Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
またもや通勤の車中で聴くシリーズなのですが、私が乗っているのは古い中古の軽自動車なので、未だにCDプレーヤーで自分で編集して焼いたものを多く持ち込んで聴いておるのです。

時々、占いの気分でホルダーから無選別に抜いてプレーヤーに差し込み、ランダムプレイにしてみると思いがけない曲がかかったりして面白いのです。

数日前、大切な友人がくれた提供曲シリーズをかけました。(最近良く聴くのです)江原由希子の『心のままに』という曲がかかったのですが、これがむちゃむちゃ今の時期、帰りの夕暮れ渋滞車中にハマりまして、年甲斐もなくキュンとしてしまいました(泣)。もう何十年レベルで聴いてきた曲ですが、突然泣けてくるあの現象です。(どの現象^^;)

この歌、どことなく『ほんの短い夏』のパラレルなのだ。目線は女の子側からなのだけれど、言わんとしていることがどこか重なっている。

あと、キュンとする原因は詞だけではない、最近よく想うのです。本当にShoyanの歌の色はメロディーの可視化なんだなって。私は音楽は語れないので、感覚でしか触れられないのだけれど、Shoyanの歌のメロディーは、歌詞と同じように豊かな彩りと類稀なフィット感があると毎度痛感しておるのです。言葉とメロディーはまったく一切違和感がなく一体化しているでしょう、しかもそれが全曲!です。

「♪ah~」と感嘆符なのかと思ったら
♪秋の風の「あ」。
しかも歌い手の発声にマッチしたチョイス。
そしてこのセンチメンタルな頬に触れるような、細やかに上下する筆運びの音程。

Shoyan・伊勢正三の曲はよく詩の方を先に語られることが多いかもしれませんが、本当にメロディの天然感が素晴らしいから歌としての完成度が高いのだということを常に意識して聴きたいと思っています。


一度も泳がずに過ぎた夏、さえぎる電車のドアや映画館の暗がり、待ち合わせた夕暮れ、おやすみさえ言わずに、、、と、これは紛れもなくShoyanのタックルケース。材料は揃っている。けどでも、少し切り貼り感が馴染んでいないようで、彼女や彼の本心・素の欲求。現状がちょっとわかりづらいような気もする。押し寄せるような昂りは薄い(今はそれがキュンとするのですが)、この曲を作った頃の”Shoyanの動機”が未遂だったことが反映されているのか?

♪学生だったから
いつでも電話すると
あなたは迎えに来たわ

学生という期間、始まりの頃と終わる頃では人は随分変化する。大学生なら未成年から成年に、自分で収入を得たり、お酒が飲めるようになったり、、、人との付き合いも変化する。

彼女だけが学生だったのか、ふたりともだったのかはワカラナイ。”友達”の範疇でよかった頃が”学生時代”という庇護の中。これからは自覚しながら構築しなきゃいけないオトナ時代の始まりなのかな。

けれど、時は経っていく、それに沿って伴えないふたりの距離が、離れ始めているのか、懸念だけなのか、いややっぱりうっすら剥がれ始めているのが切ないのだ。

上映時間に少し遅れて映画館の席に駆け込んだら、彼の方は「すこしおこった顔して」なんて、まるで30年来の夫婦の旦那みたいじゃん!? こんなタイプの彼、きっと「ずっとそばにいて」って伝えたくても「そんなこと言わなくてもわかるだろ」ってそっけない愛情リアクションしそうだ。それが美学って思ってるかもしれない。

でもさ~、女子は言葉にして欲しいし、確かめたいと思うと思うのです。だって、女性にとってのパートナー選びって命に繋がることだと思うんです。肉体も精神も過去も未来もすべてわが身の中に起こっていくことだから、本能的に”確実”を求めたって、、それは罪ではないと思うのです。

でも、それが「心」の性別違いで許されないなら、それは非常にかなしいことであります・・・。

※ しかしこれが何十年もの時を経て年を重ねたりすると、性別とか立場や距離さえ超えた愛や絆、もしくはそれ以上の何か・が発生するのだとも思うのですが、 そこに至る話は永くなるのでまた別の機会に♪


付き合い始めた頃の初心にもう戻れない・って、その頃と違う、無心になれない彼女と彼の無自覚な探り合いがもどかしい・・・

無心=心のままに行動したら子供っぽいのかな?大人げないのかな?

どことなく、作者であるShoyanご自身も決めかねたまま、心もとなさのまま歌になった一曲な気がしている。

本当に、晩夏と初秋の合間の・・・名前のつけられない季節のような気持ちになる歌。激情とは真逆の、ほんのりとした若い切なさがたまりません。

・・・

元がレコード音源だからか、どこか滲んだようで暖かな耳さわりの曲。秋風冷たい複雑なさみし切ないキモチなのに、アップルパイみたいに可愛い。Shoyanがふるまってくれる定番のマチガイない一皿と思います。

こうした歌が沢山たくさんできて、何度も何度も研がれて濾されて晒されて焼き締められたりして『ほんの短い夏』のような究極曲が実るのかなと想うとロマンなのです。

そんな過程的な歌?には素を感じられることも多い。
私が惹かれるのはそういうところです♪
もうね、キリがないんですよ〜(*´∀`)。
そんなことばかり考えている仕事の行き帰りです。



☆電車のドアや地下鉄や、と想っていたら、昨年の『雨のTAXI』のカップリング『地下鉄ーメトロー』という曲の存在も気になる。どこかにあるのかな・・・いつか聴けたらよいですね。

☆☆あ、この曲もアレンジが佐藤準氏でした。どんだけ~(*´ω`*) 。ちなみに、江原由希子さん=YOUさんです。


・・・

※ここで感想を書く曲の中には大切な友人から提供された音源も時々あります。それは心通わせた友人との個人的なやり取りの範疇ということで(汗)、引用をどうかお許しいただけたらと思います。のべつまくなしにYouTubeに音源アップして小遣いを稼いだりしているワケではないので(^^;)どうかお許し下さい。

※最近空の写真多いですがお許しを^^;

コロナ規制明け一発目の軽井沢で、一曲目がこの歌だった時、とても嬉しかった。一人のあいつが死んだ切なくて悲しい歌なのに、そこには無常という平和があるような気がして、とても好ましい気持ちになったことを覚えている。


人から借りたレコードのかぐや姫の『妹』B面だった。ゆえにこれが初めて聴いたShoyanの歌声だったように思う。14歳の私には詞の内容・メロディよりも「声」が第一だった。この歌のShoyanの声が大好きになったから、私は伊勢正三の歌を聴くようになったのだと思う。その気持ちは今でも変わらない、地球上いや宇宙で一番好きな声はShoyanの声です。

そして、深い詞の世界に心奪われた。
特別な言い回しや装飾がなく、平凡な善人の日々の暮らしそのものなのに、その中に折り紙の折り目のように二度と消えない痛みがうっすら隠れているという、淡い切なさと、、新しい命の誕生という力強い時の流れの流心も同時にそこにはあるんだよ、という人生の交錯を感じたのだ。

人が一人死んだら
人が一人生まれる

とは、世の中には本当は偏りはなくて、愚痴は悼みでもあり、嫌いは可愛い・不成就は救いだったのかもしれず(でもやっぱり可哀そうな妹(涙))、、、あいつが山に還っていった日は、この暑い盛りと真逆の冬山だったのかもしれない。そんな風に、何気ない日々も本当は裏表二色で折り重ねられていく積み重ねなのだなと、人生を俯瞰で見られるキッカケの歌だった。その同じ日は二度と還らないという無常を、幼いながらに感じられたことは自分をひとつ大人にしてくれた歌でもあった。

こういう歌を素直に、スッとてらいもなくカタチにした当時のShoyanの感性の太さを今でも凄いなって思う。こういう(家族の)歌ってどうしても”狙った感”が出がちな気がするけれど(某シンガーの大ヒット提供曲とか 汗)、このイヤらしさの微塵もないイノセントなShoyanの詞の世界は、家族愛を超えて人間愛や生命愛を示してくれるわけで、そこが他のアーティストの仕事とは数歩抜きんでて高いのだ。長いことアルバムに収録はされていなかったけど、この歌を好きな人は実はかなり多いと思う。私もきっとずっと好きです。

・・・

山に還っていった彼がここに残した時間・関わった日々のことは、これもまた出来上がった折り紙のように、この家族みんなの心の片隅に置かれているのだろうと思う。

これからの日々それは変わりなく、その窓の向こうで庭の木々が芽吹いたり葉が落ちたりして季節が移ろってゆく、この頃とあの頃の距離を測りながら・・・


もうお盆休み~盆の入りですね。
トンボや蝶々の背に懐かしい人の面影を視るかもしれません。
暑くても少し遠くを眺めてみようと思います。




追記:

全然関係ない話題で恐縮なのですが、少し追記を。

先日全国ニュース(世界でも)で報じられた、とある日本の登山家お二人の滑落~安否不明事故がありましたが・・・

実はそのお二人が関わった番組や映像作品が私と家人はとても好きで(もちろん一視聴者として)、そのうちのH氏は地元のスポーツ用品店などによく来訪されてトークショーなどなさっていたので、何度かお話させていただいたことがありました。イベント後は一組づつ対面でテーブルに座り長い時間丁寧にトークされて、私たちが鉱物観察のために山に入ると言ったら「僕らがよく行く”カラコルム”って”黒い石”って意味なんですよ!」なんて話を合わせてくれる優しい方でした。前回会ったことや話したことを覚えていてくれて、今遺跡発掘で身体を使う仕事をしてますと言ったらグッズにサインと一緒に「ガンバ!」って書いて励ましてくれました。この3月のことでした。

SNSのご様子から、K2未踏ルートのチャレンジは無理しないでお帰りになるとばかり思っていました。なのに、、、もうお会いできないなんて、ショックすぎてここのところ心のどこかはポッカリと穴が開いています。命まで懸けてはいないですっておっしゃっていたのに・・・

だから、今年は、、、いえ、これからはこの大好きな歌を聴くときは、やはりどこかでちょっとだけ胸が痛くなることでしょう。

山に行って、そのまま山にいるなんて、、、そこで時を止めたお二人のことを、小さく生きている私の中で想っていくのは不思議なことだと想いながら、私はこれからもガンバるのです。

毎日車で通勤する途中に、とても古い八幡さまがある。

こじんまりとしているけれど、戦国時代からある由緒ある場所だ。毎日前を通るたびにチラっと横目で石の鳥居の奥を眺めて想いを馳せる。

狭い住宅街の中、何故かそこだけ道が広くて時空が違う不思議な場所なのだ。境内に続いて木立に囲まれた広場があって、ぽっかりあいた空間でみんながゲートボールをしていたり、夏休みに入ってからは野球帽の少年たちが自転車を数台停めてキャッチボールをしていたり、蝉の声の下で老婦人が談笑していたり、全くもって昭和なまま時が止まっている。その一瞬の絵がなんとも懐かしくて、ここのところ毎朝『夏純情』を聴きながら出勤しているのです。

もう立秋を迎えてしまったけれど、お盆くらいまでは夏祭り宵祭り感ということで、また少し思うことを・・・
・・・

またもやこの歌を最初に聴いた時から・なのだが、どことなくジャパンアニメーション的だなって思っていた。(というか、アニメの方が伊勢正三の歌に追いついてきたのだ)

計算しつくされて、どんな動きにどんな評価や反応があるのか見据えたうえでのはずし技・王道のセンチメンタル・・・そして美しい精細な描写。それを視覚の一切ない、音だけですべて上映してしまえるShoyanの真骨頂を痛感していました。

なので、聴くときはいつも脳内で絵が動いていくのを追っていたのですが、ここのところまたいくつか新しく想うことが発生。覚え書きしておきます。

・・・

♪紅い帯・・ゆらり(・・ユラリ)

の帯だけれども、これってもしや兵児帯(へこおび)なのだろうか? ちょっと前までは女性だと兵児帯は子供の装いというイメージがあったので、「この歌の彼女は何歳くらいなのだろう!?」とフト思ってしまった。兵児帯なら小学生?かと思って「んんん???」と悩んだのだけど、今はオトナ向けのオシャレな大ぶりの兵児帯が普通にあるそうで、中学 高校生でもおしゃれに着こなしているのでしょう。そっちかーと納得しました。

でも、薄紅の浴衣に更に紅いユラリ帯だなんて、彼女の自己演出ならナカナカの直球!?それとも母親かおばあちゃんか、「こっちのほうがカワイイよぉ」って可愛がられているのかな・・・誰が選んだ浴衣かなと。母や祖母の地味な紺の浴衣を着ていた自分をフト想い出し・・・

しかしその一方で彼は制服なのだ!
こんな勝負場面で制服とは?

部活を早く切り上げてそのまま直行で待ち合わせたのか?
いえいえ、きっとこれには「♪着てゆく服選んで迷う時ほど・・・@傘の雫」という事案があったのではないかと思うのです。どちらかというと彼だってキメて行こうと思うほどのお祭りデートなはずなのに、、、自分を意識しすぎて特別な自分になるのがためらわれて、結局、見た目いつもの自分でいくことになっちゃったのかな~と、フフフと思ったのです。

♪制服 胸のポケット 
 ペンのインク 滲むハートになるんだ

胸のポケットに慌てて挿した万年筆のキャップも、カチっと締めないから外れてインクが滲んじゃったのか、”心ここにあらず”なここ最近の彼の様子が伺えて、ただ彼女へのキモチが胸元に滲むだけでなく、彼の小さな混乱が可愛いと思うのです。

ノック式の水性ゲルインキペンの芯が出たままだったのか 、とも思いましたが、やはりここは少しノスタルジックに万年筆で想像してみました。

♪風を切れば 風の音が聴こえる
♪夢ひと夏 空蝉鳴く ・・純情

以前も書いたのですが、ここからひとつ場面が違うようで、後から追加されたのではないかと思うようなニュアンスを感じるのですが、それはひとつではなくふたつ、いやみっつある。

この大人世界への仄暗いトンネルをくぐるような宵祭りを、初めて君と過ごして後日、何があったわけでもないのに、新しい自分が産まれた彼の、その滾る心・逸る心の疾走を感じるのです。夏空の下、白い入道雲より白いシャツに太陽の光をものともせず、何も恐れず自転車のペダルを無心に漕いで風を切ってゆく、その青春の最初のページを吹き抜けてゆく風の音かと思うのです。その場面転換に、聴く者は伊勢正三の歌の世界の大きさ寛さを感じてまた心委ねられるのです。

そのハモニクスの風の音はやむことなくそこで響き続けているのだけれど、、でも、年月はそれを遠ざける。そこから遠く離れて今現在、 青春は手元でその想い出という脱殻となってカラカラ音を立てる。それが空蝉の鳴き声なのだと、近頃になって想うようになった。

赤トンボはツツーっと飛び立ってすぐに見えなくなったかもしれない、でも羽化して長い人生という空に揉まれ傷つき汚れて強くなった自分の、握りしめた拳の中で、今も壊れずある夏の蝉の抜け殻は、”不変の純情”の容れ物として、誰でも死ぬまで密かに持っているものなのかもしれない。

エンディングのギターソロはまだ今からの未来。人は生きなくてはいけない、純粋だけでは進めなかったとしても、いつかきっとまた同じ風の音に出遭えるよ・というラストの再びのハモニクスがとても切なくて、暖かい目的地の音なのです。
純情~♪

・・・・・

『冬の恋~』『夏純情』『秋の葉の栞』とあるのに、『春』がなくてさみしいと思っていたけれど、『春の流星』で四季が揃った気がして嬉しい。

Re-bornからアッという間に早5年も経ってしまったのに、毎日聴いて毎日想うことが湧いてくる。Shoyanが超絶的な集中力で、限界以上に込められるだけ込めたその想いの量を、改めて今痛感しているのです(憧)。


2024年の暑過ぎて震えるこの夏に。 

七氏


※軽井沢大賀ホールのライブ映像などで岩井さんのエレキギターを聴くと、普段Shoyanご本人のギターはどれだけタメて引っ張って込めて弾いておられるかがわかる。岩井さんはきっちり100%の職人技、でもShoyanのギターは100個のマスに130個の音が入っている。そんなの不可能?
いえいえ、それが二つのスキマなのであります。
(*´ω`)v


長い石段はないですが♪
実はこの八幡さまの敷地横の地下には黒曜石の鏃がビッシリ埋まっていました。何千年も居心地のいい場所だったのかもしれません。
☆カバー・提供曲など二題

・・・

最近は仕事場への行き帰りの車中でまた提供曲集など聴いているのですが、アンディ・ラウの歌う『ほんの短い夏~原來是你最可愛』が急にハマり出して何度も繰り返しておるところです。

はたと、「Σ(・ω・ノ)ノ!!これで中国語覚えよう!」とか短略的に思ったのですが、更によく考えたらこれはもしや”広東語”なのでは!?と、歌詞も繁体字だし、、、なんだか確かに聴いていても妙におおらかで心地よいし・・・

これは『ビートルズで英語覚えよう!』みたいな感じにはいかないナと反省した次第です(汗)。

でも、繁体字の方が漢字の意味がすぐに解って、翻訳アプリを通す前にあれこれ想像できて面白いです。歌詞は中国の方が別の内容でつけていて、どうやら地下鉄や腕時計のような具体的な小道具やシチュエーションは出てこないで、ひたすらに♪人波に消えてく~ 君が一番好きだ覚悟決めた~みたいな??切々とした内容になっているみたいでした(間違っていたら対不起)。

でもでも、ほんとに口触りのいい歌詞なのでいつか覚えたいです。不思議とメロディーに合ってるんです。普段聴いている大好きな歌を新しい角度で聴ける・これも自分の置かれた状況の変化を前向きにとらえる一環であります。

※ そういえば、stillmore1曲目の赤坂BLITZの『ほんの短い夏』、 このラストのギターのフレーズがすっごくすっごく好きで、「 これって LLカスタムじゃないかな?」って思っていたら、映像観たら本当にLLカスタムだった!という自分を褒めてやりたいです(笑)。

・・・

さて、その一環で五十嵐浩晃氏の『昔の彼と呼ばせない』という歌がありまして、ずっと昔から切なくて自分の中では”悶”な萌えSONGだったのですが、ここのところ急に違う想い方をするようになりました。

Shoyan作詞・五十嵐氏作曲の、柑橘の若葉薫るような明るく切ない素敵な曲ですが、昔は

♪灰皿にいつもあふれる
 吸い殻を咎める君も
「おやすみ」と僕の眼鏡を
 取り上げる君も 
 もういない・・・

など、眼鏡と煙草の風景に悶絶していまして、ソファでうたた寝しちゃったメガネ男子のメガネはずして「おやすみ☆」と寝床に誘導してくれる彼女の光景・なんてうらやま!とさえ思っていた。

「んも~ぅ、またいっぱいになってるヨ、ぷんぷん」みたいに可愛く咎める彼女のことばかり想っていた。

けれども・・・

これ、二人の日常で繰り返されている事案なのだとしたら・・・

「ほんっとに、、いくら言っても改善してくれない」
「何度言ったらわかるのかな」
「私の言うことやお願い・って軽視してるのかな・・・」

って、マイナスポイントがきっと溜まっていったよね。

彼はその"馴れ合いの触れ合いだらけでしがない連れ合い"状態を「幸せ」だと勘違いしてたのじゃないかと。甘えるのが恋愛・心許してる証だと、勘違いも甚だしいのではないかと!?そう思う様になった。


♪僕は今でも友達じゃない

それってアヤウイよ!と思うのだ。
友達の方がむしろ最低限のリスペクトと自発的な己を律する姿勢があると思う。友達じゃない=恋人=ありのままの自分で伸び伸び暮らし・なのだとしたらなんも進歩してないじゃん!と冷や汗が出る。

35年も前のShoyanの実験的な歌詞なのかと思う。
恋愛の過渡の一例をサンプリングしたこの恋愛の幼虫みたいなフレーズたちが凄くて絶妙だなと思うのです。

正しいものだけが恋じゃないんだと。

(すべてがアヤマチなのかやはり・・・)

この彼、実際「♪僕は今でもあの頃のまま」と言っているのです。しかもラストでは「♪昔の彼ともう呼ばせない」なんて、リターンマッチを仕掛ける気でいるのです。

果たしてこの彼、彼女の最後の優しさ=中庸扱い・に甘えることなく「僕は君の彼ではなく、君が僕の大切な人なんだ」ということをちゃんと理解して伝えることが出来るのだろうか・と、ワナワナしているのです。頼むよ彼。

歳をとって、オバアサン心で若気のラブソングを聴けば、そんな風に解釈するようになるのか・・・と自分の経年を恨むような誇りに思うような・・・複雑な心持ちで通勤したりしている昨今なのであります。

(言葉足らずで勢いでアップしてしまいましたがお許しください 汗)


※しかし「♪ミルク溶けない冷たい紅茶 掻き混ぜるよなわだかまりなの」なんて!こういうShoyanの言葉・シチュエーション選びは本当に堪らないです。

熱い紅茶が醒めたものなのか、それとも最初からアイスティーだったのか?いずれにせよ、今度は綺麗な銀のティースプーンでちゃんと計って、茶葉を蒸らしてカップも温めてから注いでねって。丁寧に最後まで相手の目を見ながら飲み干してねって想うのだ。

美味しく淹れた紅茶を横顔で「ん、ソコ置いといて」なんていう態度とったらブチかましますからねっ!(-_-メ)って・・・・・あ、私感でコメントしてしまいました。失礼しました。(^^ゞ


※※引用歌詞の漢字は原文通りではない可能性があります(汗)。
※ 少々 追記をば・・・


♪冬の日の薄紅の白鳥

♪愛が涙が海が君が逆光になっても

これって、

『本来あるものがそうじゃないように見える時もある・でも、そうなっても根本は変わらない、それを僕は見失わないよ』

という愛の言葉なのだろうか。

白い象徴の白鳥が、冬の湖畔で横からの夕陽の残照に染まってフラミンゴのように紅い。本当は真っ白なのに、その時は確かに薄紅に見える。どちらの色が本当の”白”鳥なのか?

逆光になるとそこにあるはずの君の表情が真っ暗で見えない、笑っているのか怒っているのか、泣いているのかわからないけれど、、、君は君だから僕は君が好きだよ、と。

愛が憎しみに、涙が旱魃に、海が束縛に、、サイコロ振れば裏と表に・のように、すべて裏がある。わかる時にわかったものが真実なのだと、愛の曖昧な愛憎と相対し方の提示なのかなと想う。


・・・

ちょっとメンタル落ちている間に(落ちていたのか)、ミンミンゼミも出て来て梅の実から桃や李が色づき始めました。毎日季節が進んでいきます。関内ホールも狛江も見事に壁際の席で(笑)またずっとShoyanの横顔を追えます。なぜか私も楽しくなる・・・フシギね♪

今日はもうすでに佐賀!そして沖縄と、西~南のコンサートなのですね。
実は奈良でのShoyanのモノスゴ素敵な最高の笑顔のお写真拝見して、自分が燃え尽きたというか緊張がほどけたというか、安堵してしまって(謎=なぜおまえが安堵する(笑))、Shoyanが青い空高く揚がって安定したカイトのように、遠くへ安堵の彼方へ旅立たれたような気がして、独り土砂降りの雨の中で倒れ臥していたのでした。(体調も良くなかったので 汗)

あのリアルせんとくん(^.^;とご一緒のShoyanの笑顔最高です!ここ最近のShoyanのひとつの到達点なのだと想います。「懐かしい」と想われる奈良の地でShoyanはどこかにお還りになられたのかなと感じます。想い出の底で何かまた新しいご自身に遭えたのなら、またそれを教えて欲しいと待っていたいです。

もしかして、沖縄の方が涼しいのかもしれません。
東京都心の31℃より那覇の35℃のほうが過ごしやすいんじゃないかな・・・なんて、沖縄行ったことない私が妄想しています。

毎日大きなビルの学生寮の、狭い管理人室でチマチマとShoyanの大きな空に想いを馳せさせてもらってます。恋はどこにも管理人室にもあった~♪

奈良では今までで最高のパフォーマンスに到達したと伺っています。この好調子をゼヒ維持なされて残りのステージを駆け抜けていかれることと思います。そんな毎日更新の今のShoyanのこと心から尊敬して、またスムースなことの運びをお祈りしています。

愛は込め過ぎても込め過ぎることはないっ、臥してなお地下水脈の音が聴こえる・・・そんな感じで。どこかに行っても私にも視える・・と想えるように(願)。

・・・

・蛇足
そういえば、氷を齧る病というのがあるそうで(^^;)、貧血の人がその傾向にあるとかないとか・・・いずれにしても、インパクトのある光景です氷を齧る君へ。



鉢のシャルドネ♪
 ※2012年頃書いたものに加筆したものです。
 
・・・

今の時季、梅の実が道に落ちています。
そんなことを詩集のタイトルにした昔人がいます。(表紙は梅の花ですが)

熟して収穫される前に落ちた実は、実ったとは言えないのでしょうか・・・それもまた哀しいものであります。

この歌からも20年以上の長い年月が流れました、、、が、まだまだ思い足りなくて部分的にしか出力出来ていないです。しかも散漫な言葉足らずであります(汗)。

・・・

Shoyanのこのタイトルはきっと、パソコン操作からの引用句であると思うのだけど、確か「コピペ」じゃダメなんだとおっしゃっていたように思う。

ならば、何故切り取るのか?

コピー(複製)じゃ痛みを伴わないから?
切り取って穴(欠損)が生じてこその"仲直り"ということか?

物事には・・・
梅の実の表面のうぶ毛に乗る水玉のように微細な表面張力で成り立っているような、もの凄い均衡がある一方で、つつけばすぐに弾けて無になるシャボン玉のような無常もある・・・
それらはおそらく同じもので、その虹色の表面に映る凸面鏡の儚い像が私たちが生きている現在だ

・・・と、

ここ何年も、この歌に普段想っている事をまとめようとしてまとまらず、でも何か書きたくて意識し続けていたらある時面白いニュースに遭った。

ヒッグス粒子という存在が証明されたという話題。

(でも、ヒッグス粒子のwikiなんか読んじゃったらあまりのわからなさに気絶するのでちゃんと勉強はしていません(笑))

この歌の「海に広がるワイン」と「そよ風と冷たさのカンケイ」はおそらく似たもので、それがまったくそのニュースの”ヒッグス粒子”と同じ作用じゃないかと想ったんだ。

見えないけれど、今は無いけれど、「それが在る」とわかるための作用・・・

「この人と気が合うなぁ、心が通じるな」と想うのはナゼだろう。

不確かなのに強くて不思議な力・・・確実なチカラ。
縁とか運命とか、自分で操作できないんだけど自分と誰かの間に起こる不思議な結びつき(時に摩擦)。そういうことが素粒子レベルで起きていると。

でもそれって、物理学とかわからなくてもShoyanのLOVESONGを聴いて育った者にはよくわかる感覚なんだよね・・・キット。

ダッテ ショウヤンノLOVEハ 
ソウイウ風ニ カンジルモノ


※ちなみに、私はヒッグス粒子のニュースを聴いて、ヒッグス粒子の存在が本当ならば、そのヒッグス粒子の無い世界に行ってしまうことが=『死』なのかな?と思った。

・・・

~何処までも好きだから
~どこかに行っても僕には見えるから
 
「そこ」と「ここ」は同じ場所だと説明するために
「どこ」という便利なフレーズがアル♪

歌詞の末に半透明で記してあることは普段のShoyanの"時の流れアプローチ"の変則で

「"時間"の外にあること」

に及んでいて面白い。
外というか、時の流れの影響しないところ・というか、やはり時の流れにも澪のような部分もあるということ・・・ですか?(謎)

この歌から本当に20年以上経って、作者であるShoyanご自身も、このことをもっともっと深く高く掘り下げられたのではないかと思っています。

・・・

実は、たぶん、gardenの中で一番好きなアレンジの歌である。そして一番難解で(夏ヤマメよりも)一番"真理"な歌なのだ。そしてこの音の洪水は豊か過ぎて、正直溺れるのが怖い・・・

でも今、数十年も経とうとして、更にRe-bornが出来てからはこの"Shoyanっぱなし"に塗れる悦びにハマっている。

この溢れる過程の中で、過去の右手でナニかを隠し、現在の左手で誰かを抱いていたアナタ・・・でも、その両手が埋まっているならば、ガラ空きのその胸に、自ら飛び込んでしまえ!と気付いたからだ

LOVESONGは物理学の先をいっているのだ。

愛を愛たらしめるもの・・・
それに気付くことは
実は難しいことじゃない

「そよ風と冷たさのカンケイ」
私とShoyanの音楽はそれが一番しっくりくるのだ。
色々遠回りしたけどやっぱりそこに落ち着くね・・・って、何年も経ってやっと納得出来たこの頃なのです。

愛トハ イロイロムツカシイ 
ウヨキョクセツ ナノデス

・・・

追:
と、この他に、とあるテレビの番組で、Shoyanが荒木一郎の『梅の実』のことをTVで話してくれたのを聞いて、やっぱり自分がこの歌に感じていたことはそんなに的外れでもないかも!?と嬉しくなった。

梅の実の種の中には天神さまがいる・・と、そんな感じで☆


追2:蛇足

"「山羊座」のフランソワーズ"

ここで「蠍座」のワタシとしては、Hardyの他に4人の山羊座の女(ヒト)を想う。

昔のShoyanの好みのタイプって、山羊座らしい頬骨の高いヒト?♪ナンチャッテ。
それ以外のヒトもモチロン好きと想うケド・・・
(´∀`)wワハ ♪

妄想お許しを〜
※ずっと特別好きなまま何十年も聴いてきたけれど、好きすぎて逆に想うことが具体化していない。けれど一度何か書いておきたくて思いついたまま推敲もしないままに書き置いておく。

・・・

普通、人の暮らしの順番で言えば「おやすみ~おはよう」。
でも、愛しい君と過ごす時間は、明けてゆく街の「おはよう」な頃合いに抗うように「おやすみ」なのだ。惜しいほど過ぎて欲しくないのでまだまだ「おやすみ」・・・と、そして本当はずっとこのまま二人で抱き合って明けない夜の中にいたいのかもしれない。

ここでは彼女が眠っているのがポイントなのだと思う。彼女が起きていると何かしらのリアクションや意志が起こる。「ブランチはバゲットよりフレンチトーストがいいな」「今日どこに買い物に行く?」とか、そうすると摩擦が起こる。恋人同士の現実って二人の意思の擦り合わせの積み重ね。そこにケンカとか逆に絆が深まったりとか、関係が移行進行していくものだと思うのだけど、こうして寝息を立てている彼女は、さっきまでの週末の興奮も収まって凪のような状態。最高に愛おしい存在として固定されているから、安心して油断して愛しちゃうことが出来る。「嗚呼」って感嘆詞が出ちゃうほどに好き過ぎて、その存在全部を自分のモノに出来ている、満月みたいな気持ちだろうと思う。

子供のように無垢で大人の色気がギュッと詰まった、恋を知る者には堪らないラブソングだ。

・・・でも、その愛しさは何十年も経ったらどうなるのだろう・・・「愛し足りる」ことはあったのだろうか・・・?(そんなことに気が行ってしまう私の哀しいネガティブ性であります)

がしかし、そんな先の不確定なこと今はどうでもいいのだ、ただ今のこの時さえあればそれでいいのサ・・という若さの疑似達観があって、実は少し甘酸っぱいトコロが更に悶なのです(´ω`*)。

・・・

前半の、ふるさとと街のふり幅、都会と田舎の隔絶かと思いきや、東京の星空がきれいだと言うこの「気付き」。こんなゴチャついた都会より田舎の方が美しいよって”言いきらない”トコロがShoyanの詞の階層の深さ。都会の夜空だってふるさとの言葉を想い出せば近しく見える=心の持ちようなのかもしれないと、そんなことに気付かせてくれる、だから好きなのです。

『北国列車』では♪君と暮らした東京では見たことなかった~星だけど、ここでは君が横にいるから、君と共にいるから星空が近く見えているのかもしれない。(やっぱり「宇宙の距離」なんてアテにならないんだ)

で、後半になると一転、めっちゃ色っぽいシーンが浮上してくる。ひと眠りして先にフト目覚めた彼。「腕枕解けて」「君の寝息」「どんなに抱きしめてもまだ愛し足りない」「思わずくちづけてしまう」「細い肩のあたり」(いちいち羅列しなくてもいいいのに自分(笑))、鼻血出そうなほど生々しい。しかも果てしなくロマンチック(涙)。

聴いた当初の幼い自分はこのロマンチックな温度に浸りたくて「なんで正やん本人の歌唱じゃないのだろう、正やんの声で聴きたい!」と思っていたのだけど、オトナになってからはこの歌はパンダさんの朴訥としたマットな声で歌われるのが非常~にバランス良いのだと思うようになった。この凄まじく色っぽい世界は、これ絶対に?Shoyanご本人が歌っちゃヤバかったと思っているのであります。ラストのハモりだけで180%十分にであります。

(でも、このバウンス感のあるアレンジやメロディーがどことなくShoyanぽさがある気がして、全体的に伊勢正三味が濃いような気がしてしまう不思議。)

どこかの機会でShoyanご自身が「この歌はパンダさんの歌だから♪」と発言されていたこともあったようです。だけど、でも、なんだかまた今になって「一度でいいから正やんご本人の声で聴いてみたいかも」なんて思っています。ゆっくりめBPMのラテンなアレンジで♪

と、とにかくこの『おはようおやすみ日曜日』~『南風知らん顔』『サンルームの鍵』・・・あたりをいっぺんに同時に聴き始めたので、その中学~高校生頃の自分には、伊勢正三の歌世界はそんな場面に象徴されてしまって、私の中ではShoyanの歌世界は色っぽい・セクシーだ、と言うところから出発してしまったのだった。(でもそれは間違いじゃなかったと思う)

そして、今の心で受け取る伊勢正三100%歌世界の色っぽさは、また別の、もう一歩踏み込んだ違う処にあると想うようになったのも自分で興味深い。 

こういった愛の営みの最初の扉、初室、最高潮、を歌った歌は、聴く方も忘れがたくインパクトも強い。私の中でも特に想い入れの深い一曲だ。ひとつの歌が一緒に人生の愛憎や取捨選択を見て来てくれたのだなと、何十年も聴いてきて今しみじみと想う。

かぐや姫名義の歌はそんな甘い苦い曲が多いようです。

・・・

遠くない将来には「Good Morning」は不要になり、もう「Good Night」だけでいい・となる。そろそろ子守歌でも聴いてすべて終わりにしたい気持ちもある。 でもそれにはまだ少し早いから、がんばって今日と明日を生きよう。もう少し、まだまだ眠れないから寝物語の続きをせがみたいのですShoyan☆

・・・うるさすぎる都会の理由、それは何十年経ったとしても、季節や人の心の移り変わりと同じように「誰のせいでもない」んだ。

君と僕、二人で愛し合う理由なんて本当はなくて、ただ都会の底で時のハンモックに揺られて眠る恋人たちに憧れたまま、また新しい気持ちでこの歌を聴いています。



※明後日、山田パンダさんのLIVEに行ってきます。2月~4月でかぐや姫コンプリート
(*´▽`*)♪
※※行ってきた帰路に撮ったブレ写真追加
一体いつこの歌を聴き始めたのか覚えていない。
『かぐや姫・今日』というアルバムはBEST盤に収録される曲とそうでない曲の温度差が激しいような気がして(個人の感想です)、何より後追いファンの自分にはアルバムをトータルで聴き始めたというより個々の曲が先に印象づいてしまった感じなのだ。

『湘南 夏』『わかれ道』『おはようおやすみ日曜日』・e.t.c.・・それら綺羅星曲たちでいつもひっかかってしまい、その先へ行く機会が薄かった。反省。

でも、歌って不思議なもので、聴く者の人生や体調や感情その時々に突然ピタっと新しい皮膚の如くフィットしてくれる瞬間が訪れることがある。

『麦ふみ』はもちろん自分でも歌えるほどには聴き込んで、楽譜を見たり歌詞も何十年も考えながら心の片隅にいた曲だけど、最近急に尖って沁みるようになった。そんな出会いを覚えていないほど昔、きっと40年くらい前から聴いているのだろうけど、自分が荘年から初老を過ぎて、けれど安寧や安堵と正反対のヒリヒリとグッタリした今の状況には、この歌の静かな暗さに暖かな親しみを感じるようになった。(※「暗さ」って凄くいい意味での引用です)

この歌のどこか不安げなシチュエーションは、湿り気があって若い自分には触れるのをはばかられるような気がしていたのだけど、色んなものを諦めて何も得られなかった今の自分にはこの不穏は優しく映る。そこに今とても惹かれるし癒される。

たった12行
されど12行
短い歌詞だ

けれどその中に「母さん」と「君」が2回、そして「おばさん」と「あの娘」、女性と思われる登場人物が最低3人はいる。

もうそれだけで女って哀しい(涙)。
陰で泣いていたり、淋しそうだったり、そこにどんな物語があったのだろうとずっと考えてきた。「あの娘」だって成長したらそれを辿っていく未来に進む可能性もあるわけで・・・。女性の立ち位置がさみしそうなのは、この当時の作者Shoyanの感性の角度が、男性としてまだ第三者的だったのかもしれないと思ったりする。

・・・

聴き始めのころは、もしかしてこの主人公の男の子はもらわれっこで、この「おばさん」が本当の母親なのでは?などと思ってみてた。離婚したのか、シングルマザーなのか、それとも身体が弱くて子供を育てられずに田舎に帰ってきて療養中で、自分の兄弟姉妹家庭に預けたのかも・とか、いろいろ妄想は膨らんだ。「母さん」が泣いていたのも自分の姉妹(おばさん)がもう不治の病なのを知って不憫でとか・・・もうホントに勝手に色々想像してみた。

でも、やっぱり今はこの「おばさん」はこの子の実母ではなくて、どこかに自分の幸せを置き去りにしてきた哀しい過去がある人なのかもしれないと思うようになった。甥っ子姪っ子や近所の子供を自分の子供に見立てて接してくれる”仮想のやさしさ”が暖かくてせつない。本当じゃなくても真心だってことがあるよって。実際の子供の有無は関係なく「母さんみたいに やさしい」の意味は、今はそんな風に想っている。
そんな中で君に送られた撫子は聴き終わった後に小さな救いになる。
半分野草のような、ささやかな撫子の花。子どもの頭を優しく撫でる誰かの手。野辺や庭先でそれを摘んで相手に贈る、それほどの小さな寄り添いだけでいい、そんな気持ちになれるのがやはりShoyanの詩の凄いところで、単なるノスタルジーだけじゃない奥行きの配慮を感じるんだ。

今、こんな年齢になってそういうことに気付けて安堵しています(*´ー`)。

・・・

作曲も歌唱も南こうせつ氏で、その分透明感と切々とした切り絵のような情景が独特の世界になっていると思うし、石川鷹彦師匠のしっとりしたアレンジ、幽けきマンドリンの簾越しのような音、パンダさん?の低い静かなコーラス、「ななつの撫子」で声が重なって印象深い。

涙もななつ
撫子もななつ

「な」のつくものみな「ななつ」で一揃いなのかな。


数え歌を歌っている「君」と「あの娘」が同じ時系列(昔)にいる同一人物なのか、それとも「君」と一緒に里帰りしてる今現在に挟まれて昔の情景が思い出されているのかわからない、その辺りは決めないでいようと思っている。

「♪忘れられない」とあるし、撫子と麦踏みの時期は重ならないかもしれないから、時は二つ以上あるのかもしれないけれど、そういう時間を系列で決めなくてもいいと想う。その色んな時間が交錯してるからお伽話のような物語感が出るのだと思う。

・・・

私は麦踏みをする地域に住んだことがないので、なかなかに実感はできないかもしれないけれど、踏んで(痛めつけて)逆に強く健やかに育つ仕組みは、素で生きる人たちのささやかなすべなんだなって、同じ位置で今は想える。そんな素朴な養生の仕方で実りの充実を待つ世界、一方で都会の喧騒や虚実入り混じった光の中で手に入れた大きな充実と、その両方を机の上に並べて吟味している作者の、Shoyanの「その時」が封じ込められているような遠い歌。

例によって遠い=近いなので、今はそっと手の平に乗せて頬に当てるように、この仄暖かい歌を聴いている。

九州の麦畑と竹の林の風景に憧れながら・・・



※実は、、、
一時は小麦の産地が義実家だったので、早春の麦畑の寒々しい青さは知っているのですが、それは前世の記憶としてしまっておきます。(/ω\)

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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