Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

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サヤエンドウの白花を見ていて思い出したのだが、アルバム『時のしずく』の歌詞カードの『A Girl of 14teen Summers』のページには豆の花のようなアートワークがある。

当時これを見た時に「?」と思った。
花の絵ではあるが、なんか、絵柄は可愛くないように思える(スミマセン)。しかも女の子の歌にどういう意味付けだろう?って。

メンデルの法則?遺伝的なコト?じゃ、やはり娘ちゃんのことを想うパパ目線?などなど、思ったのだが、それはやはりそうなのだろうと思う。

人は14歳の頃に聴いた歌を一生好きでいる・という説があるそうだ。まさしく、まさしく!本当にそうだ。自分が中学二年の時にShoyanの歌に出会い、そこから一日も欠かさず一生聴き続けているのだから、その説は正しい。(一生”中二病"の私だけかもしれませんが(笑))

・・・

その頃・・・自我の蕾が開きかけてきて、外界と接触した時にその"無垢"は初めてのことに過敏に反応するだろう。恵まれた家庭の環境や、幼いころから蓄えた感受性を後ろ盾に、最初の勇気を覚えて臨む季節。

だが大抵の14歳はここで泥まみれになり、みっともなく敗れ、無力を知ってペチャンコになるだろう。でもそれが向上心を得る源なんだ。そして"友達"という家族以外の絆に気付く頃でもある。自分のチカラは自分だけでまかなえるものじゃないってわかって、もっと大きくなれるのだ。

中には恵まれすぎて、温室のなかの世界の珍しい植物たちに囲まれて満足している夢の花もいるかもしれないケド♪

・・・

♪悲しいときは 話してごらん

ここが一番好き。
どうしても、自分一人で何も出来ないもどかしさ、無力さ、理不尽、、それを先達に打ち明け・受け止めてもらうのは恥ずかしいことじゃなくて、大人びた素直さを得る老成の予行演習なのだ。

パパじゃなくても、兄でもよかった、私にも少しだけ先をゆくやさしい誰かがいてくれたらなぁ、と今でもさみしく思うことがある。14歳の頃は幼い妹二人と耐えていたなぁ自分(*´ω`)。祖父母と父母4人で全面バトルしていなくてもいいのに(笑)。

だから、『時のしずく』でShoyanがこういった歌を作って歌ってくれて、本当に嬉しかった。後からやっと自分も甘えることが出来たような気がしている。

・・・

実がまん丸に熟すとサヤが弾けて、豆は知らない場所へとはじき飛ばされる。その弾ける気持ちを忘れたくない。

どこへ飛ばされようと
どこで芽を出そうとも
自分の種からは
やはり自分が生まれるのだから
どんなことがあっても
そのままでいたいと想う

Shoyanの笑顔も何十年も変わらないネ♪

サングラスの奥のPaleBlueの優しいまなざしは、ふんわりと、いつまでも少年のままで・・・。
♪Taxi停めるまでは 
 二人になれるのに
 貴方はテーブルで見送るの・・・

なんという恋愛CPU!
どんな微細な機会も逃したくない、その恋心の高速回転!

女心の計算の極致を男性的な狩猟的勘で動かすと、こういう視点でその数分の心の機微を言葉に出来るのだな・・・。

この『昨夜の出来事』。
知ったのは2000年頃のことだけど、元々は1990年の曲だったのだ。道理でとても惹かれるワケだ・・・。その頃の自分は一番ザワザワしていて好いも悪いも両極端だったから、若気のココロにマッチしていて"自分年代"な歌だと思える。とても珍しい年代感なのだ。

この曲のアレンジが意外にも?石川鷹彦氏で、その割りにとてもお洒落でポプシカル♪甘酸っぱいキャンディーみたいな歌だと思う。そういうところも好きだ。

佐田玲子氏が白鳥座だった頃、シングルレコードを買ったことがあって嫌いじゃなかったので、氏がこんなに素敵なShoyanの歌を歌っていることに感激した。

何度繰り返して聴いても軽やかで好ましい。こういう明るい曲調の切ない歌は。本当にShoyanの歌の真骨頂だと思う。こんな1990年頃という、Shoyanのご活動の歴史の上では少し複雑な時期の歌だけど、"永く聴ける歌"として今だってキュンとする歌だ。

・・・

そう計算しておいて

~ついあわてて選ぶドレス
 いつも貴方の隣に似合うつもりで・・・

~もっと強くナゼ激しく
 問い詰めないの?
 今の私の気持ちを・・・

なんて、すでに翻弄されている女心が可愛い。そしてセツナイ。恋愛のパワーバランスは不思議だ、中庸というものがない。

男はいつも席に着いたまま立ち上がりもせず、視線だけで女を動かす。女はいつも声さえ訊かずにその先を想像して右往左往・・・

いつしかその先に

「可愛い奴だナ」

と想ってもらえるか

「ウザイ女だな」

と視線を逸らされるか

どうもそれって紙一重な気がする(汗)。

この彼女、器用に立ち回って技巧にはしろうとしても、すでに自分の気持ちが理屈を超えていることに気付きながら悔しいのだろうね・・・

オトコナンテ オトコナンテ (>_<)

※だがしかし、思わぬパラレル癒着が起きて、この彼女の横にもっとイイ男性が現れて、あっけなく彼女のホントの幸せラインが分岐して去っていく可能性だってあるのだ。

「なりゆき」とか「自然」なんて幻想なのだ。彼がユラユラ楽しんでいる吊り橋は、まだ釘を打っていない未完成なものなのだと思うと、聴いている側としてはハラハラとしてしまう"冷たい風"なのだ。

・・・

~時がさらさらと 
 そのシュガーポットに
 こぼれ落ちてゆく砂時計・・・

Shoyanはちょっとしたテーブルの上やキッチンの小道具や身の周りのものを比喩に使うのがとても巧くて、その視線の近さや捉え方の深さにいつも感動するのだ。

他の歌だけど

~ミルク溶けない冷たい紅茶
 かき混ぜるようなわだかまりなの・・・

など、提供曲などは余計にそんな部分がピックアップされるようで、つい何度も細かいところを楽しんで聴き込んでしまう。Shoyanのこの視線と感性は、"日常"の中にいかに色彩を見出すか・のお手本で、本当に暖かい芸術なんだ。

ちょっとした、ほんの昨夜の出来事。
こういうサラリとした一場面が意外と後々まで心に残るものなんだね。

※歌詞カードが手元にないので文字は正確ではありませぬ。ご容赦。
この歌は私にはスペシャルなオトナの絵本で、あまり理屈は考えないで、夢想的な心地好さに心を委ねてしまう。色々考えることなど出来ないのだ(放心)。

満月・湖・森・ジャンクション・君をさらってく・夢に見た聖域・・・これらのパラダイス理論(謎)というか、Shoyanの音楽の背景にいつもある、原初の場処なのでは?と思う。いつも憧れている"罪の無い森"なのかなと思う。

しかも、

♪その素肌を
 今そっと抱いて願い叶える 
 未来という湖で
 信じるままでいい・・・

うおっ!エロい!!!
「素肌を抱く」よりも
「未来という湖」がめちゃエロい!

"エロス"というものは、物事の根源的なパワーで、また回帰出来る安穏でもあって、成就と後悔・男と女・脱ぐと纏う・アナタとワタシ・好きor嫌い?のように極と極を融合させるチカラだと思う。(※個人の感想です)

キミの中に在る?「未来という湖」に、果たして"底"などない蜜の湖にわが身を投じるという、、、そのオトコの"決"がスゴくセクシーなのだ。

しかもそれが、

♪この手は離さない
 ずっとずっと 守り続ける・・・

だなんて、なんて"純情"!
このエロスと純情の二本立てはまさにShoyanの必殺技で、もう、紅潮と胸キュンの波状攻撃に参ってしまう。

たった今の孤の自分を捨てて、キミと未来へ、ふたつをひとつに溶かし合って新しい愛の塊になって永遠に・・・という生まれ変わり=Re-bornの物語は、すでにここからも始まっていたのだなぁと、今つくづくと想っている。

・・・

今回、「麗しく流れ落ちる金色の雫を纏うヴィーナス・虹色の霧に包まれながら・湖水はクリスタルブルー・などなど」とても解り易い説明が多いので、舞台の色どりをイメージしやすい、なので絵本なのだ♪

でも、一方で「見つけられないHamlet・恋はアセンション・夏が過ぎた秋も緑あふれる森~緑の秋・君とspirit away・満月は湖の中に沈んでる」~などという新しいフレーズも沢山投げ込まれていて、ココロをピリピリっと攪拌される。

攪拌されると謎が深まる。それは歌を解き明かす時間が伸びているということで、とても幸せな時間が得られたということなのだけど・・・解らないことは嬉しいことなのだ!

この、豊かで深くて濃いぃ世界を今味わう醍醐味を言葉だけでレスポンス出来るのか?と、もどかしい思いで長い時間が経ってしまった。

言葉って時に虚しい。でも「言葉では言い表せないほど」なんて安易に言いたくないので、もっともっと視えたものをハッキリと心に刻みたい。
でもでも・・・?

もしや、枯れない言の葉・紅葉しない言の葉があるのだろうか?言葉にしない以前の言葉がもしかしたら、永遠の緑の言の葉かしら・・・?

緑の秋の森の樹々は単なる常盤木ではなく、うつろわない季節の落葉樹、落ちても落ちても芽吹いてくる止められないキモチなのかと思う。

・・・

満月は欠けない月、終わらない時の象徴?
哀しみの意味や脱ぎ捨てるものに気付いたら、満月は気付かれずに沈んでいる。気付かれないのなら欠け始めることはない、未来という湖の中に沈んでいる満月は永遠の成就なのだろうか。そして完璧という出発点なのだろうか。誰にも気付かれずに一つに溶け合って満ちているなんて、なんて素晴らしい刹那サ、なのだろうと思う。

恋人たちの気付きと気付かれない事項の交錯も面白い・・・と、またこの後のRe-bornと併せ思いながら聴いている。
Shoyanのこの”リアルなメルヒェン”の世界、これからもコレクションしていきたい。色と季節の関係を楽しみにして、まだこれからも新作・続編を待っていたい。
こんな今だからこそ欲する"夢"を、もっともっと!と思う。
私の湖の底にはおそらく新月が沈んでいると思われるが、そこでまた約束の無い夢を待つもよし、なのだ。
今のところ、外は荒んではいないようだ

だから、世が終わるのはまだ先のようだ

その前に"夜"が終わることを願う
外はスーパームーンだという
なんと濃い月影!

だが今は蒼い服を着て有縁の街に行ってはならない、戯れ名は命取りだ・・・

・・・

HIRO氏の『祈り』がヘヴィロテである。背筋がゾクっとする。

この歌を聴いたとき(読んだとき)あまりに階層が深くて、どこに自分の支点を置いていいかわからなくて、感じたことが感じすぎて言葉に出来ず、曖昧な感想しか書けなかった。とても後悔している。早く、今想うことを書きたい。この今こそなのかもしれない。

でも、私がその時感じたままに、世はこの歌をなぞって流れている気がする。

怖い。

Shoyanご自身は今、何を想っていらっしゃるだろうか。もうすでにその先へ漕ぎだされているのだろうか。月を見れば、置いて行かれるような気がしてさみしい・・・
輝き過ぎている月を見て

祈る?
願う?
想う?
逃げる?

物質的に触れあうこと以上に、心で愛し合う時がいよいよやってきた。

人の心が人には見えないのは、心はそこに無いからなのだ(後述)。なのに「心で愛し合う」とは?
命に係わる恐ろしい出来事の中で、それがよくわかってきた。またその反面の、愛のない人のどうしようもなさ・も。

怖くて怖くてどうしようもない事態なのだけれど、Shoyanの歌たちで透かして見ると"真実"の方が明確に見えて、冷静でいられるんだ。

楚歌の逆を想う、そんな心持ちでここ数日過ごしています。

※今日は凄まじい満月で、言葉がだいぶ回っているかもしれません。お許しを。

*****************

「それより自分のことを 
  マジ愛してるかい?」


2018年夏のHIRO氏への提供曲4曲の中で一番好きなフレーズだ!!!今一番大事な言葉だ。
・・・

自分を愛することと
他者を愛することは
違うことなのか?
同じことなのか?

そもそも「愛する」ってナニ?

他と自は別々のものではなくて、本当は同じものではないかと思うのだ。だけど、他人の心は思い通りにならないので、自分以外のものだと思ってしまう。

かといって、自分の心だって思い通りにはならなくて、結局、自分の心も他を含んでいるし、他人の中にも自分と同じものがあったりする。だから、人の悪口ばかり言ってる人は自分のことも嫌いだったりするし、時どきそういう人に会ったりする。

他人を信じられないから、自分を信じられないのだ。

他人に心をゆだねるのは損だと思ってる、だから必要最小限の付き合いしかしない、傷つきたくない・自分のペースでいたい・って。でもそれって、自分自身にも向き合っていないのでは?って思うのだ。
自己愛はエゴなのだ・と、エゴイズムは忌むべきものだ・他人を思いやる心が大事・などと、知ったかぶった人が言うけれど、愛は他から引き込むものじゃなくて、体得するもの・自分自身の中から湧き出る泉なのだと思う。

雨を乞うのか・というフレーズがあるけれど、その場に雨が降ったとしても、それは一時しのぎで、やはり、地下の水脈は自分の知らないところで降る雨(それは縁だったり偶然だったり、それこそ家族や他者の愛)で、それをろ過するのは自分という地層・年月なのではないかと思うのだ。

けれど、何故か人は他人の評価やよその芝生が気になって、「他ありき」で物事を考えてしまいがち。今の世の中それが普通になっている。他人に合わせることが平和だと勘違いして、みんながみんな幸せの基準を他人任せにしているから、幸せの空洞化が起こっているのではないだろうか。

・・・

自分を愛することって実は辛いもの・でもあると思う。自己嫌悪とのせめぎあいで、もっとも人目を気にする作業だ。でも、本当の自己愛は周囲を幸せにするはずなのだ。
「本気で」というのが大事なのではないかと。

いつも悩んでいる人・自暴自棄な人・誰かに救われたいと思っている人・みんな周囲に心配かけてるばかりだ。見せかけだけの快楽を「癒し」だなんて錯覚して、これまた周囲に迷惑をかけて没頭逃げをしている人の多いこと、だ。

だからこそ逆に、私は自分は第一にこんな自分を認めてやろう、自分のことは自分でしか愛せないんだ、そこから始まるんだ!!って思っている。そして、その気持ちはShoyanの数々の歌たちをずっと聴いてきて、教えてもらったからこそなれば!なのだ。

愛を得たければ自分で愛の種をまきなさい・と教えてくれたのだ。私は伊勢正三の愛の歌に倣って自分を豊かに育てられたと、今でも思っている。自分のことを見捨てずに、自分自身に興味を持ち続けていられるのはShoyanの「自分を愛することもラブソングだよ」という隠れメッセージのおかげなのだ。本当に感謝しています。

I(私)の愛と、相(手)の愛が出遭い、気持ちが合い、そして生成された混合愛が真のやすらぎをもたらすのだと、信じていたいと思う。(時に哀も含むかもしれないケレド・・・)

自分との戦いは孤独だから、、、でも、キミの導きによって自分も歩みだせるかもしれない・だから、キミだけには許して欲しい、、ってちょっとの甘えは許されるかもしれない。一足先にソレに気付いていた先駆者のキミの愛が遠くの灯台のように見えたなら、真っ暗な闇の海の岩場も越えてゆけるかもしれないと、足を擦りむきながらも・・・ガンバレ俺!と。(漂う海上から見えた"灯台の灯り"なら、諦め・漂い・漕ぎだす・のかもしれないが、またそれは別の機会に。)

甘やかすことと愛することは違うのだと、分かったならいつかきっと気付けると思う。間違ってもいい、みっともなくてもいい、うわっつらの「易しさ」に反逆してみる試みは本当に自分を強くしてくれると思うのだ!

(実際は自分を甘やかしてばかりダケレドモ・・苦笑)
「自分」が18回、「愛」が25回も出てくるこの歌に、今回「そのまま進め」と強くエールを送ってもらったような発奮を感じている!

HIROさんがすごく面白くて気持ちのいい曲をつけてくれて、心底爽快だった。これからもずっとそばに携えて聴き続けていきたいと思う護符のような歌だ。



先日、都内に季節はずれの雪が降った。
うっすら積もるほどに。
科学を通り越してしまった東京に。

ニュースでは当たり前のように『名残り雪』となりました』と言っていた。漢字の字幕も出て。
Shoyanご本人がよくおっしゃるように、元は『名残りの雪』(全く別の「既に残っている雪」)と言う言葉があったけれど、『なごり雪』という歌のおかげで、一般的に『ナゴリユキ』という呼び方の新しい違う意味の言葉が定着したのだ。短文と単語の違いもある。

だがしかし、単に季節外れの雪を『ナゴリユキ』と呼ぶことと、歌の『なごり雪』が含んでいるものには大きな違いがあると思う。

今更感かもしれないですが、

『なごり雪』は、そこに二人の人間がいて、その二人が今離れていく・という場面だからこそ成り立つタイトルだと思う。
(すでにあった 「名残りの雪」は置いといて)冬という寒い季節の名残りを今一度知らしめる春の雪・が『名残雪』で、『なごり雪』は「心の名残惜しさ」がそこにあることが大切なんだ。

何に対しての名残り惜しさ?

ここから去りゆく彼女に、
その大人になっていく彼女の幼さに、
ここで終わる二人で積み上げてきた時間に、
昨日までの僕自身に・・・

その彼女と彼の分岐の一瞬に降っていたのが雪だったから歌になったんだ。

別れの場面、その舞台セットは雨でも風でもドラマチックになると思うのだけど、でもそれ以上の確実さ・必然さには、雪の「落ちてはとける」性質が必須だったんだね。

地面に落ちる瞬間までは目に見える白い固体だったのに、次の瞬間ただの黒いシミになって地面に同化してしまう。積もるわけではない春の雪。この経過が、彼と彼女のその、別離の前後を表しているわけで、君が去った後の空虚と、今朝まで君がいた東京の空と、見えると見えないの深い違いがあるのだと解る。

って、こんなことファンなら誰しも最初から知ってるよ!当たり前だろ?と笑われてしまうだろうけれど、ニュースでただ漠然と『名残雪・名残り雪』なんて使われていて、「正やんがひらがなにした意味を考えて使ってよ!」と思ったりした訳デス。

『名残雪』では「残雪」という他の単語と被るし硬い、でも大和言葉のようにやさしい『なごり雪』という字面、まさにその時、歌を作ろうとしていたShoyanの手のひらに空から落ちてきた結晶そのままに歌になったなごり雪。

その結晶を50年近く一切崩さずに、大切に歌い続けてきた今のShoyanの真摯なスタンスに、私は今年も導かれている。

・・・

「季節はずれ」=「イレギュラー」なだけではなく、降るべくして降る必然的な別離の雪ということ、両方想いながら聴き続けてきた。

都会に雪が降らなくなっても、汽車という移動手段がなくなっても、この世に”別離"がある限りずっとこの歌は残る。

人はいつも何かと別れながら生きていくのだと実感しながら、昨日今日遠いことを想って過ごしています。
※この歌のことは最重要課題で、40年くらいじっくり考えてからと思っていたけど、今書けることは書いておかねばと思いました。中途半端ですがご容赦!
※※"大人になる歌"いくつかあって気になるので、そのあたりもまた考えていきたい。
そう、その頃は「都会が好きになった」なんて、想っていたのだ。
で、少し自分のこと書きます。
支離滅裂お許しを。

・・・

セルフカバーではないオリジナルの『なごり雪』が収録されているかぐや姫の『三階建の詩』が発売されたその年に、私は福島からトーキョーへ帰ってきた。(何度かここでも書きましたが)

その時、幼稚園のクラスのみんなが私にくれた手紙には

「とうきょうにいってもわすれないでね。」
「とうきょうにいったらなにをしますか。」
「とうきょうでは、とうきょうには・・・」

と、東京という単語が沢山書かれていた。

けれど、私にとっては東京は帰る場所なのに未知の街であったように思う。
実際には祖父母の待つ都内の家に帰るのではなく、近くの横浜市内の社宅に住むことになるのだが、目の前には大きな国道、周囲は日に日に一山削って全部住宅地に造成され、倍々に膨れ上がっていく街の姿が忙しなくて、友達もいないなか、小学校に上がるまでの数か月、、、私は社宅から出ずにひきこもりになってしまった。

帰ってきたのにどこかへ帰りたい、、、自分の故郷は、ホームはどこなんだろうって、幼心に具体的にはわからないまま、ただ、ずっとさみしかった。。。東京の真ん中に住むわけではなく、ほんの数分外に出た都会の殻のような場所から、福島のお友達と東京の差を眺めていたような気がする。

だから、私は伊勢正三の歌における"東京"に、何か自分の幼き日の心を重ねていつも聴いてしまうのだ。そしていつも何か特別な近しい気持ちを積み上げてきてしまった。青春まで至らない、自覚のない幼稚な心ではあるけれど、Shoyanの歌にはそれが許される寄り添いがあるように思う。

そしてそれは都会と地方とニュータウンの三角関係にまで及ぶのだが、それはまた別の時に・・・。

・・・

で、話はさらにねじれるが、

福島にそんな想い入れのある私は、今回の"復興五輪"なんて銘打たれたトーキョーオリンピックが決まった時、正直とても違和感を感じた。

震災で故郷を追われ、家や物を失い、愛する者と別れた人がこの日本中に沢山いる中で、ナゼ、TOKYOが浮かれなくちゃいけないのか???なんなん??って。

現に、今年その年2020年になっても、仮設の住宅で生活している人や、自宅じゃないところに避難している人はいまだ何万人もいるわけで、解決されないままに強行されて今年になってしまった。

(激しい言い方をすれば)今回のオリンピック、私は選手と子供たち以外をあまり応援したくない。新しい巨大な競技場や施設、ホテル、選手村というブランド付きの住宅に道路、駅、目に見えるものだけでもキリがない。それに一体どれだけの"スポーツ以外の思惑"が絡んでいるんだろうと思う。人の痛みをすり替えて、何が”復興”なのか?どこに誰の復興があるのでしょうか?と。

オモテのナシな、裏ばかりのイベントで名前を乱用された東京が可哀想だ。この軋みを、自分は忘れたくない。素直な違和感を感じていたい。調和を乱す空気読めない人間と言われていいやと思いつつココに本心を書いておくことにした。読んで気分を害された方がいたらゴメンナサイ。

・・・

1964年の東京オリンピックの行進曲は、福島の大偉人・古関裕而先生の作品だ。

溌溂とした、晴れ晴れとしたメロディーのなかに、やはり一抹のサウダージ・愁いがあって、歴史の大きな傷みを越えてここに至った当時のトーキョーが、日本という国と一体であったのだとよくわかる。本当に素晴らしいことだと今も感じる事が出来る。

Shoyanの一番新しい歌にも都会がいくつも出て来た。"都会ウォッチャー"なShoyanの見解を今も聴けることが本当にうれしくて、私もまた同じようにこの興味と違和感を大切にしていける。音楽の中に人の営みが感じられる、そんな在り方をする歌は、この孤独と不安の中で本当に必要な寄り添いだと痛感する。

・・・

出たり入ったりして、内から外から思う街東京。ここ数年は外国人さんの姿がとても多くて、ここはアジアの別の新しい国なのか?と思うほどだったけど、今回のことでもう一度ゆっくりと"東京らしさ"を感じる機会になればいいと想う。

江戸が東京に変わった頃の、あの混沌と今現在って、結構似ているのかもしれない。ここ数日は、歴史を学ぶような気持ちで過ごしている。
もっと、もっと東京を知りたい、と思いながら・・・


・・・

と、まとまりのない、イミフメなつぶやきでありました。思いつくままに書き散らかしました。このブログも二周年ということでお許しを。

ひとまずの東京語りおしまい。
※2011年1月11日


今日は休みなので少し遠出をした。

池袋サンシャイン劇場へ舞台を観に行ってきた。首都高から直結のパーキングで楽だったのが感激。久しぶりに車で都心を抜けてデンジャラスなJCTをナビして、緊張と懐かしさで・・・想うことも更新された。

首都高からの眺めって昔から好きだから・・・
サンシャイン屋上展望フロアから360度の東京を眺める。屋外にも出られるから、高層のナマの街の風の中で遠い海や半島、遠い雪の山まで見れて寂しかった。

そして何よりこのビル群の美しさ、
なんだか幻想的に見えた。



冬の東京はいいナ。
寒いから人の活動がチマチマしていて優しい。1月の祝日は車も少なくて空気が澄んでいて、空もビルの反射もきれいだった。

・・・

セルフカバーセレクションの『なごり雪』は「東京のカケラもない」(いい意味で)って、昨夜まで想っていた。

100%ふるさとの、線路脇に菜の花の咲く、蜜蜂の羽音さえ聞こえるような静かな駅の時刻表の合間を想ってた。

だけど、今日、東京の端っこから都会のボーダーな部分を走りつつ、この21世紀の『なごり雪』を聴いてみたら、、、、そうしたらなんとなく、

「あぁ、今はShoyanの"東京の捉え方"が変わったのかもしれないな」

と、思った。

"変わった"というより、"移行した"という感じかな。勝手な思い込みだけど、ふんわりと、更に外環へ外環へと、忙しない都会を緩めて意識しているニュアンスを今回の『なごり雪』に感じるんだ。

ふるさとの駅と鉄路で繋がっているのは、郊外の駅も含まれるかもって・・・。今は、、、郊外も人が多過ぎて、街と町の境目はなくなりつつあるケド・・・。
八王子とか青梅とか、千住や玉川だって東京だものね?

 チョットチガウゾ ッテ
 イワレルカモ(笑)
 (^^ゞ

ただ、こののどかな『なごり雪』、都会の駅のホームでも、端のコンクリートの隙間に春の小さな雑草が芽を出すかもしれないよ?という希望を含んでいるようで安らかなのがスゴク良いと思う。大好きなテイクだ。

この途中からの"ホール感"がイイナ♪ どんどん天井が高くなっていくような歌とギターの響き方、細井さんの畳み掛けるピアノが天国にかかる梯子みたい・・・(と、この頃は思っていました)

4分にも満たないシンプルな歌『なごり雪』。だけど想うことは無限だって今日も思い直して感激。
たまの遠出でもう一本の時刻表に乗り換えられたんだ。

今日は少し、都会が好きになった(´ー`*)。

・・・

なんてことを想っていた・・・(謎)

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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