Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
今年はもう庭にジョウビタキが来て火を焚く音が響いている。むしろいつもより早く冬が来るのかもしれない。ついこの間まで猛暑だったのに・・・
 
ここのところの自分の時の流れはちょっとおかしくなっていて、この数年の記憶というか出来事の運びがフワフワしていてハッキリしない。Re-bornが出た時の衝撃から心の中が密室になってしまって、ずっとずっと濃密な愛に浸っているパラダイスな自分と、コロナ禍~家業・家族の混乱でシリアスな超現実に圧し潰されそうな自分と、ずっと二重構造で時間が捻じれて(止まって?)いる気がしている。
 
・・・
 
今回『STILL MORE』、一曲目は『ほんの短い夏』。
 
ずっと前、この曲を初めて聴いた時から気になっていたのだけど、
♪君が僕の時計遅らせたと知った~
とあるのは一体どういうこと?と。
 
彼の手首にずっとはまっているはずの腕時計の時刻を彼女はどうやっていじったの?と。
 
初めて聴いた時、(自分にもちょっとした似たような仕業の記憶があったけどそれは置いておいて、汗)
これはせつないイタズラだなぁ・・・彼女、言い出せない分こっそり「帰らないで・もう少し一緒にいたい」ってイジワルしちゃうの可愛いなぁと思っていた。
でもそこから先を考えるのを保留していた。
 
なぜならば、彼が腕時計を外すようなシチュエーションがあるとすれば・・・
そ、それはシャワーかなんか浴びるときじゃない!?と。
そ、それって短い逢瀬のどこかの部屋とか、そういうオトナな時間をこの二人は過ごしたってことだよね、と。そしてそのあとの”後朝”を惜しめない”終電”のせつなさなのか~と、20代半ばであった若き日の自分の妄想がリアルに膨らみすぎちゃいそうで、そこまで考えずに「ほんのり」で留めておこうと思ったのだ。
 
だが、今自分が歳をとってみると、これはきっと待ち合わせてご飯したあと、どこかのカフェで「あ、○○の腕時計、なんかレトロでちょっとカッコよいじゃん、貸して見せて~♪」とか、さり気に彼女が彼の時計を外させて手にとってみたのかな、なんて思ったりしている。この先に「私今日は帰りたくないな」が待っているはずなのに、と。
 
(懐中時計だった場合も同じようだということで)
 
この歌に出会ってからちょうど30年(涙)。あのひどい冷夏から30年の今年は酷暑だった。あまりに違いすぎるアニバーサリー。こんな未来、それでも同じ”ほんの短い夏”、人生の夏はいつでも短い。この恋人たちは果たして二つが一つになれたのかな?それともひとつになった後またふたつに別れちゃったかな?とか、ずっと考えている。その考え続けていることが私の時計の針であって、文字盤はShoyanの歌なのだ。
 
今年初めて聴いた『春の流星』にも♪時計を見る仕草に~とあるように、『STILL MORE』はやはり”時計”の出てくる歌も多い。もちろん、『なごり雪』からして永遠の時計ソングな訳だけれども。

そんな歌たちが何十年もの時を過ごしてる間に、身につける時計はいろんな機能が集約されたスマートフォンになってしまい 、また実体としての腕時計もApple Watch などのスマートウォッチになってみたり、 今の恋人たちは腕時計のリューズを回して時刻を合わせたりずらせたりすることを知らないかもしれない。
 
時計は残り時間を計るものではなく、”今を知るためのもの"だということを今一度噛み締めて、残り少しの未来でも希望を持って過ごしていきたいと思うのだ。
 
砂時計・デジタル時計・(腕時計)・・・時計はShoyanの歌には本当に沢山登場するので、これからも少しづつ何か書けたらいいなと思います。
 
Shoyanの時計ソング、大好きなんだな(涙)。
 
 
・・・
 
追:
 
そうそう、セルフカバーセレクションのShoyan Clock、
 
海~海風
君~置手紙
雪~なごり雪
夏~青い夏
波~渚ゆく
風~スモークドガラス越しの景色
涙~涙憶
花~ささやかなこの人生
雨~雨の物語
水~水の大地
時~想い遥か
駅~なごり雪
 
だけれど、
当時、海と風を反対に考えていた。
私にとっては、やっぱり"海風"は風で
"スモークドガラス越しの景色"は海だった。
 
全部が全部、電波時計のように一斉に同じ時を刻まなくてもいいよね?
日時計のような曖昧な自分でもいいと、今も思っています。


(今見てもカッコ好くて泣けます><)
『春の流星』の

♪ふるさとを愛しているのね・・・

の「アイシテ」の部分だけ残響?がかかっているのが切なくて、この曲の彼と彼女以外の存在(都会とふるさと)の大きさ重要性みたいなものが感じられて心に留まる。

Shoyanの並々ならぬ示しが込められている。

こういったところが”手作り”だなって想うんだ。




※本当ならもっとまとめてからアップすればいいと思うのですが、随時の書き留め投稿ご容赦ください。

※※リバーブとエコーとディレイの違いがよくわかっていないので(汗)「残響」でお許しください。
ポエマー過ぎる前回に引き続き
暴走は止まらず・・・

先日、サザンオールスターズの新曲を聴いたのだが、その桑田さんの悶絶を聴いてやはり書いておこうと想うことがある。
読む人にドン引きされるのを覚悟で書きます(^^;滝汗)。

・・・

『夏純情』を知ってから早4年が経ったけれど、最初に聴いた時から想っていたことだ。

この歌、『純情』のとおり、登場人物二人の間柄は仄かだ。
一番の接近が石段で触れた指のみ。
切ない刹那の純粋なシーンで一貫している。

でも私は感じてしまうのです。
彼の胸のポケットでペンのインクが滲むこと。
彼女の赤い帯が揺れて金魚すくいの薄紙が破れること。

これはある意味、子供時代から大人自分になってしまう通過儀礼のような(やや性的な)ニュアンスが含まれている気がするのだ。ホウセンカの種が弾けるような、生物学的な意味も含めた不随意なオトナへの羽化現象の例えに想えてしまうのです。

(この場合、"紙のハート"は彼の方で、彼女の方が破れるのではないから直接的な意味ではないのだけれど)

純情とは正反対のようなことだけれど、それこそが純情の正体というか、人の心と身体、男女の機微や青春の老成、そんなものの表裏一体に辿り着いた歌なのかもしれないと思う。

自覚スレスレの青春衝動の炎を、やさしく可愛らしく切ないフレーズでそっと教えてくれるShoyanの熟技だなぁと想うのです。

その作者のShoyanがそんな意味を込めたかどうかはわからないし、(たぶん込めていらっしゃらないと思います^^;)これは私の"聴き過ぎ"な妄想なので、ずっと書くのをためらわれたが、やはり感じたことは正直に書き残しておこうと思います。そんな無いことまでを感じてしまうのが『夏純情』の新しさ・到達さ、だと、4年聴いてきて思い直しています。



(追)

これをどこの八幡様だとか、この歌の駅はここだとか、これは誰かのことを歌っただとか、『歌の特定』はしないほうが歌を豊かに聴けると私は個人的に想っている。
(モチロン、尊重されるべき人それぞれの聴き方があって、実際の歌の舞台も多々リアルにあるとは思うのですが)

Shoyanが歌にしてこの世に解き放ってくれた世界を、眺めるだけの『置きもの』にしたくない、音楽の鑑賞法は私にとってはそうじゃない気がする。 自分のものにしてこそ、Shoyan(作者)の胸の中と繋がれるのではないかと想いながら何十年も聴いてきた。

だから、今回のようなイキ過ぎな聴き方も自分なりのアクセスなのだと汗をかきながら胸を張っていたい。


歳をとると脱線妄想が加速します(*´ω`)オユルシヲ

この歌、何故"Yシャツ"なのだろう
そこがイインダケド・・・

夏の海辺なのに・・・
そこは解放的な"遊びの場所"なのに
Yシャツは堅いお仕事の象徴?

ナゼ、そのいでたちでここにいるのだろう
その”帰る人たち”のこと?
それともそこに自分も含まれる?
仕事帰りなのか、仕事の途中なのか・・・
ちょっとだけ日常から寄り道したのかな。
陽やけのあとは遊んだ時間の名残り?
それとも日々の営業仕事の半袖のYシャツ??
それともやっぱり仕事を終えて帰宅する、家路につく人々たちなのかな。

「湘南"へ"帰る人」たちというのも面白く、普通は海で遊んで湘南"から"帰る人が多いのでは?と思うのだけど、この構図が湘南という土地を裏側から見ている感がしていいのだ。少し醒めている心が落ち着いたスポット。そしてこの歌のあやふやさで白昼夢ぽくていいのだ。

「~夕陽に間に合えば」だから白昼ではないのだけど、そういうガラス瓶の中のような心地良い距離感がある。

・・・

鎌倉あたりは駅や海からすぐ近くに住宅街があるし、横須賀線や江ノ電の他の駅から降りてまだ陽の残る路地を家路に着く人々のことかもしれないネ。

そんな"優しい日常"には溶け込めない独りの行き先は、家路を離れて国道134号で境界になっている海。

海辺は自然の一部だから平等なんだ。
マイホームも学歴も営業成績も借金?もそこにはない。そして、黙っていても時間は巡って太陽が沈んでいく。自分が無意識に疲れちゃって動けない時、、自然て優しい。代わりに降ってくれたり吹いてくれたり咲いてくれたりする。

この彼の「もう若くはない」キモチを、慰めて黙ってやり過ごしてくれる。『夏』なのは、次は秋だからなんだね。

・・・

この歌を作られた当時はまだ日本がシンプル?だった頃?スマホを見ながら俯いて歩き回る人もいないし、外国の観光客もそんなにはいなくて、大きな重たい写真機を首から下げたお父さんと麦わら帽子の子供たち、娘さんたちはビキニで日焼けが推奨されていたような、そんな黎明の夏だったかもしれない。

この歌にそんなに具体的に何か意味を深く籠めた訳ではなくて、本当にサクっと、スッと切り取った甘酸っぱいワンシーンなのじゃないかと思う。その甘酸っぱさは色褪せずにここまできましたね、と永い時の波を繰り返しを想う。

 ♪~ただ それだけのこと

この「ただ」という短いサウンドに籠められる重さ。海辺のそよ風にめくられそうになる記憶の薄紙を、そっと押さえる文鎮みたいに、Shoyanは気持ちを籠めて歌う。
このワンフレーズはとても大きい。短い言葉なのに、、日本語って面白いと思うのだ。

・・・

今改めてオリジナルの音源を聴けば、丁寧にストリングスが入っていたり、Shoyanの声はユニゾンになっていたりして本当に柔らかい。

間のアコースティックギターは網戸をツンツンするような夏の音がするし(謎)、エンディングにはエレキギターのノスタルジックなフレーズ。波の音に溶ける白い泡みたいに、聴く人の胸に同化していく終わり方が甘く切ない。

2000年代になって21世紀になってからのほうがこの歌を好きになった。コード進行も超複雑でなかなか馴染み難い印象もあったけど、今はこういう"絵ハガキ一枚"みたいな歌が好きだった。
 ※追記後述

・・・

しかし、何度も言うけど湘南カンケイもまた軽井沢と同じ様に私には痛み甘い場所で・・・苦くて辛くて楽しい色んな想い出がある。

ただこの歌は更に昔過ぎて、自分の想い出は歌の中にはナイ。今聴いても慰められることの方が多い。大好きだった湘南の海の匂いと波の音だけここには残っている・・・こういう歌を作っておいてくれてアリガトウShoyan。今、とても暖かい心の拠り所になっています(感謝)

※そういえば、Shoyanは、Yシャツ着たことあるのかな・・・?(´∀`)


Shoyanご自身にとっても、きっと最初は憧れの地湘南。それをすっかりご自分のホームのようにしっくりと歌にしてずっと大切にされている。なんとなく今、ご自身でも気持ちの拠りどころになっている歌なのではないだろうかと感じるのだ。

せめて同じ海を私も見つめていたいと思う45年後であります(涙)。

・・・

※追記

でも最近、毎回毎回毎回の演奏でチョットしつこいイメージに替わりつつあって、離れそうな気持になりそうだったのだが(汗)、、、でもでも、また更にここに来て、今の年齢とパフォーマンスのShoyanにはピッタリだし、その安定感は今のステージに必須なのかと思うようになった。

これは永久欠番のような、背番号『3』みたいな歌なんだと思うようになりました。

自分もいつかそんな境地になれそうだと想えたので、まだまだ何千回も聴きたい親しい歌です(愛)。

※本当は2022年の大晦日にアップしようと思って書いたのを少し変えて載せました。

・・・・・
押尾コータロー氏の『誰そ彼~黄昏~』を聴きました。
2022年の一曲になりました。
最初聴いた時に、ボーカルクレジットの名前が韓国人アーチストで、どんな方か存じ上げなかったものですから、なんとなくそのまま女性かと思いこんでしまい「なんて中性的な素敵な泣ける歌声なんだ」とやたら感動してしまいました。ですが男性アーチストさんだったのですね。そしてもっと感動してしまいました。

そんなこともあってこの歌は「不思議な」ニュアンスが濃いのであります。

ずっと以前からShoyanが詩をつけた・という話だけでどんな内容なのかわからず、ラジオや押尾氏とのライブをリアルタイムで聴けなかった自分には思いがけない音源化でした。とても嬉しく聴くことが出来ました。

元々、押尾氏のメロディーは語りのようで耳馴染みがよく、どこかサウダージを含んで詩情に溢れていたけれど、今回Shoyanの言葉の一つ一つが必然的で"プレ・Re-born"のような、最初からあるような世界に想えたのです(涙)。

特に好きなのは、間奏のあとの

♪めぐり逢い 不思議なもの
 かりそめの距離「誰そ彼」~

の嵌まり具合。

言葉が先にあったかのように美しい象嵌に嫉妬を覚えるほどの、聴いていて快感を覚えるほどの、非常に官能的なマッチングだと感じます。

・・・

この恋人たち(彼女)は何故
"黄昏"を待つのか?
夜と昼の相差の
はっきりしなくていい時間帯・・・

逢えないと逢える
両想いと片想い
可能と不可能
スキとキライ
過去と未来
生と死
アナタとワタシ
君と僕・・・

そんな"ふたつ"が交わり合える、光と闇の間にあるロスタイムに互いを想えるからだろうか?

「彼にいるは誰?」と、相手の存在があやふやで確認できない時間なのに、時や距離があやふやになるからこそ逆に逢える・・・
あなたはわたし・私は貴方?と、そんなシチュエーションがすごくせつないのだ。

「彼方」と書いて「あなた」とも読む。
あなたは遠いのだ、と、何度聴いても気持ちが溢れて涙が出てしまう。
でもその距離は「かりそめ」なのだと、そう想えるなら救われる。

冒頭いきなり「もしも私が死んでしまっても」とあるのは、これから闇を迎える時間帯だからなのかと思う。

陽のあたる日中を生きて
いずれ迎える闇の世界・・・
でもその闇の前のひとときに
美しい黄昏の夕景が音連れる
そこであなたを想えたらいい

・・・と、
彼女の想いの強さと、また裏腹な欲の無さ"望まない希望"がとても好きだ。

私はなぜかこの歌を聴くと辛い
泣いてしまう
辛いけど
最高にしあわせだった時間を
想ってしまう

心が通じている人に逢えて
少し言葉を交わして
数秒だけ見つめ合えたら
もうそれは永遠なのだ

そのあともう逢うことは叶わず
遠くて、切なくて、苦しくても
それは死なないことと同じだと想う

夕暮れは誰にとってもそんな時間をはらんでいるのかと思う。

Shoyanは"究極のラブソング"を創りたいとおっしゃっていた。
極まった恋ってどうなるのだろう??
片想いとか両想いとか、初恋とか終恋の概念よりもっと大きな、無意識の指先だけが絡み合うような、そんな深いところまで聴いてみたいと今は想いながら待っている。

「誰にも気付かれず抜け出そう」って、自分自身でさえ気付かぬ、意識しない処で魂が逢えているということかな?などと感じている。

・・・

この、押尾氏のギターをリスペクトして「あなたが爪弾くギターを聴いてる」とあるのも素敵だ。

そして暖炉・・・
大好きなシチュエーションが出てきて本当に嬉しくて、Shoyanの生の火に触れられたような愛おしさいっぱいだ。

焚火には間に合わなかったけど、暖炉は私の冬のアイテム。この歌も今の季節にピッタリで、これからも永く聴くことと思う。

・・・

小鳥たちが使う道を通ればどこにいても近い。
だから鍵をかけない。
Re-bornで報われたこの彼女の幸せに今私も救われる気がしている。

せつなくて素敵な愛の言葉たちに感謝を込めての一年の終わりと始まりです。

年の暮れに
空の暮れ色を想う
そして
葉の落ちた新年の雑木林で
薪を拾いながら次の季節のことも想う

そんな素晴しい時間をありがとうShoyan☆
いつか闇が明けるような一年になるように祈っています。


※この歌声ならば、この恋は男女だけに限らず様々な愛の形にフィットするようで、それも素敵なことだと想う。切ない恋は人の心の数だけあるのだから・・・(涙)。




そういえば『3号線を左に折れ』は、1番と2番の歌い出しの音が違うんだよね。 

♪都会に〜 は「ソラ」

♪この海〜 は「レミ」

この二つの音程が出てくる部分は他は一緒なのに歌い出しだけ違う。

この音程の微妙な揺らぎ・違いがそのまま「都会」と「この海」の距離感になって、聴き手に無意識の光景を見せてくれていたのだ、と想うのです。

(あとで書き足しておこう)

さて、10月も半ば過ぎ・・・
先日のドライブで、久方ぶりの海を見たあとではこの歌を想わずにはいられない。

『海は遠いのかい』は聴いた最初から本当に好きで、特に長年ヘヴィロテで聴き続けているが好きすぎてよく考えていないまま時が過ぎた(汗)。
当時、アルバム発売前にステージで歌ってくれたような記憶があるのだが・・・、その分Shoyanご自身の思い入れも深かった一曲なのでは?と思っている。

"二人が二人"になってしまいそうな不穏。
別離や諦めなんてムードも漂う、なのになんで好きなんだろか・・・この、ページをめくるだけのような漠然とした場面展開が心地良く、センチメンタルと虚しさの絶妙なバランスを傍観しているのが大好きなんだ。

・・・

秋のとある休日の、どこにでもあるルートマップの景色の中で、ごく普通の恋人たちの人生の剥がれの始まりが埋もれている。こういう機微、ただの買い物でショッピングモールの駐車場に停めただけでも心によぎる。一緒にいるのに、二人の共通項はもうないのか・と気付いてしまう瞬間が・・・そんな落とし穴に彼が先に気付いたのだろうか。

この歌の中には能動的なことがほとんどない。
「車に戻ろうか」と問うてもそれは誘いではなく、二人の今に期待を持てない諦めの言葉に思える。過去と未来のはざまにある凪の退屈さが切ないのだ。

「長い恋」ということは結婚したわけではなさそうだ、でもまるで倦怠期の夫婦みたいだ。だが、夫婦ともなると互いの役割ってある程度ありそうで、そういう実績や積み重ねがカスガイになって破綻を免れていることもあるやもしれぬ・・・けどでも、この"恋人関係"って責任の所在があやふやでなんともやるせない。
確実のない「一寸先は赤の他人」!

この歌の今だって、なんのために二人車に乗っているの?作者であるShoyanは説明してくれない。説明する必要がないほど目的がないのではないか?
別れ話をしようと連れ出したのか?
でも、、その別れの雰囲気にさえノッてこない彼女の取りつく島のなさ・・・
このノロノロ運転はサンデードライバーの波や彼女の無関心にもがき溺れている現状12kmなんだね、絶妙に辛い距離感だ。

しかしふと我に還って
♪半袖じゃ寒いだろう・・・とあるから、
もしかしたら本当に海を見に来たかもしれない。
だがリアルの海は今目の前にあったのに、ナゼあらためて風に聴いてみるの?「遠いのかい?」って。

景色としての海はここに在るけれど、恋の最中にあった頃の二人が知っていた海は今はここにない。自分しか見ていない海。同じ海なのに、、、あの頃の恋心が満ちていた海はもう遠いのかい?って、それを海の旧知である風に訊いてみるのだ。

"二人若かったあの頃"のドライブは毎度楽しくて新鮮で、渋滞も気にならなかっただろう、けれど今、同じ場所を訪ねてもむしろ心の剥がれを実感してしまうことになって辛い。それは年月のせい?互いの変化のせい?始まりは果て過ぎてもう見えないよって・・・
街の中の風と、海辺の風と、両方の風に訊いてみても風は教えてくれただろうか。

彼の自問自答はとうとう"答え"になって実行されてしまうのかな。聴き終わった後の聴き手の干渉的な感傷だけが取り残されて、ただそこに風が吹くだけ・・・なのだ。
「秋にはさびれてしまうマリンハウスのそんなせつなさが好きなふたり」と真逆な今の二人のテンションの低さに思わずため息、です。

・・・

秋になって外が静かだから、このイントロがよく聴こえる。
どこかイーグルスの『I Can't Tell You Why』(邦題:言い出せなくて)のオマージュにも思えるような、Shoyanの非常に好きそうな、この淡々としたサウンドが大好きだ。

全編ほとんどをファルセット(裏声)で紡ぐアプローチも、この頃のShoyanの自信・手応えの表れだと思ってシビれる。とっても実験的でアピールが濃いから心くすぐられてしまう。こそばゆいヴォーカルがタマラナイ。焼いたメレンゲのようなハモリもサクッと甘くて、後半にはそのハモリにファルセットを残したまま、地声の現実感で我に還る。ふと、Shoyanの腕で後ろから袖を引かれたような、聴き手もこの二人の行く末を第三者的に眺めることが出来るんだ。

そしてその声を挟むアコギのイントロも、乾いてシンプルなのに表情豊かだし、間奏のエレキギターはこの停滞から抜け出したい感が如実で、どこまでも空に伸びてゆきそうで、気持に残るフレーズが多い。もっとライブで聴きたかったと今でも想う一曲だ。

・・・

彼女の「疲れた」という言葉、寝顔、それは甘えでもなく安心でもない。同じ方向に向けない彼女の"放置心"だ。「でも寂しい」と微笑む某彼女より、ストレートなありのままの彼女の態度が徒長しすぎた恋の現実を物語っている。

この歌の中では最後まで「君をずっとずっと見ていた」とあるので別れは切り出されていない。彼は虚しいのかな、それともまだやりなおしたいのかな、オトコってヤサシイな・・・ともどかしいが、そこで曲が終るのがShoyanの巧みな放置。たまらんのです。

・・・でも彼女だって"言い出せなくて"ただ目を閉じて長い時間今日に至るまで何かを待っていたのだとしたら、、、
早く話しかけてあげて!と思う。
きっと聞き忘れていたことや、ちゃんと返事をしなかったことがあったはずよ、って・・・。
彼女の疲れの原因が"気持ちのすれ違い"なのだとしたら、まだやりなおせる余地はあるのかもしれない。

・・・

遠くなったらまた違うルートを探して何度でも岬を回ってみる。遠ざかったのは海ではなく自分の方なのだから。でも、必ずしもやりなおさなければいけない・ということはない。
その先を知っているのは風だけなんだ・・・
懐かしい海にいつか辿り着けたとき、そのとき自分が独りでも二人でもきっと海は優しいと思う。

海を諦めないで・・・と、四半世紀たった今は海から遠い場所で想っている自分がいます。


※イントロのアコギ、間奏のエレキのフレーズ、好きすぎて当時結構練習した。でもひとりじゃ何もカタチにならず・・・今は遠い遠い果てなのです(汗)。

※※この歌何故か、東名高速の川崎の料金所(東京料金所)あたりのメチャクチャ多いゲートの並びが思い浮かぶ。本当はレインボーブリッジあたりを想いたいのだけれど、なんとなくその先の用賀~3号線あたりの自分の馴染みの景色でこの歌を想いたいのだ(懐)。



また長文になりました(汗、ご容赦。
私の長くないShoyanファン人生においても、聴いたことがあっても音源化されていない曲がいくつかあって、今でもそれが気になったりする。

前にもネット上で別の機会で書いたことがあるけれど、’86年ころのステージ@渋谷公会堂で聴いた『♪振り向かせーてみせる~』の歌。これはバンド演奏でフルコーラスをちゃんと演奏された気がするのだ。なので当然、次に発売になるアルバムに収録されると思って深く考えないでいたら『OutOfTown』にはそれらしき似たような曲でさえも無かった。 しかもさらにその後Shoyanは長期休養クンになってしまったので、その歌はまったく消息不明になった。

デモテープ段階の未発表曲などは、きっと私たちの知らないところでそれはもうたくさん眠っているのだろうとは思うけれど(そういうのは眠ったままでよいと思う)、ステージでやったくらいなのに音源化されていないのはチョット残念に想う。こうなったらワタシャ死ぬまでその一節を忘れないでおこうと思うのです。(メロディーも覚えているんです、合っているかはシランケド(笑))

そうなると、雪印のCM曲(JASRACで調べると『未来の女神』というらしい)や、『カムイの詩』などは部分的だったり、映像だけだったりでも残っていて判明しているので、少しは解れる部分もあるかもとチャレンジするのだけど、、、カムイの詩は難しい語彙が多くてマジわからない部分があります。私が当時深夜のテレビ放送で録画したものが音声も悪くて、何が正解か決めかねてわからないままです。「日嗣の御子」ならぬ「日嗣の民」とか!?

※そもそも君焚きラジオあたりですでに解説されていたらゴメンナサイ(汗)

雪印のCMは短いバージョン長いバージョンどちらもYouTubeで観られますね♪これは自分でも当時頑張って録画したのを大事にとってあります。滝田栄氏の料理番組が雪印提供だったので、そこにあわせて何度か録画予約したものです。

そうそう、フライフィッシングの関連で当時親交のあったN氏に作った『レースウィング・ハニー』もテレビ出演のその場だけの演奏でした。ラブラブの、とても甘い素敵な歌でした。これも映像はどこかに転がっているかもしれないですが・・・

・・・
っと、、もっと他に沢山未音源化の歌があると思いますが、今思いついたまま書いたのでひとまずこの数曲を挙げてみました。(先述した『雨のTAXI』『地下鉄-メトロ』もしかり、ですが)

表に出て正規に音源化された曲でさえ何百曲もあるのだから、色んな段階で留まっている曲はもっとあるのでしょう。歌の根っこや、メロディーの卵たちが、まだまだShoyanの意識無意識の中にいっぱいあるんだろうな~って想像してしまってワクワクしています。

ここのところ、曲を聴くことについてメッチャDeeeeeeepに考えて煮詰めていたので、そんなこと考えてます。そんな風に今になっても期待を持たせてくれる伊勢正三という豊かな存在に、心から帰依している私なのでありました。

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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