Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
♪夏まぼろし
それは時の流星
夜流れる
君は時のしずく

アルバムタイトルにもなっている『時のしずく』という単語が入っている一節。

でも、どういう意味?

夜空に一瞬見えて一瞬で消える流れ星と
このひと夏のこのひとときだけのキミの姿
若さと純粋と、ときめきの面影
ハッとする儚き一瞬、それらを重ね合わせたフレーズだろうか

"時のしずく"は時間の断片の一種ではないかと思うのだけれど、それは紙片やポラロイドのように情報量の多いものではなくて、すっと滴り落ちる光の液体みたいな儚いキラメキなのかと思う。掌で受けたはいいが、すぐにこぼれ落ち、蒸発してしまう・・・どうしたらコロンとしたガラスのドロップにして保存できるのかな。

Shoyanの歌のスタンダードな素材がここでもちりばめられていて、「石段・浴衣・風鈴・通り雨・夏この頃、風が止まる・・・」と他の歌たちともリンクしている。それだけShoyanご自身の思い入れの風景なのかなとも思うが、一方で「ロケット花火」なんてチャレンジもある。

ロマンチックな歌にしやすい花火?と言えば「線香花火」・・・の引用は処々多いと思うけれど、そうしないのが伊勢正三のこだわり・というか心意気というか、私がShoyanの歌を好きでいるポイントでもある。「ブロック塀」とか「コンビニ」とか「戦闘機」から「和菓子屋の前でチョコ好きな君」「ネパーリアン」まで、Shoyanの"スタンダード崩しの妙"にやられるわけです。

ロケット花火で遊んでいいようなおおらかさ、今はない。この歌の頃1996年頃だってもう住宅街では遠慮してたのではなかろか。すでにこの歌が懐かしい。8月の夜には秋のイントロ、その熱帯夜の無風の中に響く一抹のせつなさだ。

橋を渡る夜行列車、ロケット花火の音、は今ここにないもの、遠いもの。今、目の前にいる君に釘付けで、心はそれでいっぱいなはずなのに、逆に遠い広い空間を感じさせるフレーズが挟まれるために、更に彼の"今この時"の凝縮感は増す。

浴衣ということは夏祭りでもあっただろうか、けれどこの静けさはその外か終わった後か、、むしろこれからが欲しかった時間の始まり・・・という若さの期待感が見え隠れしているように思う。

この時、彼女が弾いた風鈴はまさに彼の純情そのもの、彼の心をじかにそのウブな白い指と爪でツンと弾く・・・男子はタマラナイだろうなぁ~とちょっと悶絶。通り雨でアタマ冷やしたのかな・などと、フフとなる。

この 『夏の流星』の風鈴は薄いガラスの丸い風鈴なイメージ。

『月が射す夜』の風鈴は南部風鈴のような鋳物のイメージ。

手元でチロリン♪と鳴る可愛さと、遠くまで幽けき音で届くオトナの音とのちょっとの違いを想像して楽しんでみたりする。

夜店で彼が買ってあげたのかな♪


そして後半突然に

♪閉ざされたビルの窓
ふと都会の憐みすら感じた

と、この二人の風景と関係なさそうなふり幅の引用。我に還るよね。このビル視線が今現在で、君の浴衣姿は記憶のまぼろし(想い出の中)なのか、それともこれは同時に別の場所にあることなのか、それはわからない。「夏この頃」とあるから、今なのかな。

でも歌の作者からのひとことコメント・みたいな感じで、通り雨もない虚しい無限猛暑の都会と若き日の瑞々しさの対比がハッキリして立体感が出る。この作り込みがShoyanの歌の命の永さなんだと思う。この「安易な作業(あの頃だけ)で終わらせない」というShoyanの姿勢が大好きなのであります。尊敬の極みです。

・・・

このアルバムは海外で録音して、海外のベテランミュージシャンたちのプレイがカラっとして今でも味わい深い。

当時Shoyanご自身の演奏が少なくて不満だったが(笑)実際はモノスゴ確かなミュージシャンたちの演奏だったので、今聴くとまったく色褪せず、とてもしっかりした出来上がりで経年を感じない。人の生身のプレイがガツンガツンときて、全編どの曲も聴きごたえがある。ドラムなんて超~カッコイイ!

この歌も、♪チュクチューン(謎)の佐橋氏の、イントロとエンディングの掬い上げるようなエレキのフレーズも歯切れよく男前で、"女々しくない叙情"が溢れてくる。アコースティックでメロディアスなアレンジではなく、カッコヨクしたのがメチャいいなぁと思っている。

メインのShoyanの声はユニゾンになって、なんとなく遠近か今昔の二つの世界の重なりを感じさせてくれる。Shoyanの最強武器のひとつであるファルセット(裏声)が、ちょうどそのフレーズの"空間感""膨らみ感"を引き出していて、ノスタルジーの夜風景に聴き手も引きこまれてたまらない気持ちになるのだ。

・・・

今になって、その"憐れみ"は都会だけのものではなくなりつつあるように思う。

通り雨に夜温が下がらず、日中は植木も枯れるほどの極端な夏は・・・

自分が自分に目覚めた頃の、あの瑞々しい時間が湛えられていた夏。そこで遇う君の一瞬一瞬が流れ星のようにすっと浮かんでは消え、通り雨のように窓を流れては消え、蝉・花火・朝顔・かき氷・祭りの夜店・帰省の想い出・・・夏とはなんと儚いものの多い季節であるかと、歳をとって今余計に想う今日この頃です。

8月の歌でしたね。お盆前には流星群があります。夜空でも眺めてみましょうか・・・☆
もう何週間も書きながら・・・
打っては消し、コピってはデリート
昔書いたことも再引用

どうにもまた独りよがりの駄長文になってしまった
結局何が言いたいのかよくワカラナイ(汗

でも、キリがなくて、今じゃないとまたずっとアップ出来ないままになってしまいそうだから、勢いで載せておく。あとでカットしたり追記したりするかもですが。

数日に分けて読んでいただくこともお勧めします(笑)。
gardenのアルバムの中でこの歌は他より少し距離感が近くて、そのことをずっと大切に想ってきた。けれど、当時のgardenのあまりの眩しさに、深く考えるのを遠慮しながら月日が経ってしまった。

Re-bornの後である今は、この歌の前後が解るようになった(と思う)ので、改めて裸の心で堂々と抱きしめたいと思う。この歌も"恋の海抜ゼロメートル"な、伊勢正三の多彩なラブソングの基準点にあるような一曲だと思っている。

・・・・・

♪君と初めてのデートは
こんなボードウォークの街もまだなかった頃の・・・
私は、自分が横浜に長年住んでいたものだから、つい、みなとみらい21や金沢八景あたりの商業港湾風景を想像してしまうのだけれども、海国日本は国中に大小の湾があって、観光や漁業・交易の港があるから、どこででもこの歌を想うことが出来る。

その昔、山下公園中華街マリンタワー以外の場所は戦後から放置された裏寂れた倉庫や埋め立て地が多かったように思う。(これを機に調べたら大きな造船所の存在もあったようだ)

それがみなとみらい21構想という再開発ですさまじい変貌を遂げた。その数年の間はまるで魔法のようだった。今あるものすべて無かったのだから・・・
※赤レンガ倉庫群や大桟橋は綺麗になって残っていますが。

人の心も何度も移り変わる。
この歌の恋人未満の二人にはどんな月日の変遷があったのかな。
そんなことも今は考えてみたりする。
・・・
目を閉じてる君が見えている「遠く」とは、彼が見ることのできない時間。彼女が欲しかった未来や手放した過去、もしくは胸の中の真っ暗闇の空っぽ。この彼女はもしかして、今=現実を直視したくないのかもしれない。

本当に辛い時、目をあいていても周りの景色は雑音のようで、新しい情報なんか要らない・と動けない時がある。

でも彼が冗談ぽく思えるような過去の一場面を引っ張り出してきたために、彼女は悲しい自分の過去ラインを分岐できたのではないかと思う。そしてちょっと気付いた、「あれ?こっち楽しい」って・・・

「え、あれ"デート"だったの??」と、
そして
「悲しい物語ってナニよ~!?」
と、苦笑いしたことと思う。

シリアス気分な彼を冗談ぽく思う、すでに食い違っておる。
相手を想うことと、想われることは全然違うもので、それが同じものになるための気付きはこんな何気ないところから始まるのかもしれない。そしてその食い違いが"昔の笑顔"を取り戻したりする。

そもそも「妹みたいな気持で」接したいと思っているのに「好きだ」と告げてみようとする彼の方だって自己食い違いの矛盾を持っている。それこそ「生きがいと余計なもの」が同義なように・・・恋の始まりは違っていていいのだ。

※「肩を抱いたり髪を撫でたりしたい」ってホントはメチャerosですよ。伊勢正三作品中一番エロスなフレーズと思います。だから一番好きなフレーズです(*´ー`)。このあとに続くセミアコエレキの音は、すでに彼女の髪が鼻先をくすぐるような、ためらいがちに宙をなぞる彼の指が視えるのであります。この"ちょっと人目を気にするような"Shoyanのエレアコの音が全編でもどかしく鳴っていて、それもまたgardenらしいなと思うのであります。

・・・

♪戦闘機の爆音 今も未来は遠い
そんな時代に僕等は 何を守って
何をなくして来たの?

唐突に思えるこの数行。

※実際、横浜だと厚木基地などがあるので戦闘機はよく飛んでいます。墜落するのを見たこともあります(^^;)。

この二人には荷が重いような大きな問いがポンと載せられている。戦闘機は過去からの使者、けれど未来への案内者ではない。過去は替えられないけれど、未来は自分で選んでいくもの・ということだろうか。

未来は今は見えない。
見えないと遠いのだ。
すぐ目の前にいる彼女の胸のうちが見えない、だから自分の心の行く先が遠い・・・海と陸の狭間に立っている彼女を、横から弓なりの波打ち際に重ねて眺める彼、二人はまだ交差しているだけ。

"BaysideEye"は水平線を見る果てしなさと、渚のボーダーな横並びをもどかしく思う交差のダブルなまなざしだ。雑然として空き缶が転がっていた昔の波打ち際を上書きしたボードウォークや桟橋さえも、すぐに錆びて傷んで変化していく。抗えない潮や波と言う大きな作用で、結ばれるのか?剥がされるのか?この後の二人の波打ち際の何十年が知りたい、と想いながら聴き続けてきた。

・・・と、それがRe-bornに続くと思うのであります。セットで聴くとわかるものがあると気付いたのです。16年ずっと考えていたら、gardenでのモヤモヤ(具体的に出来なかったもの)がちゃんと答えになって実体になった!と本当に歌の時間の凄さを感じたのです。

もちろん往年の名曲たちを当時から知っている人たちはすでに経験済みな事象かもしれないですが、一曲を永く聴くと、歌には命があって枝が伸びたり枯れたり掘り起こしたりすることがあるのだとわかるのだ。今更ながら感激しているところです。

・・・

♪そのペットボトル 君の
リップバーム・ミントの香り
今でもまだ 僕の心が駆け足になる

って、この彼女、リップバームだけのすっぴんなのかな?
唇に色を乗せていないということは、目や肌などの他の部分はモチロンほぼ素肌に近いはず。

口紅は最初で最後の砦なハズ・・・!?

この二人、きっと子供ではない。
そんな彼女が男性と会うのに化粧をしない。
自分が口付けたペットボトルを預ける。
そこにこの彼に対する彼女の無意識の"信頼"を感じる。
※だかしかし、無意識の"無防備"なのだとしたらひじょうなる罪なのだが・・・(汗)

そのすっぴんの彼女の方が二人の先にあるものに気付いているのかもしれない。
妹のようで本当は姉のように・・・
傷ついて還ってきた女は彼よりも少しだけ成長している。「遠くまで見える」ってそういうことも含まれている気がする。

しかし、彼にとってこの香りは、「今でも」といいつつ、記憶ではなく未知なのだ。そんな間接Kiss(懐!)なんてことでさえドキドキしてしまう、なんという初歩の初歩!恋の花だ。

彼このあと玉砕覚悟で未来を始めようとする。自分で自分の未来に彼女を巻き込もうとしている。振り払われて傷ついて完全に剥がれ落ちるかもしれない。でも、彼も彼女と一緒に傷付きたかったのではないだろか・・・友達のまま取り残された自分の想いを、みっともなくてもいいから捧げ尽くしたかったのだ。自分の純粋な一途さに殉じる覚悟。そして、自分が傷付くことで君の傷も引き受けたいと、無意識に心が動き出してしまったのではないかと思う。

好きな娘の唇や髪や肩を想ってドキドキとする気持ち良さは大いなる利己だ。そして、自分が傷付いてもいい・と思うことも、それは犠牲ではなく実際はエゴだ。

でもそのエゴアクションは、もしかしたら彼女の傷を埋める可能性もあるのだ。やらないよりやることが大事な時がある。そんな年頃なのだ今は・・・。人を愛する利他の気持ちと、自分の気持ちを尊ぶ利己が同じことなら、それは最高の恋愛だと思う。

※この二人、すでに友達である。時を経て恋が醒めても、きっと友情という一番の絆で仲良しさんでいられるのではないだろうか。今はそんな希望的観測聴きをしている。男女間の友情はきっと何よりも強いと思うから・・・

・・・

そうそう、この歌はアルバムが発売される前に渋谷のライブスペースで弾き語りギター一本でお披露目してくれたことを覚えている。※古川昌義氏との対談ライブだったか。
はにかみながら新曲紹介してShoyan独りだけで歌ってくれた。

自分語り恐縮だが、私はこの時、壁際の席で泣いた。
周りの人たちに気付かれないように、まっすぐ前を向いて泣いた。大粒の涙がぽたぽた出てしまった。歌詞もないままにShoyanの声だけで聴く初めての歌だった。

その歌に至るまでの数年間、自分の私生活は人を傷つけ傷つけられ、気持ちは荒んですべて無くして、ゼロから始めなおした頃だった。

「許せないんだ 君が傷付いてしまうのは・・・」

このひとつのフレーズが、嫌なもの悲しいものを一瞬ですべて葬り去ってくれた。

悪いのは私なのに、この歌だけは味方をしてくれた。この歌の恋人たち(未満)とは違うストーリーではあるけれど、この時伊勢正三の歌の中にこんな真っ直ぐな言葉があったことで私は救われたのだ。それは完全な独りよがりだけれども、歌が時として寸分違わず誰かの痛みに作用して抱きしめてくれる瞬間がある。慰めなんかじゃない慰め、理由の要らない、純粋な肯定を歌は聴き手に与えてくれる時がある。

そんな風に"自分事"として聴いても許してもらえたらと思う。あの辛い時間も、この歌とこの恋人たちのおかげで、綿でくるんでそっと記憶の底に仕舞っておけるようになった。

愛は寂しい・・・

だから、誰かが作る歌や詩にかりそめの道を示してもらいたいんだ。そしてそれがいつしか自分の未来に辿り着いていたなら、歌と聴き手がひとつになれる素敵なことだナって想う。

歌は永い・・・

伊勢正三というアーチストはご自身の一生を使い尽くして、命を込めた渾身の歌をお創りになっているのだなと、今改めて強く感じている。

この歌のことを書くのに19年かかってしまった。
海の香りも港の賑わいも今は遠くなってしまった。
泣きながら歩いたあのボードウォークの靴音をこの歌に預けたまま・・・

私の人生の谷折り線のような大切な歌、これからも折に触れ少しの涙を伴に聴き続けていきたいと思う。

懐かしい歌をありがとうShoyan


※・・・一度「好き」と言いかけたのだから
「****」は伏字のままでもよかったのでは?
なんて想ってる。

Blue~Yellow~Bayside~・・・
次はどんなEyeのSoulかな?(*´ω`)

何も考えずにただ好きでいたい。
思いつめて絡まった気持ちから離れて、ふと還ってみたくなるような柔らかい曲だ。

その"シャワー・ルーム"とは?
彼が独りで過ごす部屋の日常の一部。
水滴の音は去った彼女が使ったあとのものではなく、、、今はやはり彼の生活の音でしかない。

二人でいる時には、何気ない会話やテレビや食事をとる音に隠れて聞こえなかった、"静けさ=孤独"からのノック音なのだ。

昔、思春期に聴いて始めの頃は、「シャワー=肉体関係の証だった?」などと、スゴク単略的に思ったりもしていたが(汗)、それにしては薄いリレイションだなって、大人になるにつれ視点が移っていった。

ここでの過ぎ去った想い出は「むなしい」ものなのが哀しい。美しく甘い永遠には出来なかったのだ。一度きりのものか、生活と呼ぶほどの長い期間かわからないけど、過ぎてしまうとどんな時間も一瞬と変わらない。

どこかでふいに遇っても、本心を言わないではぐらかすような女性。なのに、そのやさしさと気まぐれですぐに翻弄されてしまう。その「やさしさ」は曲者なのだと思えない、『小さな約束』と同じ?男の持つある種の"役に立たない純粋さ"がここにすでにアル。残り火にまだ追加したい男心と、吹き消そうと尖らせるクチビルでそれを粉々にしてしまう女の残酷さが潜んでいる気がする。

・・・

「今、誰かといるの?」
「戻って来る気ない?」

と、問うてみたい心を強がりだけで我慢してしまう、スルー体質がもどかしいけれど、それが優柔不断ではなく、Shoyanの甘いメロディーの筆致と声で、切なく感じるからタマラないのだ。登場人物のほろ苦いありさまを、聴き手は甘く感じてしまう。ORANGEらしい一曲であります。

※その彼女"あんな奴"は、"そんな奴"なんだからとっとと切り替えればいいのに、と、同性としては傍で想うのですが・・・そうはいかないオトコゴコロ(^^;)。

・・・

この頃1980年代の伊勢正三の楽曲を好きな人・親しんでいる人は、きっと自分だけのShoyanの歌と個と個の対話をしていて、とても親密で濃密な想いを抱えているんじゃないかな。

特にこの『シャワー・ルーム』は、そんな静かな対峙を持つことが出来る歌だと思う。片手掛けのクラシックなカウチソファにもたれて眠るような心地よさがある。

ORANGEという動静のハッキリしたアルバムの中にあってこそ、より一層の凪スポットになっている。このような孤独の風景はラブソングの影のようなもので、そこからも沢山の名曲が生まれてくる。むしろ私がシンパシーを感じるのはそちらが源流な気もするのだけれど、『シャワー・ルーム』は『冬京』や『水槽の街』『さよなら以外に』などの濃度まで煮詰める一歩手前の、このライトな口あたりも大好きだ。それこそ"書きかけの小説"のようで、せわしない日常のふと立ち止まった時に触れたいと思う。

『マイタイ・ラララ』『シャワー・ルーム』『色褪せた日々』の"宵闇アンニュイ三部作"は伊勢正三ソロ曲の原風景のようで、何十年も経った今でもどこか遠い憬れだったりする。

イントロから佐藤準氏が弾くピアノは銀食器をテーブルセッティングをするような、丁寧なタッチで胸の中の水面を揺らす。後半のストリングスの重なりが、増してゆく夕闇のように包んで美しい。伊勢正三の曲の中で一番美しいストリングスアレンジなのじゃないかと思えるほどで、エレガントで宝物の音がする。ラスト、転調で終わる際に我に還る感もいい。今聴けば懐かしく、十代の迷える自分の想い出と共に、抱えているものをちょっと置いて一息入れる感じて聴ける曲だ。


こんな・・・心が荒びそうな昨今、穏やかだったあの時代を懐かしく振りかえることで、自分を暖めていけたらと想う。


※このアルバムのインナースリーブには、若きShoyanのドアップのポートレート写真が使われていて衝撃なのだけども、その目ヂカラの真っ直ぐさに気押されて容易に近づけない。 いつかその頬に・・・と思いつつも、直視できなくて赤面で終始してしまうのであった(*´▽`)ワー 妄想捗る~♪
以前ここで"魂の帰還"を『あの人の手紙』に絡めて書いたけれど、あれはこの歌を引用させてもらっただけなので、改めて歌に想うことを書いてみる。

「私たち二人には何の罪があるの?」
「殺されるかもしれない私の大事なあの人」

このふたつに想うことが多い。
罪がない=無関係=戦に駆り出される理由はない、ということなのだろうか。
兵隊さんたちは誰かの代わりに罰ゲームをやらされているのか?
兵士は上官の命で動く、上官は国の命で動く、では国は何の使命で動くのだ?戦争の動機はなんだろう。

『原罪』という言葉がある。
難しくて無責任に引用するものではないかもしれないが、人は他の人・知らない遠くの人や、自分じゃない赤の他人の欲望や弱さ狡猾さの余波に巻き込まれてしまうことがある。私たち二人に罪がなくても、この世に生きている以上他の影響から逃れられないのだなと思うのだ。

この世で起こることは、始まりが誰かにとっての正当でも、経過で捻じれて理不尽な結果として着地することが多々ある。

無心で泳ぐ魚の群れに投げられる石だって、空腹の漁師が魚を捕るために投げた石か、逃げる様子が愉快だからと残虐な動機で戯れに投げる石か、それとも何かしないと悲しくて、自分のやるせなさを石に乗せて投げた行為なのか、こっち側の世界にも千差万別の"理由"がある。

かたや、直前まで石が落ちてくるなんて知らずに目の前の餌を待つ、生きるためだけに生きている魚たちは確かに罪がなさそうだ。

逃げる魚たちも自分、石を投げてみたのも自分。この矛盾が戦争の複雑な哀しさ愚かさなのか・・・(私みたいな小さい人間が考えても出る答えではないとは思うのですが)

・・・

「殺されるかもしれない私の大事なあの人」

"あの人"はきっと普通の優しい恋人だ。どうして、悪いことをしたわけでもないのに(罪もないのに)死地に赴かなくてはいけないのか。あの人が死んでしまうかもしれないという最大級の恐怖。大切な人を失う底無しの悲しみ・・・それは幻さえ現実にしてしまうほど。

けれど、これは裏を返せば

「殺すかもしれない誰かの大事な人を」

でもあるわけだ。
これがこの歌の一番怖いところなのだと思う。

自分の大切な愛おしい人が誰かを殺す、恋人が人殺しをする。夫が、兄さまが、父が、、、他の誰かの家族を殺すんだ。殺人犯だ。

こんな事実、普段考えられない。想像もできない。でも、戦争で「殺されるかもしれない」ということは、「殺すかもしれない」と同量なんだ。そんな風にはみ出した部分を想いながらずっと聴いてきた。しかし、いざ大きな侵略戦争が今実際に起きたら、やっぱりそれははみだしではなく、この歌の中にあることだ、中心にあることだと思った。

・・・

この歌はとても美しくて哀しい。
毎日かかさず飾っていたあの人が好きな白百合。でもそれは葬送の花、戦場へ行くことは死ぬこと前提な象徴のようで、彼があの世に旅立つ前に、ひとときだけ恋人のもとに寄るための香りを放つ哀しき依り代なんだ。

この出来事は戦死の報せを信じたくない彼女だけが見た幻なのか・・・いや、死んでもなお姿を残すほど強く想いあっていた二人。愛しい「あなた」が永遠の「あの人」になってしまう、離れ離れのまま別れるのはあまりに悲しい。別れを告げるためだけの邂逅が心底哀しい。ましてや、もうわかっていた時系列・・・

『あの人の手紙』とはそのまま「あの人からの手紙」と普通思うよね。でもここでは『あの人の死を告げた手紙』のことだったと、最後の最後に聴き手に知らされるこの衝撃感。Shoyanの先天的なセンスで全然技巧的に思わない、ごく自然に慟哭が溢れるドラマチックな歌だと思う。
声高に叫んだり、非難や怒号に走りがちな"反戦"という激しい感情を、こんなに静かに美しくカタチにした当時の若きShoyanの感性。そこに聴く人が我がことのように思える共感がある。初めて聴いてから何十年も経つけれど、やはりいまだに研がれて澄んだ鋼の針のように心に刺さって違和感がない。純粋で、一本筋が通っていて、清潔な歌だからこそ、永年大切に胸に抱えて聴いてこられた。こうせつおいちゃんの素晴らしい歌唱とギターという楽器の懐の深さもよくわかる深い一曲、これからも大切に聴いていきたいと改めて思った。
・・・
・・・こんなことを考えては消し、書いては消し、毎日希望がわからないまま無為に過ぎていく。自然災害や事故ではない、人為的な無差別の殺戮をテレビのニュースで見ながら朝ご飯を食べる気になれない、大災害の時でさえ、食べて元気を出さなくちゃと思っていた自分が、夫と離れ子供を抱えて逃げる人々を直視できずにテレビを消して食事をする情けなさ悔しさ辛さ・・・

でも、今でなければ自分の言葉に出来なかったかもしれない、間違っているのかもしれないけれど、やはり今書いておこう。

ずっと想ってきたこと、今想うこと、書きなぐりですがご容赦下さい。

2022年3月9日 七氏
with THE伊勢正三−SPECIAL PRESENT EDITION

・・・

時に・・・
自分の中で"ポジティブな退行"が沸き起こることがある。
何故かわからないけど、きっとそれがまた先へ進むための鍵で、ずっと後ろを向いていたら、知らぬ間に360度回転してまた正面に進んでいたりする。そんなしょんぼり回顧な時が歳をとっても訪れることがある。

そんな頼りない私をエスコートしてくれるのが、センチメンタルな旅に誘ってくれるこの一曲なのだ。

『涙を連れて旅に出ようか』は、痛んだ心にかさぶたが出来た頃に、いつもそっと包んでくれる歌だ。そしてさらに時が経って、若い頃の痛みとは違う経年の「傷み」も感じるような年頃になって、改めて沁みるようにもなった。今また同じ傷みを抱えている誰かのことも想う。「そんな心境」のシンパシーを感じる。孤独の痛み、傷みの共感、そんなことを併せながら聴いている。

この歌は、聴く人、歌う人、演奏する人、関わる人みんなに優しい伊勢正三ラブソングのド真ん中にある歌だと思う。どうしてライブで全然やらなかったのか(私が行けてないだけかもしれませんが)、ずっとステージで聴きたいと思いながら何十年も待ってしまった。もったいないなぁといつもさみしく思っていましたヨShoyan。

・・・

『星の足跡』で前述したこともあるが、昔、Shoyanが休んでいた頃、私はずっと独りだった。信じたものから放置されていた。 今思えば私が生意気だったのかもしれない。私を孤立させた年上の人たちはそんなトコロが気にくわなかったのかな・・・。でも一番哀しかったのは自分が信じた対象が無邪気にその他人の悪意に取り込まれて、私のことがわからなくなってしまったことだった。

許せるものと
赦せないものの違い
かな・・・

と、そのあたりのイミフメイなことは沢山書いても面白くないし、歌に関係ないので詳しくは書かないケド・・・
(その割にはよく出てくるんですがこの話題(笑))。

でも、あの時にShoyanの歌がなかったら、Shoyanが93年に復活して新しい歌を歌ってくれなかったら、私の"独り"はどうなっていたのだろう、と今想う。きっと孤独と真正面から闘ってしまって、勝てない自分を憎んでしまったのではないかと思う。きっと"本当の私"は討ち死にしていただろうと思う、それは本当に怖いことだった。 

「独りでもいいんだよ」

まだ黒いサングラスで完全防備だった新しいShoyanが、あの頃新しい歌に込めて無言で導いてくれた道は、私にはそう聴こえた。

誰かと一緒にいるためには独りでいてこそなのだと。そして、不揃いな互いのピースをくっつけ合うのは「涙」という接着剤なのだと・・・

でも"独りのピース"をもてあましそうな時(=辛いとき)は、ちょっと旅に出るのもいいじゃない♪って・・・抱えきれない涙を逆に「伴」として、そこを離れて本当にひとりになってごらん、そうしたらもう一人の自分がそばにいるって気付けるよ、って。

(そしてそれは「二人は一つ」に繋がってゆくのだけれど)

この歌をシングルカットした当時のShoyanの心意気を感じるし、こんなにあたたかい歌が出来たことはShoyanの音楽の新たな最充実を感じた。当時の壊れた私を両手でガッシリ受け止めてくれた大きな歌だったと、ずっと指切りのように大切に想う歌です。

・・・

50thのプレゼントエディション版の『涙を連れて旅に出ようか』を今聴くということは、まさに「若すぎたあの頃を捜しに」ということだった。あの日のあの客席にいる自分は今より元気で、若くて、ワクワクしていた。でも、抱えている悲しみは今も変わらない。とうとう解決しないまま時が倍過ぎた。でも・・・そんな痛みも悪くない、私はこの頃からずっとその旅に出たままで、自我が放浪しているのだと思う。たった一人のまま遠い町に来たし、ゆくあてもないままだ。今若すぎた自分に再会して、涙はもう自分の一部になっちゃったなぁと照れくさく苦笑している。

でも、今この時もShoyanの歌は優しい。
この歌も"遠くに離れても"な歌だけど、やっぱりこんなに一番近い。
二人だけの季節と二人だけの海はまだここにある。
今でも愛せる、十分に愛してる。って。

と言うことは、「涙」だと思って伴ってきたものは「Shoyanの歌」そのものだったなとも想えるのだ。若すぎた自分と、だいぶくたびれた今の自分が邂逅した時、Shoyanの歌を聴く気持ちはまったく変わらずにあると今回改めて思った。 まるで"今の歌"みたいに聴こえた。風やかぐや姫を知らない自分でも、やっとそういう気持ち(自分の時間との共有)になれたと嬉しく思う。

※先日作った50th&70thトートバッグには、ポラロイドモチーフでラブリィ正やんイラストをちりばめた♪ リンクしていて嬉しかった(^^*)。自己満足(笑)

・・・

そうそう、この曲の間奏のセミアコのフレーズと音が大好きだ。これ、Shoyanご本人があのギブソンのセミアコギターで弾いてるのかな?(どう聴いても今剛氏ではなさそうと思っておるのですが) バリバリのエレキでもなさそうな、この柔らかく優しい音が大好きなのだけれども、今この94年のライブ音源を聴いてもよくわからない。当日観ているはずなのに覚えていないということは・・・?エレキは梶原順氏だっただろうか、Shoyanだったろうか?、アコギのストロークの音も聴こえるから、どちらがどちらだったのか、覚えていなくてアテにならない自分ですわ(笑)。

Saxの音で何処までも誘ってくれる、エンディングの長いノリノリな感じが眩しい。あの日の溌剌さを届けてくれる、忘れてた輝きに会うために・・・何度でも聴こう。

こういう"ずっと好きなキモチ"が、またカラメルソースになりそうなほど煮詰まってきた。
少し冷ましてパリパリになった頃、ほろ苦く、今のShoyanにまた逢いたい・・・

そして、本当に、、、永い永い"旅する二人"でありたいと再確認するような歌なのだ。


追:
当時、シングルで発売されるとイメージビデオ的なものも作成されて、テレビCMもオンエアされていましたね。確か深夜の番組(トゥナイトとか11PMとか?)内でのCMで、何度かビデオ録画にチャレンジしたものでした。ショートバージョンとロングバージョンがあって、行き交う人波の中に佇む黒っぽいShoyanとその横顔がカッコ良かったなぁ(*´∀`)。

長い時を経て、今は再びの真っ黒グラサン期に移行されたけれど、またどこかに旅に出られているような気がしてならない・・・
お帰りを待つか、後を追って出立するか、いやいや、またどこかの町角で偶然の店先で遇えるような、、、
まずは自分の旅をゆこうではありませんか(*´ω`)。
その、伊勢正三50年のキャリアの中で、一番アコースティックから離れそうになったのがアルバム『HalfShoot』かな?

電話したら出ないので、(もしくは傍の公衆電話から?)、その窓の下まで訪ねていってあかりのついている窓を見て在宅確認して悶々としてるなんて、なんというストーカー行為(^^;)

だけど、これがストーキングではないのは、そこに"せつなさ"があるからだ。

「会えない日」も「会える時」も、いつも昂ぶって・・・一歩違えば恋愛感情は、欲望や憎しみや刃傷沙汰になる。三つ先の信号が気になるほど心は逸ってしまう。

でも、そのパワーを制御するのは他でもない、嫌われ者の"せつなさ"や"やるせなさ"だ。

傷つきたくないからとマイナスイメージのせつなさを遠ざけていては、甘いだけの炭酸飲料のような恋しか出来ない。 炭酸が全部抜けたらお払い箱になってしまう。

実体のない錯覚で終わってしまうから、乱暴な行為や節度のない行為に移行しやすくなる・・・なんのための恋心なのか。

このあたりのモヤモヤ、収拾のつかなさ、もどかしさ、を多方面から追及して解釈していってくれるから私はShoyanの歌が好きなのです。永く好きなのです。

・・・

この彼、このあとどうするのかな。

がむしゃらに揺さぶって、栓を開けたら全部吹きこぼれるか、それとも、彼女の時の流れが瓶内二次発酵して落ち着くのを待つのか・・・?

この歌はまるで書き出しだけで止まっている小説のようだ。まさに"Half"な感じ。でも、ずっと気になってしまう、短いジングルのように・・・


一時期、この歌もBossaアレンジでサクっと演って欲しいなって想っていた。ロマンチックなメロディに似合うと想ったんだ。そうしたらもう少し深い感情や彼女の輪郭が見えてくるのではないかと思っていたのだ。

でも、やはりストーリーが短いかも?
続編は他にあるカンジだよネ♪
Shoyanの素描のような一曲だ。

♪キャッチフォーン~の"フォーン"の音が好き。
始まりと終わりの音が変わってしまうこの曖昧さが好きだ。

・・・

♪~woo 君を取り囲む世界はとても速く見える

この彼女の周囲には沢山の人の影。
そんな時は、関わる人みんなの時間が合流して激しくぶつかり合う。その"時間たち"は滝のように流れ落ちて一度に色んなものを運んでいってしまう。

激流の中で見失うものもあるけど、そのスリリングな感覚から抜け出せないのも事実・・・。
仕事でも、恋でも、つるむのが好きな華やかな彼女?
頭も良くてコミュ力が高くてキレる女性なのかな?居留守を使えるこなれたメンタルのヒト。
川べりの納涼床で軽やかに涼む絽の着物美人みたいに、宴の中の遠い姿。

一方、彼の岸辺目線はもどかしく、橋もない、小舟もない、彼女の中洲までは足元もおぼつかない。時の流れ初心者だろうか?踏み出して膝下までの水深でさえすでに前にも進めず、かといって引き返せず・・・恋の奔流で立ち尽くしている感がある。

先へ先へと急ぎすぎて、みなアクセルを踏みすぎてそれでもつっかえて、瞬きしているテールランプが溢れる都会の時流。

時の流れが違うもの同士は相容れない。
これも、相性の一種なのかもしれない。
八面六臂の彼女を射止めるのは・・・今は無理かも、と傍観者は息をつくのです。

でも、そんなムリ目の女性ほど、心惑わされ、そそられるんだよね。 

(´∀`)オトコッテ オトコッテ・・・夢ヲ見テイルノ


『白いシャツの少女』や『夜のFM』が最近私をこのあたりに誘うのです。



※この頃に"キャッチフォーン"という単語を使うなんて、「ナウい」と思いました(*´∀`)。風の途中頃からユーミンなどの歌を引き合いに出して、横文字を意識的に使う試みについておっしゃっていたけれど、この歌の場合はかなり意識的にはめ込んでいる感じで、短めの歌の中に沢山使用されているのが面白いなと思うのです。
※10年以上前に書いたものを再考してみた

・・・

シブイ!
だがしかし、初めて聴いて以来20年以上(40年近く)経つが、歌詞の前後をいまだ把握していない。

この歌こそ"くちあたり"とか"ニュアンス"っていう言葉がピッタリくるのではないだろうか。

だから、歌詞を詳しく解き明かしてみようとか思わず、具体的な景色を決めないでそのまま今に至っている。陽炎のようにそこにあるだけでいい、と想う不思議な歌だ。

聴き始めた頃(高校生!)はあまり印象にも残らなくて、収録アルバムの『北斗七星』自体が渋い作りなために、10代の頃は興味が後回しになっていた。この歌もずっと控え選手のような存在だった。

ただ最近、此の辺の歌が心地良く懐かしい。この5分弱の時間を何も考えずヘッドフォンで聴いてると、頭の中が整理されて清清しい自分が戻ってくる。これは若い頃には思えなかったキモチだ。

なんとなく、歳をとればとるほど『北斗七星』のアルバムがグッとくる。Shoyanの30歳前後と40歳過ぎたころからの自分の何かがシンクロしてるのかもしれない。こんな境地になろうとは、ハタチの頃は思わなかったことなので、この歌を聴いて今感じることが自分には深い。

振り返ることの出来るある程度の時間が自分に蓄積したからなのだろうと思う。この心境はShoyanの歌を思うとき必ず出てくるものだから、他の曲の記述とも何度もダブるけど、その度同じようなことを書かせてもらうことにする。

・・・

ハミングから始まるイントロ。
Shoyanが一番低い声で歌っていた頃の曲だ。
(※今は『Re-born』も低いと思いますが)

音を重ねてあると思うので、刷毛で塗ったような声。ちょっと紗のかかった翳りのある声がたまらない。声で優しく鬢のあたりを撫でられているような心地よさに涙。Shoyanの色っぽさの蕾が膨らみ切った声がする。(それは『渚ゆく』で開花するのだ~♪) 自分の脳内ではこの曲はスローBossaで、大きな古い寺の襖絵みたいな安定感に安堵する。ストリングスが峰にかかる霞みのように見えて、何か旅の途中で見たような景色だ。

フリューゲルホーンが示す道筋ってなんだろう?
過去も見えない・未来もよく見えない。忙しない毎日の荒波の中で一瞬凪いだような、鏡のような水面に自分が映る歌だ。

(この景色が色を変えると、後の『闇の夜のハネムーン』のどこかと重なるような気がするのだけども・・・)

オトコの歌であるけれど、それはすごく自分にもあてはまる、他の女性たちとはちょっと違う人生だからかな。

しかしこの『北斗七星』には"オトコ"が出てくる歌が多いように思える。そのShoyanのオトコっぽさが心地良くて、最近はオトコの人に甘える許しを自分も持てたのだなぁと思っている。このアルバムはこの頃のShoyanご自身の"自らを再認識する作業"が垣間見えるようだ。

・・・

後半~エンディングのハミング部分のバックで密かに聴こえるエレキギターの繰り返し。おそらく今剛氏の演奏だと思っているのだけども、音の一筆書き・この"たゆとう感"が今剛の醍醐味っていうか、私の好きな音だ。

コシのある細めの毛でまとめた太筆の筆致みたいなギターが大好きだ。ヘッドフォンで聴くと吸い込まれそうで、このアルバムの今剛の演奏ではこの曲のこの演奏がかなり好きだったりする(『都方人』はまた特別なのだけども)。

※Shoyanご本人のエレキの演奏のことはまた他で・・・♪

Shoyanのソロの前半『北斗七星』~『ORANGE』までは、こういった"アニキたちの演奏"という感じのバックバンド重視な構成がすごくよくて、自分でも色々勉強になった。

昔は今ほどの情報量がないので、少ない印刷物の少ない文字の羅列を隅々まで繰り返し見た。バックミュージシャンの名前を見たってどんな人かわからない。でも少ない情報量で得たことは忘れがたく印象深い。だから他のアーチストのアルバムなどでも同じ名前を見かけるとまた覚えてしまう。覚えると興味が沸く、そうするとまた他の機会で得るものがあったりする。

私は自分の事を"マニア"とは思っていないし、そこまで追及は出来ないのだけれど、物事を構成する要素をひとつひとつ解き明かしていくことは無駄な作業ではないと思っている。

・・・

サンルームやバルコニーのように明るく暖かく光に満ちた場処の傍らには、それとは対照的に月影の知り難い闇もどこか同じように存在していて、その中に隠れている熱もあるのだろうと思う。

きっと人は長い人生において、その両方を行ったり来たりしながら時を重ねていくのだと思う。その自分の薄っぺらな人生をShoyanの歌が待ち針のように留めていってくれる。だから振り返ってみることも出来るし、もう一歩踏み出すことも出来る。

自分にとってはまさに、この歌自体が月影に燃える想い出そのものなのだ。


・・・

(追)何十年、、、レコードからCDに、そしてサブスク配信だなんて、、、永い永い歴史だと、この年の暮れに感慨なのであります。

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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