Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0

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『HEART BEAT』〜 Heartbeat
ってナニ?という人も多いのではないかと思うくらい、伊勢正三の音楽歴史の中で最深部に埋もれてしまっているようなアルバムなのでは?という印象。

ずっと以前に、いの一番にこの歌のことを書いたことがあるのだけど、大切過ぎて奥底に仕舞い込んでしまった。けれど、ここに載せていないことをこの一連の準ちゃんインパクトで想い出し、今載せないとこれからもう載せることがないかもしれないので突然投げてみようと思います。

・・・

例えば、伊勢正三の曲で無人島に持っていく10曲ってナニ?と言われたらこの歌が5本指に入るのだ。

作詞も他の知らん人(スンマセン)と共作になっているし、発売時はほぼ休養時期の扱いだし、風やかぐや姫のファンたちが一番離れていた時期のアルバムだから、話題にあがることもほとんどなくて、評価すら不明のアルバムなんじゃなかろかと思っている。

けれどけれど、このアルバムがなかったら私はShoyanのファンとしてここまで生きてこなかったかもしれない、と思うほど大事な作品達なのだ。(でもだから私はやはり真の伊勢正三ファンじゃないのかもしれません 汗)

以下、20年前に書いたものに注を加えたものを載せておきたいと思う。

・・・


高校一年生の11月、自分の誕生日のすぐあと(11月5日)に発売になったこのアルバム。初めてリアルタイムで発売に立ち会えた一枚だったので思い入れがとても深い。たしか駅前のレコードショップに予約した・予約!これも初体験!自分で自分への誕生日プレゼントと勝手に決めて、胸躍らせて買いに行ったっけ。
当時「伊勢正三のレコード」を買う女子高生なんていなかった。ましてやこのあと、お年玉をはたいて『ビデオ・かぐや姫フォーエバー』を取り寄せしたりしたものだから、レコードショップからは完全に変わった高校生と思われてたようだ。ちなみに、そのビデオフォーエバーは自宅にビデオデッキがなかったので(ないのに買った)高校の最新設備の視聴覚室を占拠し、少数の理解ある友人と若いフォーク好きな先生たちを招き大画面で上映会をしたのだった。(良い思い出^^b)

・・・

で、タイトル曲『Heartbeat』。
その頃、シンプジャーナルやGBという音楽雑誌があって、それに少しだけどShoyanの記事・最新情報も出ていた。書店でバックナンバーも調べて取り寄せてもらった。だからアルバムの予備知識もあった。

「自宅近くに自作のスタジオを作って、そこで自分で録音したんです」と語るShoyanがすごく楽しそうで、このアルバムはとても暖かいものに思えた。『スモークドガラス越しの景色』や『ORANGE』に比べてもっと個人的というか、伊勢正三ご本人、ひとりのShoyanに近い・そんな感じのこじんまりした世界に思えた。
そんな密室感濃厚な中で

♪~よりそう二人 
  はじける暖炉も燃えつきて
   とけてゆく夜~  
     An haha…(悶)

と、いう世界は16歳の孤独な自分にはまたとない隠れ家だった。単に誕生日記念に買ったから好きなだけじゃない、なんていうか、この甘ったるい焦がし砂糖のような愛の世界が私は大好きなのだ。私はこういうShoyanが好きで好きで、今までずっと不器用な自分をこの歌に慰めてもらってきた。思えば必ずこの季節には先の『あいつが生まれた朝』とともに毎年ヘヴィーローテーションなのだ。

どうして?
人恋しい季節だから?

いやもっと懐かしいものへ
自分が戻れるからだ

・・・

伊勢正三はクールでカッコよくあるべきだ・と思う人には、わからない世界かもしれない。
実際、Shoyanはいつでもすごく素敵だ。
スマートでお洒落で金星が天秤座的で(?)若い頃もお歳を重ねてからもずっとカッコいいし、美しいものがよく似合う。だけど、Shoyanの"ゆらぎの部分"はもっと魅力的だ。

『Heartbeat』は微妙な片想いと恋の成就の過程でウブな気持ちが高揚していて、そこが無性にくすぐったい。こういう気持ってオシャレじゃない。人を好きになる気持ちってカッコ悪いんだ、
苦恥ずかしいんだ。

でも、それを駆逐する甘さが『Heartbeat』にはある。
それって何だろう?

"純粋さ"かな
このアルバム全部に感じられる"素"な感じ、Shoyanの裸な感じ、それが愛しさの素だと思っている。

近いんだ、Shoyanが(涙)。

・・・

♪~車とばして 夜の湖 
 言葉途切れて 街の灯り・・・

Tromboneの間奏がスモーキーでいい。
夜景と流星の軌跡のような一音が煌めく。
二人だけを切り取って包んでくれるような、ステージの転換にぴったり。JUN氏の蕩けるようなアレンジと音も本当に暖かくて滑らかだ。(特にこの準氏のシンセベースはいつも好き☆)

このシーン、すごく憧れた。
いまだに憧れのまま実行に移せていない。
自分の妄想では、16歳で聴いた当初から設定が山中湖で(謎)「いつかオトナになったら独りでこの曲をかけて夜のドライブをしてやろう」なんて思ってたのに、何も出来ずもう人生の後半にきてしまった。

だがしかし、まだチャンスはいくらでもある。
いつかまた昼間でもいいから、山中湖のお気に入りの店の温かいチェリーパイを食べに行きたい。

(2025年時点実行できていませんが^^;)

そんなことを想うだけでも胸が暖まる。

この歌は三十年(いや四十年以上)近くも私を暖め続けてきてくれた。
休みなしにだ。
ShoyanのLoveSongはカシミヤの手触りだ。そして吐息やうっすらかいた汗の生々しさが残る。自分のベッドには誰も寝かせたくない・・・そういう独占的な思い入れを持たせてくれる歌。

Shoyanが弾くラストのエレキギターは最高で、エンドロールのフレーズなんて天使が舞い降りてくるかのように甘い、甘い。キャラメルリボンで絡める~って感じでShoyanの愛情100%の音だ。イントロから最後まで本当に終始甘く切ない。

・・・

当時このアルバム発売に併せたツアーもあった。それが人生で初めて行った伊勢正三のコンサートだった。1984年11月20日の渋谷は寒かったのを覚えている。公園通りの街路樹に何枚もコンサートのポスターが貼られていた。ツイードのジャケットでちょっと斜に構えたShoyanの肖像は
アゴヒゲがなくて鋭いまなざしだった・・・あのペールブルーのまなざしが今でも一番好きだ。

♪今 誰よりも君が好き・・・

これからもずっとそう歌っていて

メロディーの中のふたりの鼓動が聴こえる。
流れてゆく時間はカンケイない
隔てるものも何もないみたいだ
例え、いつの日かラストダンスの時間が訪れても、それは怖くないみたい・・・

時が流れ去っても
ラストダンスがキャンセルになっても
その寄り添った時間はそこで
ずっと、ずっと、誰にも邪魔されずに
刻まれ続けるBEATだから♪

見えなくても・・・
同期している動機のドキドキが
アナタとワタシの永遠だったら
いいなと想うのです。



2005年11月10日(2013年10月改)

2025年7月20日
私の父が昔からよく

「歌手が歳をとってから”我が人生が~”とか振り返りソングを歌うようになるけど、あれはあんまりよくない」

的なことを言っているのですが、私もそう思います。
キャリアを積んで大御所になると、そういう歌を集大成的に歌いたくなるのかもしれないけれど、そう歌ったとたんに病に倒れたり一線を退いたり、自分で自分に自己暗示をかけちゃうのではないかと思うほど、なんとなく、言霊的なことがあるような気がします。(変わり者親子の個人的な意見です(汗))

その点Shoyanはスゴイ。
弱冠24、5歳の時に”人生”を歌っちゃった!!
しかも、

♪ふり返るのはやめよう

と!

しかもしかも、

♪喜びとか悲しみとかの
 言葉で決めて欲しくはないっ 

と!

ここから始まるストーリ~!

Shoyan(とその歌たち)にとっての人生とは、すでに最初から振り返らずに決めつけずに常に傍らに感じて自分自身のど真ん中で進んでいくものだったのだ。Always現役なのだ!

そんな風に、常識にとらわれない角度から芯の部分を教えてくれる。
だから好きなんだ!


Shoyanの音楽は、季節の訪れを告げてからも淋しい人の心にずっと吹き続けて来てくれたその風そのもの。

私たちはその季節でありたい。
Shoyanが導いてくれたその愛の季節を、ずっと一緒に生きていきたいと想っています。

ステージの上のShoyan、客席の私たち、いつも離れていて互いに顔も知らない間柄なのだけれど、でもココロはひとつなのがスゴイ!

壮大な「ささやか」の集合体が深い感動を生み出しているんだなって、噛みしめながら席に座って拍手を送るんです。

ここへきて『ささやかなこの人生』というフレーズが違う印象で再浮上してきました。すごくしっくりくる感じです。もしや自分の心境の変化って自覚していないケド、そういう節目なのだろうか??

と、イミフメイに自分らしく振り返る作業を進めながら海老名当日を迎えられたらと思っています。心の底から楽しみにしています!☆



※先日、ワイナリーの知人がアップしたブドウ畑写真のBGMに、某歌手カバーver.の『ささやかなこの人生』が使われていてタイムリ~♪と思ったのでした。Shoyanのコンサートに誘ってみようと思っているのですが、ナカナカ我が地元ではコンサートがなくて・・・そんな機会が訪れることも祈っています☆


 津久見駅の駐車場に桜の実がなっていた。
 サクラ&みかん♪(河津桜かな)
この歌を最初に聴いたのは自分が中学3年の時であったか、当時お年玉以外はほとんどお小遣いのない中学生だったので、レンタルレコードで『windlessblue』と『時は流れて…』を借りたのがきっかけであった。

ちなみに『海風』は自分で買えたのだけど、ソロアルバムを優先的に買っていたので『風ファースト』と『Moonynight』『古暦』を聴けるのはずいぶん後になってしまうのであった。80年代半ば、当時レコード店からLPも消え始め、そもそも風やかぐや姫、伊勢正三という売り場自体が縮小されて消えつつあったのだ(悲)。

で、この歌にまつわる思い出がある。
高校生になり、少し大人になって?先生方ともずいぶん親しく話が出来るようになってくると、国語や美術の先生方から結構可愛がられるようになり、「伊勢正三が好きだなんて渋いじゃないか七氏」と70年代の音楽の話などするようになりました。

そんな中、風やかぐや姫を知っている若手の国語教諭のS先生から「俺も改めて聴いてみたいな、何かおすすめ曲をテープに録音してくれないか」と頼まれました。Shoyanの歌の話題が通じる他人がいることで嬉しくなり、私は手持ちの音源を集約して46分テープ一本に風・かぐや姫の中で自分の好きな伊勢正三曲(勝負曲)を集めたのであります。

※当時、ダビングとか録音に関して個人で楽しむ範疇だったということで、多々ある録音エピソードお許しください<(_ _)>


そのS先生は「伊勢正三って天才なんだ、特に『冬京』という曲が凄い。一番の名曲だと思う。」と言っていたので「話の分かる先生だな・・・」と思っていたのです。

その『冬京』ももちろん入れて、編集した七氏BESTカセットテープを先生に渡したところ、数日して「七氏、ありがとな、久しぶりに色んな曲聴いてやっぱり良かったわ」と、作った甲斐のあるお言葉をいただけたのですが、

「でもあれ、なんだあの曲、『何かいいことありそうな明日』って、なんであんな曲入れたんだ?? あれはいただけないなぁ・・・」

なんて言われたんです。


Σ(・ω・ノ)ノ!



「えっ、そ、そうですか。。スミマセン、汗汗」

慄く私。

S先生は、

「詩的じゃない・平易だか安易だか、含みもないつまらない曲だ」的なことをおっしゃりまして、ワタクシのShoyan愛をわかってもらえなかったのです。

今こんなことを言葉にして打つのも憚られるようなそのS先生の言葉ですが、私は別にショックではなく、

「国語の先生っつったってもこのShoyanの風のような軽やかな日常視点の必然性を理解してないんだな・・・フフフ」

と、人の感性の多面性を学んだ事件でありました。

そのBESTテープに私がこの『何かいいことありそうな明日』を選んだのは、きっと、もうその頃から独自路線で流浪の根無し草の道をゆきたい自分を、明るく導いてくれる曲だと思って親近感を持っていたからだと思います。

♪君と暮らす毎日も平和過ぎるほど

それが本当はどんなに脆くて不確実なものであるのか、Shoyanの他の曲をちゃんと聴いていればわかることであって、それゆえにこの平易な日常を愛おしむ気持ちも湧くのだと思います。日常を日常だとしか思っていない感性では、歌の裏表まで及べずにもったいないなぁと思いました。

安定したキャリアでエリートであるS先生には、この歌の深い軽みがわからんかったのだろうと、今になっても思います。(なんてエラソな私(笑))

・・・

で、この歌、自分の年齢行けば行くほどもっと好きになりました。

中年を過ぎ、老年に足を突っ込もうとする今になれば、加速的に過ぎていく毎日は絶望的でさえあって、その抗えない刹那の怒涛に対して焦ったり悲しんだり嘆くばかりですし、暗澹たる気持ちになることも増えるでしょう。

でも本当は若い頃と時間の量は同じなのです。
毎日が過ぎて人生が残り少なくなっていくと嘆くよりも、面白がって過ごして、本当に終わりを迎えたらまた次の人生の”新たな毎日”に飛び移ればいいんじゃん、と軽く考えられるこの歌なのです。

♪明日は明日の風に吹かれて・・・
  &
 風の行方 誰も知らない・・・

でいいのだと。
何かいいことありそうな来世・なのです(*´▽`*)♪

・・・時が経って、
この歌、”しあわせの歌”であると今でも想っています。
初期の愛は粗削りであって、年月が角をとっていくのですが・・・うまく研磨できるか欠けてしまうか割ってしまうか・・・それはまだあとの話。しあわせの原石を手に取った頃の、初夏のような歌だと思ってずっと大切にしております☆
still moreに収録のLIVEバージョンも、久保やんの軽やかなハモニカ&ハーモニー、そしてよく聴こえるギターの音。若きShoyanのご機嫌すぎる♪ひゅぅっふ~な合いの手☆ 
一緒に歌ってみるとわかるこのめっちゃ滑らかなメロディー!
なんと楽しそうなステージなのか。 

聴くたびに元気が出るでしょう!

Shoyanの振り幅の広い大感性の一曲、いつかステージで聴いてみたいと今でも想って居ます☆






※しかし、自分が吸うたばこを買い置き忘れた同居人を、咎めて怒鳴りつけるってどんだけ昭和の亭主関白野郎なんだこのオトコは(笑)、といつもモヤっとしていました。

でもおそらく今のShoyanなら歌う前に、

「こんなこと今はありませんよネ、きっと歌中の彼も若気の至りでまだ本当の愛を知っていなかったのでしょう・・・」

とMCで説明してくれそうです。

(そして続けて『わかれ道』を歌ってくれる妄想をしているのでした)
 ^^;(*´ω`)♪
先日の関内ホール、私がこのブログでライブリポを載せるようになってからこの歌をLIVEで聴くのは、なんと初めてだったようで(泣)、、、どれだけShoyanのコンサートに行けてなかったのかの証明で寂しく思ったのですが、でも、でも、その”再会”がギター一本で、関内の裏通りのような素敵な場所でだったということは今年多数あった嬉しい時間の中のひとつです。

とてつもなく巧みなのに力みないナチュラルなギター、柔らかく弾む声、あの日のShoyanのプレイと歌唱にはオリジナルの音全部聴こえていて、また更に今がそこで輝いていた。

今のShoyan、本当に凄いっって如実に想う一曲で忘れ難く、今もあの空気感を忘れられないままいます。

この素晴らしい愛に溢れた1年を素敵な予感のするこの歌で締めくくりたいと思います。

Shoyanに最大限の感謝を込めて☆


・・・

それを知らない私にとっての”風”はこの曲のイメージなのだ。

”風の正ヤン”のイメージはこの歌から始まる。
お洒落で、情景が目に視えるようで、切な明るい展開にキュンとする。出てくるアイテムも”大人若者”チックで、演奏もアレンジも垢抜けて、足の細いスラっとして右腰をひねって長い髪のShoyanのポートレートが銀の額縁で飾られているような気がする。

準氏の軽やかな弾むピアノで始まるイントロダクションからして、すでにオトナな男前のサウンド。余った弦をクルクル巻いたフォークギター一本で切々と哀しい歌を歌いあげる世界はそこになく、腕に覚えあるフレッシュなミュージシャンたちと野心溢れるアレンジャーのアプローチがShoyanの才能の濃さを無限に拡張してゆく感じが如実だと思う。しかも、その時代と言うか世代感・街の雰囲気まで軽やかに置いてあるので、今聴いても単なるノスタルジーではない活きている恋人たちの風景を感じることが出来る。

(けれど、やはりShoyanご本人がギター一本で演じてもまったくその濃さは変わらないのですが・・・♪やはりそこがスゴイ)

♪そして二杯目のコーヒー~

コーヒー一杯分待たせたのかな?

昔は最初から二人がこの店の片隅に座って二杯目にかかるほど話し込んでいる情景かと思っていたけれど、デキる彼女は待ち合わせの店に先に来ていて、コーヒー一杯分飲む間に過ぎた時(すれ違いの当時)を今ここで独り想い出したら涙こみ上げてたのかもしれない・・・なんて思ったりもする。そこがこの彼女の真面目可愛いところなのかもしれない、とか。

僕が”ちゃんとした”から君は本来の”やさしい女(ひと)になった”(戻った)。

以前このブログで”やさしい違い”について書きましたが※、彼女をこの店に呼び出す説得力ある何かを彼は提示できたんだね。今度の”僕の部屋”は誰かのせいにしない、ちゃんと自分で自分を相手に与えることが出来る独り立ちの部屋なのだと思う。

※『やさしい違い』
♪いつか見たフランス映画のよう~

帽子を深めに被っているのはどっちなのかわからないけれど(たぶん彼女?)、サラッとクイッとここに”フランス映画”なんて単語を嵌めこんでくるのが素敵。どの映画だったのだろう・・・。

原題が『アメリカとフランス』か何かであったと当時の本に載っていた気がするが、アメリカの歌とフランスの映画、ぜんぜん違うものでもカップリング出来ると、それはキミとボクもそうでありたいという彼の恋の気付きなのかな。

この歌、詳しい状況説明は少なくて、彼と彼女のジオラマの街並みと、ドールハウスのようなカフェの風景、そして天候の時系列があるだけなのが想像を駆り立てて好いのだ~。この午後の一席の過去にどんな経緯があって、ウフフ~で連れて行った後のこれからの二人の未来もどうなるのか、それも聴き手の想像力とオリジナル感性にすべて委ねられているところが、シンプルで非常に好いと思うのです。

この、冬の穏やかな雨が降り出して、それが雪に変わる頃合いの午後のひと時。人生ってそんなほんの数時間でガラリと流れが変わるのだなぁと、お洒落なお兄サンの弾き語りで諭される無意識の深さも孕んでいる洒脱な曲、風の大代表曲だと思います。



※Shoyanの”金星は天秤座”っぽさ=”恋愛ハイセンスバランス感覚”が良く出ている曲で惚れ惚れします。(また星占いなんてあやふやなもので語ってスミマセン(笑))

そうそう、ウフフフ♪って字のごとくそのままの発声のハミング?スキャット?が、とても面白いフレーズで可愛らしいです(*´∀`*)。
この歌、ランダム再生していると必ずコーヒー飲んでいる時にちゃんとかかるんですよね♪愛おしき歌です。


※※これまた以前に少し書きましたが、イントロのピアノソロが途切れた後に小さく♪チチチーチチチーとカウント音が入っているのが聴こえてなんだか面白いです。ヘッドフォンで聴いてみて下さい♪
中標津空港のライブカメラもありました。
(現在は根室中標津空港)
http://www.nakashibetsu-airport.jp/webcam/


こういう山並みのことなのかな。
※ライブカメラスクショしてみました

これで、命まで凍える遠隔体験が出来るかも!?

・・・

そう言えば、この歌にも時計が出てきます。
けれど、、はずして握りしめたその時計は誰のものだったのだ??
「いつもそばにいたいから」って言ったのは誰?
誰がはずして誰が握りしめたのだ?
と、ちょっと謎に思って聴き始めた当時から決めかねていた。

この歌。時系列が3つあって、まず彼と彼女(一応男女にしておく)の搭乗前の別れの時、別れた後飛んでいる飛行機の窓の外の雲間を眺めている時、そして随分時間が流れた後再びその空港に彼ひとり戻ってきた今。色々場面転換が多い。

聴いた当初から暫くは

「(遠く離れても)いつもそばにいたいから(私の身代わりにして持っていて)」と、彼女が自分の時計を渡したのかな??なんて思ったりもした。だって彼女のほうが想いを残している感じがしたから。

でも、これは

振り返らずに去りゆく彼が”俺の身代わりに”と自ら外して彼女に託して、それを受け取った彼女が感極まって握りしめてた・ということなのだろうと思う。
しかも「いつかきっと帰るから」とも言うておるこの彼。

(「いつもそばにいたい」って彼女がねだったのかもしれないけれど)

駆け出していった彼女は「さよなら」と言い切ったわけでなく、「言いかけて」なのだから心切り離せたわけじゃないんだよね。どちらも別れる理由がないくらい想い合ってるんじゃなかったのか・・・?

なのに、、、
なのに、、、

♪あの日から二人は心も離れて・・・

だなんて。

この、物質的に離れちゃったら必然的に心も離れちゃう呪い(木綿のハンカチーフ症候群)が、この頃の歌のスタンダードだったのだろうか・・・

でも、Shoyanはきっとこの歌の状況をこの後もっともっと深堀りされたのだと思う。とっても素直な別れの切ないやるせない歌だと思うけれど、まだ見えていない部分があるはずだ!と。この美しい歌の風景はこれで終わらせたら勿体無い・と。

その追求がその後の活動沈黙期間に繋がり、深まった考察は他の歌曲に表現されていったのだろうと思う。この『NAKASHIBETSU』は懐かしい雰囲気だけれどキッカケの歌でもあったと思うのだ。

(実際、風の頃を彷彿とさせる感じが好き・という聴手は多いと思う)

少しずつまだ何かが足りなくて、でももうすでにひとつの世界になっていて、これはShoyanのデッサンみたいな歌なのかなと想っている。


この彼、過ぎ去った時間を手繰るように、今になってまた別れの空港に戻ってきてあの頃の景色を探すなんて・・・この後の展開が気になる。

その後、彼女どうしたのだろう。
ここにいるのかな。
いないのかな。

それだけでもう一曲出来そうな気がしています。

・・・

時系列があっち行ったりこっち行ったりするから、ちょっと茫漠と流すような気持ちで聴いていた時期もあった。
でも何より私はこの歌の荒涼感が好きなのです。
特に♪心も離れて〜の後の間奏の転調?の感じが、一見光が差したかのように聴こえるのにめちゃ孤独で。
たまらなくさみしくて、たまらなくやるせない、、、凍る夕日が染める山の端を独りで眺める気持ちは不変なのです。

晩秋のしかも緯度の高い北海道の、小さな飛行機しか行き来しないこの広い場所で、彼の思い出はすごく小さくて、遠い山並みに吸い込まれて消えていきそうです。そんな人の心のちっぽけさが好きなのだ。


渡したその時計、今どこで時を刻んでいるのだろう。
もしくはどこか誰の目にもつかないところでその針を止めているのだろうか。逢えなくなった人の身代わりグッズ、傍にあったら辛そうだよ(涙)。

ポケットの中の写真だったら”その時だけのもの”だけど、時計はまた新しい時を刻みだすこともあるから油断ならない。少しでも心が動いたら、自動巻あげで動き出すかも・・・!?

ここへ来て、荒涼感を凌駕する不思議な再会などを夢想する気も湧いてきた。40年聴いたら時はいくらでも回るし離れない心もあるって気付けたからかな。歌が育ちそうで、今余計に好きになっている不思議な歌だ。




※中標津という場所を歌にしたShoyanの想い入れは如何に?と永年想ってきたけれど、現地にも行けずに時が経ってしまった。今調べたら小さなAirbus320で羽田からも直通便があるそうです。死ぬまでに一回行ってその景色を探してみたい気持ちです(憧)。

今回、かつしかのステージでのサワリだけ〜関内ホールの弾き語り、でそのパフォーマンスがあまりに切なくて心震えてしまい、暫く茫然自失でさみしさの渦の中にいたのですが、、、

※ゆえにフリーズしてしまいました(汗)。

改めて想いまくって考えまくって、その先にフトこの歌の不思議さを再認識したりする。

つい最近まで”新曲”だったけれど、もう31年の時が流れていた。

1993年『海がここに来るまで』で初めて聴いた時、なごり雪の派生曲なのかなと思った。汽車で去ったキミは飛行機で還ってきたのかと・・・

その感触は今でも変わらない

ただ、君の指を見て=指輪がない、ということは=この彼女、住む場所も変えたし他の誰かと結婚もしてた〜更に離婚までしてきた〜しかも東京に戻ってきた〜しかも元カレに連絡しておる!←イマココ

ということが今聴くと改めて生々しい。

なごり雪は”僕と別れて東京ではないところへ去る”という事実だけなのに、この歌の場合、「時はなぜ過ぎてしまったの」の「時」の中身が盛り沢山過ぎて有り余るくらいなのだなと改めて思った。

・・・

とその前に、、、

♪冬の桟橋は灯り消えたクリスマスツリー

って、どんな情景なんだろう。

船も着岸していない、人影もない、きっと観光用の桟橋ではない荷下ろしや海上保安関連の閑散とした業務用桟橋なのかな。もう30年も前の羽田のことを思い出せないくらい時が経ってしまった。だから、史実は詳しい人に任せるとして・・・当時私はこういった言い回しにガツンと心掴まれた。後の「ストロボの電車」「ステンレスの湖」みたいな、アタマじゃなくて感覚的にわかる光景がさすがShoyanのフレーズだなって思ったっけ。

♪ 工場の煙 螺旋の倉庫 淀む運河 を見て
ふっと懐かしいため息が出るなら・・・

これは、彼女と再会した今、フト空港の外を眺むれば目に入る現在の景色?普通では味気ない景色。リクリエーションの欠片もない。でも彼女が目の前にいると途端に意味のある景色になる。

♪貨物船ばかり浮かべた港だって 
君とならいつまでも
ロマンティックな夜だった・・・

本来なら無骨な・風光明媚ではない京浜地帯の工業的な眺めや、化学的な人工物ばかりの風景が想い出のデートシーンだという部分は、Shoyanが逆説的に(天邪鬼に?)セッティングした技なのかと思うけれど、私はこんなところに連れて行ってくれる彼氏イイナと想っていた。

工業地帯の灯りや倉庫の建物群の眺めや夜景がエモいと人気が出てツアーまで組まれるようなご時世より以前に、ここに着目してロマンティックだと言い切ったShoyanの目の付け所にグッときた。

しかし、、、

彼の方は彼女さえそばにいればどんな景色だっていつまでもロマンティック、と思っていたかもしれないけれど、彼女の方はその時どう思っていたのかな。。ここに一抹の不安が隠れている気がする。

その後の「さよなら」を言わされてしまった彼女。今せっかく再会したのに、彼が運転する車に乗らないかと誘ったのに、モノ=monoの一本レールでいいという彼女。しかも笑顔で・・・

「私は東京に還ってきたけれど、アナタのもとに還ってきたのではないのよ」と念押しするために到着便の時刻まで教えて彼を呼んだのかな?その有り余るほどの”過ぎてしまった時”の先に・・・

その思惑やいかに・・・

彼が示す当時の思い出語りの無機質風景があまりに個人的想い出で切なく、また今の複数の交通機関の無機質な物質運びが人の心を置いていくようで、

ラストの

♪君はまだ気付いてくれない・・・

と締めくくるから、メチャもどかしく煩悶する。届かない想い、伝わらない気持ちが我が事のようで哀しい。

しかも、あまり現実的ではない(ある意味劇画チックとも言える過剰演出の)首都高で並走するほど粘着質ギリギリな彼。だけど彼女の方は「気付いてくれない」のではなくて「気付く気がない」のだから・・・やっぱり無理なのだこの恋は・・・泣

モノレールと首都高は平行世界なのではなく、未練の別次元なのかなと思う。

※でも、彼女チョットやり過ぎじゃない?
彼、期待しちゃってたよ?^^;


彼の言う♪忘れたはずの言葉〜とは「一緒にいたい・離れたくない」というコトだったのだろうか、けれどそれは贈ることが出来ない未遂未満の贈り物だから”悲しい贈物”なのだきっと。それは今、彼の助手席のシートにちょこんと置き去られて彼の横顔を見つめながら首都高の継ぎ目で揺られているかもしれない・・・(哀)。

・・・

この曲を聞いた当時は

『モノレールはこの先芝公園のところで首都高と交差するではありませんか』

と思って、少しはこの二人の未来が重なる目もあるのかな・なんて希望的観測もしてみてた。だがしかし、それは未来ではなく今現在のこの到着便のロビーラウンジの邂逅の一瞬だけのことだったんだと、あとから気づいてまた哀しい。

31年経って、人の心のどうしようもなさを感じる身としては、こんな彼女とっとと諦めて、もっとマニアックな恋人探しなヨ(*´ω`*)と、彼の肩を叩いてやりたいし、彼女の方にも都会で自分のやりたいこと探して貫いてくださいっ、って激励したい気持ちだ。

・・・

窓の外の駐車場に降りる粉雪は、冬の初めの儚いイントロダクションとして降りてきていた。だから、やり直しできるのかなと思っていたのだけれど・・・そうじゃなかった。粉雪はほんの一瞬見えたあの頃の幻だったのかもしれないと今は想う。

エンディングアウトロの最高艷やかなShoyanのファルセットのスキャットに続いてギターソロもダントツの美しさを放っていて、煌めいて儚くてそして強い。アルバムの歌詞スリーブにはMartinD45のヘッドの写真があって、その印象がとても濃い(実際のレコーディングで使用されたのはどのギターか知りませんが)。そして全編またメロディーが美しい。サビなどその長く伸ばす部分が本当に無理なく言葉にフィットしていて、そのフレーズが尾を引いて連なりあってるみたいだ。濃灰色の都会の上空に吹雪く真っ白な粉雪が、閉じたまぶたに冷たく沁みるようなその感覚でずっと聴いていたいと想う曲なのだ。

「淀む運河」や「駐車場」など、この曲は美しいアイテムや風景は一切出てこないのに美しいと想う不思議な曲。美しいから印象が変わらないし色褪せない。聴くものがまるでその歌の中に入って追体験している臨場感が変わらないのだ。


Shoyanがよくおっしゃる”映画のように・カメラワーク的に”ということが如実にわかる一曲です。


空港と首都高とモノレールと・・・人々は行き交っているのに心が行き交えない切ない二人の行く末を、またこれからも想い巡らせながら聴いていく今年の冬です。




※この彼の行動や、いつまでも思い切れないもどかしさ切なさに、私は個人的にとてもシンパシーを感じていました。そういう部分が自分にもあるとそう思いながら長いこと聴いてきました。

聴いた当初は到着した(帰ってきた)のに「さよなら」なんだと思って悲しかったけど、そもそも最初から「さよなら」が搭乗していて到着した(トドメを差しにきた)=『さよならの到着便』ということなのだと今になって思う。


哀しすぎる。


当事者の気持ちになるとやはり辛すぎる。
傍観者として聴くのが一番良いような気がしています(*´ω`*)タメ息。


1990年代に自分で撮影した唯一残っている羽田空港の写真を古いパソコンから発掘してきたので載せておく。


いくら古っぽく加工しても
写っているものは2024年(@_@。

思いつくままにバラバラな文章でお届けします。どうかご容赦ください<(_ _)>。

・・・

この曲はイルカ氏がカバーしたのではなく、イルカ氏のために書き下ろした歌ということで女性が歌うことを意識しての柔らかな表現「ぼく」と平仮名なのかと思っている。

しかしそれを近年Shoyanご自身がセルフカバーされるようになって、「僕」と漢字にして音源にして発表してくれたことで、歌の素顔にまで届いた気がしてとてもとても嬉しかった。

聴き比べるとわかること・・・

イルカ氏の歌は往年の少女雑誌の読み切り連載を読む心地で

「この漫画短編凄く切ないのよ、、、」
「そうなの、この彼と彼女どうしてケンカしちゃったの?」
「なにも飛び出していくことないのにねぇ」
「私も髪伸ばそうかしら」

などと、放課後に部室で読みまわすような雰囲気があるようで、それが優れたストーリーテラーとしてのイルカ氏のキャラと相まって親しさを感じるのかもしれない。

※この頃のベースラインの贅沢さよ・・と思います(T_T)。編曲は『神田川』と同じ木田高介氏とのことで、この少し速いテンポもシングル化を意識してのものだろうか。

いま改めてイルカ氏バージョン音源を聴き返したら、Shoyanご自身が歌うものとは全く別物の曲に聴こえるほどだ。先日の関内ホールのなごり雪でも感じたことだけれど、Shoyanが歌うと音と音の間にある想いの音が多くて、想像もつかない情報量だと思うのだ。

(どちらが良い悪いではないですヨ)

Shoyanバージョンの場合は”我が事”として聴いてしまうのです。

見え方が全く違うからかな。
飛び出していった側か、独りコーヒーを沸かす側か、いずれにしろ同じような心の擦り傷を持つ者が感応してしまうものがあるような気がする。

Shoyanの歌はそうやって聴く者の心と一体化するから、深く永く好きになってしまうのだ・  ・・

※それはまた最近のいくつかの歌でも始まったような気がしています。

一方で
この歌をよく聴くと本当は謎が多いかもしれない。特に「君」の行動を具体的に考え始めると実はまとまりがないような・・・?

「君の気まぐれ」ってどんなことだったの?
それを許せない僕に対しての
「君のやさしさ」って?

彼女の行動が原因だったのに、それを謝る訳でなく逆のような「やさしさ」で、とは?

これは伊勢正三の歌に時々あるねじれ現象フレーズ・何も決めないフレーズシリーズ?の特徴的な部分かと思う(単に私の理解が足りないだけかもしれませんが^^;)。
それこそ、カタチは嵌るのに絵柄が違うジグソーパズルのピースのような? 遠目に視ればちゃんとわかるモザイク画のように。音源だけで完成させないShoyanの無意識の高度なテクニックだなと思うのだ。

(「テクニック」というとちょっと具体的すぎる・・・もっと、なんか、 神の領域とかルーレットの出目的なこと!?先出の『ぴあ/クリエイター人生』の最終回でも語られていましたが)

こういう、カッチリと組んでしまわない保留部分があるので、永~くフレキシブルに聴けちゃうんだなぁと、いつも想っている。現に、Then&Nowの音源が確定ではなく、歌われるその時々その度に”その頃”が反映されて、その場で都度違うカタチになってゆく不思議な歌なのだと思っています。

※でも井上陽水氏のような”絶対無理なルービックキューブ”までいくとついていけなくなるので(笑)、そこが伊勢正三曲の絶妙な匙加減であると思っています。

・・・

想い出すことって甘い・・・
コーヒーのほろ苦さと言いながら、美味しいコーヒー豆がそうであるように、そのブレンドには甘みやフルーティーさも隠れている。

苦いだけじゃコンビニコーヒーのようで、距離は測れないから色々な味が混ざってこそだと思う。
(※コンビニコーヒーも好きですが (´ω`*)

実際、「君の長い髪はとても素敵だった」「ひとつの甘いフレーズとして」と、いいことばかりがふるいにかけられて今は残っているようで、そうしないと後悔を荷下ろしできないのかもしれないと想ったりする。

♪別れの言葉が夢の中でこんなにきれいに響いてます

も、自己完結している節があると。
彼女を傷つけて泣かせて部屋から去らせたのに、その時に取った態度や、発した言葉とは違う、都合の良い後付け甘さ増し増しフレーズなのだろうか?と。

去っていった者はもう関わりのない存在。
だから、自分の中で都合よく・自然なふりをして・美しく・忘れるふりをする、そんな自己免疫みたいな歌なのかな、などと、この歌を好き過ぎて突き放して第三者的に解釈したりする私をお許し下さい。

※そんな言い方をしたら身も蓋もないではないか七氏よ・・・自分がそんな別れしかしてこなかったからって、、、

イエイエ、当事者ならではの ”切り離されてはいないあの頃から繋がっているもの” も知るからこその第三者的・なのです。
(謎過ぎスミマセン)

きっと作者の中にも他の誰にもわかりえない時間がある。Shoyanが時々おっしゃる「引き出し」の中身。ご自身でさえ意識されない無意識の引き出しと、聴く者それぞれの心の引き出しの中身(それを想い出というのか)、その両方が交じり合って誰にも書けない自分だけの癒しになるのかなと思っている。

きっとそれも”合挽”のコーヒー。
時間というミルが挽いてくれた豆を蒸らす薫り、彼女も忘れてはいないはず。
今はシングルの豆かもしれない、でも味を忘れてもフトしたことで蘇ってしまうブレンドの香りのように、時間にも消せないものがあると思ってる。

・・・

などと、1974年から半世紀経ってこの歌の息の永さを深く感じている。

歳をとったって、若すぎたって、人の心の中は案外変わらないもので、その時寂しかったことは今でも寂しいんじゃないかな、と最近感じているのだ。

これもまた、ひとつになれなかった”片心”の歌なのか、と近しく想う一曲だ。



※”長い髪”は伊勢正三ファンの嗜みとして(!?)、高校生の時から30歳過ぎまでずっと背中まであるロングソバージュだった自分を懐かしく思う。本当は長い髪をずっと続けたかったけれど、それは大好きだった人との想い出と一緒に”あの頃”に置いてきた。今はShoyanより短い髪で毎日頑張っている。長い髪の私は”あの頃”で今もきっとあの人に愛されているだろう。それでいいのだ。

今の短い髪だって(白髪だって!?)愛されているかもしれないし♪ (*^^*)b
・・・と、せめて前向きに(涙)。
先日、『涙憶』のことを書いて最後に

「ラストの鍵盤の音はShoyanご自身の演奏ではないかと思ってる」

というようなことを書きましたが、昔からそうだといいな・そうじゃないかな? って思っていただけだったのに、断定的に思える書き方をしてしまいました。

なので書き直しました(汗)。
重ねて失礼をばいたしました。

プロフィール

HN:
No Name 七氏−1.0
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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http://shoyanlove774.jugem.jp/
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