Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。
「♪そんなことがあって~」
って
「どんなことがあったんですかっ!!?」
と、いつも突っ込んでしまう唐突な歌い出しが印象深い。
(モチロンそれは後で説明があるが)
(モチロンそれは後で説明があるが)
前半は旧い映画のような、最近でいうと韓流ドラマのような(?)ストーリー仕立てだけど、後半"運命を追い越す"あたりから急に具体的なことが薄まり、馴れ合った二人に何があって、何を失って"僕や君"がいなくても時が流れそうになるのだろう?と、そして、どういう再生を経由してそれを修復し"君は僕のたったひとつの惑星"と言えるまでになったのか?
まるっきり縁のなかった二人が、まるっきりの偶然で、ある場所である時出会い、時を重ねてひとつになろうとする・・・
それってものすごいことだ。
余程の理由があるはずだ。
けれど、その理由や縁や運命なんて言葉を意識し始めると、事実はそこから流れを変えてしまうこともある。
それってものすごいことだ。
余程の理由があるはずだ。
けれど、その理由や縁や運命なんて言葉を意識し始めると、事実はそこから流れを変えてしまうこともある。
同じ川なのに、
枯渇したり
溢れ出して決壊したり・・・
源流の無意識下で降る雨の量を、ほとんどの人は知らないまま日々を過ごしているから、自分の心と相手の心の中で起こることが"偶然"に思えてしまうのだろう。
枯渇したり
溢れ出して決壊したり・・・
源流の無意識下で降る雨の量を、ほとんどの人は知らないまま日々を過ごしているから、自分の心と相手の心の中で起こることが"偶然"に思えてしまうのだろう。
・・・
"すべてのことは必然"
とはどういうことだろうか?
とはどういうことだろうか?
物事はいつも山登りのようで、山頂で我に返って振り返ると後ろに長い長い山道が続いている。「出会い」という道標に導かれて傾斜の上のほうへ、能動的に登っていくことが恋愛だろうか。
登りきった山を二人で下るか、
独りで下山するか、
滑落するか、
登頂の後がモンダイなのに・・・
独りで下山するか、
滑落するか、
登頂の後がモンダイなのに・・・
運命を追い越したり、運命にほおづえをついたりすることは出来るけど、"必然"はコントロール出来ない。なぜなら、必然は私たちの行動の薄紙一枚"後"からやってくるものだと思うから・・・人生はいつも"後輪駆動"なんだと思う。「これが必然だ」などと、先に意識しながら行動できるものではないのだ。
『有り得ない偶然』の後半が抽象的なのは、きっと聴く人なりの必然を書き込みなさい・というShoyanの余白なのかもと思う。現に私には本当に不思議な"有り得ない偶然"が沢山訪れてくれた。それゆえにこの歌はとても大事な時の画鋲になっている。それは意識して出来ることじゃないから・・・だから、「有り得るのは必然」というのがよくわかる。思い込みや欲望、下心・の一歩外にあるのが必然だと、心の片隅に置いて行動できたらいいのにと思うけど、私はやっぱりまだまだ自分の顕在意識に翻弄される未熟者だ。
しっかし、この佐藤準氏のゴキゲンなピアノが最高なんです。
この演奏も人の縁の妙を感じる素晴らしいものだと思う。
この演奏も人の縁の妙を感じる素晴らしいものだと思う。
今度のRe-bornの森一美氏とのやりとりもそうだけど、何か事柄がまた新たに転がり始める時って色んなものを巻き込んで動いていくのだなぁと思う。必然の結び目もほどいてゆくと偶然の撚り合わせから成り立っているのだなと思うのであります。
※2010年7月に書いたものを改編
『Re-born』のジャケ写を眺めながらフト想う・・・
♪風の街で
帽子を押さえながら
ほら 笑ってしまうでしょう?
帽子を押さえながら
ほら 笑ってしまうでしょう?
って、また今そう言われてるみたいに、
フッと口角が上がってしまう。
フッと口角が上がってしまう。
それは、
♪負けても楽しいジャンケンみたい
に、
「わー!飛ばされなくって良かった~♪」
「わー!負けちゃったよぉおお♪」
「わー!負けちゃったよぉおお♪」
の♪なカンジ。
無邪気な、Wow!
その直後を想うワケ。
無邪気な、Wow!
その直後を想うワケ。
・・・・・
さて、以下その『笑顔』のこと少し書いたものをまとめて載せておく。発売当初の2011年10月と2012年の5月に書いたものだ。なんとなく今思い出したので掘り起こしてきた。
その1 ☆言葉のベッド
『笑顔』は先にネット上で歌詞が読めたので、知ったのは歌詞が先だったけれど、"歌”って初めて聴く時はメロディーが先に耳に入ってきて、胸の中に言葉(フレーズ)のベッドを作るんだ♪
そうして、歌詞を受け取ってゆく。
そうして、歌詞を受け取ってゆく。
何度も何度もこの歌だけ繰り返して、根本的に何かがほどけて、とっても楽になっていく気持ちを覚えた。独りじゃ変えられない気分。Shoyanの音がそっと手を添えてくれて・・・嬉しかった。
音の順序を覚えていくうちにどんどん泣けてきた。予想より遥かに多くの涙が出てくる。こんなに泣けると思っていなかったんだ。
音が、メロディーが心地良くて、言葉はまだ覚え切れないのに何か伝わってくるものが大きくて、心の水位が急上昇して溢れそうだ。
音が、メロディーが心地良くて、言葉はまだ覚え切れないのに何か伝わってくるものが大きくて、心の水位が急上昇して溢れそうだ。
不思議とShoyanご自身が歌ってる声が聴こえてしまい、「ヴォーカルでは参加してないよね?」と確認する。まったくの気のせいなのだけど、何故か聴こえてしまうんだ(妄)。Shoyanの最近のギター、本当にノッてるなぁ(*´∀`*)若草の匂いがするヨ (涙)。
Shoyan・・・
音楽って素晴らしいです。
言葉より先に"音"がまず、私を慰めてくれてる。それってすごいことだ・・・。想像以上の大きな・暖かい愛情にまず"感触"で包まれる。そして心が耕された頃に言葉の種に気付く。
言葉より先に"音"がまず、私を慰めてくれてる。それってすごいことだ・・・。想像以上の大きな・暖かい愛情にまず"感触"で包まれる。そして心が耕された頃に言葉の種に気付く。
~時がいつか 悲しい景色を選んで
塗り変えてくれる
塗り変えてくれる
~空が泣きそうな時も
花には歌が聴こえてる
花には歌が聴こえてる
~風の街で帽子を押さえながら
ほら 笑ってしまうでしょう
ほら 笑ってしまうでしょう
どれも何気ない言葉で出来ているけど、紛れもないShoyanのまなざし!大好きなフレーズ。素材の味だけで楽しめる温野菜のサラダみたい。聴いたあとに心と身体がすべて開くような、優しい寄り添いを感じるんだ。(例えそれを他のアーチストが歌っていても)
この感触がShoyanのラブソングの基本なんだと想う。ダンスの時にスッと伸ばした手をとる相方の呼吸、それをよく感じられるのが『笑顔』なんだ。
2011年10月13日
・・・・・・・・・・
その2 ☆笑顔の下描き
Shoyan・・・
~涙の分だけ 笑顔に会える
と言うことは、やはり
「笑顔の分だけ そのバックグラウンドには涙もある(かもしれない)」
ということですか?
私はそう想うんです。
花にとっては恵みの雨も、やはりもう一度裏返せば、そんな校庭の片隅で、ずぶ濡れで泥ハネに泣く子がいるかもしれないと・・・
そんな、この歌の持つ"白と黒"みたいな部分をわざわざひっくり返して考えてみる。だからこそ、今余計に好きになって・大切になって、発売された頃とは少し違う聴き方を繰り返している。
~時がいつか悲しい景色を"選んで"塗り替えてくれる
ならば、ずっと続いて現在進行形の悲しみはどうなりますか?
"時"というのは、その出来事が後ろに去っていくからある概念で、「時が経つから、流れるから解決に向かう」のだと思う。
"失恋"というクサビから一時間一週間一年十年と時間が過ぎるから、悲しい景色は塗り変わっていける。でも、ずっと継続して降り注いでくる悲しみや苦しみに対して、時は何をしてくれるのだろう? と、そう思うのです。
例えば、ものすごく具体的に言えば、親に愛情をもらえないまま虐待されている子供や、会社の経営が苦しくて逃げ出したい人、でも仕事をしなくては家族と自分を存続できない、働いても働いても身体が傷むばかりで貧しさから解放されず、"生きるために死にそうになっている"人。それこそ、もっと広く目を向ければ、何十年も続く戦争や飢餓が日常になっている人たち・・・。本人がどんなにどんなに頑張って耐えても、他者から流れ込む汚れた波で溺死寸前の人がいる。そういう人たちに"時"は存在するのだろうか・・・。時の流れが止まった世界で、悲しい景色が塗り変わることはあるのだろうか?人一人が生きている一生の間に、間に合うのだろうか・・・と。
そういった"時の解決"は、悩みや苦しみの波を潜り抜けた人だけに訪れるものだとわかってはいるけれど、今、いつまでも限りなく押し寄せる苦しみの波の中で、追いつめられている人は沢山いる。その人たちの笑顔って、どうしたら得られるのだろうと、この歌を聴きながら想うのです。
だから、この歌を何度も聴いていて想ったのは、もしかして、今のShoyanでさえもまだその歌や言葉に託しきれない重い何かが、今の世の中に澱み降り積もり続けているのじゃないかと・・・
そんな"未解決"にも気が向いてしまうのだ。
でも、この『笑顔』という歌は、そこに立ち向かう"基礎体力"を養うための歌なのかもしれない!と、そうも想うのだ。
希望を忘れずにいるためには
どうしたらいいの?
どうしたらいいの?
ということを、とても優しく、何気なくメモってくれたShoyanの歌だと想う。特別な言葉や凝った言い回しもなく、情熱や甘美なアクションもないのに、ずっとずっと日常の一番奥底で鳴り続けている胸の鼓動のような歌だなって想う。
発売から少し時が経って、日に日に気付くこと、想うこと・・・アル。やはり、ひとつの歌を永く聴くって大切だ。
・・・
「相変わらず君は物事を難しく考えすぎてるネ?」
と、自省もあるけど、『笑顔』は本当にいい歌だ。聴けば聴くほど旨味が増えて聴き手の心が潤ってくる。磨耗するだけの時の中で、悲しくとも・・・でも、人(他者)の笑顔に会えるなのなら、自分が涙を抱える甲斐もあるかもしれない、そんな風に想えば、もう少し楽になるかもヨ?と、ソッと支えてくれる歌。
心の笑顔は自分のためだけでなく・・・
Shoyan、永く聴ける歌をアリガトウ!
Shoyan、永く聴ける歌をアリガトウ!
※トワエモアは本当に歌が上手くて、 お二人ともとても丁寧に歌われるから、 付加される衣が本当に厚い。 聴いていて心地良い。 大切に歌ってくれて嬉しいと思うのでありました。
2012年5月27日
今回のアルバムRe-bornの全曲を聴いて、本当に想うこと多すぎて、あと何年かかるやら・とたどり着く先はまだまだ見えないのだけれども・・・今回やはり正やんのベースが嬉しくて、そのことを書いたことを思いだしたのでチョット貼っておく。2012年の2月に書いていたものだ。今は渋谷駅そのものが消滅して生まれ変わってしまったし、当時は震災のことなどがあって、その分この文を書いた自分もイキってる感じがあるけど、それはその時の素直な自分の状態なのでほぼそのまま載せておくことにした。
以下、本文。
・・・
以下、本文。
・・・
で、今更だけど『メガロポリスの錯覚』。
この歌、歌詞を見ると
「忙しくて構えない」
と書いてある。
この場合、渋谷駅の若者も政治家も
※忙しくて「構ってられない・相手にしてられない」
なのか?
それとも
※忙しくて「身構えない・備えない」
って意味なのか?
どちらとも受け取れていつも考えてしまう。何年経っても・・・もしや二段"構え"なのか?
政治家は、今も相も変わらず緊張感がない。忙しいんだか鈍感なんだか、人の命をなんだと思っているのか。こんな地方の食堂のおばちゃんが憤るほどに・・・(悔)。大事な使命を途中で放り出す意気地無しまでいる。やっぱり"戦争を知らない大人たち"でしかなかった・・・と、失望の2012年2月だ。
だけど、若者はどうだろう?
当時より、疲れ果ててるように見える。
(この"当時"とは2つの時期を指す)
当時より、疲れ果ててるように見える。
(この"当時"とは2つの時期を指す)
ナニを楽しみに生きてるだろう。
手間もかからず、時間も圧縮されて、モノは何でも手に入る世の中で、わざわざ見る夢なんてあるのかな?
手間もかからず、時間も圧縮されて、モノは何でも手に入る世の中で、わざわざ見る夢なんてあるのかな?
今の、シブヤエキの若者は忙しいだろうか?
もしかしたら、何もすることがなくて、構い方・構え方も忘れてしまったかもしれない。孤独だけ、自覚しないままブラックアウトした液晶タッチパネルの奥に深まっていく・・・
もしかしたら、何もすることがなくて、構い方・構え方も忘れてしまったかもしれない。孤独だけ、自覚しないままブラックアウトした液晶タッチパネルの奥に深まっていく・・・
・・・
あの頃、私の近くにいた公的な道徳教育のプロジェクトを立ち上げていた人たちのその本棚に、腐るほど積んであった教育評論家の本を思い出す。そんな本、何十冊も何百冊も「木を見て森を見ず」で、いくら読んだって人の心なんてわからないのに・・・今はもうその本棚を見ることが出来ないので、"育親書"が編纂されたかどうか、確かめられないのが残念だ。
そもそも、編める人がいないだろう。
もう、"大人"がほとんど絶滅したんだ。
少子高齢化なのに・・・
分別と覚悟のある大人はもういないのかもしれない。
もう、"大人"がほとんど絶滅したんだ。
少子高齢化なのに・・・
分別と覚悟のある大人はもういないのかもしれない。
自分だってそのハシリ・・・
そうそう、その評論家さんは今では面白く化けてTVタレントになってしまった。溶けた蝋のように人の心に入り込んで中で固まる作戦に転じたのだ。なりふり構わない愛と自己顕示欲が紙一重。それを見習ったら賢いオトナになれるのか・・・?
イヤイヤ アキラメナイデ ・・・
・・・
で、曲に戻るけど、
この"バブルの槌音"のような演奏が熱い!
エンディングに向かう部分のヘヴィなベースラインがすごく気に懸かって、演奏者のクレジットを見ると、BassにShoyanの名前がある。1994年に聴いた当時から、この部分がShoyanの演奏だと思っているのだけど、どうかな?(違ったらゴメンナサイ)
エンディングに向かう部分のヘヴィなベースラインがすごく気に懸かって、演奏者のクレジットを見ると、BassにShoyanの名前がある。1994年に聴いた当時から、この部分がShoyanの演奏だと思っているのだけど、どうかな?(違ったらゴメンナサイ)
この部分の音ってこの曲の肝で、混沌をアメノヌボコで掻き回したらこんな音がするんじゃないか・って思うほどキャッチーだ。(またもや違ったらゴメンナサイ)瀬尾氏のアレンジっていつも大仰だけど!?この歌の場合スゴク効果的で、復活後の一連の中で、この歌の尖り具合ってサイコー!こっちの極まで思い切って作りこんだShoyanの、その覚悟というか心意気が今でも熱い。
この冷めない鉄のような温度は今どこにしまってあるのかな・・・
Shoyanの胸のストーブの扉は鍵つきで、誰にも開けられない。今は吸気口だけで上手に調節されてるみたい?直火はキケンだからかな・・・(・∀・)つFire
Shoyanの胸のストーブの扉は鍵つきで、誰にも開けられない。今は吸気口だけで上手に調節されてるみたい?直火はキケンだからかな・・・(・∀・)つFire
次に薪をくべるのは誰!?
・・・
メガロポリスなんて虚構だと、去年イヤと言うほど思い知らされたはずなのに、不安は膨らみ続けてる。大きな会社、大きな組織=MEGASの中にいると"個"は希釈されてしまって、遠まわしな人殺しさえ平気で表明出来るようになる。去年からずっと目の当たりにしてきた日替わり定食のような言い訳、そんなマイクを持つ手にも左の薬指に指輪が光っていて虚しい・・・。
アノコロと同じ軍隊なのに、同じ標的Targetなのに、現場の人は拳じゃなかった。その手を取り合って命を救おうとしていた。愛に目覚める人と、愛のセンサーが壊れた人と、両極端に世の中が軋みだしてる。二つのねじれが進んでいったらどうなるんだろう。地殻の変動より人の心の変動のほうが直に効いてくるはず・・・
大きなものは、本当は小さきものなのだと気付けたら、その錯覚から抜け出せるのじゃないだろうか。
~ もう少しで
時が行くから
そこへ行くから・・・
時が行くから
そこへ行くから・・・
もうすでに、時は訪れている。
2012年2月16日
2012年2月16日
ずっと・・・
もう何年もライブで聴きたいと思っているのに、
ずっと聴けていない歌がある。
もう何年もライブで聴きたいと思っているのに、
ずっと聴けていない歌がある。
『カモン・ラヴ~Save Old Me』
こんなにも西陽のあたる切ない歌他にない。
と、ものすごく個人的に想っている♪
こんなにも西陽のあたる切ない歌他にない。
と、ものすごく個人的に想っている♪
・・・
葉の落ちきった公園の樹
白く冬枯れた芝生
賑やかなフードコート
家族連れ、揃いのキャップの老夫婦、ランニングをする人
最寄駅まで急ぐ人波、まだ薄い青空に少し夕陽
白く冬枯れた芝生
賑やかなフードコート
家族連れ、揃いのキャップの老夫婦、ランニングをする人
最寄駅まで急ぐ人波、まだ薄い青空に少し夕陽
とても、時代的な黒髪の横顔、きっと太いクッキリ眉。
カールした前髪は西陽に光って揺れる。
彼女は一人でスタジアムに来たの?
それとも連れがいたから気付かずに遠ざかる背中?
カールした前髪は西陽に光って揺れる。
彼女は一人でスタジアムに来たの?
それとも連れがいたから気付かずに遠ざかる背中?
届かないなんて、切な過ぎる・・・
接触するカンケイもリアルで苦しいものだけど、非接触型恋愛は綿飴のように儚くて、ましてや過ぎ去ったものならば余計に蜘蛛の糸より細い縁の糸が・・・風に舞ってしまって回収できない。その、どうしようもなさがフェイドアウトして、解決しないままなのがこの歌のもっとも切ないところだと思う。
イントロ&裏メロの佐藤準氏のピアノ・ピアニカは、シロウトの私だってなんだか熱い涙滲むようなドラマチックな盛り付けだ。オレンジキャンディーを口の中で転がすようなピアノ。夕陽に長く伸びた乾いた影のようなピアニカ。
準氏のアレンジや音はいつもどこか優しい。"キレキレに優しい"なんて変な捉え方だろうか・・・私が佐藤準氏を好きなのは、どの歌もかならず"聴く人に合わせられる柔軟さ"を含んでいるからだ。それは、正やんの作る歌と同じで、聴く人の器に合わせて形を変えてくれる優しさだ。
(時々ユルくなりそうなアヤウサもまた魅力!?)
(時々ユルくなりそうなアヤウサもまた魅力!?)
でもそれが一番人の心の奥深くまで浸透する所以なのだろうケドも・・・
・・・
このスタジアムで開催されているスポーツって何?
ラグビー?野球のオープン戦?サッカー?
「♪あの日ハーフタイムに流れていたメロディ」はどこかのチームのサポーターたちが歌うチャントなのか、それとも『私を野球に連れてって』みたいな、7回裏のことをハーフタイムと言ったのか・・・でも、決めなくても冬はスポーツ観戦が熱い。そのスタンドの熱いざわめきと興奮のすき間に、過ぎ去ったセツナさが落ちている。その対比がとてもいいんだ。
ラグビー?野球のオープン戦?サッカー?
「♪あの日ハーフタイムに流れていたメロディ」はどこかのチームのサポーターたちが歌うチャントなのか、それとも『私を野球に連れてって』みたいな、7回裏のことをハーフタイムと言ったのか・・・でも、決めなくても冬はスポーツ観戦が熱い。そのスタンドの熱いざわめきと興奮のすき間に、過ぎ去ったセツナさが落ちている。その対比がとてもいいんだ。
「♪なつかしさにおもわず叫んでしまう」
それは、当時きっとほぼ片想いで終わってしまったもの?傷つけあったり、憎んだりしたことのない未満の関係・・・優しい別れだったから懐かしめるんだね。
そう言う想い出、清らかで稀少なものだとあとになって想う。
実際に彼女がそこにいたのかどうか、確かめるすべはない。ついさっきまでそこにあった黒く長い影が夕陽が沈むと見えなくなってしまうように、ひとときの過去の幻があたたかい。
"時の後姿"の歌。
その季節の時にだけ聴きたい贅沢な歌だ。
♪All I Need's Your LOVE・・・SONG ・・・ 世界が変わる
&
♪いつか世界が変わる その愛は何よりも強く光る ・・・
そろそろ、本気で世界が変わるのかな。
いやすでに変わり始めているね☆
・・・
&
♪いつか世界が変わる その愛は何よりも強く光る ・・・
そろそろ、本気で世界が変わるのかな。
いやすでに変わり始めているね☆
・・・
大島ミチル氏の編曲が素敵だ。
(その後、NHKスペシャルなどの音楽がすごく良かった)
ドラマチックなアレンジがギュ~っと絞るように切なくて、1987年当時の複雑な自分の状況が蘇る。ヒミツの恋(謎)も悩み多き家庭環境も・・・
だけど、それゆえにこの歌を最初に聴いた当時はちょっと大仰な感じに聴こえたのかな・・・少し遠かったかもしれない。
(その後、NHKスペシャルなどの音楽がすごく良かった)
ドラマチックなアレンジがギュ~っと絞るように切なくて、1987年当時の複雑な自分の状況が蘇る。ヒミツの恋(謎)も悩み多き家庭環境も・・・
だけど、それゆえにこの歌を最初に聴いた当時はちょっと大仰な感じに聴こえたのかな・・・少し遠かったかもしれない。
19歳か自分・・・色々重かったね。だからこの歌が眩しかった。重くて辛かったがゆえに、この歌の前で私は少しうつむき加減であったように思う。だがしかし、この頃のShoyanの歌は私の魂の浮き輪であって光であったと、今になって強く思う。この光があったからこそ、私は闇の中で自分の手のひらを見ることが出来たんだって後から気付いた。
・・・あれから何年?
この歌、ギター一本などで、わかるところだけ弾いて歌ってみようと試みると、切実に求めるキモチがよくわかる。ダイレクトに切ないのがすごくイイんだ!今のLiveでサクっと歌ったら本当に素敵だろうと思う。メロディーだって、ただそれだけで変化に富んでいて、相手を想いながら一本一本選んで束ねたブーケのように胸を打たれる。
雨、土曜日、ガラスにため息、雨に煙る街の灯り
ただそばにいて、他に何も要らない、世界が変わる・・・
ただそばにいて、他に何も要らない、世界が変わる・・・
私の好きなものいっぱい詰まってる。
だから好き。
だから好き。
やっぱりShoyanの基本は"手のひらの上のラヴソング"なんだって改めて想う。その両手をこの頬にあててくれればそこから私のすべてが暖められる。それは今も昔もまったく変わらない。
Shoyanが『LOVESONG』という単語を多用し始めたのはいつの頃からか・・・丁度この頃からじゃなかったかな。何故、あの頃のShoyanの前にその"扉”が現れたのか、それ以前をよく知らない私にはその経緯は想像できないけれど、それまでの"音の外遊"から、自身への"内遊"へのシフトが如実になったのではないかな・・・なんて思ったりする。(その最たるもの=到達点が『garden』かも!?)
モチロン、創造する人=アーチストは常日頃から内と外・今と昔・右左上下・有ると無い、とか意識の移動があると思うけど、この頃の正やんの"腰を据えて定点観測"みたいな、何か軽やかな頑なさを感じる。その"ふんわりした重たい感触"を、当時の私は答えの出ない宿題みたいにずっと抱えたままShoyanのいない何年かを過ごすことになったのだけど・・・(悲)。
そうそう、『ラブソング主義』というプチ詩集冊子もあった。一枚だけShoyanご自身が撮影したモノクロ写真も載っていた。(余白に沢山正やんマンガの落描きをしてしまった^^;;)
その87年当時、ラジオか何かでShoyanご本人が
例えば、大きな国の大統領や代表の人が
毎日愛に満たされた生活を送っていたら
何かの時に核兵器のボタンを押そうという
気にならないのじゃないか・・・
って思うんです
毎日愛に満たされた生活を送っていたら
何かの時に核兵器のボタンを押そうという
気にならないのじゃないか・・・
って思うんです
みたいなコメントをされてたことがあった。
あの、バブル前夜のキンキンに熟れた昭和の末期に、独りだけ立ち止まって"愛情の存在理由"を原点から見直そうとしていたShoyanのコトを私は忘れられない。その3年前発表の『HEART BEAT』のアルバムのクレジットにご家族の(奥さんと娘さんの)名前が載せてあって、幼き私はそれを見た時、「こんな風に家族と一緒に在る男の人っていいな」って純粋に心の底から感激したし憧れた。そういう人が作る歌だから自分の想いも全部託して大丈夫だ!って決めたんだ。それは間違っていなかったと思う。
あの、バブル前夜のキンキンに熟れた昭和の末期に、独りだけ立ち止まって"愛情の存在理由"を原点から見直そうとしていたShoyanのコトを私は忘れられない。その3年前発表の『HEART BEAT』のアルバムのクレジットにご家族の(奥さんと娘さんの)名前が載せてあって、幼き私はそれを見た時、「こんな風に家族と一緒に在る男の人っていいな」って純粋に心の底から感激したし憧れた。そういう人が作る歌だから自分の想いも全部託して大丈夫だ!って決めたんだ。それは間違っていなかったと思う。
「人を愛して何が悪い!?」
と、ツッパっている自分がいた。
と、ツッパっている自分がいた。
「愛してたけど情けない結果になりました」
と、崩壊した自分もいた。
と、崩壊した自分もいた。
そして今でも、甘いのか苦いのかワカラナイ・紙風船のように壊れやすい・一寸先は闇の夜のhoneymoon・・・な愛を抱えてる自分がいる。
だけど、だから、少しは他人の痛みにも寄り添える人間になれるかもと思っている。思っているだけで実行に移せているかはまだわからないけども・・・
"LOVESONGの実践"は私のテーマだから!
(´∀`)
(´∀`)
遠くてもいいんだ
届かないだけで
ここに在るのは悪いことじゃないヨ☆
届かないだけで
ここに在るのは悪いことじゃないヨ☆
「欲しい」より前に
「備えよ常に」だ
「備えよ常に」だ
愛してる・・・
って、胸を張って堂々としていよう!
って、胸を張って堂々としていよう!
"ロングランな歌"っていうのがある。
いつ聴いてもじんわりくる。
『冬の地下鉄』ってそういう歌。
いつ聴いてもじんわりくる。
『冬の地下鉄』ってそういう歌。
地下鉄はわかりやすい"目安"で、地上一層では生活が成り立たない巨大な街の証拠。地下鉄のない町に住んでみるとその線引きがよくわかる。Shoyanは"地下鉄"には思い入れがおありかと想う。交通機関名曲の中でも特に気になる歌が多い。
・・・
若さを語るのに地下とは・・・
日の射さない地下で想うことは、どこか現実(現在)的ではないのかもしれない。地下鉄の限られた空間にはどこか安堵にも似たひきこもり感があって、独りで乗っていても孤独ではない。そこに惹かれるのかな?
日の射さない地下で想うことは、どこか現実(現在)的ではないのかもしれない。地下鉄の限られた空間にはどこか安堵にも似たひきこもり感があって、独りで乗っていても孤独ではない。そこに惹かれるのかな?
でも、そのボーダーな空間を出て駆け昇った階段の先、地上には春の香りと言うけれど・・・
そこはのどかな春の野ではなく、身一つで放り出された大海のようで、様々な価値観が渦巻く無限不安の都会。怖いくらいに何でもある場所・・・。"大人"という鎧を身につけて闘わなくちゃいけない場所。都会に暮らせば毎日、鉄橋で川を渡ったり、地上と地下と高層ビルとを行ったりきたりして出勤と退社、onとoffの繰り返しで、様々な"行き帰り"の繰り返しだけど。時の流れだけは行ったり来たり出来ず、昨日が1ヶ月前に、1年が5年にと、ただひたすらに遠く去ってゆくのみだ。
若さがオトナに移行する過程。
それは還れない一方通行の旅。
そのライン上に日常が降り積もっていく。
それは還れない一方通行の旅。
そのライン上に日常が降り積もっていく。
でも、旧い路線の地下鉄でフト、あの頃のタイムラインの近くを通過する時、窓の外に青春のスライドが再上映されることがあるのかもしれない。開かない扉側の、壁の広告のように
眺めるだけで手は届かないけど・・・
眺めるだけで手は届かないけど・・・
だから、電車に乗ると人はつい何かを期待して窓の外を眺めてしまうのかもしれない。
・・・
少し、話戻して・・・
"地下鉄SONGS二卵性双生児"のような『地下鉄は空っぽ』では時の流れの存在は薄い。そして、ただ二人だけの世界だ。だって、まさに"真っ只中"だったのだから、時間は当事者である時にはわからず、過ぎてから見えるのだと想う。
『地下鉄は空っぽ』が出来た頃、Shoyanは出演されたラジオで、
「地下鉄の駅などで、若いカップルがケンカ?をしてたりして、
男の方が壁に手を突いて彼女を帰さないようにしていて、
そういう、若い光景が印象的で・・・」
男の方が壁に手を突いて彼女を帰さないようにしていて、
そういう、若い光景が印象的で・・・」
みたいなことをおっしゃっていた。
それから10年してカタチになって出て来たのが『冬の地下鉄』だ。
それから10年してカタチになって出て来たのが『冬の地下鉄』だ。
~♪ホームで誰の目も気にせず喧嘩もしたあの頃なら・・・
まったく同じ恋人たちではないだろうけど、未熟の青い実のような恋の風景と熟した後、土に落ちて次の芽を出した実ほどの時の熟成があるのが興味深い。歌を寝かせた結果・・・がよくわかる。そして、永く聴いてまた沁みてくる。素晴らしい歌だって想っている。
・・・
~♪君が僕と違うわけを
今回、一概に"男と女"なんて言い切れず(『夏の沈黙』とは少し違うニュアンス?)"運命"的なものも感じる。
・・そう、人のタイムラインはそれぞれ違う。でも、ナゼそれが交差したり併走したりするのかは誰にもわからないことで、そもそも、運命って一秒先も前もって決まってはいないんだ。時の流れは逆戻りできない一本のラインのはずなのに、レールはその先にあらかじめ1cmも敷かれていない。不定形な概念が"運命"・・・
自分がその人生の背後に敷設してきたレールの長さが今の自分を縛りもするし安定もさせる。若い頃の束縛のない転がるままの自分はいつから"後ろレール"を敷き始めるのか・・・
そのタイミングの違いが"君と僕の違い"なのではないかと想う。
・・・
1996年。
今聴くと、なんと甘く、素なShoyanの歌声…(>_<)。
あの頃のShoyanの事実全てが詰まっているようだ。
自分が知っている時間の全てが録音されているような気がする。この二曲、やっと両方リアルタイムで聴けた歌だから自分の中で比べたり想い出したり出来るのが嬉しい。
今聴くと、なんと甘く、素なShoyanの歌声…(>_<)。
あの頃のShoyanの事実全てが詰まっているようだ。
自分が知っている時間の全てが録音されているような気がする。この二曲、やっと両方リアルタイムで聴けた歌だから自分の中で比べたり想い出したり出来るのが嬉しい。
昔の歌もこんな風に聴けていけたらいいな・・・
・・・・・・・
排気ガスと雑踏の臭いの中にでも春の香りを見つけられるかどうかは、そのココロモチ一つ。
歳をとれば"失った春"は胸の中で樹脂のように固まっていたりする。でも時々、想い出に擦れて仄かに香ることがある。見えない花が香る早春のように、過ぎた春もまた記憶の中で褪せないまま触れられないのだろうな・・・
だから永く 大切に キラメキ抱きしめて☆
#2012年
~この街の雨冷たく so lonely
今年の冬はわが町や関東地方は全く雨が降らなくて、カラカラの街からさらって欲しいレベルの乾いた冬なのだけど、、、。
本来ならば1月中旬~下旬の雨は乾燥注意報を一息つかせる雨。それでも暖かい季節の雨と比べるとそっけなくて、まだ季節を緩ませるものでもない、あまりにも普通の冷たい雨。
『アフタヌーン通り25』とともに『僕と子犬と1月のバス通り』はこの時期毎年ヘヴィロテである。
本来ならば1月中旬~下旬の雨は乾燥注意報を一息つかせる雨。それでも暖かい季節の雨と比べるとそっけなくて、まだ季節を緩ませるものでもない、あまりにも普通の冷たい雨。
『アフタヌーン通り25』とともに『僕と子犬と1月のバス通り』はこの時期毎年ヘヴィロテである。
この頃になると、クリスマスやお正月などのハレのイベントも過ぎて、基本的な日常が戻ってくる。こうした何気ない日常の中でフト想い出したりする作業のほうが、感情的には切ないよね。
フラットな面がえぐり取られたら、その傷跡は良く目立つ・・・。何気ない毎日の中で想い出したり悔いたりすることはその分、長く引きずるような気がする。
~君に会えない 今でも so lonely
復縁のあてもないのに住む所まで"その感情"で決めてしまっていいの?部屋を借りても、容れ物だけ新調しても、中の水はこぼれたまま・・・。
フクスイボンニカエラズ
新しい涙が溜まるのを待つの・・・?
でも、この歌を聴くと、各所で"オトコって残酷…"と思う。
でも、この歌を聴くと、各所で"オトコって残酷…"と思う。
~涙をそっとこぼして欲しい
~君の涙が必要なのに
~心やさしくなるにはもっと 君の涙が必要なのに
~君の涙が必要なのに
~心やさしくなるにはもっと 君の涙が必要なのに
って、どんな"涙"を欲するというの?
例えば・・・(チョット引用)
~朝から続く雨の日に泣きながら飛び出していった
@『あの頃のぼくは』
@『あの頃のぼくは』
のような、彼女の悲しい涙はどう?
相手の理解を得られない時の涙ほど辛いものはない。心が通じないゆえの涙なんて二度と見たくもないし流したくもない。それを相手に欲するというの???
相手の理解を得られない時の涙ほど辛いものはない。心が通じないゆえの涙なんて二度と見たくもないし流したくもない。それを相手に欲するというの???
否・・・
~君を泣かせた悲しい言葉
彼女が、それに堪えて堪えてどうしても押さえきれなかった一粒が、全ての終わりの初めだとしたら。もっと・・・というのは、彼女の心の解放を望むものなのだろうか。悲しい涙を流して流して泣いて泣いて心が裸に赤剥けた時に、
~君と初めて出会えるのだろう
@『涙憶』
@『涙憶』
ということになるのだろうか?
"遠く離れて、こんなに近い"とわかったのに、それでもまだ涙を流せと言う要求は。やっぱりチョット残酷な気がする。それとも再出発のうれし涙??
・・・
別に、悲しませようとする涙でないことはわかってる。ぶつかって、触れ合って、理解を深めていく過程の副産物である"摩擦のしずく"が、ここで欲している涙なのかと思う。
でも、もう手遅れだったのかナ。。
気付いた先からもうほどけ始めていた絆。
もう、彼のための涙は存在しないのか・・・
気付いた先からもうほどけ始めていた絆。
もう、彼のための涙は存在しないのか・・・
・・・
子犬は彼や彼女の"無心"。
人は、未来や立場を意識しすぎて自分を縛ってしまう。二人とも、子犬のように相手に対して全身全霊だったなら・・・
人は、未来や立場を意識しすぎて自分を縛ってしまう。二人とも、子犬のように相手に対して全身全霊だったなら・・・
でも、人生最初から何でもわかっている訳ではないから、人は成長していけるのだ。いつか、次の縁が訪れるまでの(いや訪れた後でも)忘れられないことも忘れるための作業だと、軽いため息をつきながら時を送っていくしかないのだろうと思う。
このアルバム『時のしずく』が2月始まりなのは、私たち日本人の感性の暦に適ってる。正当で表向きな公式の暮らしの陰で、"裏暦"みたいな心の伏流がある。そうやって長い人生の中に心の陰翳が出来てゆくのはとても素敵なことだと思う。
聴き始めた頃にはなかった感情が今の私の中に有る。それはこの時の雫が何年かかけて少しづつ穿った想い出の中の小さな窪みだ。そんな"懐かしさの窪み"がShoyanの歌と私の歴史なのだなと、大切に想わせてくれる歌だ。
・・・
降り出した冬の雨は雪にもならずに、中途半端に冷たい街を黒く染めて去っていく。もう流れ始めてしまった別々の時間が二人を引き剥がしてゆく。最後のフレーズはグサっと刺さる。過ぎてから気付く宝物のコトを・・・
この"明るい寂しさ"、"切ない絶望"が堪らない。Shoyanが一番得意とするセッティングではないだろうか。
傷は時が癒すと言うけれど、絆は時がほどくのだと言う。酷い事も、甘く楽しかった事も、いつかはみんな河口の石のように小さく丸くなって、同じ、時の砂に還っていく。そうなるまで、あとどれくらい"後悔"が必要なのだろう。
・・・
P.S.
私にとってのこのバス通りは花の名前がついたあの町のバス通り。子供の頃、お小遣いをためて初めて1人で行った商店街。駅前を越えて歩けば遠い隣町に思えた。今はどうなっているのやら・・・あの文房具屋さんも花屋さんも・・・(懐)
2012年01月25日を改
「鳥が空を飛べる訳」
それは、"現実"を抱きしめる腕を持っていないからだろうか?
それは悲しいことなのか、それとも自由なことなのか?
Shoyanが込めた真意に少しずれるかもしれないけど、私は、鳥が空を飛べるのはそれが"手ではないから"だと思うのだ。(当たり前だけど)
『翼をください』という名曲があるけれど、生意気にも私はずっと昔から「翼なんて要らない」と思っていた。あなたを抱きしめる両の腕があれば、飛ぶための翼など"欲"だと。腕と翼の両方を持っているのは天使か悪魔ぐらいのものじゃないかって…。地を行く人間の自分に必要なのは、この、現実を掴んであなたに捧げるための腕じゃないのかしら、って…そう思っていた。
自由は魅力だ。
飛び立てば未知の自由の中に更に新しい自分・本来の自分を見つけられそうな錯覚もある。でも、本当の自分は追うものじゃなくて、不器用なその手でそこで作り上げていくものなんだと思う。その不器用さが"愚かなる現実"でも、報われない切なさでも、やっぱり自分のことは自分にしか出来ないことだと、そう思って今ここにいるのだ。それに"手"は相手にも何かしてあげられるし…
飛び立てば未知の自由の中に更に新しい自分・本来の自分を見つけられそうな錯覚もある。でも、本当の自分は追うものじゃなくて、不器用なその手でそこで作り上げていくものなんだと思う。その不器用さが"愚かなる現実"でも、報われない切なさでも、やっぱり自分のことは自分にしか出来ないことだと、そう思って今ここにいるのだ。それに"手"は相手にも何かしてあげられるし…
ただ、心の中では渡り鳥のように無心でただ空を飛んで、自分の位置を俯瞰で把握してバランスを保てればと思ってるけど、コレがナカナカ巧くはいかない。自分の心ほどままにならないものはない。
・・・
私は地図を読むのが好きだ。
自分のNAVIが少々壊れていてもなんとかここまでやってこれた。夜空を見上げれば今年も、いつの時も、季節の星が案内してくれる。
北斗七星にすくいあげてもらいたい言葉は
「さみしい」だろうか?
それとも
「会いたい」だったろうか
・・・と
言葉に出来ない気持ちは未来が見えないことの証拠?
~ネェ?
君は笑うだろう
君のこと忘れようと
仕事だけが恋人だと・・・
君は笑うだろう
君のこと忘れようと
仕事だけが恋人だと・・・
自虐してるんだ(´∀`)イヤ、自虐でもいい。仕事をしてるのなら何も恥じることはないもの。
人は誰かを愛したり、誰かに愛されたいものだけど、そんなにいつもうまい具合に幸せは固定されなくて、孤独を強要されることもある。独りだったら自分自身に興味を持ちたい。自己嫌悪のカタマリでも、後悔の拳で叩いて叩いて、そして、壊れるものは壊れていい。全部なくなったように見えてそれは新しい何かを得る始まりだもの。
星空はまるで手の届かない天の上のようでも、本当は自分の足元のずっと下にも広がっていたことにいつか気付く。今は見えない自分だけの星に出会える時がきっと来るって、Shoyanはそう歌ってくれている気がする。
今の自分が昔の自分を思ってやるように、労わりの気持ちで聴いてみたい。女の私がそんな風に思うのヘンだろうか?そんな風にこの歌を聴いてもShoyanは許してくれるだろうか・・・
最近は星空を見上げても、将来のことより過去のことを想うことが多い。でも田舎の町の澄み渡る冬の夜空を見上げながらこの歌を想う時、自分はこれから何処へ行けばいいのかなって、少しだけ前向きになれるんだ。
「独りも悪くないヨ」・・・って、星のまなざしを教えてくれてありがとうShoyan。
2014.1
プロフィール
HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
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