Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
先日の関内ホール、私がこのブログでライブリポを載せるようになってからこの歌をLIVEで聴くのは、なんと初めてだったようで(泣)、、、どれだけShoyanのコンサートに行けてなかったのかの証明で寂しく思ったのですが、でも、でも、その”再会”がギター一本で、関内の裏通りのような素敵な場所でだったということは今年多数あった嬉しい時間の中のひとつです。

とてつもなく巧みなのに力みないナチュラルなギター、柔らかく弾む声、あの日のShoyanのプレイと歌唱にはオリジナルの音全部聴こえていて、また更に今がそこで輝いていた。

今のShoyan、本当に凄いっって如実に想う一曲で忘れ難く、今もあの空気感を忘れられないままいます。

この素晴らしい愛に溢れた1年を素敵な予感のするこの歌で締めくくりたいと思います。

Shoyanに最大限の感謝を込めて☆


・・・

それを知らない私にとっての”風”はこの曲のイメージなのだ。

”風の正ヤン”のイメージはこの歌から始まる。
お洒落で、情景が目に視えるようで、切な明るい展開にキュンとする。出てくるアイテムも”大人若者”チックで、演奏もアレンジも垢抜けて、足の細いスラっとして右腰をひねって長い髪のShoyanのポートレートが銀の額縁で飾られているような気がする。

準氏の軽やかな弾むピアノで始まるイントロダクションからして、すでにオトナな男前のサウンド。余った弦をクルクル巻いたフォークギター一本で切々と哀しい歌を歌いあげる世界はそこになく、腕に覚えあるフレッシュなミュージシャンたちと野心溢れるアレンジャーのアプローチがShoyanの才能の濃さを無限に拡張してゆく感じが如実だと思う。しかも、その時代と言うか世代感・街の雰囲気まで軽やかに置いてあるので、今聴いても単なるノスタルジーではない活きている恋人たちの風景を感じることが出来る。

(けれど、やはりShoyanご本人がギター一本で演じてもまったくその濃さは変わらないのですが・・・♪やはりそこがスゴイ)

♪そして二杯目のコーヒー~

コーヒー一杯分待たせたのかな?

昔は最初から二人がこの店の片隅に座って二杯目にかかるほど話し込んでいる情景かと思っていたけれど、デキる彼女は待ち合わせの店に先に来ていて、コーヒー一杯分飲む間に過ぎた時(すれ違いの当時)を今ここで独り想い出したら涙こみ上げてたのかもしれない・・・なんて思ったりもする。そこがこの彼女の真面目可愛いところなのかもしれない、とか。

僕が”ちゃんとした”から君は本来の”やさしい女(ひと)になった”(戻った)。

以前このブログで”やさしい違い”について書きましたが※、彼女をこの店に呼び出す説得力ある何かを彼は提示できたんだね。今度の”僕の部屋”は誰かのせいにしない、ちゃんと自分で自分を相手に与えることが出来る独り立ちの部屋なのだと思う。

※『やさしい違い』
♪いつか見たフランス映画のよう~

帽子を深めに被っているのはどっちなのかわからないけれど(たぶん彼女?)、サラッとクイッとここに”フランス映画”なんて単語を嵌めこんでくるのが素敵。どの映画だったのだろう・・・。

原題が『アメリカとフランス』か何かであったと当時の本に載っていた気がするが、アメリカの歌とフランスの映画、ぜんぜん違うものでもカップリング出来ると、それはキミとボクもそうでありたいという彼の恋の気付きなのかな。

この歌、詳しい状況説明は少なくて、彼と彼女のジオラマの街並みと、ドールハウスのようなカフェの風景、そして天候の時系列があるだけなのが想像を駆り立てて好いのだ~。この午後の一席の過去にどんな経緯があって、ウフフ~で連れて行った後のこれからの二人の未来もどうなるのか、それも聴き手の想像力とオリジナル感性にすべて委ねられているところが、シンプルで非常に好いと思うのです。

この、冬の穏やかな雨が降り出して、それが雪に変わる頃合いの午後のひと時。人生ってそんなほんの数時間でガラリと流れが変わるのだなぁと、お洒落なお兄サンの弾き語りで諭される無意識の深さも孕んでいる洒脱な曲、風の大代表曲だと思います。



※Shoyanの”金星は天秤座”っぽさ=”恋愛ハイセンスバランス感覚”が良く出ている曲で惚れ惚れします。(また星占いなんてあやふやなもので語ってスミマセン(笑))

そうそう、ウフフフ♪って字のごとくそのままの発声のハミング?スキャット?が、とても面白いフレーズで可愛らしいです(*´∀`*)。
この歌、ランダム再生していると必ずコーヒー飲んでいる時にちゃんとかかるんですよね♪愛おしき歌です。


※※これまた以前に少し書きましたが、イントロのピアノソロが途切れた後に小さく♪チチチーチチチーとカウント音が入っているのが聴こえてなんだか面白いです。ヘッドフォンで聴いてみて下さい♪
中標津空港のライブカメラもありました。
(現在は根室中標津空港)
http://www.nakashibetsu-airport.jp/webcam/


こういう山並みのことなのかな。
※ライブカメラスクショしてみました

これで、命まで凍える遠隔体験が出来るかも!?

・・・

そう言えば、この歌にも時計が出てきます。
けれど、、はずして握りしめたその時計は誰のものだったのだ??
「いつもそばにいたいから」って言ったのは誰?
誰がはずして誰が握りしめたのだ?
と、ちょっと謎に思って聴き始めた当時から決めかねていた。

この歌。時系列が3つあって、まず彼と彼女(一応男女にしておく)の搭乗前の別れの時、別れた後飛んでいる飛行機の窓の外の雲間を眺めている時、そして随分時間が流れた後再びその空港に彼ひとり戻ってきた今。色々場面転換が多い。

聴いた当初から暫くは

「(遠く離れても)いつもそばにいたいから(私の身代わりにして持っていて)」と、彼女が自分の時計を渡したのかな??なんて思ったりもした。だって彼女のほうが想いを残している感じがしたから。

でも、これは

振り返らずに去りゆく彼が”俺の身代わりに”と自ら外して彼女に託して、それを受け取った彼女が感極まって握りしめてた・ということなのだろうと思う。
しかも「いつかきっと帰るから」とも言うておるこの彼。

(「いつもそばにいたい」って彼女がねだったのかもしれないけれど)

駆け出していった彼女は「さよなら」と言い切ったわけでなく、「言いかけて」なのだから心切り離せたわけじゃないんだよね。どちらも別れる理由がないくらい想い合ってるんじゃなかったのか・・・?

なのに、、、
なのに、、、

♪あの日から二人は心も離れて・・・

だなんて。

この、物質的に離れちゃったら必然的に心も離れちゃう呪い(木綿のハンカチーフ症候群)が、この頃の歌のスタンダードだったのだろうか・・・

でも、Shoyanはきっとこの歌の状況をこの後もっともっと深堀りされたのだと思う。とっても素直な別れの切ないやるせない歌だと思うけれど、まだ見えていない部分があるはずだ!と。この美しい歌の風景はこれで終わらせたら勿体無い・と。

その追求がその後の活動沈黙期間に繋がり、深まった考察は他の歌曲に表現されていったのだろうと思う。この『NAKASHIBETSU』は懐かしい雰囲気だけれどキッカケの歌でもあったと思うのだ。

(実際、風の頃を彷彿とさせる感じが好き・という聴手は多いと思う)

少しずつまだ何かが足りなくて、でももうすでにひとつの世界になっていて、これはShoyanのデッサンみたいな歌なのかなと想っている。


この彼、過ぎ去った時間を手繰るように、今になってまた別れの空港に戻ってきてあの頃の景色を探すなんて・・・この後の展開が気になる。

その後、彼女どうしたのだろう。
ここにいるのかな。
いないのかな。

それだけでもう一曲出来そうな気がしています。

・・・

時系列があっち行ったりこっち行ったりするから、ちょっと茫漠と流すような気持ちで聴いていた時期もあった。
でも何より私はこの歌の荒涼感が好きなのです。
特に♪心も離れて〜の後の間奏の転調?の感じが、一見光が差したかのように聴こえるのにめちゃ孤独で。
たまらなくさみしくて、たまらなくやるせない、、、凍る夕日が染める山の端を独りで眺める気持ちは不変なのです。

晩秋のしかも緯度の高い北海道の、小さな飛行機しか行き来しないこの広い場所で、彼の思い出はすごく小さくて、遠い山並みに吸い込まれて消えていきそうです。そんな人の心のちっぽけさが好きなのだ。


渡したその時計、今どこで時を刻んでいるのだろう。
もしくはどこか誰の目にもつかないところでその針を止めているのだろうか。逢えなくなった人の身代わりグッズ、傍にあったら辛そうだよ(涙)。

ポケットの中の写真だったら”その時だけのもの”だけど、時計はまた新しい時を刻みだすこともあるから油断ならない。少しでも心が動いたら、自動巻あげで動き出すかも・・・!?

ここへ来て、荒涼感を凌駕する不思議な再会などを夢想する気も湧いてきた。40年聴いたら時はいくらでも回るし離れない心もあるって気付けたからかな。歌が育ちそうで、今余計に好きになっている不思議な歌だ。




※中標津という場所を歌にしたShoyanの想い入れは如何に?と永年想ってきたけれど、現地にも行けずに時が経ってしまった。今調べたら小さなAirbus320で羽田からも直通便があるそうです。死ぬまでに一回行ってその景色を探してみたい気持ちです(憧)。

今回、かつしかのステージでのサワリだけ〜関内ホールの弾き語り、でそのパフォーマンスがあまりに切なくて心震えてしまい、暫く茫然自失でさみしさの渦の中にいたのですが、、、

※ゆえにフリーズしてしまいました(汗)。

改めて想いまくって考えまくって、その先にフトこの歌の不思議さを再認識したりする。

つい最近まで”新曲”だったけれど、もう31年の時が流れていた。

1993年『海がここに来るまで』で初めて聴いた時、なごり雪の派生曲なのかなと思った。汽車で去ったキミは飛行機で還ってきたのかと・・・

その感触は今でも変わらない

ただ、君の指を見て=指輪がない、ということは=この彼女、住む場所も変えたし他の誰かと結婚もしてた〜更に離婚までしてきた〜しかも東京に戻ってきた〜しかも元カレに連絡しておる!←イマココ

ということが今聴くと改めて生々しい。

なごり雪は”僕と別れて東京ではないところへ去る”という事実だけなのに、この歌の場合、「時はなぜ過ぎてしまったの」の「時」の中身が盛り沢山過ぎて有り余るくらいなのだなと改めて思った。

・・・

とその前に、、、

♪冬の桟橋は灯り消えたクリスマスツリー

って、どんな情景なんだろう。

船も着岸していない、人影もない、きっと観光用の桟橋ではない荷下ろしや海上保安関連の閑散とした業務用桟橋なのかな。もう30年も前の羽田のことを思い出せないくらい時が経ってしまった。だから、史実は詳しい人に任せるとして・・・当時私はこういった言い回しにガツンと心掴まれた。後の「ストロボの電車」「ステンレスの湖」みたいな、アタマじゃなくて感覚的にわかる光景がさすがShoyanのフレーズだなって思ったっけ。

♪ 工場の煙 螺旋の倉庫 淀む運河 を見て
ふっと懐かしいため息が出るなら・・・

これは、彼女と再会した今、フト空港の外を眺むれば目に入る現在の景色?普通では味気ない景色。リクリエーションの欠片もない。でも彼女が目の前にいると途端に意味のある景色になる。

♪貨物船ばかり浮かべた港だって 
君とならいつまでも
ロマンティックな夜だった・・・

本来なら無骨な・風光明媚ではない京浜地帯の工業的な眺めや、化学的な人工物ばかりの風景が想い出のデートシーンだという部分は、Shoyanが逆説的に(天邪鬼に?)セッティングした技なのかと思うけれど、私はこんなところに連れて行ってくれる彼氏イイナと想っていた。

工業地帯の灯りや倉庫の建物群の眺めや夜景がエモいと人気が出てツアーまで組まれるようなご時世より以前に、ここに着目してロマンティックだと言い切ったShoyanの目の付け所にグッときた。

しかし、、、

彼の方は彼女さえそばにいればどんな景色だっていつまでもロマンティック、と思っていたかもしれないけれど、彼女の方はその時どう思っていたのかな。。ここに一抹の不安が隠れている気がする。

その後の「さよなら」を言わされてしまった彼女。今せっかく再会したのに、彼が運転する車に乗らないかと誘ったのに、モノ=monoの一本レールでいいという彼女。しかも笑顔で・・・

「私は東京に還ってきたけれど、アナタのもとに還ってきたのではないのよ」と念押しするために到着便の時刻まで教えて彼を呼んだのかな?その有り余るほどの”過ぎてしまった時”の先に・・・

その思惑やいかに・・・

彼が示す当時の思い出語りの無機質風景があまりに個人的想い出で切なく、また今の複数の交通機関の無機質な物質運びが人の心を置いていくようで、

ラストの

♪君はまだ気付いてくれない・・・

と締めくくるから、メチャもどかしく煩悶する。届かない想い、伝わらない気持ちが我が事のようで哀しい。

しかも、あまり現実的ではない(ある意味劇画チックとも言える過剰演出の)首都高で並走するほど粘着質ギリギリな彼。だけど彼女の方は「気付いてくれない」のではなくて「気付く気がない」のだから・・・やっぱり無理なのだこの恋は・・・泣

モノレールと首都高は平行世界なのではなく、未練の別次元なのかなと思う。

※でも、彼女チョットやり過ぎじゃない?
彼、期待しちゃってたよ?^^;


彼の言う♪忘れたはずの言葉〜とは「一緒にいたい・離れたくない」というコトだったのだろうか、けれどそれは贈ることが出来ない未遂未満の贈り物だから”悲しい贈物”なのだきっと。それは今、彼の助手席のシートにちょこんと置き去られて彼の横顔を見つめながら首都高の継ぎ目で揺られているかもしれない・・・(哀)。

・・・

この曲を聞いた当時は

『モノレールはこの先芝公園のところで首都高と交差するではありませんか』

と思って、少しはこの二人の未来が重なる目もあるのかな・なんて希望的観測もしてみてた。だがしかし、それは未来ではなく今現在のこの到着便のロビーラウンジの邂逅の一瞬だけのことだったんだと、あとから気づいてまた哀しい。

31年経って、人の心のどうしようもなさを感じる身としては、こんな彼女とっとと諦めて、もっとマニアックな恋人探しなヨ(*´ω`*)と、彼の肩を叩いてやりたいし、彼女の方にも都会で自分のやりたいこと探して貫いてくださいっ、って激励したい気持ちだ。

・・・

窓の外の駐車場に降りる粉雪は、冬の初めの儚いイントロダクションとして降りてきていた。だから、やり直しできるのかなと思っていたのだけれど・・・そうじゃなかった。粉雪はほんの一瞬見えたあの頃の幻だったのかもしれないと今は想う。

エンディングアウトロの最高艷やかなShoyanのファルセットのスキャットに続いてギターソロもダントツの美しさを放っていて、煌めいて儚くてそして強い。アルバムの歌詞スリーブにはMartinD45のヘッドの写真があって、その印象がとても濃い(実際のレコーディングで使用されたのはどのギターか知りませんが)。そして全編またメロディーが美しい。サビなどその長く伸ばす部分が本当に無理なく言葉にフィットしていて、そのフレーズが尾を引いて連なりあってるみたいだ。濃灰色の都会の上空に吹雪く真っ白な粉雪が、閉じたまぶたに冷たく沁みるようなその感覚でずっと聴いていたいと想う曲なのだ。

「淀む運河」や「駐車場」など、この曲は美しいアイテムや風景は一切出てこないのに美しいと想う不思議な曲。美しいから印象が変わらないし色褪せない。聴くものがまるでその歌の中に入って追体験している臨場感が変わらないのだ。


Shoyanがよくおっしゃる”映画のように・カメラワーク的に”ということが如実にわかる一曲です。


空港と首都高とモノレールと・・・人々は行き交っているのに心が行き交えない切ない二人の行く末を、またこれからも想い巡らせながら聴いていく今年の冬です。




※この彼の行動や、いつまでも思い切れないもどかしさ切なさに、私は個人的にとてもシンパシーを感じていました。そういう部分が自分にもあるとそう思いながら長いこと聴いてきました。

聴いた当初は到着した(帰ってきた)のに「さよなら」なんだと思って悲しかったけど、そもそも最初から「さよなら」が搭乗していて到着した(トドメを差しにきた)=『さよならの到着便』ということなのだと今になって思う。


哀しすぎる。


当事者の気持ちになるとやはり辛すぎる。
傍観者として聴くのが一番良いような気がしています(*´ω`*)タメ息。


1990年代に自分で撮影した唯一残っている羽田空港の写真を古いパソコンから発掘してきたので載せておく。


いくら古っぽく加工しても
写っているものは2024年(@_@。

思いつくままにバラバラな文章でお届けします。どうかご容赦ください<(_ _)>。

・・・

この曲はイルカ氏がカバーしたのではなく、イルカ氏のために書き下ろした歌ということで女性が歌うことを意識しての柔らかな表現「ぼく」と平仮名なのかと思っている。

しかしそれを近年Shoyanご自身がセルフカバーされるようになって、「僕」と漢字にして音源にして発表してくれたことで、歌の素顔にまで届いた気がしてとてもとても嬉しかった。

聴き比べるとわかること・・・

イルカ氏の歌は往年の少女雑誌の読み切り連載を読む心地で

「この漫画短編凄く切ないのよ、、、」
「そうなの、この彼と彼女どうしてケンカしちゃったの?」
「なにも飛び出していくことないのにねぇ」
「私も髪伸ばそうかしら」

などと、放課後に部室で読みまわすような雰囲気があるようで、それが優れたストーリーテラーとしてのイルカ氏のキャラと相まって親しさを感じるのかもしれない。

※この頃のベースラインの贅沢さよ・・と思います(T_T)。編曲は『神田川』と同じ木田高介氏とのことで、この少し速いテンポもシングル化を意識してのものだろうか。

いま改めてイルカ氏バージョン音源を聴き返したら、Shoyanご自身が歌うものとは全く別物の曲に聴こえるほどだ。先日の関内ホールのなごり雪でも感じたことだけれど、Shoyanが歌うと音と音の間にある想いの音が多くて、想像もつかない情報量だと思うのだ。

(どちらが良い悪いではないですヨ)

Shoyanバージョンの場合は”我が事”として聴いてしまうのです。

見え方が全く違うからかな。
飛び出していった側か、独りコーヒーを沸かす側か、いずれにしろ同じような心の擦り傷を持つ者が感応してしまうものがあるような気がする。

Shoyanの歌はそうやって聴く者の心と一体化するから、深く永く好きになってしまうのだ・  ・・

※それはまた最近のいくつかの歌でも始まったような気がしています。

一方で
この歌をよく聴くと本当は謎が多いかもしれない。特に「君」の行動を具体的に考え始めると実はまとまりがないような・・・?

「君の気まぐれ」ってどんなことだったの?
それを許せない僕に対しての
「君のやさしさ」って?

彼女の行動が原因だったのに、それを謝る訳でなく逆のような「やさしさ」で、とは?

これは伊勢正三の歌に時々あるねじれ現象フレーズ・何も決めないフレーズシリーズ?の特徴的な部分かと思う(単に私の理解が足りないだけかもしれませんが^^;)。
それこそ、カタチは嵌るのに絵柄が違うジグソーパズルのピースのような? 遠目に視ればちゃんとわかるモザイク画のように。音源だけで完成させないShoyanの無意識の高度なテクニックだなと思うのだ。

(「テクニック」というとちょっと具体的すぎる・・・もっと、なんか、 神の領域とかルーレットの出目的なこと!?先出の『ぴあ/クリエイター人生』の最終回でも語られていましたが)

こういう、カッチリと組んでしまわない保留部分があるので、永~くフレキシブルに聴けちゃうんだなぁと、いつも想っている。現に、Then&Nowの音源が確定ではなく、歌われるその時々その度に”その頃”が反映されて、その場で都度違うカタチになってゆく不思議な歌なのだと思っています。

※でも井上陽水氏のような”絶対無理なルービックキューブ”までいくとついていけなくなるので(笑)、そこが伊勢正三曲の絶妙な匙加減であると思っています。

・・・

想い出すことって甘い・・・
コーヒーのほろ苦さと言いながら、美味しいコーヒー豆がそうであるように、そのブレンドには甘みやフルーティーさも隠れている。

苦いだけじゃコンビニコーヒーのようで、距離は測れないから色々な味が混ざってこそだと思う。
(※コンビニコーヒーも好きですが (´ω`*)

実際、「君の長い髪はとても素敵だった」「ひとつの甘いフレーズとして」と、いいことばかりがふるいにかけられて今は残っているようで、そうしないと後悔を荷下ろしできないのかもしれないと想ったりする。

♪別れの言葉が夢の中でこんなにきれいに響いてます

も、自己完結している節があると。
彼女を傷つけて泣かせて部屋から去らせたのに、その時に取った態度や、発した言葉とは違う、都合の良い後付け甘さ増し増しフレーズなのだろうか?と。

去っていった者はもう関わりのない存在。
だから、自分の中で都合よく・自然なふりをして・美しく・忘れるふりをする、そんな自己免疫みたいな歌なのかな、などと、この歌を好き過ぎて突き放して第三者的に解釈したりする私をお許し下さい。

※そんな言い方をしたら身も蓋もないではないか七氏よ・・・自分がそんな別れしかしてこなかったからって、、、

イエイエ、当事者ならではの ”切り離されてはいないあの頃から繋がっているもの” も知るからこその第三者的・なのです。
(謎過ぎスミマセン)

きっと作者の中にも他の誰にもわかりえない時間がある。Shoyanが時々おっしゃる「引き出し」の中身。ご自身でさえ意識されない無意識の引き出しと、聴く者それぞれの心の引き出しの中身(それを想い出というのか)、その両方が交じり合って誰にも書けない自分だけの癒しになるのかなと思っている。

きっとそれも”合挽”のコーヒー。
時間というミルが挽いてくれた豆を蒸らす薫り、彼女も忘れてはいないはず。
今はシングルの豆かもしれない、でも味を忘れてもフトしたことで蘇ってしまうブレンドの香りのように、時間にも消せないものがあると思ってる。

・・・

などと、1974年から半世紀経ってこの歌の息の永さを深く感じている。

歳をとったって、若すぎたって、人の心の中は案外変わらないもので、その時寂しかったことは今でも寂しいんじゃないかな、と最近感じているのだ。

これもまた、ひとつになれなかった”片心”の歌なのか、と近しく想う一曲だ。



※”長い髪”は伊勢正三ファンの嗜みとして(!?)、高校生の時から30歳過ぎまでずっと背中まであるロングソバージュだった自分を懐かしく思う。本当は長い髪をずっと続けたかったけれど、それは大好きだった人との想い出と一緒に”あの頃”に置いてきた。今はShoyanより短い髪で毎日頑張っている。長い髪の私は”あの頃”で今もきっとあの人に愛されているだろう。それでいいのだ。

今の短い髪だって(白髪だって!?)愛されているかもしれないし♪ (*^^*)b
・・・と、せめて前向きに(涙)。
先日、『涙憶』のことを書いて最後に

「ラストの鍵盤の音はShoyanご自身の演奏ではないかと思ってる」

というようなことを書きましたが、昔からそうだといいな・そうじゃないかな? って思っていただけだったのに、断定的に思える書き方をしてしまいました。

なので書き直しました(汗)。
重ねて失礼をばいたしました。
その、HIRO氏の『祈り』を伊勢正三氏御本人の注釈を参考にして、自分なりの解釈をしてみた。暴挙であります(汗)。勝手妄想の試みをご容赦下さい。本題からズレていてもお許しください。自分はこんな風に考えた、というひとつの記録であります。

(元の歌詞は載せていません)

・・・

知性を身に纏い
必要とされている場所に赴け
守られていることを自覚しない
周りの見えていない奴らから
神聖な加護の印を取り戻せ

いくら鎮めようとしても
火照って眠れない
常に傍らで熱情がつきまとう
愚か者のように振る舞ってもいい
それが計画的なものであれば・・・

永久というものは
あとからあとから流れてくる川のように
同じ顔無く続いているもの
確実など無い中で
祈ることに祝福がありますように

二艘の舟は動き出した
それは
旅立ちの交通手段か
死んだ我が納まる棺か

私を蔑ろにした
あれ程憎らしいと思った奴も
年月経れば老いて滅ぶ
その眼はもう何を見ることも出来ない
哀れなもんだ

「けれど、あなたに逢える夜には
  時間の流れが惜しくて
  一番遅い手段で逢いに来てしまいました」

「あんな奴のために、いたずらに無謀な夢を見たことは内緒にしておこう」

眠りにつく時
どんな夢を見るか
あらかじめ知ることは出来ない
ただ、これからの現実は
自ら取捨選択できるのだ

流されるままに形成されてきた自分を
今やっと意識的に葬る
人は誰でも手間をかけたくないものだ
何もせず冗長として先延ばしにする
そんなことを続けていると
周りの状況は己と乖離して
置いてけぼりを食らうでしょう

自己中心的なくせに
“自暴自棄”な事柄が
“やけ”に増えて
今の世が終わるのだ

・・・

それでも祈ろう
願いは自分のためなれど
祈りは誰かのためにするもの・・・



※最後の三行は自分で行間を読んで付け足したものです。

七氏 @2024年11月
今になって何故かHIRO氏の『祈り』が自分の中から押し上がってきました。

刺さる・の逆で、自分の中から錐の先が飛び出してきたような新しい感覚の一体感であります。思ったことを断片で載せてみます。

・・・

この歌、Shoyan感性の白色矮星というか、ブラックホールよりも恐ろしい、近寄ったものは瞬時に焦げて蒸発してしまうほどの億次元な世界なので、本当は触れたくないのです、怖すぎるんです(諦)。でも、何故か最近近寄ってくるのです。

だって、語れる訳ないではないですかこんな弥勒な世界の異次元の技を・・・(憧)。

ただ「あいうえお」を組み合わせていろは歌をつくるならまだしも、その語頭と語尾を縦読みにしてひとつのフレーズにして意味を繋げる、それを更に3回繰り返す、美しい言葉・無駄のない言葉・由緒正しい時間を背景に持つ言葉、そしてそこに深いメッセージが籠めてあるという。こんな仕業は言葉の神様に宇宙の果て量ぐらい愛されたものにしか出来ないことじゃないですか。この地球上にそんな人、Shoyanの他にいないです。ノーベル文学賞とか吹っ飛ぶレベルの紡ぎ物だと思うのです。

そんな作品を凡人の私が語れるわけはないのです。なんとか気を振り絞って読み進めたって、一回で氷の動悸が襲ってきてハンマーでぶん殴られたようなめり込み感です。

(これ、褒めていると想って下さい^^;)

なのでずっと、HIROさんが良い声で歌う有り難い経典かゴスペルか何かだと思うようにして聴いてきました。真顔ならぬ真耳で聴くと気が狂うのではないかというほどに・・・

ただ、時代が進みました。
この歌が世に出てから五年経ち、この歌に自分は近づけている気がしています。

ここ数年で起きた疫病禍や、それによって戯れ名を全うして亡くなった有縁の街の達人や、パニックの幕開けのような豪華な御船の孤立事案、本当に許せぬ奴が思いがけぬ理由で滅んだり、ちょうど始まった大河ドラマでは背守をつける者共の話だったり、たった数万円のために自分の人生を棒に振る荒んだ者たち、、、私にとっては予言の書のように聴こえました。

寒気もしたけれど、胸に抱きたいほど近しいものにも思えたのです。
世に「必然」というまやかしの言葉がありますが、作者Shoyanの中で、この歌は「自然」=「おのずから然り」だったのではないでしょうか。そこが凄いなぁって、何年も聴き進めてきて改めて今思っています。

・・・

船と二艘の舟。
「ね」と「ふ」は二回とも『ふね』でした。

♪胸の片隅にそっと繋いでる〜風を待つ舟
♪それが僕らだけの箱舟でもいい
♪青春の難破船〜男なら漕ぎ出す

と、Shoyanにとって『舟』は余程の重要なアイテムなのだろうか。なんとなく、ご自身の自意識・自覚が水の上に在る舟のような感触なのでは?と、勝手に生意気に想像しています。

・・・

二篇目の♪永久は無間川〜

パッと聴きは辛そうなのだ。
絶望かと思う無間の真暗闇を感じるのだけれど、Shoyan御本人の注釈を読むと愛の世界らしいのだ。ビックリなのだ。二艘の御舟がアナタとワタシなのならば、無間苦の流れの上で”板子一枚下は地獄”という危ういラフティングだとしても、焦げる寸前のカラメルのように、聴こえている音はハードなのに実際口に入れて味わったら甘いという・・・隠された愛の舫い綱がたまらない二篇目です。

でもここで「許せぬ奴」「滅び」など、暗い言葉が出てくる。

続くクライマックスの三篇目も「我を殺す」「世の終わらむ」「荒んで」などと物騒なフレーズが出てくる。この全編無意識の作為の結果がこの暗い言葉たちなのが興味深い。Shoyanのその自覚の覚悟を見切った、その時のお心の内が強く発露したのかなと、非常にストレートに闇を感じることが出来るのです。

ラスト、 注釈では

「はたと 楚歌 焦りて」



「周りからの孤立無援を覚えながら」

とされている。

楚歌の意味は全くそのとおりだと思うのですが、私はここで傍らの虞美人の役割を考えたい。

ガチの戦ならば、城が落ちれば主には死しかないが、孤独と孤立は違う。我を殺す=迎合ではなく、新しい自分の確立なのだと思いたい。

四面から聴こえる楚歌(アイデンティティ・過去)は捨てるべき価値観かもしれない。身ぐるみ剥がされてみっともない身一つに成り下がっても、自分が一番愛したもの(虞美人)ひとつ傍らにあれば、我を殺すど真ん中に死地を開くことも出来るのではないか・・・と思うのだ。

「虞や虞や、汝を如何にせむ・・・」
とは、自分の本心を活かすのか殺すのか・という問いなのではと想うのだ。

そんな正反対なことはこの節には書いてないが、波を立てても添い進む二艘の御舟を私はそこに持ってきて考えてみたい。

自分の道って辛い。
 何気なく過ごしてきた日々が急に終わろうとしている。抗えない流れ、どうしようもなさに無力で叩きのめされ、自分の心もやけに荒んでいる。その中で生きるのか、 殺すのか、殺されるのか・・・


『祈り』ってなんだろう。
その心の荒みを払って希釈するための手段かな。

『呪い』は貧しい者たちの唯一の最終兵器なのだそうだ。
『祈り』は身体どころか、心ひとつあれば誰にでも生み出せる最初の光、なのかもしれない。

宵闇・真暗・夢・逢う夜
そこに灯す想いの集約。
セントエルモの火のように、苦しみと希望の分子がぶつかり合って心が具現化して光ればいいなと思う。そんな小さな光でも誰かのためになるかもしれないと信じて祈ろう。

この、全編重々しい、一見陰鬱にも傾きそうな歌だけれど、一番底には”希望”が忍ばせてあると信じつつ、伊勢正三氏が現す大きな闇の暖かさに抱かれる想いで聴いているのです。


☆2020/04/08 (Wed)『騅不逝』

4年半前に書いた時は怯えていて散らかったことしか書けなかった。今はもう少しだけ書けた。また数年経ったら何か想えるのかもしれない。その時が楽しみでもあり、恐くもあり・・・

・・・

この歌ができた時、
Shoyanはものすごいガッツポーズをされたのではないだろうか。
こんな詩が書けたら後は何も要らなくなってしまうのではないかと思うほど。
だけれども、きっとShoyanは途方もなく貪欲な方だと思うので、きっとこれで終わらない。

逆にそんな人だからこの歌が降ってきたはずだと私は思っているのです。火に油ではなく、熱した油に水を注ぐような、そんな異端の勢いをShoyanは得られたのではないかと感じているのです。

だから、此処から先もっと凄いのが控えているはず。
たとえまだかけらも見えなくても、すでに何処かに存在し始めているのではないかと感じている次第です。

と、近年中最高レベルの支離滅裂乱暴な長文でした。 
どうぞ、どうぞご容赦いただければと思います。
(平身低頭)
※少し言葉は足りないのですが、載せられる分だけ載せておきます。

・・・

ここ数年、個人的にはライブではずっと重々しいイメージに聴こえていた『涙憶』だけれど、この夏の空前の『THE伊勢正三4枚目gold』ブームで初心に戻った感がある。

4枚目に収録されている音源はおそらく映像化された『伊勢正三One heart1  session』のエンディングで使用されていた音源だと思う。あのコンサートには自分も行っていた。ゆえにとても想い出深い音源だ。

この渋谷公会堂の『涙憶』は本当に何度も繰り返して聴いた。アルバムに収録されているオリジナルの涙憶もシンプルですが、もっとシンプルな、Shoyanひとりでガットギターを爪弾いて歌っているスタイルが歌の”胸の中”そのものな気がして、曲を内側から見ることが出来るくらい近く感じた。

そんな、懐かしい憧れとともに、素直に切なくなって涙こぼれる気持ちがこの夏蘇ってきた。

しかも丸山氏との共演で更なる”今”のもどかしさ・問いかけが付加されて、『涙憶』のもっと深いところまで感じることが出来ていると、今思っている。

・・・

「その言葉・この言葉」とは、「ごめんね」なのかなとずっと想って来たけれど、どうしてこんなに頑なに双方”そう”言わないのだろう。

意地っ張りの度を超えている。

「君を傷つけた僕だけが君を癒せる」

ということは、、、この断絶の直前には彼の一方的なエゴが炸裂したのだろう。けれどケンカは両成敗・・・その彼のエゴを引き出してしまったのは、これまた彼女の無意識のエゴなのかもしれず、堂々巡りの原因のエゴの釣り針なのだ。

「そう君が言えば僕も変われる」
  =
「あっちが謝るのが先よ」

という不変の不毛。
でも、これは互いが向き合ってるからこその干渉なのだよね。

その不毛、その煩わしさ、それがそのまま平行線ならふたりの未来は成就しないし、何年一緒にいようがそう思ってしまった瞬間にふたりは別物になる。

”胸に閉じ込める”とは、胸という檻があるということ。人は自分の心の中は他とは違うものだと思っている。そして他人の心にも入れないと思っている。

けれど、

僕の胸に抱きしめることと
君の胸に埋もれることは
同じことなのだ

「何故君と出会う  その訳を
   偶然のかけら拾うわけを」

その”理由”とはなんだろうか?
運命みたいなものだろうか。
では必然とはなんだろうか?

人は自分の目の前に現れたものと対峙するしかないのだ。
それが此の世に生まれてしまったということだ。

そして人生は短くて、けんか断絶している暇などないと気づけば、何時間もかからずに目の前のもう一人の自分と微笑みあうことが出来るのではないだろうか。

「愛は時に煩わしさのためにある」だなんて超〜リアルな見解は、煩わしさとはマイナス要因ではなく摩擦熱の一種なのだと知っている作者Shoyanの先達目線なのかと感じられたりして面白くも思う。


愛に役割なんてない。

言葉に囚われずに
涙で心の檻の鍵を開けて
涙で自分と相手を貼り合わせて
涙で本当の気持ちを洗い出す・・・

「涙の記憶」とはなんだろう?と
今でも私には答えはわからないけれど
涙には心のロックを外すPasswordが記憶されているような気がしている。

だから、どんなに辛い涙でも
目を背けずにその中をよく覗き込もう
涙の根本理由に気付けたら
きっと次の扉が開くから・・・

・・・

”偶然のかけら”に翻弄され続けてきた自分でも、流す涙に記憶されてきた何十年かを今愛おしく思える。その涙が塩辛い一粒の結晶になるくらい、Shoyanの歌は永く聴けば聴くほど濃くなって私の胸の中に降り積もっていく。

心と心の一体化を考え始めるキッカケになった歌『涙憶』。今また改めて大好きです(涙)。新しい気持ちで聴けるこれからの時間をしあわせに想います。




※『涙憶』のことを書いていて人生を語るとは思わぬ展開だった。それだけ永い時間聴き続けてこれたということかな。

※※『One heart1session』のエンディングは擦り切れるほど再生して、一生懸命耳コピしようとギターと格闘した。小指が攣りそうでした(*´∀`*)。

※※※
オリジナル音源ではあのラストの氷柱の雫のような鍵盤の音も堪らないのです。(私は個人的にShoyanご自身の演奏なのでは?と密かに思っていたのですが、Key:エルトン永田氏とクレジットがありますから、エルトン氏かもしれません)ともかくも素敵な合奏であります(涙)。

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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