とか、詞にはどんな意味があるのだろうとか、細かいことや深いことを考えずに、そのShoyanの優しい声と音を「視る」だけのセピアのショートフィルムなのだ。
大好きなスチールドラムの可愛いらしいトレモロ。エレクトーンでは出せなかったので色んな音を混ぜてみた。(ヴィブラフォンとフルートとか混ぜられるんです(*´ー`)) 転調がキモだなと思ったり、足のペダルで上手にフェイドアウトさせたり。課題の曲はちっとも練習しないのに『Hideの秋』は楽しかった♪
少し前までは時々ステージでも披露されていたし、サブスクでも聴けるようになったから、今は沢山の人が知っていると思うけど、でも私にとってはいつまでも秘密の小箱。
お盆過ぎてちょっと日暮れが早くなってくる頃、午後の暑さに隠れている秋がトンボの背に乗って偵察に来る。でも砂や芝生の上で弾ける"子供心"はまだそれに気づかない。そんな交錯が一枚の儚いインスタントな額の中にある。何十年も変わらずに在れることが今証明されている。こんな小さな歌がそんなに永い。本当にShoyanの音楽って凄いんだ。
風に乗って聴こえる野球部の掛け声。
錆びて転がった大きなローラー。
幼い妹と犬と私。
今でもそこで楽しそうなまま、隠れんぼしているかもしれない♪
・・・
※音楽春秋の楽譜はすごい作りで、タブ譜でしかも観音開き!なのでした。1984年ころ、バイト先の書店の仕入れに同行して神田御茶ノ水界隈の楽器店で発見しました。店長にバイト代を前借りさせてもらってその場で買えたのですが、この発行元はすぐに(すでに)無くなってしまい、保存用の二冊目を買うまでに至りませんでした。購入してから38年(^^;)観音開きなので折り目が破れやすく、紙はすでに茶色く劣化し、張り合わせたセロテープまでもうパリパリに乾いて剥がれるほど年月が経ちました。
↓もう一枚右に開くワケ

↓28年前からは雪模様のラッピングフィルムで包んであります♪
♪色褪~せたポラロ~イドの~四角い世界から~
『涙を連れて旅に出ようか』と『Hideの秋』も繋がっていたのかな?
この、簡易的にプリント出来るけどモヤ~っと浮かび上がってくるまでの時間が不思議な写真ポラロイド。そして儚くもあり・・・今のスマホやデジカメで撮る写真もなんとなくポラロイドの世界に近い気がするのだ。Instagramの四角い世界が好きなのも、この頃の雰囲気に寄せているからかもしれない。だからShoyanご本人もこの今こそ、Instagramやってくれたらいいのになぁっていつも思っている。
『Hideの秋』は一番多く自分で演奏した曲だなきっと。以前にも書いたが、昔はエレクトーンが少し弾けたので(エレクトーン!(笑)←苦笑するほどコンプレックス(悲))、高校の時にバイト先に借金してまでアノ音楽春秋の楽譜※を買って、テキトウな略コードで弾いて、それでも充分気分良くて(*´∀`*)~♪BossaNova風味でのほほんと、私の一番のナゴミSONGだった。
だって、謎っぽい曲で飽きないでしょ!!!?
銀色のプラスティックの指輪ってナニ!?
ナニ?ナニして遊んでんのかな!?
弟って誰?
レモネード!
部活の時の必須飲料ですよね!←それは自分
この、体育会系日暮れ色センチメンタル風景は、私の中では最初からもう何十年も横浜の実家のそばの某私立T学園の、野球とラグビーのグラウンドがある小高い旧い丘の夕景なのだ。個人的過ぎる風景がこの歌の中にある。
今みたいに近代的な建物はなくて、子供が遊びに入っても怒られなくて、犬の散歩ついでに家族みんなで草ぼうぼうのグラウンド脇で遊んだりした。新興住宅地の残された山の上、だだっ広いところって夕陽がきれいに見えるんだ。ゴールポストの影が長く伸びて・・・チョークの痕が残る大きなスコアボード、色んな競技の道具が静かに佇んでいた。
今でも、その時間を想い出せばチョト涙。
一緒に散歩した大好きな祖父も犬ももういない。
その時間はもう還らないから・・・
この歌は私の大切なノスタルジーのコラージュなのだ。
Hideの秋は本当に名曲。
3分に満たないこんな小さな歌。
だけど息が長い。
登場人物のモデルが誰とか、詞にはどんな意味があるのだろうとか、細かいことや深いことを考えずに、そのShoyanの優しい声と音を「視る」だけのセピアのショートフィルムなのだ。
大好きなスチールドラムの可愛いらしいトレモロ。エレクトーンでは出せなかったので色んな音を混ぜてみた。(ヴィブラフォンとフルートとか混ぜられるんです(*´ー`)) 転調がキモだなと思ったり、足のペダルで上手にフェイドアウトさせたり。課題の曲はちっとも練習しないのに『Hideの秋』は楽しかった♪
少し前までは時々ステージでも披露されていたし、サブスクでも聴けるようになったから、今は沢山の人が知っていると思うけど、でも私にとってはいつまでも秘密の小箱。
お盆過ぎてちょっと日暮れが早くなってくる頃、午後の暑さに隠れている秋がトンボの背に乗って偵察に来る。でも砂や芝生の上で弾ける"子供心"はまだそれに気づかない。そんな交錯が一枚の儚いインスタントな額の中にある。何十年も変わらずに在れることが今証明されている。こんな小さな歌がそんなに永い。本当にShoyanの音楽って凄いんだ。
風に乗って聴こえる野球部の掛け声。
錆びて転がった大きなローラー。
幼い妹と犬と私。
今でもそこで楽しそうなまま、隠れんぼしているかもしれない♪
・・・
※音楽春秋の楽譜はすごい作りで、タブ譜でしかも観音開き!なのでした。1984年ころ、バイト先の書店の仕入れに同行して神田御茶ノ水界隈の楽器店で発見しました。店長にバイト代を前借りさせてもらってその場で買えたのですが、この発行元はすぐに(すでに)無くなってしまい、保存用の二冊目を買うまでに至りませんでした。購入してから38年(^^;)観音開きなので折り目が破れやすく、紙はすでに茶色く劣化し、張り合わせたセロテープまでもうパリパリに乾いて剥がれるほど年月が経ちました。
↓もう一枚右に開くワケ
↓28年前からは雪模様のラッピングフィルムで包んであります♪
今はオークションやフリマで検索すれば手に入るかもしれませんが、共に過ごしてきた年月は何にも代えがたいものであります。
☆最近このあたりのShoyanブームです(>▽<)
☆最近このあたりのShoyanブームです(>▽<)
*こんなサンプルEPがあった♪
「リアス式の恋」
なんともShoyanらしいタイトルである。
「それ何?」と思わせてしまうキャッチーな組み合わせ。地理や観光に興味がなければ、そんなに身近な言葉ではなかったかもしれない。しかもその「恋」とは?
普段は穏やかな、細長い奥まった入江。でも一度波が押し寄せてくると津波になって斜面を駆け上がる。その、倍々に掛け算になるパッション。そして、岬~入り江~岬~入り江・・・と凸と凹の連続なワインディング。恋の定まらぬ熱量の象徴かなと思う。
『ORANGE』というアルバムの幕開けに本当にピッタリな、真っ直ぐでワクワクしたこの曲が大好きだ。溌剌とした青い柑橘系のスプラッシュ!もう40年近くも毎年聴くのだけれど、本当に飽きない。もちろんすべての曲が飽きないのだけど、ORANGEの収録曲は特に「今来た」感が褪せない。つい、まだ当時のままの心で聴いてしまう。
好きすぎていつも聴き流しているままだったので、改めて聴き直すとまるで玉手箱のようなアレンジで感激が深まる。モチロン、私は"佐藤準愛好会"(※笑)会員なので、準チャンのやることなすこと大好きなのですが、この歌、Shoyanのヴォーカルひとつとっても、最初の
♪走る景色に重なる~
からのフレーズはディレイ(リバーブ?)が効いていて、抑えた伴奏の表面に浮き上がったShoyanの甘い甘い声が際立ってタマラナイのだけど、更に
♪気分は週末色に~
のところで、「週末色に~」から「~待ち合わせたけど」まで、極限定的にファルセットのような別のヴォーカルが被さっているのだ。歌詞からすると中途半端な箇所なのだけど、前後のメロディ展開の導入や繋ぎに関わるタイミングが絶妙。この限定的な高い声のユニゾンが無意識に働きかけてドラマチックな仕上がりになっていたんだなぁと感銘なのだ。(素人の感銘ですお許しを^^;)
♪このまま遠くへさらってゆくつもりさ~
からの♪トゥルル系コーラスも本当に軽快でお洒落でスタンダードで、楽しい気分になる。せつない曲や哀しい曲は印象に残りやすいが、こういったコロコロと転がるようなサックリした恋の歌もShoyanの歌世界では多数輝いている。特にこうした超級ミュージシャンたちの参加もあって、本当に屋台骨のしっかりとした色っぽい永遠の作品群だなぁと今になって思う。
このアルバムの他の曲でもそうだけれど、佐藤準氏の裏メロ仕事がそこココに効いていて、様々なエレピやシンセの音が聴こえる。 最後のリフレインにかかってくるシンセのピコピコした音も超可愛い☆ドラムスやベースはミュージシャンの演奏なのか、準氏の打ち込みなのかは各曲のクレジットが無いのでわからないけれど、この曲、ギター系はほとんど聴こえないので準チャンと正ヤンの声だけで出来ちゃうんじゃないかな?などと思って余計に愛着なのであります。
※佐藤準愛好会とは
準氏の音楽を愛してやまない私が勝手に名乗っているだけのミニマムな団体です(笑)。
・・・
この歌、タイトルに続いて言葉がとても面白くて、「週末色」とか「紅茶も冷めないほんの15分」「高速はジグザクの夜」「マリンハウス」 なんて、Shoyanの実験魂が感じられて、以後そういう「言葉」に敏感になっていく受け手としての自分の出発点だったりもする。
(そういえば、キリンジの歌にも ♪熱い紅茶も冷める距離だね~なんてあるけど、紅茶って"冷める前提"なんですね)
♪走る景色に重なる君の横顔が好きで~
とは?
もしや、時々助手席に乗せながら、運転中にチラ見していましたね? よそ見運転ギリギリですね?(笑) 「うでの中」の君のこと2日間も考えてて、思いつめていて、15分で逃したら言えなくなるとか、切羽詰まっていますね(*´ω`)たまらんですね。『夜のFM』では言えなかった想い、ここでも同じように心の中でグルグルしてるのだけど、今度は違う。言葉以前にある大前提!
「好きになってしまえば 同じ気持ちがかよって」
という、この恋の鍵がこの歌ではガチャっと回されるわけで、待ち合わせてドキドキしながらテーブル挟んで君の顔色を伺っていたら、君がかすかにうなずくのだ。その、ほんのほんの極ちっちゃいリアクションによって劇的にシーンがガラッと変わるのが快感なのだ。「それでどうするの?それでどうするのー?」と、こっちが身を乗り出して聴いてしまう悦びがここにある。
最終のフライトにまだ間に合う・って、飛行機まで使ってどこまで行くんだ!?っていうぐらい壮大な恋愛の幕開け。急に二人の密着した物語が始まって、「思いつめてる」が二人分になって、一気に熱量があがって色々なものが膨らんでしまう。身体が熱くなるような最高潮のクライマックス!
だが・・・それと見せかけて、話はそこでスパッと肉体を通り越して、心の機微にストンと嵌まるエンデイングのリフレイン。
♪秋には さびれてしまう
マリンハウスの
そんなせつなさが
好きな ふたり
これ本当に凄いんだ。
この二人、これからナニすんの?どこ行くの?恋はじまった!!うわーっ(*'▽')!てトキメイた瞬間に、侘び寂びの機微で余韻だなんて・・・寸止めの極みのようで胸の中はずっと巡ったままになる。永久機関のように・・・
この最後のフレーズが私は大好きなのだ。「そんなせつなさ」を知っている者同士はきっと、相手のことを自分のことのように想えるのではないか・と。そして、いつか「恋」が終わっても、その次に在るものを見つけられるんじゃないかなって。
余計なことを何も入れないで、このフレーズですべてを包み上げたShoyanからの珠玉の贈り物だと思う。だからずっとずっと大切にしてこられたと、この可愛い歌が今凄く愛おしいのです。
・・・
☆追
アルバム『ORANGE』は、自分が車の免許さえ持っていなかった頃に聴き始めたアルバムだから、シチュエーションにとても憧れていた曲が多い。国道10号線を北へ走るのは実際にやったケド(笑)、高速でジグザクの車線変更とか、岬を回るドライブや、豪雨の中のドライブなど、今でも憧れる気持ちが強い。その情熱を今でも時々懐かしく思うし、なんとなく自分の中にまだ埋もれてあるような気がする。 この頃ってシートベルトをしなくて良かった頃かな?今より少し自由だった。ハメも外した。情熱に憬れすぎてカラぶったことも多々あるが、『リアス式の恋』は私の青春に添ってくれた大切な一曲であります。
※今ちょっと調べたら、高速道路のシートベルト着用義務化は1985年からだった。本当にこのころはシートベルトもしなくて良かったんだ。バイクのヘルメットもね。 そう考えると結構時間が経っているね笑。
好きになってしまうと同じ気持ちが通うのは、このアルバムでは一つの大事なフレーズ。 フライトも高速道路の逃避行も、夏も旅もいろいろリンクし合っている曲が多い。印象がよくまとまった素晴らしいアルバムだ。当時のギター誌のインタビューで、『ORANGE』とは故郷のみかん畑のオレンジと、夕暮れのオレンジ色、トンネルや高速道のライトのオレンジ色がリンクしている、と語られていたように思う。故郷=ルーツのことはとても大事なことだから、そこを意識して聴いてみてね♪というShoyanからの導きに気付いたアルバムだった。また他の曲のことも考えてみたい。自分にとっては80年代の曲たちこそ"故郷"なのだと最近改めて意識しなおしている。
☆そのインタビュー記事で、自ら運転する車中のShoyanご自身の横顔写真が載っていた。真っ黒サングラスなのだけど、左ハンドルにかけた細長い腕が素敵で・・・下敷きに入れて授業中ずっと眺めていましたわ(*´ω`)=3。ドライビングShoyanは永遠の憬れです☆
十何年も前に書いたことを今読み返しても、その頃とは違ってしまったものがある。gardenの曲たちは特に、当時ちゃんと聴けていたのか自信がない。自分の感性を今一度見つめ直してまた新たに聴き直さなくてはと思っている。
以下、その10年以上の行ったり来たりを交えながら、脱線しまくり再考再投。イミフメの長文ですがお許しを。
・・・
自分語りから始まるが、この唄を聴いて思い出す風景がいくつかある。想像の景色ではなく実際に昔自分が通っていた川なのだけど、そこは東京から近い神奈川の小さな川。流れ沿いに林道があり、釣りあがっても下ってくるのが楽でヘタレな私でも魚釣りをすることが出来た。両側が少し高くなっていて、ちょっとした谷間になっていた。小さな滝もあった。私はいつも父母・妹など家族で釣りに行っていた。
当時、夢中になって釣りあがっていくとあっという間に夕方で、日暮れ時は一番釣れるので終り際が一番テンションが高い。不思議なことに魚(ヤマメ)は真っ暗に暮れた夜でも釣れた。膝より下の浅い瀬に月の光が飛沫になっている夜の川はすごく綺麗だ。私なんかはロマンチックな気分になりそそくさと竿をしまうのだけど、しつこい父や母が竿を振るとそんな月光の瀬でヤマメが釣れるのだ。川の中はどうなっているのだろう?山の夜は暗い。林道の入り口の小屋&駐車場まで戻らないと灯りはない。流れが浅くて川原が広いから歩いて帰ってこられるけど、その時間になるとさすがに他の釣り人はほとんどいない。そんな真っ暗な中でエサが見えるのか?魚にとっては日没からしばらくの間は夜じゃないのかもしれない。その日は月が綺麗で、山と山の間にぽっかりと光っていて絵のようだったのを覚えている。
そしてもう一つの風景。私が今いる場所の裏の山には本物の夜がある。砂防ダムと林道のアスファルト以外に人工物がないような深い山。実は今の自宅から50mほど下にあるコンビニが山を降りて最初のコンビニだ。ウチから上にはもうコンビニはなくて、標高2000m以上の国立公園の山々を越えて長野県に出るまでないと思う。最近、ちょうどその長野側に行くことがあったが、地元のスーパー以外コンビニはなかった。がしかしなんと!近くの某施設には釣行で訪れたShoyanご本人のサインが飾ってあった!2004年春のもので、まさにgarden直後のものかと思うと感慨深かった。
そこは本当に深い山塊だ。だけど、そんな中で月の光が降り注ぐ川に下りてみたい気もする。自分がオトコだったらきっと野営に出かけたに違いない。水晶が光る夜の川から上を見上げたら宮沢賢治のお話のように美しいものが見えるかもしれないね。・・・と、これを書いた当時は思っていたのだが、実際は・・・>文末に続く(謎)。
・・・
真夏の昼間ってほんとにまったく喰わないヤマメ。アブラハヤやオイカワまで釣れない。Shoyanが擬人化して呼ぶ「君」は誰もが胸の中で泳がせている夢という川に棲んでいるヤマメだ。釣れる時間のことを「朝マズメ」「夕(ゆう)マズメ」なんていうけど、釣れない時間は何だろう?凪というほど止まる訳じゃない。川は流れているんだ。その追い立てられて留まれない時の流れの中で、だけど居眠りをしていたい時もあるよね・・・。
大岩の下だろうか、張り出した緑の枝の下だろうか、、、gardenはその喰いを忘れてうたたねをしてるような、まどろみのようなニュアンスがあったかと思う。サウンド的なことは詳しくないけど、アレンジもエレキかエレピのアルペジオが、アコギとストリングスの透明キラキラ感に纏わりついてしまうようなモワモワ感があって、それがちょっと気になっていた。当時のShoyanご自身の自負は他からの評を許さないものがあったかもしれないけど(汗)、やはりまだ実験的な部分もあったかと思う・・・。ただ、なんとなく、それから10何年もの時を経て、Shoyanご自身の今=未来、はまさに「マズメ」の時間!喰いまくっているなぁ、という感激の中にいる。Re-bornの構成は詞もサウンドも予断のない完成だったと思う。ずっとShoyanは前へ・奥底へ・高みへ・と精進されていたのだなぁとわかる。『夏ヤマメ』は出発点だったのだなと。
夢の着信履歴が残った携帯を置いて、新しい瀬に泳ぎ出した今のShoyan。サイドチェンジのボールをとうとう蹴ったShoyan。今は竿を置いて、フライボックスは閉じたまま、、、釣り人ではなく、自在に泳ぐ魚のようなスタンスなのかもしれない。♪だって真夏の午後はCrazy~ですから。
確か、ランタナや準決勝で夏が終わったくだりはShoyanご自身ではなく、お知り合いのエピソードだったように思うが(うろ覚え)、Shoyanの音楽活動50年の記念になる今この歌を聴けば、その夢の種をとてつもない大株に育てあげて、またバッサリ刈り取って切り倒すような、Shoyanのスケールの大きな人生に感嘆しきりなのだ。その端に自分も触れられるといいなと思っている。
・・・
話がまた戻るが、ちょうどこの歌が発売された頃、釣りをしたいと横浜から若かった妹夫婦と幼い子供たちが遊びに来た。ファミリーで行けるような川で釣るのはハヤとかオイカワなんだけど、妹はすごく嬉しそうだった。学生の時以来、子育てで自分を忘れていた妹の息抜きだった。昼の暑い時でナカナカ思うように釣れないのだけど、竿を離さなかった。そんなママを見て子供たちは最後まで「帰ろう」って言わなかった。
誰も皆、少年なんだろうと思う。
女の子もだ。
少年の心というのは人間の基本的なキモチのような気がする・・・。当時の妹も夏の名残のような蒸し暑い日に、心の三角窓をちょっとだけ開けてみることができたのではないだろうか。男の人ほど大きな旅はできないけど、女のコだってライズしてみたい時があるんだなキット。
おっと、家族の話になっちゃった。
でも、Shoyanの唄は私にとって家族のようなものだから、一緒に語ってもいいのだと思う。
ちなみに、Shoyanご自身が乗られていた車・いすゞ117クーペの三角窓を思い出したりする♪
・・・
『僕と子犬と1月のバス通り』でも「彼」と僕だった。
犬を「彼」、ヤマメを「君」って呼ぶShoyanのその目線が好きだ。ライブのMCなどでは「gardenの中では一番解りづらい唄と言われてるけど」のようなことを言われていたが、色んなシーンが切り貼ってあるからかと思う。多次元中継になってるようで、それらのシーンを行き来するのがとても楽しい。
月が照らす群雲の夜空からランタナが七変化する庭先、携帯電話の液晶から泡立つ冷たい淡水の中。男女のリアルなやりとりがあるわけでもなく、切ない恋がある訳でもないが、なんともキュンとする愛の唄だ。この唄を聴いていると"夢見ることに嘘つきじゃなかった頃の自分"と今現在の自分との距離を辿る過程にキュンとする訳で、その"自分時間"と"草花や川の流れの自然の時間"との対比がなんとも切ないのだ。夢を見ることも叶えることもほとんど出来なかった私にもこの歌は優しい。むしろ今になって余計に距離が縮まったような気がしている。
自然をいとおしむ心も、自分を愛してやることも皆ラヴソングになる。こういうShoyanの胸ポケットの中のような唄が大好きだ。
夏の木陰の緩やかな淵で、水の天井を見ながら私もうつらうつらしてみたい。色んな小さな夢が浮き上がって羽化していくのをボ~っと眺めていたい。今年は釣りに行こう、コロナ禍二年目の七月の最初の日にそんなこと想っている。
・・・
追
※何年か前、長野県のとある標高の高い源流で、車のキーを急流に落として紛失しました。うかつにも予備を持たず(アホ)、ずぶぬれで探しましたが見つからず(当たり前だ)、保険会社のレスキューを要請して、川の水で冷え切った身体に、真っ暗な森と急流の流れの傍で何時間も過ごしました。満月が木々の間に昇り、川の冷気と鹿の鳴く声・秋の夜温、それはそれは恐ろしいものでした。月の光は自分の無力さを反省する鏡でした。
恐怖と心地良さが完全一致してそこにある、それが原始の森だなと実感する出来事でした。天然が心地良いのは「帰る保証がある」からこそなのだと痛感いたしました。備えあってこそのロマンチックだと・・・。
信州限定キティちゃんのキーホルダーが付いた車のキーをどこかで見かけたら、ご一報ください(^^;)。
※セルフカバーアルバムが発売されたころに書いたものに加筆。
・・・
以前どこかで、アルバム『メガロポリスの錯覚』の頃のShoyanのヴォーカルが好きだと書いたような気がするのだが、そのアルバムの中でも、特に『WRONG TIME』の歌い方が好きだった。こういう歌い方、もっとして欲しいと想っていた。あの、低く底の方を浚っていくような囁きはISE SHOZOの"裏魅力"というか・・・私の密かな発見だと思っていた。
そして、あの頃から随分時が経ったけど、今回、セルフカバーのアルバムが出ると聞いた時やっぱり
>今の正やんには
>優しく、甘く、柔らかく・・・そして時々スパイシーに・・・
>声を置くように歌って欲しいのだけど・・・
と、想った。
今、そんな永かった願いが更に甘さを増して叶った気がしている(涙)。
というか、私の"願い"だなんて不遜だ。Shoyanの現在のNaturalがそうなったのだとしたら、そこに、自分の心が偶然寄り添えた・・ってことなのだろうと思う。
・・・
『渚ゆく』に関しては、思い込み全開でしつこいほどのキモチを書きたいと想う。歌の内容・言葉の意味などは今は置いておいて、感じたことを好き勝手に(ほぼ妄想で)残したい。
手にして以来、毎日毎日聴いているけれど、その歌声はもう、それ以上を望ませないほど最高に、最高に"私にとってのこの世の音の全て"だった!私が伊勢正三のことを何故好きなのか?という、原点が解禁になったような現象が起きている。 ※そしてそれはRe-bornで倍々に開花したのですが、それはまたいつか。
とても独りよがりな受けとめ方だけど、やっと、隅々までのその"Shoyanの音"と一心同体になれた気がしている。こんなに一体感を感じるヴォーカルって今迄他にない。
俗っぽい意味ではなく、本当に・・・素肌や身体さえ通り越して、互いの胸と胸の中が溶け合ってひとつになれる愛のヴォーカルだと思うのだ(涙)。
こんなにも聴き手に寄り添える歌を歌うことが出来る今のShoyanを心の底から尊敬するし、その胸の内をそこまで解放できる潔さ・懐の深さ・愛の深さを想うと、心の芯から熱い震えがくる。どこか、胸の奥の目に見えない遠いところで、奏でるものと聴くものはすべて繋がっているのだと・・・
ソンナ オモイコミ ユルシテ クダサイ…
クジラが使う海の"サウンドチャンネル"みたいに繋がっているのか?
いや、それ以上にソコとココに"同時発生"しているものを如実に感じさせてくれる。それは眼に見えないしカタチのないものだから、証明するのは普段は困難だけど、同じく目に見えない「声」に「想い」を込めて繋ぐ・という作業を、今回Shoyanは実現したくて、このセルフカバーアルバムを作ったのではないかしら、なんて想ったりする。
目に見えない「声」というものの情報量がいかに多いものなのか・無限かと言うことを、Shoyanは今回の『渚ゆく』で証明してくれたんだ。40年以上も"音楽という悦び"と自らの感性に誠実に向かい合ってきた伊勢正三と言う人の真っ直ぐなまなざしなのだと思う。その動機を思うとこのセルフカバーの音源がどんなに濃くて愛おしいものか・・・感激で胸がいっぱいになって、言葉より先に涙が出る。
・・・
今回、この『渚ゆく』が一番生まれ変わり度が高いようで、新しい情報いっぱいなのが嬉しい。
この骨太なロマンチシズムが新鮮。"Rock Bossa"って感じがイイ☆ 新しい愛の強さを良く示してくれてるこの"ロマンチックにノれる"アレンジがとても素敵。
81年オリジナルは朦朧体ニュアンスが濃くて、当時流行ったリゾート画みたいな少し線の細い優しい色合いだったけど、今回は下地にキラ(雲母)を塗った岩絵の具の発色みたいで、そこに程よく吐息が沁み込んだ筆のようにShoyanの声が言葉を置いていく・・・何度見ても飽きない"永遠の渚"の風景。本当にShoyanらしいと想って憧れる。
2コーラス目からは更にその"囁き筆致"が増して「悪い癖」の「わるい」、「もてあそび」の「あそび」、「海風」の「うみ」、そういったところに痺れるほどの官能が溶けている。これが今回一番の聴き処なの。
この安堵感と一体感はまさに"Shoyanの腕枕"なのだと想っている。
腕が痺れては明日の仕事に障るので一晩中とは言わないけれど♪ この4分45秒・・・それだけ、無心で甘えさせていて欲しい。そんな幸せな妄想は純粋に心の糧なのだ。
もう、テクノロジーとか音楽の理論じゃなくて、裸の心と心の摩擦熱の高さがこの歌の評価だと思う。
ラストのガットギターのフレーズは、このアルバムで一番饒舌な愛の囁き。ずっと待っていた♪
「その愛が何よりも強く光り始めたら、もうずっと一緒だから」
「それに気付いたら、これからはもう離れないんだヨ」
って、
いつかきっとこんな風に言ってくれると思ってた。一番欲しかったResponseのような気がしている。私が一生聴いている分のそのすべての答えがここにあるような、Shoyanからの最高のGIFTをこの数秒のギターのフレーズに想う。
なんだかやっぱりまだ想っていることを上手く書けない。もどかしくて、でも愛おしくて、まだ、まだ何度も何度も繰り返して聴く。
初めて聴いた時からずっと導だったこの歌を、更に強く光らせて高く掲げてくれた今のShoyanに感謝の気持ちでいっぱい・・・。
音で抱きしめてくれて
アリガトウ(涙)
・・・
※2021追
と、よもや、これより更にこの愛の世界が深く潜行するとはこの時はわからなかった・・・ということは・・・?まだ今からも更にどこかへ向かいつつあるのかもしれないと、アキラメない愛の行方を・・・だ。Re-bornの先、テレポーテーションの先、いや根源に戻って永遠の渚の風景を・・・と。
・・・
以前どこかで、アルバム『メガロポリスの錯覚』の頃のShoyanのヴォーカルが好きだと書いたような気がするのだが、そのアルバムの中でも、特に『WRONG TIME』の歌い方が好きだった。こういう歌い方、もっとして欲しいと想っていた。あの、低く底の方を浚っていくような囁きはISE SHOZOの"裏魅力"というか・・・私の密かな発見だと思っていた。
そして、あの頃から随分時が経ったけど、今回、セルフカバーのアルバムが出ると聞いた時やっぱり
>今の正やんには
>優しく、甘く、柔らかく・・・そして時々スパイシーに・・・
>声を置くように歌って欲しいのだけど・・・
と、想った。
今、そんな永かった願いが更に甘さを増して叶った気がしている(涙)。
というか、私の"願い"だなんて不遜だ。Shoyanの現在のNaturalがそうなったのだとしたら、そこに、自分の心が偶然寄り添えた・・ってことなのだろうと思う。
・・・
『渚ゆく』に関しては、思い込み全開でしつこいほどのキモチを書きたいと想う。歌の内容・言葉の意味などは今は置いておいて、感じたことを好き勝手に(ほぼ妄想で)残したい。
手にして以来、毎日毎日聴いているけれど、その歌声はもう、それ以上を望ませないほど最高に、最高に"私にとってのこの世の音の全て"だった!私が伊勢正三のことを何故好きなのか?という、原点が解禁になったような現象が起きている。 ※そしてそれはRe-bornで倍々に開花したのですが、それはまたいつか。
とても独りよがりな受けとめ方だけど、やっと、隅々までのその"Shoyanの音"と一心同体になれた気がしている。こんなに一体感を感じるヴォーカルって今迄他にない。
俗っぽい意味ではなく、本当に・・・素肌や身体さえ通り越して、互いの胸と胸の中が溶け合ってひとつになれる愛のヴォーカルだと思うのだ(涙)。
こんなにも聴き手に寄り添える歌を歌うことが出来る今のShoyanを心の底から尊敬するし、その胸の内をそこまで解放できる潔さ・懐の深さ・愛の深さを想うと、心の芯から熱い震えがくる。どこか、胸の奥の目に見えない遠いところで、奏でるものと聴くものはすべて繋がっているのだと・・・
ソンナ オモイコミ ユルシテ クダサイ…
クジラが使う海の"サウンドチャンネル"みたいに繋がっているのか?
いや、それ以上にソコとココに"同時発生"しているものを如実に感じさせてくれる。それは眼に見えないしカタチのないものだから、証明するのは普段は困難だけど、同じく目に見えない「声」に「想い」を込めて繋ぐ・という作業を、今回Shoyanは実現したくて、このセルフカバーアルバムを作ったのではないかしら、なんて想ったりする。
目に見えない「声」というものの情報量がいかに多いものなのか・無限かと言うことを、Shoyanは今回の『渚ゆく』で証明してくれたんだ。40年以上も"音楽という悦び"と自らの感性に誠実に向かい合ってきた伊勢正三と言う人の真っ直ぐなまなざしなのだと思う。その動機を思うとこのセルフカバーの音源がどんなに濃くて愛おしいものか・・・感激で胸がいっぱいになって、言葉より先に涙が出る。
・・・
今回、この『渚ゆく』が一番生まれ変わり度が高いようで、新しい情報いっぱいなのが嬉しい。
この骨太なロマンチシズムが新鮮。"Rock Bossa"って感じがイイ☆ 新しい愛の強さを良く示してくれてるこの"ロマンチックにノれる"アレンジがとても素敵。
81年オリジナルは朦朧体ニュアンスが濃くて、当時流行ったリゾート画みたいな少し線の細い優しい色合いだったけど、今回は下地にキラ(雲母)を塗った岩絵の具の発色みたいで、そこに程よく吐息が沁み込んだ筆のようにShoyanの声が言葉を置いていく・・・何度見ても飽きない"永遠の渚"の風景。本当にShoyanらしいと想って憧れる。
2コーラス目からは更にその"囁き筆致"が増して「悪い癖」の「わるい」、「もてあそび」の「あそび」、「海風」の「うみ」、そういったところに痺れるほどの官能が溶けている。これが今回一番の聴き処なの。
この安堵感と一体感はまさに"Shoyanの腕枕"なのだと想っている。
腕が痺れては明日の仕事に障るので一晩中とは言わないけれど♪ この4分45秒・・・それだけ、無心で甘えさせていて欲しい。そんな幸せな妄想は純粋に心の糧なのだ。
もう、テクノロジーとか音楽の理論じゃなくて、裸の心と心の摩擦熱の高さがこの歌の評価だと思う。
ラストのガットギターのフレーズは、このアルバムで一番饒舌な愛の囁き。ずっと待っていた♪
「その愛が何よりも強く光り始めたら、もうずっと一緒だから」
「それに気付いたら、これからはもう離れないんだヨ」
って、
いつかきっとこんな風に言ってくれると思ってた。一番欲しかったResponseのような気がしている。私が一生聴いている分のそのすべての答えがここにあるような、Shoyanからの最高のGIFTをこの数秒のギターのフレーズに想う。
なんだかやっぱりまだ想っていることを上手く書けない。もどかしくて、でも愛おしくて、まだ、まだ何度も何度も繰り返して聴く。
初めて聴いた時からずっと導だったこの歌を、更に強く光らせて高く掲げてくれた今のShoyanに感謝の気持ちでいっぱい・・・。
音で抱きしめてくれて
アリガトウ(涙)
・・・
※2021追
と、よもや、これより更にこの愛の世界が深く潜行するとはこの時はわからなかった・・・ということは・・・?まだ今からも更にどこかへ向かいつつあるのかもしれないと、アキラメない愛の行方を・・・だ。Re-bornの先、テレポーテーションの先、いや根源に戻って永遠の渚の風景を・・・と。
※3年前に載せたものですが、改行など再編集して再掲します
・・・
・・・
ベンジャミンの鉢植えって、何故、二本絡み合わせて仕立ててあるのだろう?
見た目の面白さかな?
一本では立てない訳ではあるまいに・・・
見た目の面白さかな?
一本では立てない訳ではあるまいに・・・
あの、二本の幹を縒り合わせてある仕立てが
象徴的ですよね・・
と、この歌を聴いた当時想ったっけ・・・
象徴的ですよね・・
と、この歌を聴いた当時想ったっけ・・・
・・・
「何も出来ないわよ」
と、そっけなく応えながら、時間外の食事の支度をしてくれる彼女。
"冷蔵庫の明り"のように、冷たいのに暖かい・・・と。
こんな夜中に、そんな寛大な態度をとれるなんて、それは"素敵な女性だ"と思っていた。
出来た女だ・と永いこと思っていた。
"冷蔵庫の明り"のように、冷たいのに暖かい・・・と。
こんな夜中に、そんな寛大な態度をとれるなんて、それは"素敵な女性だ"と思っていた。
出来た女だ・と永いこと思っていた。
でもなんだろうこの違和感・・・
「何も出来ない」って実際はネガティブな言葉。本当は優しい女(ヒト)なのに、ハッキリしない彼を前にすると出てしまう体温の低さ。
どこか、すべて委ねていない。
どこか、すべて委ねていない。
そんな風に最近思う様にもなった。
「私って何も出来ないから」
「それはやったことないから」
「もう○○歳だから」
「それはやったことないから」
「もう○○歳だから」
などと、謙遜のつもりで言う言葉が、サウンド的に相手の無意識に対して、ネガティブな印象を与えていることがある。悪気はないのだろうけど、そういうことって、無意識ゆえに少しづつ後からじわじわ効いてくる。
聴き始めたころは彼女のよく出来た部分の象徴だと思っていたこのフレーズが、最近、二人の隙間の温度差にも思えてしまう。
彼、言葉少なにグラスを置きながら無意識に贖罪みたいな気持ちになっていたのじゃないかな・・・
あるいは"ひけ目"のような・・・
彼、言葉少なにグラスを置きながら無意識に贖罪みたいな気持ちになっていたのじゃないかな・・・
あるいは"ひけ目"のような・・・
「私はこんなにちゃんとしてるのに、あなたは何が不満なの?」
「自分でもわからないけど、好きだけど、好きでいられない」
などと、男と女ってナンギな存在だ。
だって、別物だもの。
惹かれあうのに、異質なもの・・・
惹かれあうのに、異質なもの・・・
互いに縒り合わせていける柔らかい愛情を持てなければ、いつしか、そのワンルームは窮屈になる。心のワンルームはそれでひとつの"価値観"だ。独りの部屋に二人は棲めない。マンションの部屋の合鍵は二つ作れても
個人の鍵穴はそれぞれ違う。
でも、それが同じ鍵で開くようになるのが
恋愛の不思議というか・・・男女が結ばれる理由なんだろう。
個人の鍵穴はそれぞれ違う。
でも、それが同じ鍵で開くようになるのが
恋愛の不思議というか・・・男女が結ばれる理由なんだろう。
まさに『恋愛は人生の秘鑰なり』だ。
・・・
何故、この彼は置手紙を書きなぐって出て行くのか?
しかも追いかけてくれたら・・・って。
まったくもってフニャフニャした頑固さだ。
厄介な意地だ。
でも、この彼女は顔を真っ赤にして必死で追いかけてくるような女だろうか?
しかも追いかけてくれたら・・・って。
まったくもってフニャフニャした頑固さだ。
厄介な意地だ。
でも、この彼女は顔を真っ赤にして必死で追いかけてくるような女だろうか?
泣きじゃくって胸に飛び込んで
「行っちゃヤダ!」
って言える女だろうか・・・?
「行っちゃヤダ!」
って言える女だろうか・・・?
ソコガ不安ダ
・・・
この恋、どちらかがオトナになり過ぎたのだろうか。
合鍵を作った頃の傷つきやすい初々しさを、
男はいつまでも引きずってチョット理想化してたりして・・・
男はいつまでも引きずってチョット理想化してたりして・・・
でも、女は傷つきたくないから必然的に少しづつ強くなって・・・
そんなスタンスの違いが窮屈さを産むのか?
そんなスタンスの違いが窮屈さを産むのか?
でもさ、本末転倒ダヨ。
お互いに好きで、必要だから一緒にいるのに・・・
お互いに好きで、必要だから一緒にいるのに・・・
台所に立つ姿も
居間でくつろぐ姿も
ベッドの上の寝顔も
色んな顔がオンナにはある
居間でくつろぐ姿も
ベッドの上の寝顔も
色んな顔がオンナにはある
彼、そこに気付いているのに、ぶつかり合う手間を避けて出てゆくなんてちょっとズルイヨ☆
モウ ケンカハ コリゴリナノ?
この歌は、Shoyanの歌の中でも特に、非常に高度な恋愛解説なのだ。
尚且つ、Basicでもある(難)。
答えがひとつじゃないところが曲者だ。
尚且つ、Basicでもある(難)。
答えがひとつじゃないところが曲者だ。
・・・
次はきっと彼女はこう訊くだろう
「今、何が食べたい?」
って♪
暖めなおしの恋を
今度は焦がさないように・・・☆
今度は焦がさないように・・・☆
※やっぱり今でもバカラックの『Wives&Lovers』を共に想い出してしまう(Julie London Ver.など)。特にこんな梅雨のはしりの時期には・・・
三拍子だから?
似てるという訳ではなく、、、
何か、このアルバム全体がとても
sophisticated(死語?(^^;)
な作りで、お洒落だからかな・・・?
Shoyan、Jobim、Bacharach は
私の永遠三大Composerなので
引用しても許して神サマ♪
三拍子だから?
似てるという訳ではなく、、、
何か、このアルバム全体がとても
sophisticated(死語?(^^;)
な作りで、お洒落だからかな・・・?
Shoyan、Jobim、Bacharach は
私の永遠三大Composerなので
引用しても許して神サマ♪
数あるShoyanの歌の中で、輝度の高さでは上位3曲に入る『眩しい曲』で(他2曲は?)いつ聴いてもゴキゲンになれる。サウンド的にもスゴク完成度の高い歌じゃないだろうか。
フルートの"風感"な音はShoyanの歌に良く似合うし、この歌のGutギターの刻みは乾いていて硬質で、とても心地良い(癒)。カランカラン♪としたギター、この湿気の無さが好き。
アルファベットが多いのも特徴的で,
『backgammon』とか、引用がカッコ良すぎる!「エネルギー」を『エナジー』とか、勉強になりました。
だけど・・・
ぬかりなく?ちょっとセツナイ。
この場合のセツナサは、一点のシミもない乾いたサウダージ。そんな絶妙なニュアンス、Shoyanにしか表せない。
南北縦に割った子午線を、僕と君で別々に東回り?西回り?しても結局、ここに戻ってきてまた逢うネ♪ という気付きと、
渚の熱い砂浜で肩を寄せあって座っていても、その寄せ触れた肩は、1cmでも離れれば一瞬でボクとキミは地球一周分離れているのだよ・という、二人の刹那さ・・・。
それをこのさりげない夏の日の一場面。
眩しい恋の1Shotに込めているShoyanの技ってもう、お洒落過ぎて心憎くて堪らないモノがある。毎夏の何十年の悶絶。
KAZEの頃からまだ何年も経っていないのに、この垢抜けたシチュエーションは! 美しいメロディーとバランスのとれたサウンドは!! それは、聴き手にとっては劇的な変化だったに違いない・・・。(もちろん、KAZEの頃も洗練されてお洒落な曲はたくさんあるけど)
話、少し逸れるが、
1981年てスゴイ年で、寺尾聰氏の名盤『Reflections』が4月にリリースされているのだけど、この『スモークドガラス越しの景色』が同じ年の秋にリリースされているのは単なる偶然だろうか・・・私の中ではこの2枚、少々シンクロする。
といっても、実際は双方に関連性はないのだろうけども・・・。
でもこの『僕と君の子午線』と『渚のカンパリ・ソーダ』は、それこそ眩しさ・輝度がチョット似ている気がするんだ♪(と想っているのはキット私だけだと思いますが)
シチュエーション的に「あぁ、世の中明るくなったんだなぁ」と思わせる部分で、この頃の歌に共通する屈託のないニュアンスかもしれない。
でも歌の中に前述した哲学的なこと?というか、"時の流れ"の具体的な考察や愛の性質を考えちゃうとか・・・の部分、そういう"インナートリップ癖"は寺尾氏のこの歌には無い。"プレイボーイ目線じゃ"ない"ところがShoyanらしくて、『僕と君の子午線』はサミシガリヤのフィルターに引っかかるのだ。
サウンド的な変化や、引用する言葉の多様化に惑わされずに、そういったShoyanの歌の本質をこの歌から感じ取れたら、もっとずっと聴き続けていたい・って想うんじゃないかな。だから、この曲に限らず『スモークドガラス越しの景色』のアルバム自体が、とても大切な分岐点だったのだと思う。
Shoyanが(音楽業界全体が?)この後デジタルに移行していく前のアナログ最後の、手作り感溢れる至高のアルバムだったのでは?と想う。※でもたぶん、デジタル技術はその角が取れてこなれるまで、あと10年くらいまたかかった様な気がする。と、音楽的シロウトが申してみるテスト^^;。
・・・
「砂浜にあったよ」
唐突にこんなセリフから始まる歌が面白い。『有り得ない偶然』の「そんなことがあって」に匹敵する。そして、生まれたままの姿のキミへ目線が移り・・・情景が非常に立体的でShoyanらしい空間の組み立て方だ。聴き手は「それでそれで!?どうなった?」と興味津々になるワケ。
そうやってその場の太陽光線の強さまで痛いほど感じられる。それがこの歌の眩しさになっている。"臨場感"、それはShoyanの歌の隠れたスパイスなのだ♪
~(暑い夏の日の)
時は その時間だけを
流れてゆくものでもなくて
何度も何度も、何度も聴いてきてフト、こんな部分にハッとする瞬間がある。
生きてゆくタイムラインのことをまた考える。
この恋を一瞬だけのものではなく、持続させたい・永遠にHoldしたいということだろうか。"裏時間"の存在に気付いたらそれが可能になると・・・?
でも、Holdしたいのは恋だけじゃない様な気がする・・・ソレハナニ?
水平線を断ち切って、モーゼの奇蹟のように海が割れるほどの"実現"が遂行出来るだろうか? 海の底まであらわになるような、そんな"思い切り"を集中力と呼ぶのだろうか。
Shoyanが「キセキ」を口にされる時、いつものこの歌のこのフレーズを思い出す。とても軽やかでブリリアントなこの歌だけど、本当はこんな深いコトも忍ばせてあるから好きなんだ。
蒼い西風のようなこの頃のShoyanの果実味溢れる声もたまらない☆(><*)
曲のラスト、テンポアップしてオルタネート?したBassが超カッコよくて、本当に粋で素敵なアレンジ、何度でも、何度でも・・・湧きたてられる。あと何十年聴くのだろう?こんなゴキゲンなLastSceneに私もいつか辿り着きたい。
遠く離れすぎて、またここに戻ってくるまで♪
See You~☆
プロフィール
HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
このブログサーバーが落ちて表示されない場合は↑に避難しています。
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