Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2024/05    04« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »06
※ずっと特別好きなまま何十年も聴いてきたけれど、好きすぎて逆に想うことが具体化していない。けれど一度何か書いておきたくて思いついたまま推敲もしないままに書き置いておく。

・・・

普通、人の暮らしの順番で言えば「おやすみ~おはよう」。
でも、愛しい君と過ごす時間は、明けてゆく街の「おはよう」な頃合いに抗うように「おやすみ」なのだ。惜しいほど過ぎて欲しくないのでまだまだ「おやすみ」・・・と、そして本当はずっとこのまま二人で抱き合って明けない夜の中にいたいのかもしれない。

ここでは彼女が眠っているのがポイントなのだと思う。彼女が起きていると何かしらのリアクションや意志が起こる。「ブランチはバゲットよりフレンチトーストがいいな」「今日どこに買い物に行く?」とか、そうすると摩擦が起こる。恋人同士の現実って二人の意思の擦り合わせの積み重ね。そこにケンカとか逆に絆が深まったりとか、関係が移行進行していくものだと思うのだけど、こうして寝息を立てている彼女は、さっきまでの週末の興奮も収まって凪のような状態。最高に愛おしい存在として固定されているから、安心して油断して愛しちゃうことが出来る。「嗚呼」って感嘆詞が出ちゃうほどに好き過ぎて、その存在全部を自分のモノに出来ている、満月みたいな気持ちだろうと思う。

子供のように無垢で大人の色気がギュッと詰まった、恋を知る者には堪らないラブソングだ。

・・・でも、その愛しさは何十年も経ったらどうなるのだろう・・・「愛し足りる」ことはあったのだろうか・・・?(そんなことに気が行ってしまう私の哀しいネガティブ性であります)

がしかし、そんな先の不確定なこと今はどうでもいいのだ、ただ今のこの時さえあればそれでいいのサ・・という若さの疑似達観があって、実は少し甘酸っぱいトコロが更に悶なのです(´ω`*)。

・・・

前半の、ふるさとと街のふり幅、都会と田舎の隔絶かと思いきや、東京の星空がきれいだと言うこの「気付き」。こんなゴチャついた都会より田舎の方が美しいよって”言いきらない”トコロがShoyanの詞の階層の深さ。都会の夜空だってふるさとの言葉を想い出せば近しく見える=心の持ちようなのかもしれないと、そんなことに気付かせてくれる、だから好きなのです。

『北国列車』では♪君と暮らした東京では見たことなかった~星だけど、ここでは君が横にいるから、君と共にいるから星空が近く見えているのかもしれない。(やっぱり「宇宙の距離」なんてアテにならないんだ)

で、後半になると一転、めっちゃ色っぽいシーンが浮上してくる。ひと眠りして先にフト目覚めた彼。「腕枕解けて」「君の寝息」「どんなに抱きしめてもまだ愛し足りない」「思わずくちづけてしまう」「細い肩のあたり」(いちいち羅列しなくてもいいいのに自分(笑))、鼻血出そうなほど生々しい。しかも果てしなくロマンチック(涙)。

聴いた当初の幼い自分はこのロマンチックな温度に浸りたくて「なんで正やん本人の歌唱じゃないのだろう、正やんの声で聴きたい!」と思っていたのだけど、オトナになってからはこの歌はパンダさんの朴訥としたマットな声で歌われるのが非常~にバランス良いのだと思うようになった。この凄まじく色っぽい世界は、これ絶対に?Shoyanご本人が歌っちゃヤバかったと思っているのであります。ラストのハモりだけで180%十分にであります。

(でも、このバウンス感のあるアレンジやメロディーがどことなくShoyanぽさがある気がして、全体的に伊勢正三味が濃いような気がしてしまう不思議。)

どこかの機会でShoyanご自身が「この歌はパンダさんの歌だから♪」と発言されていたこともあったようです。だけど、でも、なんだかまた今になって「一度でいいから正やんご本人の声で聴いてみたいかも」なんて思っています。ゆっくりめBPMのラテンなアレンジで♪

と、とにかくこの『おはようおやすみ日曜日』~『南風知らん顔』『サンルームの鍵』・・・あたりをいっぺんに同時に聴き始めたので、その中学~高校生頃の自分には、伊勢正三の歌世界はそんな場面に象徴されてしまって、私の中ではShoyanの歌世界は色っぽい・セクシーだ、と言うところから出発してしまったのだった。(でもそれは間違いじゃなかったと思う)

そして、今の心で受け取る伊勢正三100%歌世界の色っぽさは、また別の、もう一歩踏み込んだ違う処にあると想うようになったのも自分で興味深い。 

こういった愛の営みの最初の扉、初室、最高潮、を歌った歌は、聴く方も忘れがたくインパクトも強い。私の中でも特に想い入れの深い一曲だ。ひとつの歌が一緒に人生の愛憎や取捨選択を見て来てくれたのだなと、何十年も聴いてきて今しみじみと想う。

かぐや姫名義の歌はそんな甘い苦い曲が多いようです。

・・・

遠くない将来には「Good Morning」は不要になり、もう「Good Night」だけでいい・となる。そろそろ子守歌でも聴いてすべて終わりにしたい気持ちもある。 でもそれにはまだ少し早いから、がんばって今日と明日を生きよう。もう少し、まだまだ眠れないから寝物語の続きをせがみたいのですShoyan☆

・・・うるさすぎる都会の理由、それは何十年経ったとしても、季節や人の心の移り変わりと同じように「誰のせいでもない」んだ。

君と僕、二人で愛し合う理由なんて本当はなくて、ただ都会の底で時のハンモックに揺られて眠る恋人たちに憧れたまま、また新しい気持ちでこの歌を聴いています。



※明後日、山田パンダさんのLIVEに行ってきます。2月~4月でかぐや姫コンプリート
(*´▽`*)♪
※※行ってきた帰路に撮ったブレ写真追加
一体いつこの歌を聴き始めたのか覚えていない。
『かぐや姫・今日』というアルバムはBEST盤に収録される曲とそうでない曲の温度差が激しいような気がして(個人の感想です)、何より後追いファンの自分にはアルバムをトータルで聴き始めたというより個々の曲が先に印象づいてしまった感じなのだ。

『湘南 夏』『わかれ道』『おはようおやすみ日曜日』・e.t.c.・・それら綺羅星曲たちでいつもひっかかってしまい、その先へ行く機会が薄かった。反省。

でも、歌って不思議なもので、聴く者の人生や体調や感情その時々に突然ピタっと新しい皮膚の如くフィットしてくれる瞬間が訪れることがある。

『麦ふみ』はもちろん自分でも歌えるほどには聴き込んで、楽譜を見たり歌詞も何十年も考えながら心の片隅にいた曲だけど、最近急に尖って沁みるようになった。そんな出会いを覚えていないほど昔、きっと40年くらい前から聴いているのだろうけど、自分が荘年から初老を過ぎて、けれど安寧や安堵と正反対のヒリヒリとグッタリした今の状況には、この歌の静かな暗さに暖かな親しみを感じるようになった。(※「暗さ」って凄くいい意味での引用です)

この歌のどこか不安げなシチュエーションは、湿り気があって若い自分には触れるのをはばかられるような気がしていたのだけど、色んなものを諦めて何も得られなかった今の自分にはこの不穏は優しく映る。そこに今とても惹かれるし癒される。

たった12行
されど12行
短い歌詞だ

けれどその中に「母さん」と「君」が2回、そして「おばさん」と「あの娘」、女性と思われる登場人物が最低3人はいる。

もうそれだけで女って哀しい(涙)。
陰で泣いていたり、淋しそうだったり、そこにどんな物語があったのだろうとずっと考えてきた。「あの娘」だって成長したらそれを辿っていく未来に進む可能性もあるわけで・・・。女性の立ち位置がさみしそうなのは、この当時の作者Shoyanの感性の角度が、男性としてまだ第三者的だったのかもしれないと思ったりする。

・・・

聴き始めのころは、もしかしてこの主人公の男の子はもらわれっこで、この「おばさん」が本当の母親なのでは?などと思ってみてた。離婚したのか、シングルマザーなのか、それとも身体が弱くて子供を育てられずに田舎に帰ってきて療養中で、自分の兄弟姉妹家庭に預けたのかも・とか、いろいろ妄想は膨らんだ。「母さん」が泣いていたのも自分の姉妹(おばさん)がもう不治の病なのを知って不憫でとか・・・もうホントに勝手に色々想像してみた。

でも、やっぱり今はこの「おばさん」はこの子の実母ではなくて、どこかに自分の幸せを置き去りにしてきた哀しい過去がある人なのかもしれないと思うようになった。甥っ子姪っ子や近所の子供を自分の子供に見立てて接してくれる”仮想のやさしさ”が暖かくてせつない。本当じゃなくても真心だってことがあるよって。実際の子供の有無は関係なく「母さんみたいに やさしい」の意味は、今はそんな風に想っている。
そんな中で君に送られた撫子は聴き終わった後に小さな救いになる。
半分野草のような、ささやかな撫子の花。野辺や庭先でそれを摘んで相手に贈る、それほどの小さな寄り添いだけでいい、そんな気持ちになれるのがやはりShoyanの詩の凄いところで、単なるノスタルジーだけじゃない奥行きの配慮を感じるんだ。

今、こんな年齢になってそういうことに気付けて安堵しています(*´ー`)。

・・・

作曲も歌唱も南こうせつ氏で、その分透明感と切々とした切り絵のような情景が独特の世界になっていると思うし、石川鷹彦師匠のしっとりしたアレンジ、幽けきマンドリンの簾越しのような音、パンダさん?の低い静かなコーラス、「ななつの撫子」で声が重なって印象深い。

涙もななつ
撫子もななつ

「な」のつくものみな「ななつ」で一揃いなのかな。


数え歌を歌っている「君」と「あの娘」が同じ時系列(昔)にいる同一人物なのか、それとも「君」と一緒に里帰りしてる今現在に挟まれて昔の情景が思い出されているのかわからない、その辺りは決めないでいようと思っている。

「♪忘れられない」とあるし、撫子と麦踏みの時期は重ならないかもしれないから、時は二つ以上あるのかもしれないけれど、そういう時間を系列で決めなくてもいいと想う。その色んな時間が交錯してるからお伽話のような物語感が出るのだと思う。

・・・

私は麦踏みをする地域に住んだことがないので、なかなかに実感はできないかもしれないけれど、踏んで(痛めつけて)逆に強く健やかに育つ仕組みは、素で生きる人たちのささやかなすべなんだなって、同じ位置で今は想える。そんな素朴な養生の仕方で実りの充実を待つ世界、一方で都会の喧騒や虚実入り混じった光の中で手に入れた大きな充実と、その両方を机の上に並べて吟味している作者の、Shoyanの「その時」が封じ込められているような遠い歌。

例によって遠い=近いなので、今はそっと手の平に乗せて頬に当てるように、この仄暖かい歌を聴いている。

九州の麦畑と竹の林の風景に憧れながら・・・



※実は、、、
一時は小麦の産地が義実家だったので、早春の麦畑の寒々しい青さは知っているのですが、それは前世の記憶としてしまっておきます。(/ω\)
この歌を聴いて去年の秋から何度も泣いた・・・軽井沢のステージで聴いて以来、それは余計に二重に想うことが多くて、聴くたびに泣いた。泣くためにある歌ではないかもしれないけれど、Shoyanのやさしさ・あたたかさ・柔らかさが存分に込められているから、自分は無防備なままこの歌に避難することが出来た。

不思議とずっと昔から知っていた曲のようで、Shoyanのギターと声だけのこのDEMO音源はダイレクトに伝わるものが多くて、幼き日のことを絵本にしたような気がする宝物の一曲だ。

・・・

この歌も東京・都会・ふるさと・彼と彼女の決められない距離、なのかと思うけれど、”繋がってたのに離れていく『渋谷川』”と真逆な、”遠ざかるほど一体化していく二人の無意識”が非常に非常にせつなくて、、、せつないのにあたたかくて、だから何度も確かめたくなって繰り返し聴いてしまう。なんとなくまだこの前後左右に物語が待っている気がして、完成形じゃない可能性も想いながら聴いている。

アルバム『Re-born』を聴いた時、これはShoyanのバックハグだと思った。この歌がその”遠隔抱擁”を実感証明できるものだと思う。Re-bornの出来たあとの今だからこそ、この世に生まれ出てきたのだなって想った。だからこの歌は2011年の歌ではなく、2023年の歌なのだと思っている。

(本当は2011年頃の世情の機微が関係しているような感じもあるのかもしれないし、一部では匂わせインフォメーションもあるみたいだけど、公平な情報じゃないのなら保留でいい。)

・・・

「まだ「彼」とはいえない」間柄だったはずなのに、「そっと抱かれた気がした」とあるのは、この彼女と彼はどこかで繋がったまま進行していて、それは「その日その時」まで消えないのではないかと希望的観測を感じる。ここだけ他に比べて温度が高くてほんのり色っぽい、今はそれが凄くいいと想う。

彼の「そこ」は移動していくけれど、でも彼女の「そこ」はずっと「ここ」にある。
渋谷川がこれから先二人とも分岐して新しく先へ流れていってしまうもの=川なら、春の流星は儚く消えてしまったように見えて誰も知らない砂漠か氷河の上で、ポツンと待っている一粒、かもしれないと想うのだ。

♪春は忘れない~というフレーズが大好きだ。この彼女が「ここ」にいること・彼がいたこと・を忘れない「春」という季節は「永いもの」の象徴。そしてその想いはギベオン隕鉄のように、小さくてもずっしりと重たくて美しいものなのだと思う。そしてそれは彼も遠くの今の居場所で感知していることなのではないだろうか・・・。

Shoyanが昨年秋の軽井沢で歌われた時、「フクシマにいたこと」と聴こえた。もしそれが関係するのであれば、この彼女と彼の離れた理由が抗えない外的要因なのかもしれないと思えて震える。余計にこの二人の絆は深いところで離れないままあると、深層の体温を感じて優しい気持ちになれる。どうかどうか、哀しくない建設的な未来が二人を結び付けてくれることを願う。でもどちらかが、もしくは二人ともまさかこの世にいないのでは・・などと、とても悲しいこともよぎったりして、軽井沢のステージ以降は少しだけ複雑な気持ちで聴いている。やはり私には「ふくしま」という単語は特別だから気になってしまう。「流星」という一方通行の戻れないもの・でも一方で願いを叶えてくれるもの・という二面性に複雑なせつなさを感じたまま聴き続けていくことでしょう。


この歌のShoyanのギターも大好きだ。とてもさりげなく180%の音がキッチリ隅々まで詰まっていて、こんなに綺麗な音を出せるギタリストは他にいない!って心の底から想う。DEMO音源だからこそ余計にシンプルにわかるのだろうか。上手いとか技術以上の、Shoyanの音拾いの意識の広さ深さを存分に感じる。そして倍音?終始鳴っている音以上の音、それを足して200%だ♪

飾らない優しい声とギター一本、それだけですべて物語ってくれるのだなと、本当に心の底からの尊敬の気持ちでいっぱいなのだ(涙)。誰か他の歌い手への提供曲だったのだろうか、それともご自身で歌われようとした曲だったのだろうか、今になって色んな錘が解けてフワっと水面に浮かび上がってきたようなこの歌が愛おしくて堪らない。

・・・

去年の後半から今まで、私個人の生活は言葉にできないほど辛かった。その間、この歌がずっと傍にいてくれて励ましてくれた。「がんばれ」とか「君ならできる」とか、そんな薄っぺらい言葉だけの言葉などとは全く違う「歌の本領・寄り添い」を最高濃度で感じた。

DEMO=仮音源だとしても、聴く者の中で完成されるってことがあるかもしれないじゃん♪と、歌の不思議を実感しながら聴いている。

・・・

春の流星群ってなんだろう、こと座流星群? また巡るその時とは、一年後など決まった周期じゃなくて、、、やはり二人で見た"その時そのもの"にまた還れる現象なのかもしれないと想う。
"その時"って、ずっとそこにあるんだと想う。

春の流星は時の断片を縫い合わせていく一本の縫い針のようなものなんだきっと・・・。

アリガトウ Shoyan☆彡


♪また巡るその時まで~
のメロディがちょっとだけ不思議で大好きです(´ー`*)♪
この歌のことは想えばキリがないし無限だ。
ずっと保留のまま仕舞っておいた。
まだ想い足りないことは多い、けれど5年聴いて今時点でのこととして、後悔の無いように一度投稿しておこうと思う。これから足したり引いたりするかもしれないけど・・・♪?

・・・

斬新なイントロからShoyanのセクシーさ満載のこなれたエレキギターでグルーヴ感最高!!ここでは弾き過ぎないエレキの音がメッチャかっこ好い!Shoyanのエレキギターを聴きたくて堪らなかった私にはホントに胸躍る一曲目だった。

左・右と代わる代わる聴こえる刻みの音は二人の呼応みたいで、歌の中に本当に二人いる!と思わせてくれる。森一美氏の不思議なタイミングで入る鍵盤の音やブラス音もミューオンとかニュートリノみたいに刺激的に通過してゆく。AOR的・とかスティーリー・ダン的とかそういう音楽的なことだけじゃなくて、このテレポーテーションの"空間感"が新しいなぁって、Shoyanは今回またひとつの穴を開けたんだ!って思った。


例えば・・・
逢いたい人に逢えないとき
ずっと傍にいたいとき
どうすればいいの?

究極の愛し方、ってどんなものだろう?

極論で言うと、罪になる恋さえ罪にならないほどの愛の在り方は?

・・・まで、
この数十年の人生のほぼでずっと考えてきた。

誰にも言わない、わからない、知られないように、露見しない恋、そしてそれは誰をも傷つけることのない真実の愛であるように・・・と、私にはそれが必要な謎で、いつも考えてきたことだった。

今の世の中、好き合って愛し合っているのに"不確かさ"に負けて壊れてゆく恋の多さ。不倫とか浮気とか裏切りだとかストーカーだとか、、、そんな呼び方しかされない可哀想な事案。触れ合わないと確かめられないと思い込み、確かめないとアルと思えず、束縛しないと得られない・と思う、、そんな堂々巡りで人の心が愛そのものを見失っていることが多いような気がしていた。

でも、自分の"愛の圧"に負けなかった時、その想いの水底では本当に愛しい人に逢えるのだよって、この歌が教えてくれた。

どんなに熱い恋でも、離れていたらさみしいのだけれども、その先には確かめ合うことさえ不要なほどの深い愛があるんだよって。それは自分では自分の顔を見られないようなもので、自分が笑えば彼も笑っているのだ・とわかったからさみしくなくなった。それほどの凄い導きの一曲なのだ。

・・・

♪宇宙の仕組みとは 愛なのかな…
 僕らの胸の中 限りなく

古い話なのだが、私が高校生だった頃、

「宇宙の果てってアルのだろうけれど今は目に見えない、人の胸の中も自分の中に確実にアルけれど目に見えない、だから、宇宙の果てと人の心の中って実は同じところにあるのではないだろか?」

なんてことを思いついた。

(なぜそんなことを考えていたのか自分???)

そして数年後に『レミングの街』を聴いたときに、「!私の感じていたことは間違っていないかもしれない」って、Shoyanから「そのまま僕についておいで!」と導かれたような気がして、余計にShoyanの音楽に惹かれていった。

そして今また、Re-born発売時から5年聴き続けて来て、また今回の連載『クリエイター人生・最終回』を読んで、ひとつのことをずっと考え続けてきてヨカッタ・と思ったのだ。なので、今珍しく、少しの安堵の中にいます。

・・・

♪その時同じこと 同じ素振り
 まばたく間さえ ないくらい

 どんなに離れても その瞬間
 二人は一つだと 気付いてる

こんな現象あるわけない、と言う人はたくさんいるかもしれない。でも実は母親と子供の関係はこれにとても近いのではないだろうか。私は子供を持てなかったので、逆にそれがよくわかる気がするのだ(気がするだけ(笑))。

どこにいても常に想っていて、心配して全身全霊で、子のためには自分の命さえ・・・と、それは子供は自分の分身、自分そのものだから・・・という部分で。

本当は母と子とか関係なくて、人は皆そういう心を持っているのだと思う。男女でも、他人同士でも、同じ深さで愛し合えるはずだ・と。

そういう風にあなたを愛しているのだと気付けば、苦しい恋はせつない愛に昇華するのでは・・と思う。そしてまた愛されていることにも気付けるのだと・・・。

でも、、どうして人はみな「証明されないと嘘」だと思うのだろうか。


母と子は物質的にも「超確実」だけど、恋人同士はまったくの「ゼロ・無・他」から始まる。でも「超不確実」こそ「愛の最深部」なのだよ・って。 「決まっていないこと」こそ愛なのかもしれない、だから、Shoyanはそれを"宇宙の仕組み"とおっしゃったのではないかな、なんて想っている。

・・・

「二つの隙間」はきっと、二人の口唇。
歌うShoyanと同じように同じフレーズ同じメロディーを口ずさめば・・・歌は一粒の愛だなと思うのだ。そしてその重なり合うヴァイブレーションを、私たちは今迄何度も経験してきた。量子力学とか二重のスリットとかの先にある!?この歌テレポーテーションの概念は、こんな私の中にもきっと在る"自然なこと"だと、勝手に自己満足している☆

この二人、気付いてる・感じてる、けど、互いに確かめ合っている訳ではない。こんなに通じ合っている間柄なのにナゼ逢えない??? 確かめ合うことさえ不要な深い愛なんだ!って感じながらずっと「そのままでいるね」って。そこがチョットだけ切なくもどかしい、本当に素敵なカンケイだ。

誰にも気付かれない=自分でも気付いていないうちに私はアナタと逢っている・そういうことかなと想いながら慰めに似た気持ちで聴いている。

・・・・・

雨音に乗せる想いは不滅だ。
巡り巡って、いつも、分身のように傍らに・・・ 
逢えない時間だけ強くなる、というならこの二人は最強なのだ!

今迄沢山のパワフルな歌が生まれてきたけれど、この『テレポーテーション』はぶっちぎりの"伊勢正三が凄まじい!"一曲だと思う。

凄い愛の歌、私の生涯の生き甲斐にしてこれからもまた聴き続けていきたいと改めて想っている。ワクワクしかないのだ!(愛)

2019年にRe-bornを手にしたとき、「絶対にまた35年聴くぞ!!」と誓った。すでに5年聴いた。この分ではあと30年もあっという間だと思う。 ☆



※ラストのフレーズ、

♪n誰にも気付かれず 抜け出そう~

の「n」の部分は、キスする前に思わず鼻先が触れる感じですね キャー☆


※既に投稿してあるとばかり思いこんでいた一文。
10年以上前に書いたものに追記して載せておきます。


・・・・・

数あるShoyanの楽曲の中で一番刺さるフレーズ

♪君はなぜ 男に生まれてこなかったのか 

とは、なんという残酷な言葉・・・
女性が一番言われたくない言葉じゃないだろうか。

だがしかし、この彼女がたとえ男に生まれてきていたとしても、この二人は上手くいっただろうか? やはり、いつか別れる運命だったのではないかしら。

たぶん、この別離の原因は男だとか女だとかは本当は関係なく、何か別の根本的なコトだったのではないだろか・・・


でも・・・
この"二人の時間=青春"を良い想い出にするために、間に「If」を挟んで、破壊のエッジを丸く・柔らかくしているのがShoyanマジックなのだと思う。

・・・

男と女の一番のベストな関係って、本当は"友情"なのではないだろうか。

生まれも育ちも違う二人。
身体も脳の働きも役割も能力も違う異質・・・
そして時々、年齢(過ごしてきた時間)さえも違う二人。

男女のカンケイには

「俺を男として立てろ」
「私には女の幸せを頂戴よ」

なんて、役割の損得みたいなものが発生しがちだけど(そう思っているのは世知辛い私だけかもしれないけど・汗)、友情は"平等な思いやり"で構成されてると思うんだ。

恋人同士でも、夫婦でも、もし、互いに親友と呼べるほどの心の通い合いがあったなら、"相手に何かしてあげよう"という気持ちは持続するんじゃないのかな。

彼は自分が求めていたものの正体を無意識ではわかっていたのに、愛や恋がすべてだと思って彼女の"女な枠"しか見れなかったのかな・・・

それとも、彼はわかっていたのに彼女がそれに応えられなかったのかな・・・

「幸せにできなかった」
「男に生まれてこなかった」

というフレーズに、すでにこの二人の関係には最初から"制限"が付きまとっていたように思う。

幸せにならなくてもいいのに・・・
男も女も関係ないのに・・・

彼も彼女もきっと
何かを求め過ぎていて
何かが少し足りなかったんだ

もしかして、そこが"若い"ということだったのかもしれない。

・・・

自分が幼い聴き始めの頃は

「なんだか言い訳がましい男の歌だな」

って思っていた。

だけど、今日は全然別の

「この"彼女は彼を"幸せにしてあげようとは思わなかったのかな」

なんて思っている。

彼はきっと自分のキャパでは"彼女が望む幸せ"をあげられないって悟ったから別離に同意したのではないか。だから、彼女が自立した男だったら対等に付き合えたのに、などと思ったのではないだろうか。

この女性はなんのために彼と一緒にいたのだろう。

幸せにしてもらうために?

『ほおづえをつく女』も、『少しだけの荷物』も『通り雨』も、このアルバムの頃の女性像はどこか生活感のないお人形さんのような、儚いニュアンスもあるような気がしてる。
(それはネガティブな意味ではなくて)

・・・

果たしてこの青春、幕を閉じたけど、彼は演者だったのか、観客だったのか。

ヒロインの途中降板がとても残念なカーテンコールのない、若さの終劇・・・

なんだか、夕焼け雲のピンクと青ばかりが胸に焼き付いて忘れられない『君と歩いた青春』。


・・・

追:

私にはこの歌のような、純粋な美しい青春はなかったけれど、21世紀にもなって40代の中年になった今は、若さや青春の先にあった現実の重さも尊いものだって思えるようになった。

気付かないことが美しさであることが青春? 何でもアルと思っているのが若いということ?

でも、青春が過ぎてゆくことは何かを失うことなのではなくて、謎や疑問が解けてゆくことなんだなって、意外にも緩やかな気持ちになれている今の自分。

ト イウコトハ・・・

謎があるうちはまだ青春なのかもしれない☆

2011年02月


・・・・・

追追:2024年3月記

ここのところの過去のライブ音源ラッシュで、この『君と歩いた青春』も複数バージョンがリリースされているけれど、私は正直なこと言ってしまうと今のステージで聴く『君と歩いた青春』のほうが段違いに別物的にイイ!!と思っている。

『THE伊勢正三』収録の1977年風当時のものは別として、『~風が聴こえる~』や『stillmore』や『garden』に収録されているプレイは、どこかShoyanは内なる自分・自己完結・過去・結果・みたいなものを対象にして歌っている気がしてならないのだ。そこが物足りなくて私個人には遠いものに思われるのだ。

だけど、ここ数年・特にRe-born以降~更にコロナブランク以降で、倍々にこの『君と歩いた青春』の相互感が増したと思う。腹の底、胸の最深部から出てくる命の声に「この青春、君と歩いたし、今でも君と歩いている」という絆を感じるのだ。 私個人いつも、この歌を聴くときは疎外感を持っていたことは常々ここに書いてきたけれど、今はそう思わない。

今のShoyanは同窓会のつもりでこの歌を歌っているわけではないと感じるのだ。今は一緒に歩いていると確信出来ているから冒頭に書いた「君はなぜ男に生まれてこなかったのか」の残酷さは消えて、甘い伴侶の証に昇華した気がする。もう、オトコとかオンナとか関係ないっしょ♪と思えるんだ。


去りたいものは去ればいい、また還ってきてもいい、青い春は確かに過ぎたかもしれないけれど、でも不変な"春の色"そのものは誰もみな自分の中にあると思う。置いていかなくていいのだ、共にそこにある者同士で各々の春を謳歌しようよって、満開の桜の下での宴のような気持ちで聴いている。

相手のしあわせを想ってあげられることがオトナなのかな、そんな者同士の、"本当の心の春"の野辺を想う今の『君と歩いた青春』であります。


プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員
趣味:
林道歩き
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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