Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0

2026/04    03« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  »05
私事恐縮ですが、ここ一か月ほどずっと仕事のことでモヤモヤでした。

先週は土曜日に今の黒会社から日曜朝に本社に来るようにと急に呼び出され、今後の雇用のことで告知を受け(3月で今の会社撤退しますが学校側からななしーさん残ってと言われてます・とのこと)、昨日はその件で大学の人事課から電話連絡があり、来週木曜日に面接に行くことになりました。

ものすご緊張しています。
新しい体制はどうやら私ともう一人の週末だけの男性同僚二人だけで男女2つの寮の清掃管理をやらねばいけないみたいなのです。もちろん夜の住み込み職員さんや生徒ちゃんたちも今度は自分たちで清掃する仕組みになるらしいのですが、ともかくなんかまだ何も決まっていないらしく(^^;)、私がマニュアル作りをする+実技指導をすることは確定でありましょう。パートのおばあちゃんに何をやらせようというのか留学生事務局は(;''∀'')(;''∀'')(;''∀'')。

てなわけで、昨年に引き続きまた身辺が大きく変化する&やること多過ぎ事案で、コロナ禍以降もう何年も気が休まることが一切ありませんっ!私は一体何者なのだろう!?と白目のまま数年が経過しております(笑)。

でも、昨年末から今年にかけて仲良しの3年生の生徒ちゃんが担任のせいで学校に行けなくなってしまう事案が発生して心を痛めたり、政治的な変化もあったり、それでも親御さんから素敵なお土産もらったり!?結構な興味を持ってこの仕事をしているので、出来るならもう少し続けてみたいと思っているので頑張りたいと思います。

やってみてあまりにしんどかったらきっぱり辞めてスーパーの配達などやりたいと思っています(笑)。

というわけで、Shoyanの歌を聴くことだけが私の平常心をキープする拠り所なのでした。今回の動画アップは気合入ります。嬉しかった♪

半年くらい先は私もShoyanの音楽ご活動もどんな展開になっているのでしょう。(Shoyanはこのまままだずっと放牧or休養~なのかもしれませんが)

一寸先がもう闇の中でも、もうたじろがないでまるっきり生意気な自分で^^;行くしかないです。


ちょっと近況つぶやき失礼いたしました。

公式のプレイリストとミュージックビデオ(懐)キター!

・・・ここのところ、Shoyanのご活動が非常に遠ざかってしまったような寂しさと、ばね指が再発して絶望していたのと、職場のこと(めちゃ岐路)でテンションDADA落ちしておりましたので、めっちゃ嬉しいです。

あとでゆっくり観よう&聴こう♪
(曲数多いですね(*´∀`))
以前も書いたけれど、寝台特急・ブルートレインだとか、九州行きだとかは、世間が狭くて世代も違う関東育ちの私にはイメージが遠かった。ずっと長いこと漠然と”西へ向かう”範疇で想像していたこの歌。

けれど、ここ数年ステージでも歌われる機会が増えたことでShoyanご本人のコメントなども増え、”南下する”イメージをリアルに感じることが出来るようになった。なので今、より一層この歌の暖かさを感じている。ここ数年で更に愛おしさが深まって大切にしている一曲だ。

・・・

アルバムに収録されていないからこれまたナカナカの隠れ名曲だったように思うけれど、ベスト盤に入っていたことで私にとっては最初から身近だった。(幼い頃って少ないお小遣いでどれだけ守備範囲広げられるかが勝負でしたので(笑))

ヒット曲や人気曲の味覚がはっきりした歌や目立つ歌、分かり易い歌沢山あるけれど、こうした隠れ魔球のような、層の深いところにある曲が充実しているってのがShoyanの歌曲の凄いところなのだと思う。

実際この歌はシングル盤で発売されたのだ。S級扱いだったのだ。けれど、やはりこれも『時の流れ』と同じようにその後ずっと歌われることがなかったように思う。何故だろう・・・

この歌のように聴く人に考えたり想ったりする余地を与えてくれる歌は最高なのだけれど、時に”その場でわかるものにしか興味を示さない聴き手”も一定数いるのだと思う。

50年近く経った今、聴き手も切磋琢磨してその歌曲たちに寄り添ってきた。Shoyanご自身もご自分の作品に何度も繰り返し向き合ってこられて、ちょうどお互いに歌の裏表から感性のトンネルが開通して想いを結ぶことが出来たのだろうと思う。

だから、ここ数年のステージで演奏される歌たちのフィット感、受け入れ感・届け感は素晴らしく濃いものだったと思う。(涙)

・・・

”遠ざかるほど近づく”
とは、これ如何に?

『時の流れ』でもあった、
逆もまた真なり!?

♪僕の心のレールを走って

ときた!
いよいよ、”目の前”ではなく”ボクの心の中”に舞台が移った。

♪あなたを乗せた船が小さくなってゆく
♪君が去ったホームに残り

と同じように遠ざかる事案なのに、まったく逆の意味。なのに非常にしっくりくる感覚。きっとこの部分、Shoyanは直感的な考察でお作りになられたのではないかと思えるほどだ。アタマで考える理(コトワリ)ではなくて確信的な願いのようなもの。真理って理外にあるから・・・という感覚?

絆をほどきながら汽車はゆくのだから、夜汽車が南へ走ってゆくのは一種の別離なのだろう。けれど、絆がほどかれるのは反対方向に引っ張るチカラがあるからなのだ。それは端と端を結んだ一本のリボンのように、結び目をほどいても一本だった♪と思える優しい”離れ”のように思える。だから暖かく感じるのかな。

そもそも、この君って誰?

”人生繰り返してまたいつか出逢う君”はこの旅の一場面に同席した泣き声の赤ん坊そのものとも受け取れる気もする。
残してきた”愁い”の原因となった存在だけとは言いきれないと思う。そうやって人は何度も似たような他生の縁を繰り返して、生き直したりするのかもしれない。ここには巡ることが歌われているのだ。

そして、
時の流れとすれ違うように=逆行するように進む汽車と、遠ざかるほど近づく君。

遠ざかるほど遠い@Positive 2025/6/22

↑でも少し書いたけれど
まるで自分自身のような
心のなかに棲んでいる君。

そう想えるのは(例え今離れていても・関係が終わってしまっていても)自分の中では”君”のポジションはもうボクの心と同化してるから・なのだと思う。時の流れとすれ違うように=逆行するように、出逢う前や想い出の駅を通過して最果てまで揺られていったら・・・

あれ?
終点は始発点だった、と気付くのでしょう。南へ向かっていたのはそういうことだったのかと、今得心して安らかな気持ちで聴いている。

(走る国道は北へ・・・ですもんね♪)

・・・

そんな聴き手の永い気持ちに沿うようにこの曲も佐藤準氏のアレンジで色褪せない。本当にいい感じの抜け感とキャッチーなイントロでお洒落だし、暖かみのある音色が言葉と言葉の間を豊富な音で繋いでくれる。絵柄の綺麗な大きなハンモックに揺られているような包容感があるから、いつになってもずっと傍にあって欲しい曲になっている。

(今でもちょっとだけボズ・スキャッグスの『Harbour Llights』に重なるような音だなって
 想っています♪)

・・・

手塚治虫のブラック・ジャックに『人生という名のSL』という一編がある。それをほんのり想い出したり、島崎藤村の『春』のラストの一文を想い出したり、鉄道員だった祖父のことを想ったりしながら懐かしく聴く。Shoyanの鉄道ソングの中で一番親しく想う歌です。



遠ざかるほど近づくのなら・・・
今一番近いんじゃない?

そう想って次の始発を待っている。
向こうのホームにあなたの姿を見つけたら手を振ってみよう。
行き先はきっと同じだから♪



*****

※手塚先生の作品は実はこの曲の発売より後の1978年発表。内容ニュアンスも違う、でもなぜかShoyanと手塚先生の共時を感じてしまうのだ。私のおさなごころがそう感じるのです。(自己満足(*´∀`))

※※追:
♪走りゆく列車の網棚の上に置かれた
 誰にも馴染みの菓子箱がひとつ揺れてる

以前も書きましたが、菓子箱がひとつなのは終点が近いからなのかなと思ったり。
きっと、都会の大きな駅を出発する時にはこぼれ落ちそうなほどぎっしり積まれた手荷物でいっぱいだったでしょう。それらの喧騒が道中少しづつ降車していって・・・
その風景は本当に紐で編まれたあの網の棚だったのでしょう(懐)。

私のイメージは昔のお土産お菓子のナボナとか風月堂ゴーフルとか舟和の芋羊羹とか♪
でも、東京土産だとばかり思っていた『ひよ子』が実は福岡の別銘柄お菓子でもあったと後年知って面白く思っている。(ゴーフルも上野や銀座と神戸といろいろあるみたい)

大阪や名古屋・京都ならまた別のお菓子があるのでしょう。『菓子箱』というひとつのフレーズだけで無限の物語が想像出来るのが凄い。ここでもさすがShoyanだな・と思っています(*´ω`*)。
いつの世もお土産は嬉しいものですね♪



☆ちょうど寅さん記念館の中にこんな展示がありました。座席にも座れるのです。雰囲気アリアリで泣けてきます(*´ω`*)。

リアル網棚!

↑なんと、窓の外、寅さんがいるのは大分の駅でした♪(タップして拡大して見てみてネ)
フクシマの雪の上に流星のカケラが☆彡
なんとロマンのある事象であろうか。
雪の上だから判ったのですね。

https://news.yahoo.co.jp/articles/4c75f467
d1c4809aa87d436152a5dfdf56a1c59b

津久見網代島の宇宙塵の写真も丸かった。
丸くなるにはちゃんと理由があるのだと勉強になりました。



もう少し大きな隕石のカケラも見つかるといいナ。
星の綺麗な季節ですね。


昨夜のISSきぼう(一番大きな光)☆
先日また偶然つけたカーラジオから、ビートルズのアコースティックギターナンバー特集がかかっていました。

それで今頃改めて思い出したのですが、昔からビートルズの『Girl』を聴くと、『アビーロードの街』を想ってしまうのであります。ド直球すぎるかな^^;

リズムが似てるから??
歌い出しがなんとなく色が一緒みたいな気がして、なんかこのやるせない感じが自分的には合ってるのでイイナと思っているのです。


♪ビートルズの歌がきこえてきそうと
  二人で渡った交差点・・・

これは別に具体的な歌ではなく、あの横断歩道を渡る的なシチュエーションと被せて・・という意味だと思うのですが、『Abbey Road』のアルバムにはこの『Girl』は入っていないから関係薄い。でも年代的にはこのも曲もアビー・ロード・スタジオでレコーディングされていたみたいなのでお許しを。

・・・

♪好きなんだ

これは、恋を始めたいのか確認したいのか、

「私もよ」って彼女は言うのかな?
「え、そうなの?」って戸惑うのかな?

何故、今日水曜日は逢えないのか?
普段は意識しない二人のままで行動している時間も多いみたい。
無理して笑わせるくらいだから二人の心はまだ別みたい。
喫茶店や交差点、日常の延長。
この二人、学生か何かで取っているゼミの時間割が違うのだろか。彼女は電話が通じる実家か下宿先にいる水曜日。

彼もきっと今日は用事(講義)がないのに、部屋に一人いても図書館に行っても原宿あたりをぶらぶらしても、モチロン彼女がいるわけもなく・・・
でも逢いたくて、いつもの風景に身を置きたくて雨の中来ちゃった。

彼女の存在が欠けている日常を再確認しちゃって、余計に寂しさ募らせて、それを埋めたくて賭けてしまうその十円玉。
吉と出るかどうなのか・・・(悶)。


♪ガールフレンドと気軽に呼べば
 君はいつだって腕を回した

        『地下鉄は空っぽ』

地下鉄つながりの後年のこの曲では、”あんなこと言わなきゃよかった”と後悔やぎこちなさが先にたっていて恋のゆくえが切実なのだけど、アビーロードの街では聴く者にはその顛末は知らされないまま♪青山通り雨通り~でフェイドアウトになってしまう。だからロマンチックな気持ちで歌を置いておける。

「うん、ありがと」

って言われたのかなぁ・・・

などとこちらも考えながら外苑あたりの雨の遠景に想いを馳せるわけです。


一周回ってまたビートルズを聴いてみようかな。
同じアルバムの『Michelle』なんかもいいですネ♪
(むしろコッチ?)

独りの休みがとれたので、東大阪と横浜のLIVE2024DVDをここでちょっと気合入れて観てみた。

買った当初はひとりで弾き語りの2曲以外はもうほぼ全部大阪なんじゃん!と僻んだ気持ちで萎えていたのですが(萎えるのかオイオイ^^;)、ここのところの心の変化もありまして、また正面から向き合ってみようと挑んでみたのであります。

心を鬼にして!?Shoyanのパフォーマンスにポォ~っとならないように(笑)冷静にひたすらピックの様子を観察してメモをとってみました。

そうしたらば・・・
めっちゃ細かく横浜(関内ホール)の数秒のショットが多数差し込んである!!!(@_@) これでもかというほど、変態的とでも言えそうなくらい^^;のこだわりの強い編集がしてある!
しかも・・・自分的にはとても大切なフレーズだったりして涙出てきました。
あぁ、横浜のステージは切り捨てられたんじゃなくて逆に丁寧に吟味されたんだなって想えて幸せな気持ちになれました。今頃なのですが心が温かくなっています。Shoyan監督アリガトウ♪って想えます。

見分けるコツは

・マイクのピックホルダーのピックの配置
>大阪=白いピックが上から3枚、オレンジのピックが下に3枚。主にオレンジのピック使用。
>横浜=オレンジのピックが上に3枚(一番上の向きが替わったりする)、白いピックが下に3枚。

・シャツの胸元の黒いインナーがチラ見えするのが横浜、大阪は見えない。
・ヘアスタイルが横にポヤポヤ広がっているのが大阪、横浜は暗めでまとまってタイト。
 横向きでもサイドの髪の流れが違う、大阪はクルン@となっている。
・照明のニュアンスが違う?
・マイクのポチ?の位置。

で、各曲見ていくと

『Moonlight』
♪訪れる時を見ている~、の部分。
・ユタさんのエンドの演奏からのShoyanニヤリ顔、ラストの弾きフレーズ。

『地平線の見える街』
・なし
※途中の笑顔や良く歌えている感じが納得のベストテイク。

『ほんの短い夏』
♪送ってとは言わないの~の横向きショット。
♪最後の地下鉄が街の下くぐり抜けて君が僕の時計遅らせたと知った~、の正面テイク?
♪こんなに好きなのはわかってるくせにいつものように送ってとは言わないの~、のマイク持った横向きテイク。

『夜汽車は南へ』
・ほぼ大阪。

『テレポーテーション』
・イントロの手でクラッピングしている一瞬。
♪光より速く走る?君への想い こんな時アインシュタインも~、まで。(涙)

『あの唄はもう唄わないのですか』
♪今も信じてるあの唄を~、からのエレキのフレーズ部分。

『星空』
♪彼の写真入れてた~、の正面テイク?

『暦の上では』
・イントロの一瞬と
間奏♪下りの汽車の~、の直前のShoyanのスゴクいい顔しているテイク。

『冬京』
♪わかるのだろう~、直後のギターのフレーズ(イントロも少しアヤシイ!?)
・ラストフリーギターソロのぼかしからのアップ+ピック咥える胸元の一瞬のショット。
※「横浜ではピックを咥えて爪で弾いてた」と自分のメモに書いてあった(笑)

『雨の物語』
♪窓の外は雨、雨が降ってる~、の横顔から手元まで。

『湘南 夏』
・なし

・・・

てな感じで、ここまで観てきました。
後半『ペテン師』などでもピックの違いでわかる箇所があったはずです。止めたり戻したりしながらDVDのプレイヤーが壊れそうなほど確かめてみました。続きはまた後日の楽しみにします。

DVDのブックレットもよく見たら表紙のShoyanのお姿はもしかしたら関内ホールなのかもしれません。客席は大阪のようですので、うまく混ざっているんですね(*´ω`)♪
差仕込んである譜面が『夜汽車は南へ』と『テレポーテーション』なのが、今となってはとても嬉しくて、やっぱり買ってよかったと想っています。

見返してステージの様子・プレイのご様子に想うことも発生しました。また続きを書けたらと思います。(オフステージのショットもありますしネ)


コンサートなどの予定は全然ないのに想う時間は足りないぞ!!!

自分が5人くらいいたらいいのになと想う今日この頃です(*´▽`*)。



白いmen'sのシャツに
せつなく包まれ
崩れそうに 壊れそうに
眠りに就くひとときも・・・


この歌イキナリ色っぽい。
”男物のシャツ”をつけて眠る彼女はきっと
素肌にそれだけなのだろう・・・
なんと絵になる光景!
映画やドラマのワンシーンのようだ。

けれど、独り寝なのが哀しい。
ということは、
目覚めた時もまだ切ないということか。

借りたままのフリースと違って
もうあなたの匂いはしない
わかっているのに
自分の後悔の抜け殻を
再び羽織っては
何度も 何度も
何度も・・・
切り替えられない哀しい方のタイムラインで目が覚める・・・
いっそ消えてなくなってしまいたいという眠り。
色っぽいのに虚しくて
そして彼女の顔は見えなくて
止まったままの時間のシーツにくるまれて眠る
=時を止めている様子が手に取るように解って温度が低い。だから一層ぬくもりが欲しくなる(涙)。

去ったパートナーが残していったシャツなのか?
愛し合っていた日々に自らせがんで欲したものなのか?
それとも、”男らしく”自分を鼓舞するために自ら纏ったものなのか?
あの頃暮らした街から離れて棲む彼女の、傍らにまだあるそのシャツが不変に白くて苦しい。

♪風が吹き荒れた夕暮れの街は
 水槽のようにどこまでも見えて・・・

とはいかに?
水槽ってガラスなどで囲われている限られたエリアというイメージだけど、なぜここではどこまでも遠く視えるのだろう?

街はどこまでも見渡せるようでいて彼女の意識はまだ”あの頃”に囚われた水槽の中にある。遠く見渡せる街並みが果てしなければ果てしないほど、彼女の時はここで留まったままで哀しい。


夕暮れの
独りの部屋の
後悔と
喪失と
逃避を

ため息ひとつのような静かな切り取りで額に収める。
たゆみないBossaのリズムが揺れてそれを運ぶ。

閉め切った窓の外
街並みを見おろすベランダ
遠い高速道路の高架
ビルの隙間の小さな公園
点滅する信号機
行き交う車、人、流れる雲・・・

動いているのは景色の方で、自分はそこから動けない。置いていかれた時間。もうこれ以上考えたくない程、思考停止するほど囚われた愛(と思っていた)の時間。もう届かないのに、それを葬るまでの哀しい凪の時間をひとりいる彼女をずっと痛ましくも親しく想ってきた。

今書いていても涙が出る。

・・・

つもり・が積もって
気にしながら見過ごす

そんなに激しい衝突じゃないから、アスファルトに沁みた水が凍ってひび割れる路面のように、微細に進行する哀しい瑕(キズ)が表面下で広がっていたことに人は気付けない。だって、自分自身の心の中のダメージだって自覚出来ない時がある。ましてや他人の心の中なんて・・・人の心が何層にもなっていると気付くのは、こんな哀しい時間を幾度ももがいた後のことなのだろう(涙)。

二人過ごした時間が崩れて、壊れて粉々になって、 砂時計の粒になる 。
それをひっくり返しては戻し、また返しては戻しを繰り返すばかりで動けない。
まるで水槽の中に閉じ込められた魚のように・・・

いつかそのインフィニティのガラスを割って哀しい時間の粒子を解放する時、幾度目かの季節の風が彼女の意識を吹き抜けて時の本流に戻してくれることを祈っている。

・・・

Shoyanのガットギターは熱帯魚水槽のエアレーションの泡のように柔らかくたゆみない。差し込んで伸びる西陽のような準氏のエレピとシンセが背景を作り、斎藤ノブ氏の色っぽいパーカッションで胸の鼓動が時を穿つ。

イントロはまるで水鳥の着水のようで、曲が始まれば水中を縦横に泳ぐ魚の翻り、枯れた穂がたなびく荒野のような侘びたアレンジにオトナのオトコ極まったShoyanの声で切ない言葉が乗っていく。なんというハンサムなサウンドなのだろう。至高です。

繰り返しになるけれど、その昔ShoyanがA.C.Jobimがお好きだとおっしゃっていたのを聞いた時からいつかBossaNovaテイストの曲を作って歌って欲しいと想っていた。単に編曲の形態としてだけではなく、そのスピリットな部分・サウダージとして・・・ということ。

それが叶ったのですから、この歌の登場は本当に嬉しかった。
せつない愛の粒をパンニングするのにBossaの揺らぎはとてもマッチする気がして、時にはそんな容れ物もいいなと思うのです。


~時は

いつまで流れる?
何処から流れる?
何処まで流れる?
ここから流れる
そこから流れる
何処まで流れる?
ここまで流れる
ここまで流れる・・・

ここに時の正体が散りばめられている。ただ一方向に流れてゆくだけではない、時を経て飴色になった象牙のように曖昧な出処と行方とが陰陽のようで非常に美しい。この歌の真意なのだと想うのです。この頃、Shoyanはその”時の本質”にお気づきになられたのではないだろうか。そんなひとつの到達を感じる一曲でもあるのです。


ジャスミンの、官能と癒しのふたつの意味。
忘れられない甘い想い出と
忘れたい自棄な汚れた日々
現実は歌のように美しくはなく、とても醜い。
だけど、人の孤独と言うものはみな
穢れのないものなのではないだろうか・・・


いつかの軽井沢大賀ホールで佐藤準氏と歌ってくれたあの数分が私の一生の想い出です。ステージで歌われることはほとんど無いけれど、いつか自分の時が止まるその刹那までずっと聴いていたい宝物の一曲であります。
 



※追
『水槽の街』は私にとって伊勢正三の音楽と自分の心の中とをダイレクトに繋ぐ臍の緒のような存在で、時間と想いの行方を何十年も共に見つめてきた大切な曲だ。1994年当時アルバムに収録されたこの歌を聴いた時、私の心は寸分たがわずShoyanの歌の世界と嵌って離れなくなった。

歌の重力が聴く者の人生の軌道を引き込んだりすることがあるだろうか?
この歌は私の顕在意識と潜在意識のどちらにも深く入り込んで、きっと何かを少しづつ動かした。辛いことも奇跡も伴って今ここに在る。実際は全部自分自身の責任なのだけれども、この歌はどこか聴く者の行方をも孕んでいた気がしている。
(私事余文ご容赦下さい)

もう何年前になるだろう、Shoyanが大久保氏と風を再び始めたいと願いながらチケットまで発売済だったのに実現されなかったあのツアー。それが不可能になった時にShoyanが選んだ”ひとり旅”というスタイルのことを想うとこの曲がまず浮かんでくる。
平成・2000年代の伊勢正三が”風”をまた始めるのならば、絶対に歌って欲しい曲があった。

時の流れ』がそれです。



果たして、そこまでの何十年の間にこの歌がコンサートで歌われたことがあったのだろうか?

もちろん、風のオンタイムではステージで歌われていたと思うけれど(1977年の音源がありますね)、ソロ〜フッカツ以降は個人的にはこの歌の印象ってほとんど無くてずっともどかしかった。

示唆的なフレーズが沢山あってメロディーも演奏もめっちゃカッコイイこの歌、ブラスとギターの風通しのいいサウンドがアニキっぽくて憧れた。こういう歌があるから風は深いんだ、と独りで息巻いていたし、ステージ映えするだろうなぁ〜とずっと想って待っていた。

だから、風ひとり旅で演奏されるようになって感激した。永き時間を重ねられたShoyanの中でこの歌の存在感が濃くなってきたのかもしれないと感じた。この今も一線で演奏されることを尊く想う。

・・・

♪目の前の砂時計をうら返せば
 時はすぐに流れてゆく

この砂時計の砂は物質だ。
昔、”アレとコレ(物質)の距離があるからソコからココまでの時間が発生する”というようなことをどこかで聞いて、なるほどと思いながら歌を聴いてきた。砂も上から下に移動するから時間を計れるのですよね。



そしてこの歌も基本的に”時は流れてゆくもの”という前提だ。この頃のShoyanの歌の中ではまだ時は留まったり重なったり共時したりしない。自分では干渉できない運命のような不可避なもの・そんな存在として歌われていたように思う。

それがこの後解釈が広がっていき、様々な歌が生まれていくことに繋がっていく。これは”時間”というものの考え始めな、出発点の曲だと思うのだ。


どんなに遠くに離れても
季節の風が追いかけてくる
どこかでぼくが立ち止まらないように


時は流れてゆく

この彼の立場は言い換えると

「時が流れてゆくから
ボクは立ち止まらないで前に進むのだ」

てなふうに聴こえる。
自分でも何十年も前に聴き始めた頃は、四季や時間の流れって絶対的で不変だと思っていた。だから、”時”は自分を立ち止まらせないように分岐・別れの直後から強制的に先に運んでくれる単純明快な存在だと思っていた。

サラッとカラッとひとつの別れのあとの再出発のようで、少し”空元気”とも思える内容に若さを感じるのです。


でもこの何十年も聴いてきて歳を重ねると、実はそうとも言えないんじゃない??と想う気持ちも並行して湧いてきた。時間も季節も実はあやふやで、そして流れない時もあるのではないか?と。

タバコも砂時計も”反映”に過ぎない。
目に見える物質だから時が流れていくを感じることが出来るのだけれど、でも、自分の意識がそんな物質の変化と添えなくて独り動けなくなってしまったらどうする?

実際のところ時間は手を掴んで連れて行ってはくれない。
自我が傍観者であるうちはその時の流れは目の前の通行人だ。
この”僕が立ち止まらないように”と思えるようになるまでの苦悶はこの歌ではまだ埋もれて語られてはいない。

その時全てだと思った”君”が目の前から消え去ったあと、”君がいたから”こそ流れていた時間が欠落してしまって自分が空っぽになってしまう。そんな時、時間の本流はどこにあるのだろうか?

この歌の内容からは少し脱線するかもしれないけど、
弱い人間は時の流れに置いてけぼりにされることも多々あると近頃では思うのです。


そして物質のない世界=心の中・意識の世界では時間はどんな風に在るのだろう?そのあやふやな”時の真実”の部分をShoyanご自身もその後何十年も歌の中で考証されて来たのではないかと思っている。


♪いつになれば ずっと前の出来事だと想えるの?
♪今でもまだ ほんの前の出来事だと思えるの
              
               (水槽の街)
そして

♪その時 同じこと 同じ素振り
 瞬く間さえないくらい

           (テレポーテーション)
まで。

それが興味深くてずっとShoyanの歌たちを追ってきた私なのですが、物質的に離れていてもソコとココで同じ時間が流れているという最近のLOVEタイムラインの到達点は納得の極みなのだ。

と、そこに行き着いて今振り返ると、この『時の流れ』はすべての根本にあるはじめの一歩な曲だと思っているわけです。

・・・・・


♪君はわかっていたのかもしれない

を想うに、
それこそが自分と他人(愛した存在)はそもそも”別タイムライン”だったのだ・という前提が虚哀しい。

♪壊すためにつくる積木のように時は流れてゆく

という凄まじい特級フレーズの意味は、密かにShoyanの歌たちに潜む虚無を如実に語っている。

伊勢正三の歌たちのそこここに潜んでいる冷徹なリアルの象徴。恋人たちの甘い時間や、努力や思いやりという心尽くしや、子どもの成長や仲間との信頼関係なども、みないつかは色褪せてしまうのだという、人間不信とも思える虚しさをはらんでいるようで震えるのだ。

嫌なことを忘れられるのも時の流れだけれど、良いことすらも劣化して風化していくのだと言う。このクールな虚しさ、堪らんのです。伊勢正三って凄いなぁ・・・と平伏するこの至高フレーズです。

別れの直後から、君がいたさっきまでの時間はもう別のタイムラインで、分岐したらもう一切交わらないよ・振り向きもしないよ・無かったことレベルだよ、、、という”理想”みたいなものがここにあるけれど、そうもいかない剥がれきれない現実もあり。それをまたその後追求していくShoyanの二重スタンスが興味深いと思っている。

・・・

(そしてまだ続く^^;)


♪別れることが終わりならば
  別れることが始まりだと言えないだろうか

この逆説引用はある意味、別れを認めたくない強がり理論なのかもしれないけれど、十代の自分にはモノ凄く大切な導きとなった。

この後、

「想い出すなら忘れよう」
「寒さの中にかくれているのは暖かさ」
「悲しさは楽しさにも似て」
「悲しみなんて幸せの前触れ」
「遠ざかるほど君は近づく」
「気にしながら見過ごしてたの」

などなどなど、物事の表裏や多角的な視方を示してくれるShoyanの歌の黎明だったと思う。失恋して哀しい寂しいこの世の終わりだ・じゃなくて、そもそもの
「”別れ”って何よ!?」という考え方が本当に面白くて興味を惹かれた始まりでした。

※『夏この頃』の"山で死んだあいつ〜今朝早く男の子が生まれた"もその類かもしれない。


季節の風が吹いてきたことでやっと自分の胸の中の風車が回りだした。それが自分時間の再開。
季節の風は”他”や”偶然”みたいなものだろうか。
もしくは”縁”みたいなものかもしれない。
また春が巡るように
人は本当はひとりではなくて、
孤独だけれど一人ではないのだよって、
時の流れに漕ぎ出すための帆を張れたなら、
そこに感じられる季節の風がある。

何かを壊すために時は流れていくけれど、
でも・・・


時計の針が時を流しているわけではないって、Shoyanの歌の中でさえその意味は彩りを増していくから、聴手だって自分時間のバリエーションを増やして行けばいいのだ。


この歌をステージで聴く時は、歌をお作りになった時のちょっとツッパった感じの若き日のShoyanと、熟成に熟成を重ねた今の熟れ旨味マシマシのShoyanとを同時に感じて考えてみたりします。

これからも”新しい時の流れ”を感じられるように、そして自分がそこを吹き抜ける季節の風でいられるように、これからの時間、一音たりとも聴き逃がさぬようにと想う2026年の幕開けです。


またもやのとりとめなき、ご容赦。





プロフィール

HN:
No Name 七氏−1.0
Webサイト:
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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