Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

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◎2011年12月30日に書いたものを貼っておこうと思います

最近、One heart 1sessionのLD>HDD>DVD>PCから音だけ取り込んで聴いているのだけど、冒頭の三連続曲が『冬京』『海風』『そんな暮らしの中で』で、これって私的"Shoyanのゼロメートル"=アルバム『海風』からの三曲だと気付いて今になってホンワリウレシイ♪
やっぱり復活の1993年は再びの"海抜ゼロメートルだったのかもしれない。
※海抜ゼロメートルについてはまた後述

・・・

で、話は戻るが、
この『そんな暮らしの中で』に想う。

~芽ばえ始めた「何か」を
 大切にして生きるため
 日々の暮らしがある・・・

"何か"ってナニ?!・・・って、最近急に気になる。
近頃は時間がなくて、歌詞カードなど見ずに歌を聴いていることが多かったのだけど、歌詞カードを見たら「何か」とわざわざカギ括弧で括ってあった!恐らく今までも歌詞を目にするたびに!と思っていたかもしれないけど、特に意識しないでいた自分が甘かった。見返したらソコだけ強調してあったので驚いて、そして、ますます考える・・・

『海風』にも"今の僕に何かを残してくれた~"とある。
『冬京』にも"あの頃僕は何のために~"とある。

「何」というアバウトな言葉に無限のバリエーションを含ませたのだろうか?それとも確固たる答えがあるのだろうか?当時、若きShoyanが歌を作った瞬間にはまだ種であったコト、在り処はわかっていても手に取れないものって結構アル。

それを40年近くかけて育み、開花させたShoyanはやっぱりスゴイ。中間地点の93年のステージを観なおして、その切々とした真っ直ぐなステージからまた再び始まったもの・・・。
今年はそんなことも想ってみる。

・・・

聴き始めの最初は単に、
「子供の成長とか家族の絆みたいなことでしょ?」
と、深く考えずに触れないでおいた。でも、本当はそんな簡単な(限定的な)ことではないんだよね。

人はある時、肉体的に精神的に大人になって、もうひとつ、社会的にオトナになる時がある。自分以外の他の誰か・他者との係わり合いが発生しだして、煩わしさや慕わしさなど、良い事も悪い事も降りかかってくる。でも、そんな繋がりを持ってこそ、この世に"暮らしている"と言えるのではないだろうか。若い頃にわからなかったことって、そういうことだったのかもしれない。

「絆」だけでは足りない。
「柵(しがらみ)」という裏地も同時にあるんだということ。

・・・

蛇足だけど、私のように大人になりきれず、その「何か」が芽ばえてこない人は、どうすればいいのだろう・・・?
この歳になって振り返っても、自分で一生大切にしていこうと思うものなどほとんどなかった。そのあたりが今この歌が自分に刺さっている理由かと思う。

「君はどう?」

って、Shoyanに問われて

「芽ばえないんですが、土だけは柔らかく鋤き込んであります」

と、せめて答えたい。
心構えだけはそんな風に前向きに、次の時間を生きていきたい。

そうしていたら
まだいつか
風に乗って「何かの種」が
飛んでくるかもしれないもの
・・・
(´∀`)KAZEをアキラメナイ

・・・・・・・

~時計の針が時を流しているわけでもなく
 明日の朝 新聞の日付がただ 
 変わっているだけのこと

・・・と
今年も今日明日で終わる。
暦は新しく次の一冊になる。
もちろん新聞の日付どころか年次まで変わってしまう。
丸一年の月日がまとまって過去にされてしまう。
まるで世界が変わるかのようだ。
だけど、本当にそれだけのことで
時間は流れるだろうか?

以前、
「時を流しているのは、生きている自分自身なのでは?」
と、どこかで書いた。

時の流れは全ての人に平等だろうか?
例えば今年、様々な災害などで幸せな日常から突如放り出された人たちや、大切な物や人を失った人たちのもとで時はどう流れているんだろう。

被災地や避難先の新聞も、私の店の朝刊や日本中の新聞、みな同じ日付で配達されるのに・・・
日常を奪われるということは、晴れの日も失うということだ。お正月の晴れ晴れしさの中に一抹の哀しみ・・・

日付が新しくなっても、更新されない大きな悲しみがまだまだある。そういう"止まった時"の中で暮らしていく人たちの中にもいつか、「何か」が再び芽ばえるといいな。

・・・

悲しい目に遭ったら、焦らずに、何年でも待って、自分自身の心の砂時計を次にひっくり返せる時が来るまでじっと待つのもいいと思う。
目覚めても、あと五分は布団の中にいてもいいように♪無理して動き出さなくてもいいと思う。
じっとしているほうが芽ばえ始めた小さな双葉を見逃さずにいられる。変わりゆく生活の景色や、激しい価値観の乱高下に翻弄されずに、自分だけの"可能性"を探して・・・☆彡

ソシテイツカ 報告デキルトイイナ トオモイマス

一年を暮らす日に・・・
今日も愛を歌っている人へ
 
Shoyanのアルバム達は、夜・朝・午後・夕に分類できそうで、『HEARTBEAT』は私の中では夜のアルバムだ。最近はこの「夜にまぎれて」がまた好きだったりする。WORKSにはこの歌が収録されていて嬉しかった。私がこの世で初めて買った伊勢正三のシングルレコードだから・・・

当時、こういうオトナな・ヒミツの恋愛が徐々に当たり前になりつつある方向に世の中が向かっていた気がする。”愛人”とか”不倫”とかという言葉が表舞台に出てきてスタンダードになり、秘密の恋が秘密じゃなくなってくる過渡期だったかと思う。

今になって、あの時、本当は諦めていたほうがよかったのかもしれない、と思うことでも渦中にあっては気付かないものだ。幼稚な情熱の行方を後になって振り返るとき、それは、、、やはり間違いだったのだろうか?それとも、、、通り過ぎて痛んだ分何か残ったのだろうか?と、Shoyanの歌にそれを訊ねたい。一番教えてもらいたいことはその部分だ。

逢えない日の離れた距離の反動で、想いあふれて激しく抱きしめた時、合わさった二人の胸が挟むカメオ。その愛の偏りにいつしか割れてしまいそうな、儚いシェルのカメオ・・・。幼い横顔はそのまま優柔不断な女の肖像。果たして男の胸の中には、ぴったりと合うインタリオがあるのか?むしろこの場合、男の想いの方が浮き彫りのカメオ。丁寧に、神経質に、秘密の愛を育んで削り出した壊れそうな思慕の横顔。独占欲を乳白色に美しく残して・・・なのに、その横顔は正面を向くことはなく、幼く無邪気に違う方を見ている。ずっと胸元で、正面愛に応えられない恋の横顔。それをそれごと抱きしめなければならない男の切なさがイイ。

漱石の文学に触れると出てくる"unconscious hypocrite"無意識の偽善者、というフレーズがチラリと浮かぶ。アタマでわかっていてもココロがやめられない・・・この歌の男性のように愛したい。壊してもいいほど抱きしめたい。不恰好な一途さ・それに親近感を覚えた当時の私。

手のひらをずっと閉じ併せていないとこぼれてしまう水のような二人の時間。指の間をすり抜ける冷たさ・心地よさ・儚さが甘くて病み付きになってしまうのだろうね。抱きしめたあとに何も残らない”器を持たない女”との関係を、男は胸の中で残したくて砂のように待っているのだろう。でも、きっと、その涙は横顔の片目だけの涙。女の本当の涙が注がれるまでこの男は待てるのだろうか。

予感を想うに切ない・・・

・・・

しかし、こんなに激しい情熱レベルが最初の出逢いだったものだから、そのまま私の"伊勢正三標準"になってしまって・・・だからいつも求めるものが濃いのだ。

今でも、ずっとShoyanの情熱の底を待っている私。
時にまぎれて、いつまでもずっとだ。

時の流れに情熱を溶かし込んで身を委ねてみるのは、幾つになったって出来ることだと想うから・・・


2010年04月01日
♪月が宵待草を咲かせすぎた次の日・・・
 電車の時間を気にして 君が出てゆく
  朝は気まずさの捨て場所 


"月が宵待草を咲かせすぎた"・・・とは、やはりShoyanのレイアウトは只者じゃない。シビレル(>_<)!『都方人』というタイトルだって、無色透明の蒸留酒のように収めた胸の中で後から熱い。そういう"都会と鄙"ってことを、芸術として意識しだした80年代の色っぽさを感じる。アレンジやミュージシャンのチョイスが硬派で(その実、非常にしなやかだけど)、ちょっとパッと見ゴツイ。風の頃より重くなって、時代の浮力に対抗するウェイトのようだ。
『北斗七星』の曲たちはShoyanのgardenに置かれた水石なのかもしれない・・・とか想ったり、このあたりにもたれかかって静かなことを想うのが私の最近のマイブーム。
"宵待草"に私は大好きな竹久夢二を想う。
四冊だけ手元に残った画集を久しぶりに出してきて独り眺めてみようかな。だんだんと昔のことが一塊になって、すべて懐かしいものになってゆく。経験とか事実とかあまり関係なくて、時の流れの中で後も先も同じその"悦び"に触れることが出来る、それが絵や歌や文なんだね。
Shoyanの歌の中の悦び・・・すべての小節のすべてのオクターブの中に、これからも幾つ見つけられるのか・・・それを思えば、まさにこの今でも怖いほど胸が高鳴る。

2009年07月31日

・・・

待てど暮らせど来ぬ人に
時満ちて逢える夜
それまでの想いが溢れすぎて
寂しい宵待草も
忍び逢いの蜜を湛えて
つい、咲き過ぎる
月までがそんな妖しい心もちを煽る
皮肉にも、そんな花も咲かせ過ぎれば
一輪の花に及ばないのかしら・・・

"現実"が、"生活"が、甘い蜜を呑み込んで、"システム"の中に連れ戻す。誰かとずっと繋がっていたい自分と、逢う時だけ愛している自分と、どちらか決めかねてシステムの中で流されているのが楽だったりする。ゼロか100か・の、ゼロを選ぶ器用さが"都方人"。だけど、120%もイイヨネ・って、私の中の野暮な情熱が語りだす。

"壊すために作る積み木のように"
逢っては離れ
語っては悔い
抱かれれば泣く

生きている限り『相克相生』みたいなことを繰り返して、ただ唯一の『自分』というものを削りだしていくのだきっと・・・その手間を惜しんではダメだ。生きるよろこびというのは、きっととても手間のかかることだ。そして「これでいい」ってことはない。
不思議なことだけど、苦しんでいるってことも喜びなのかもしれないよ。私にしかクリア出来ない事柄かもしれない・と思えば、独り想いの辛さも、触れられぬ笑顔も、あてのないこの片便りも全部オリジナルな私だけの宝物だ。

「一輪花の 咲けかしと 願ふ心は 君の為め」

一輪も咲き過ぎも
元は同じ一粒の種・・・


※一輪花の~は北村透谷の詩より引用

2009年08月12日
この頃に"デジャヴ"という単語を使って、こんなにも穏やかな歌を作ったShoyan。すでにこの頃この言葉は日本でも一般的だったろうか・・・
ちょうど流行りだした頃かな?でも穏やかだけど、とても新鮮なチョイス。「デジャヴ=既視感」とは、非常にShoyanらしい、Shoyanが好きそうな(?)ロマンのある言葉だ。

この「渚ゆく」のアルバムでは、各歌に同じフレーズをちりばめることが多く、"夢"、"生まれ変わり"、"夏の日"、"恋心"、"星"あたりのニュアンスが濃い。(ちなみに"春の"も3回も出てきてLOVE)

こういったフレーズは元々Shoyanの歌曲のスタンダードなモチーフ達だけど、この「渚ゆく」は特にその色合いが統一されていて、とても落ち着いたアルバムになっているのでは?と思う。
いずれもロマンチック・・・。前作の「北斗七星」とは"皮ジャンとシルクのローブ"くらい違う。この、いい意味での骨抜きな緩やかさは、この後のShoyanの歌たちの原点・出発点になったのではないかと・・・100%委ねスタイルで聴ける優しいアルバムだと思う。すべての歌の"ブロード"なんじゃないかな。(だし汁ラヴソング!?)

・・・

既視感も生まれ変わりも夢も非現実的なもののようだけれど、本当はそれはリアルに日々の生活の傍らにある。オカルティックに鵜呑みにするのはよくないけど、不思議な縁とかタイミングとか、何らかのフォースとか、言葉では説明しきれないようなことはある。しかも時を越えて・・・Shoyanご本人はこの頃、何かそういうことを体感されることがあったのだろうか。私はShoyanの歌との出逢い自体が生まれ変わりの証拠なのだと想っている。

この"Syracuse"な黄金色の風景が好きだ。古い映画のようなフィルム撮りのような時の流れが"悠"な景色。大きな時の鳥の背中に乗って旅をする夢・・・美しいだけではない、ちょっとだけ切ない。人は百年も生きられないから、その発生と行く先と両方見極められる人はいないのだ。生まれる前と死んだ後と、それを埋める情報はない。だから"夢"を見る。今この時もShoyanのラヴソングたちと共に、甘く切ない夢を見られる私はシアワセだ。

古い文明の地から邪馬台国まで・・・
人類はアフリカで発生してからずっと東へ・・・
理想の国を求めて移動していったと言う。とうとう極東で海に出てミクロネシアやポリネシア、Hawaiiまで。やはり最後は「ai」の国ダヨネ♪

しかし、私がまだ子供の頃、父が買って来た邪馬台国とチンギスハンの秘密の推理本。とても面白くて愛読していたのだけど、それを2冊とも結婚相手が持っていたのが面白かった。いつか宇佐神宮に行ってみたいと思いつつもう何年も過ぎてしまった。最近は近畿説が濃いみたいだけど、私のヤマタイは九州の青い夏の国・・・。

・・・

Shoyanの歌に時々出てくるこういったPARADISE的な場処はとても大事な処で、そこに連れてゆく恋人は毎回違う。前世への旅はきっといつか、宇宙が逆回転のねじを巻き始めたら出発すればいい。もう一度、彼と彼女が楽しく笑っているあの日のあの時を越えて、お別れを言った時さえ通り越して、やっぱり出逢いから好きだったねって、いつかまたささやけると信じて海を越える夢を見る闇の中・・・

闇があるから
夢を見られるのだと
眼を閉じながら
そう想う今・・
「雪が積もり始めたら 暖かいのはなぜ?」
 もしもそう尋ねてくれたら
「さよならの街の悲しい景色を雪が塗りかえるから・・・・・」
 ぼくはそう答えたくて 空を見上げた

・・・って、
先に「答え」を用意しているその時点で、すでにそれは「答え」ではないよね?
「問い」がなければ「答え」として成り立たない。
「答え」が先に在るなんてことは有り得ない。
だから、もしも本当に彼女からの問いがその通り提示されたとしても、用意しているその言葉は彼女のためのものではなく、彼自身のためのもの・ということだ。そこから考えてみても、やっぱり、これは、もう、終わっているんだ・・・
"隠し合ってもすぐに見つかる"理由によって、去ってゆく彼女の方が心変わりしたかのようだけど、すでにこの二人の「さよなら」は必然だったように思われる。相手の心の機微ではなく、自分の機微が時を流し始めている。彼がそれに気付けるのは、彼女が去ってからどれくらい後のことになるのか・・・

人の「さびしさ」との付き合い方、それは自分自身が自立することなのではないかと思うんだ。当事者として自分で受け止め、自分で埋めなくては・・・
その後に、やっと本当に相手を想う気持ちが満ちてくるのではないだろうか。誰かに埋めてもらおうとすることが恋心だと、どうして人は錯覚してしまうのか。


いつまでも埋められることがないから、
それが 遠いロンリネス。

※だけど、"欠けている"というのも悪くはないヨ (´∀`)


2011年12月17日
 
もうずっと前から好きな歌なのに、突然にもっと好きになることがある。『想い出の駅前広場』は小粒でピリリなとても存在感のある歌だ。曲は短いけど、よくまとまっていて、年齢や時代に関係なく、永く聴ける良い歌だと思う。

何か特別深い言い回しがあるわけでもなく、淡々と、ある普通の街の日常風景が切り取られて、そこに二つの時間のトレースがあるだけだ。でもこの良質のessayのような平坦な語り口調が、逆に乾いたせつなさを匂わせていて、とってもグッとくる。
元新聞部部長のkちゃんいわく、

「日常を綴るのに難しい言葉や引用は要らないんだ。 なるべく普通の言葉でなんでもないようなことを書くのがエッセイなんだ」

と・・・。

これはエッセイではなく"歌"だけど、Shoyanの歌が聴く人にいつも寄り添ってくれる理由はそこにある。

以前私も、

「Shoyanの歌は机の上の鉛筆立ての横にそっとあるカンジ」

と、どこかで書いたけど、この歌は特にそんな感じが濃い。
「悲しい」とか「辛い」、「好き」「キライ」などという感情はなく、ただ「なつかしい」という一言だけが詞の中にある。だけど、この彼女の今の気持や別れた当時の彼の事情みたいなものまでこの風景の中に塗り重ねられていて、それを音(言葉と演奏)で視るのが胸に沁みる。若きイルカさんの落ち着いた歌い方がクサくなくて、素直に歌の風景の中に聴き手も入っていけるのが親近感を感じてイインだ。

東京や新宿みたいな大きなターミナル駅ではなく、銀座や渋谷のような繁華街でもなく、ちょうど都会と郊外の中間のような文教地区の瀟洒な駅舎。吉祥寺とか池上線沿線とか小田急とか?・・・きっと付き合っている当時の彼女は都心を挟んで、やや遠い郊外などに住んでいて、帰る最終電車の時間を気にしていたのではないかしら・・・などと想ってみたりする。きっとその頃どこにでもあった普通の風景。1975年の原町田の駅なんかもとても良かった。
(まだ跨線橋が木造で・・・噴水はなかったかもだけど)

今、自分が地方都市に住んでみれば、こうした昭和な駅前はまだリアルに感じることもできる。
 ※実際にどこの駅か既出だったらゴメンナサイ

・・・

ここに青春を送ったリアル世代の人たちとも違い、私にとってみればこの歌のリアルタイムは子供の頃であって、その時分のことを想い出すと楽しかった幼い記憶が蘇って、その還らない日のことに泣けてくる訳だけど、これからずっと時が経って1970年代のことや21世紀の今さえも知らない人たちがこの歌を聴いたら何を想うのだろう。

作者のShoyanや演者のイルカさんがこの歌に留めたモノや、一緒に聴いていた人たちの心のせつなさなどは後の世の人たちの胸でどんな風に感じられるのか・・・出来る事なら生まれ変わって、何度でもこの歌に巡り会ってまた考えてみたいと想う。

・・・

彼女の声にならない"何か"で白く曇った窓は『なごり雪』の汽車の窓とは違って、普通の電車の出入り口のドアの窓だったかと思う。故郷と都会の壮大な距離ではなく、ほんの日常にあるちょっとした乗換えの・・・私鉄と国鉄くらいの乗り換えの別れが何気なさ過ぎて、ここではかえってせつない。
"映画のポスター"というほんの少しの小道具。ただのローカルな駅ではなくて、ある程度の規模の乗降客が多い駅。その人々の往来と、動かないあの日の彼の立ち姿。

この二人、ナゼ別れ際まで彼のポケットに彼女の手を入れるような、そんな親しげな動作をしているのだろう?最終電車を気にするような時間まで一緒にいた深いカンケイだったら・・・この淡い別れってなんなのだろう?
って。


久しぶりに用があって来たこの街に、でももう今、彼は暮らしていない気がする。彼は、自分が去るから彼女と別れたのかなって想う。

きっと、この彼女、最後に
「ありがとう」
って言いたかったんだよね。

今はそんな風に想いながら聴いている。

2012年01月11日
たとえ、もう逢えずとも季節は変わりなく訪れるし、私の中のそう言った気持ちも毎年繰り返し湧いてくる・・・
止められない。
それがちょっと哀しいケド、この秋の曲たちを聴いている限り、あの日の自分と一緒にいられる気がしている。

・・・・・・・

ニューヨークどころか、外国にはまったく行く機会がなかった私でも、この歌の景色は意外とリアルに視えたりする。
それは、聴き始めた当時にはわからなかったことで、1981年から何十年も経とうという今だからこそ歌に降り積もった時間が視える・ということかもしれない。大人になってからの方が好きになって解かるようになったかな。しかも、特にここ数年の秋に急にクッキリ炙り出てきた歌。40歳過ぎたほうが感じやすい事ってある。この歌が生まれた頃、出会った頃、その頃の世の中は比較的穏やかで平和だった・・・。
今の世のようにすべて把握しなくてもいい、曖昧な時間が沢山あった。そんな過ぎ去った時代を今懐かしく想う。

・・・・・・・

まさに"ニュアンス"って言葉がピッタリの光と蔭と少しの情報だけで構成された安らかな歌。カードを切るように変化していくメロディと、思いついたように連なっていく歌詞。

歌いだしの
「始めから僕は悲しくて見てた」
なんて、ほとんどイミフメイ。

(Shoyanの歌では歌いだしのフレーズが特徴的なものが多いが)

だけどそれが非常に幻想的で、一瞬登場する"絵を手に取った君"の印象と「美しい」というほんの一言だけが色づけされて視える。

もしかしたらこの手に取った"絵"は額縁じゃなくて、どこかの建物から見る窓の景色なのかなと想ったりもする。窓の桟に手をかけて外の景色(絵)を眺める君、それを眺める僕。その絵の中にはまた無数の窓があって・・・と、合わせ鏡のように、シーンが続く。

TOKYOとNewYorkという単語に、そのビル群の無限のガラス窓ひとつひとつが絵のようで、味気ない街と美しい街、それを決めるのは人の言うこと・・・そして、目を落とせば欧州的な?公園や街路樹の色づく都会の樹々の色。鈴懸の大きな黄色い葉、つかの間の秋・・・人の心の移ろいやすさと巡る年月の裏表を感じるのだ。
※ヨーロピアンもNYも私は本当のことは知らないケド(´∀`)

・・・・・・・

「うち寄せる波」が、そのBlueな気持ちの原因なのだとしたら・・・ひと晩だけのものだとしたら・・・こんな交わり方、なんと粋な触れ合いなのだろう。
「暗黙の了解 目くばせもしないで」って、そんな、とても大事なことを何気にこういう歌に持ってくるShoyanのそのレイアウトこそがまた暗黙の了解なのでは?

密かに
熱く想う

目くばせもしないのだから・・・
それは相当曲者なのだ

ソコニキヅケバ オトナ カナ ?

しかもこの、♪目くばせもしないで~の部分の音階が本当に変わっていて美しくて、干渉色・イリデッセンスのような色合いに眩暈がしそうだ。ISESHOZO Bestメロディ上位にアル。『スモークドガラス越しの景色』のアルバムは、全体的にそういう感じのノビノビとした自由で美しいメロディが多いように想う。

・・・・・・・

以前、一度だけステージで歌ってくれたのを聴いたことがある。その時は嬉しかった。良い選曲だなって想った。このアルバムからの歌は表題曲以外、ほとんどステージで聴いたことがない。発売当時のツアーにも13歳の私じゃ間に合わなかったのだ(残念)。大好きな「二人の周期」にしたって、復活後のShoyanからは一度も聴いたことがなかった。だから品川での演奏は心底嬉しかったのだけど、その後また封印されてしまったのだろうか・・・

※軽井沢大賀ホールでのライブ初回に『軽井沢のキリギリス』、またその後今年2018年『SeaSideStory』『星の足跡』が聴けた。これはキセキ的♪成仏気味の私(*´Д`)。

・・・・・・・

秋が一番「遠くへ来たなぁ」と想う季節。
ホンモノの美しく移ろう豊かな自然や、何気ない街路樹の輝く葉に青く澄んだ空を見れば、自分が今、都会にいないということがわかる。自分が今暮らしている町が美しければ美しいほど、あの日は遠くなったのだと想う。この歌は絵葉書ほどのフォトグラフ。そんな感じで時々引き出しから取り出して眺めるのがいい。風のない穏やかな秋の夕暮れに、いつかまたそこへ旅に出たいと想いながら・・・

2012年11月11日記を改
あれから何度目かのShoyanのお誕生日
今日も誰よりも遠くでお祝いします☆
Happy Birthday to SHOYAN
WITH LOVE♪

・・・

"星の足跡"ってなんだろ?
流れる星の軌跡?
星に足がある?
それとも「そくせき」って読むの?
いや・・・
それは"○○な星の下に生まれた"
というような、人の命の波打ち際の
引き潮の湿った砂にポツリポツリと記された
小さな私たちの足跡のことかな・・・

・・・

実はこの歌の"ai"に気が付いたのはShoyanが復活してからの90年代に入ってからだ。アルバム『スモークドガラス越しの景色』は(いつも書くように)自分にとって最古のアルバムで、本当に良く永く聴いてきたと思うけど、やっぱりこういう曲って控えめなイメージで、血気盛んな?十代の頃はなんとなく聴き流してしまっていた気がする。

でも、それから時が経って自分が壊れたり傷ついたりしてくると、こういう柔らかい歌の優しさに気付いたりする。

・・・

"いつもひとりでいたアノ頃"の"ちょっと哀しい時間"。その頃、"愛の在り様"みたいなことを深く考えさせられた。

あるとき、私がとても若いころ、その当時の特殊な立場(詳細省く)ゆえに嫌がらせとか、からかいみたいなことをある職業の年上の人たちからずっと受けていた。
(普通はそういうことを抑制しなきゃいけない立場の連中なのだ)

具体的なことは省くからよくワカラナイ文章になってると思うけど、私はいつも部屋で独り待っているばかりだった。でも当時は幼いからどうしていいかわからないでいたし、そのうちに自分自身が複雑になってすべて考え過ぎて、答えを出せないことが絶望なんだと思っていた。

自分はどんどん嫌な奴になっていって、みっともない自分に更に嫌気がさして自分を放置していた。もうどうしようもなくなっていた時に、Shoyanが再び歌い始めてくれたんだ。

『冬京』を弾くShoyanがもの凄くカッコ良くて目が覚めるようだった。自分が昔買ってほとんど弾けないままだったギターを実家から持ってきて、弾けないなりにコードを追ってみた。難しいコードばかりだった。

でも、、、そんな中で、沢山ある歌、楽譜のある歌を自分なりに弾いて歌ってみて、
「なんてシンプルな愛の歌だろう!」
って気付いたのがこの『星の足跡』だった。
こんな好い歌あったんだ♪って、心がほどけていくような気がした。複雑過ぎる嫌なキモチを丁寧に手作業でほどいてくれる歌だった。

そうやって、突然歌が咲く時がアル・・・

「具体的じゃなくていいんだよ」って、
新しいShoyanと懐かしいShoyanがタッグを組んでサポートしてくれるような気がした。Shoyan(の歌)は、私の一番近くに居てくれるんだ・って、気付いたんだ。だから、その日から寂しくなくなった。

案外、何気なく、さりげない歌が
本当は"最深部"なのかもって想う

男女の色っぽいやりとりの歌や、練りに練ったSTORY仕立ての歌が目立つのは当たり前かもしれないけど、こういう優しい愛のまなざしの歌があるから私はShoyanのことが好きなんだ。

でも、この歌どんな歌なのか・・・?
それは実は今でもよくわかっていない
でも、それでいいんだと思ってる

「答えのないコトが答えだヨ」
って、とても大きな世界に気付かせてくれたんだもの。今でも、そっと椅子にかけてあるブランケットみたいに私の傍にある歌なんだ☆日々は辛いことと嬉しいこと色々だけど、いつもこの歌から始めたい。丁度そんな頃の自分に戻って新しい自分と懐かしい自分で歩き出したいと想っている。

・・・追・・・

Shoyanは意外と?
Gutギターの人だ
この歌(アルバム)のクレジットにはギターはA.Guitarとしか書いていなくて、Shoyanの他に故T氏の名前があるだけだ。でも、私はこの間奏のギターってShoyanだと想ってる。
(フツーそう思うよね♪)
チョット弾き過ぎる、一目盛り多い音が好き(^^*)。
あと、英語が弱い私には全部は聴き取れなくてそれがちょっと悔しい(´∀`) 
(※後年、ラジオで説明されたようだけど)

・・・

二度とは読めない運命は
引き返せない人生の記憶たち
波が洗ってくれたから
嫌な想い出はもう粉々になって溶けていった
でも、Shoyanの歌と一緒に築いてきた(気付いてきた)
愛おしい想い出はずっとずっと変わらない
砂で書いた文字ではなく・・・
潮溜りに取り残った小さな魚みたいに
ひっそりそこに在る
またいつか、生まれ変わる時の満ち潮の波で
二人の海に還れたらいいと想う
その時は、浜辺の星砂が舞い上がって
とても綺麗な景色だろうと想う
その時もそっと歌ってくれるだろう
~やさしく おやすみ......
って☆

@2012年書いたものに加筆

※2018年9月 軽井沢大賀ホールで聴けて本当に嬉しかった。
嬉しすぎてあんまりよく覚えてないから、もう一度聴きたいよShoyan。またどこかで歌って欲しいものです。(*´ω`)

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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検索窓的な♪

☆曲目や記事の内容単語など、ここから検索できます

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