Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

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with THE伊勢正三−SPECIAL PRESENT EDITION

・・・

時に・・・
自分の中で"ポジティブな退行"が沸き起こることがある。
何故かわからないけど、きっとそれがまた先へ進むための鍵で、ずっと後ろを向いていたら、知らぬ間に360度回転してまた正面に進んでいたりする。そんなしょんぼり回顧な時が歳をとっても訪れることがある。

そんな頼りない私をエスコートしてくれるのが、センチメンタルな旅に誘ってくれるこの一曲なのだ。

『涙を連れて旅に出ようか』は、痛んだ心にかさぶたが出来た頃に、いつもそっと包んでくれる歌だ。そしてさらに時が経って、若い頃の痛みとは違う経年の「傷み」も感じるような年頃になって、改めて沁みるようにもなった。今また同じ傷みを抱えている誰かのことも想う。「そんな心境」のシンパシーを感じる。孤独の痛み、傷みの共感、そんなことを併せながら聴いている。

この歌は、聴く人、歌う人、演奏する人、関わる人みんなに優しい伊勢正三ラブソングのド真ん中にある歌だと思う。どうしてライブで全然やらなかったのか(私が行けてないだけかもしれませんが)、ずっとステージで聴きたいと思いながら何十年も待ってしまった。もったいないなぁといつもさみしく思っていましたヨShoyan。

・・・

『星の足跡』で前述したこともあるが、昔、Shoyanが休んでいた頃、私はずっと独りだった。信じたものから放置されていた。 今思えば私が生意気だったのかもしれない。私を孤立させた年上の人たちはそんなトコロが気にくわなかったのかな・・・。でも一番哀しかったのは自分が信じた対象が無邪気にその他人の悪意に取り込まれて、私のことがわからなくなってしまったことだった。

許せるものと
赦せないものの違い
かな・・・

と、そのあたりのイミフメイなことは沢山書いても面白くないし、歌に関係ないので詳しくは書かないケド・・・
(その割にはよく出てくるんですがこの話題(笑))。

でも、あの時にShoyanの歌がなかったら、Shoyanが93年に復活して新しい歌を歌ってくれなかったら、私の"独り"はどうなっていたのだろう、と今想う。きっと孤独と真正面から闘ってしまって、勝てない自分を憎んでしまったのではないかと思う。きっと"本当の私"は討ち死にしていただろうと思う、それは本当に怖いことだった。 

「独りでもいいんだよ」

まだ黒いサングラスで完全防備だった新しいShoyanが、あの頃新しい歌に込めて無言で導いてくれた道は、私にはそう聴こえた。

誰かと一緒にいるためには独りでいてこそなのだと。そして、不揃いな互いのピースをくっつけ合うのは「涙」という接着剤なのだと・・・

でも"独りのピース"をもてあましそうな時(=辛いとき)は、ちょっと旅に出るのもいいじゃない♪って・・・抱えきれない涙を逆に「伴」として、そこを離れて本当にひとりになってごらん、そうしたらもう一人の自分がそばにいるって気付けるよ、って。

(そしてそれは「二人は一つ」に繋がってゆくのだけれど)

この歌をシングルカットした当時のShoyanの心意気を感じるし、こんなにあたたかい歌が出来たことはShoyanの音楽の新たな最充実を感じた。当時の壊れた私を両手でガッシリ受け止めてくれた大きな歌だったと、ずっと指切りのように大切に想う歌です。

・・・

50thのプレゼントエディション版の『涙を連れて旅に出ようか』を今聴くということは、まさに「若すぎたあの頃を捜しに」ということだった。あの日のあの客席にいる自分は今より元気で、若くて、ワクワクしていた。でも、抱えている悲しみは今も変わらない。とうとう解決しないまま時が倍過ぎた。でも・・・そんな痛みも悪くない、私はこの頃からずっとその旅に出たままで、自我が放浪しているのだと思う。たった一人のまま遠い町に来たし、ゆくあてもないままだ。今若すぎた自分に再会して、涙はもう自分の一部になっちゃったなぁと照れくさく苦笑している。

でも、今この時もShoyanの歌は優しい。
この歌も"遠くに離れても"な歌だけど、やっぱりこんなに一番近い。
二人だけの季節と二人だけの海はまだここにある。
今でも愛せる、十分に愛してる。って。

と言うことは、「涙」だと思って伴ってきたものは「Shoyanの歌」そのものだったなとも想えるのだ。若すぎた自分と、だいぶくたびれた今の自分が邂逅した時、Shoyanの歌を聴く気持ちはまったく変わらずにあると今回改めて思った。 まるで"今の歌"みたいに聴こえた。風やかぐや姫を知らない自分でも、やっとそういう気持ち(自分の時間との共有)になれたと嬉しく思う。

※先日作った50th&70thトートバッグには、ポラロイドモチーフでラブリィ正やんイラストをちりばめた♪ リンクしていて嬉しかった(^^*)。自己満足(笑)

・・・

そうそう、この曲の間奏のセミアコのフレーズと音が大好きだ。これ、Shoyanご本人があのギブソンのセミアコギターで弾いてるのかな?(どう聴いても今剛氏ではなさそうと思っておるのですが) バリバリのエレキでもなさそうな、この柔らかく優しい音が大好きなのだけれども、今この94年のライブ音源を聴いてもよくわからない。当日観ているはずなのに覚えていないということは・・・?エレキは梶原順氏だっただろうか、Shoyanだったろうか?、アコギのストロークの音も聴こえるから、どちらがどちらだったのか、覚えていなくてアテにならない自分ですわ(笑)。

Saxの音で何処までも誘ってくれる、エンディングの長いノリノリな感じが眩しい。あの日の溌剌さを届けてくれる、忘れてた輝きに会うために・・・何度でも聴こう。

こういう"ずっと好きなキモチ"が、またカラメルソースになりそうなほど煮詰まってきた。
少し冷ましてパリパリになった頃、ほろ苦く、今のShoyanにまた逢いたい・・・

そして、本当に、、、永い永い"旅する二人"でありたいと再確認するような歌なのだ。


追:
当時、シングルで発売されるとイメージビデオ的なものも作成されて、テレビCMもオンエアされていましたね。確か深夜の番組(トゥナイトとか11PMとか?)内でのCMで、何度かビデオ録画にチャレンジしたものでした。ショートバージョンとロングバージョンがあって、行き交う人波の中に佇む黒っぽいShoyanとその横顔がカッコ良かったなぁ(*´∀`)。

長い時を経て、今は再びの真っ黒グラサン期に移行されたけれど、またどこかに旅に出られているような気がしてならない・・・
お帰りを待つか、後を追って出立するか、いやいや、またどこかの町角で偶然の店先で遇えるような、、、
まずは自分の旅をゆこうではありませんか(*´ω`)。
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プロフィール

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No Name 七氏
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女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

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