Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。
※本当はもう少し寒くなったらと思っていたのだが、今載せておこうと思う。2010年のセルフカバーアルバムを聴いて当時想ったことです。
・・・
・・・
元のかぐや姫LIVEに収録の『置手紙』が歌われて録音された頃は、私にとっては前世くらいの遥か昔で、まだ幼稚園か小学校一年生の頃のことだから100%想像で受け止めるしかない世界だった。
初めて聴いたのは10代半ばで、確かにハタチ前の身に合わない一大決心をして苦しんで迷ったこともあった。そして飛び込んではみたものの、壊れたり破れたり結ばれたり・・・そのこともこの歌と共に長い事一緒にあったのだけれど・・・そのことは、、もう、いいのかなと思う。
・・・・・
・・・・・
今回、この新しい『置手紙』を聴いていると自分が二つに分裂してしまいそうだ。色んな情報と比較してキッチリ分析しようとする背伸びな自分と、フレーズひとつひとつに自分の個人的な想い出を掘り起こしてしまう妄想ギリギリの自分と・・・二つに分裂して混乱中。だから、上手く書けるかわからないけど、まずは思いつくまま残していきたい。
今回収録された『置手紙』は、最近のライブで演奏・構築されてきたShoyanの、いい意味での"こだわりをうまく漉き込んだ軽やかさ"が良くコーティングされて録音されていると思う。その心音直結のギターフレーズに、細井さんのピアノの結び目が良いアクセントになって、とっても懐深いセルフカバーになったと思う。この歌は単なるカバーではなく、全くの"オリジナル・新曲"として聴いてもいいのでは?と思うほどだ。
歌詞やメロディーは同じでも、何十年!もの月日が流れていれば技術や携わる人間や聴き手の環境の変化は大きい。そしてShoyanご自身の心と肉体とテクニックの進化・変化もおおいにあっただろうと思う。それがどう影響して具現化してくるのか、とても興味があった。
歌詞やメロディーは同じでも、何十年!もの月日が流れていれば技術や携わる人間や聴き手の環境の変化は大きい。そしてShoyanご自身の心と肉体とテクニックの進化・変化もおおいにあっただろうと思う。それがどう影響して具現化してくるのか、とても興味があった。
改めて今、スタジオで録音して、Shoyanがイチから歌いなおした時点でそれはもう別の人格(歌格?)を持った第二の音源だと思うんだ。それほどパワフルだもの。そこまで出来る・と確信したから今回こういうカタチに踏み切ったのだろうなって、心の底から納得&感激している。
かぐや姫LIVEフォーエバーのLiveバージョンも、ベストドリーミンのLiveバージョンも、最初の「かぐや姫LIVE」の音源以上にはなっていないような気がしてる。オリジナルの「かぐや姫LIVE」の『置手紙』はとっても良く出来ていて、石川さんのマンドリンとShoyanご自身の哀愁のある若さが軸となって、とても完成度が高いと思うのだ。すでに一応の完結をしている音源だったのじゃないだろうか・・・(LIVEフォーエバーのスキャット部分は今でもスキだけど♪)
だから、その後のライブの音源は"なぞっている範疇"を超えることが難しく、そのまま時間が過ぎてしまったのではないだろうか。
モチロン、いつも全力投球のShoyanのその時その時の思い入れはちゃんと込められてはいると思うけど、2000年ベストドリーミンの音源などは、今回のセルフカバーと比べるとずいぶん音の角度が浅いように思う。
・・・
2010年のこの『置手紙』は濃い。
Shoyanの歌がリアルで近い。
近い・ってどういうこと?
近い・ってどういうこと?
昔の、硬質な透明感のある声も素敵だけれど、ラリックやガレのガラス工芸みたいな柔らかな琥珀色の今の歌声は、聴き手の魂が吸い込まれるような甘い響きを湛えている。Shoyanがこちらに近づく以上に聴き手の魂もそこにスゥっと引き寄せられるからグッと近くなるんだね。
近いというより"一体"と言ってもいいんじゃないかしら・・・
今までの、長い永い時間を経て来ての"本当の大人の男"な感じがとても寛くて切ないのだ。そしてあのギターの弦と指(爪?)が作り出す新しい音・メロディーは、歌詞以上の意思をも伝えてくれる。
だからココが新しい。
新曲と同じ意味を持つんだと思う。
置手紙の"追伸"の部分がここにあるのだと思う。
新曲と同じ意味を持つんだと思う。
置手紙の"追伸"の部分がここにあるのだと思う。
あのラストのギターは
「今、君はどこにいるの?」
「あの日の僕はどこにいったのだろう」
「そう回顧している間にも時は流れていくのだね」
「ゴメンヨ、今になって好きだよ」
「もう逢えないけど、どこかで許しておくれね」
「あの日の僕はどこにいったのだろう」
「そう回顧している間にも時は流れていくのだね」
「ゴメンヨ、今になって好きだよ」
「もう逢えないけど、どこかで許しておくれね」
と聴こえる訳(>_<)・・・
当時の曲は
「何かが巡るならまた逢えるかもしれないけど、さようなら・・・」
「二人でいることは、今の僕にとっては不自然なんだ」
「二人でいることは、今の僕にとっては不自然なんだ」
って、そんな一方的な決別の歌だった気がする。
まったくもって置いていかれてる彼女が可哀想過ぎる。
男だけが先へ先へ旅立ってしまう別れだ。
まだ未来に沢山の時間がある、若さの残酷さがそこにあったと思う。
男だけが先へ先へ旅立ってしまう別れだ。
まだ未来に沢山の時間がある、若さの残酷さがそこにあったと思う。
だけど、今回の『置手紙』はその長い旅さえも通り越して時間の果てに辿り着いた者の、振り返りのニュアンスもセッティングしてあるように思う。(それがShoyanご本人の意識的なものか・無意識なものかはわからないけど)
"最後の男の気まぐれ"と言いながら、まだきっとこの彼の物語は先があったに違いない。この時点でこの彼もまだ自分の未来を知らずにこの部屋を出たのだと思う。
"最後の男の気まぐれ"と言いながら、まだきっとこの彼の物語は先があったに違いない。この時点でこの彼もまだ自分の未来を知らずにこの部屋を出たのだと思う。
「旅の始まりには君がいた」という、やっと今になって振り返ることが出来る、そんな、一巡した恋しさ・懐かしさをこの『置手紙』に想う。
一粒のラムレーズンをギュッと噛んだ時みたいな、甘酸っぱくて鼻に抜ける恋心の揮発を感じるのだ。
セツナイ~・・・
・・・
・・・
ギターのトレモロは想い出の街角に転がり舞う落ち葉の行方かな。師走の風に吹かれてクルクルと去るフェイドアウト・・・マンドリンの二本の弦のように垢抜けていないけど、その分、最後のフレットの一本の弦にこの後姿の不器用な愛が滲む。
Shoyanらしい暖かい音だと思う。
しかし何故かこのアルバム、LPレコードを聴いているような気分になるのが不思議な心地良さ♪
ザラっとして天然素材っぽいセンチの演奏。パチッパチっと針の弾ける音が聴こえるような気さえするこの『置手紙』。
2011年01月07日 記
あれから毎日考えてはいるんです。
想ってもいるんです。
想ってもいるんです。
そしてそのうちFacebookに素敵な溌溂とした表情ばかりのお写真などUPされると、自分の感じたことはおかしかったんじゃないか?全然おkじゃないか、なんて揺らぐのです。
今一番、私と正やんは遠い。
中途半端な年代のギャップがある。
それが一番引き離れている年齢に来たなと思う。
コンサートの会場で若い人というと、ファンのみなさんの娘息子世代で、私と同年代の人はほとんどいない。私はずっと何十年もマイノリティなのだ。
中途半端な年代のギャップがある。
それが一番引き離れている年齢に来たなと思う。
コンサートの会場で若い人というと、ファンのみなさんの娘息子世代で、私と同年代の人はほとんどいない。私はずっと何十年もマイノリティなのだ。
だから、そんな少数派の意見や感性は、伊勢正三的世界には不要で、私はほんとにトンチンカンなことを言っているのだと思う。何も知らないくせにほぼほぼ想像で生意気な妄想をこじつけているだけだ。
これはいじけているわけではなくて(笑)、本当に毎回そう思うんだ。だから、自分が想うことをカタチにすることって勇気が要る。
(これだけ書いておいて何をいまさら感アリマスガ(笑))
・・・
今日になって、裕美さんの闘病告知のニュースがあった。今週末にはShoyanと裕美さんが主役の大きなイベントがあるね。きっと、さぞかし、ご心配だろうと思う。Shoyanご本人の喉のこともあるし、本当に楽しく元気に盛り上がって開催されることを祈ってる。
何故かこのごろさみしくて、なかなか軽井沢のことに浸りきれない。どっちから書こうかな・・・って。ちょっと以前に書いたものを引用しつつ、また次回・・・
今でも指を出すととまってくれる赤トンボに、自分の純粋さを託してみたい。
軽井沢、なんとか無事に行ってこられた。
色んなことに感謝です。
でも、前日は遅くまで仕事が長引き、当日は往復運転で帰宅が0:00になり、やはりちょっとしんどかった。ユンケル飲んで頑張った。
何よりお義母さんの具合が気がかりすぎて・・・
で、そのお義母さんですが、小康状態というか、ジュースくらいは飲むので、今、桃をスムージーにして持っていってあげてるような具合です。まるっきり食べなくなるかと思いきや・・・手を変え品を変え・・・がんばってます。施設と家族で全力で試せることしてる感じです。
・・・・
と、そんな私的なことは置いておいて・・・
軽井沢か~・・・
ちょっと複雑な思いというか、想うことが色々あったステージだった。
去年が"神回"だったので、それと比べることはできないのだが、6月の東京りぼーんと何かが違う正やんだった・・・気がするのは気のせい??
だが、
「あぁ・・・(*´ω`)LOVE♪」と思うコトもあり、
「ふぉ、、、(;´∀`)詰息(汗」と思うコトもあった。
気持ちの上下があったなぁ。
でも最近一番気になるのはギターソロの印象。
ギターの音がちゃんと出ていない。
しかもすぐに終わる。
これだけはここ最近いつも思う。
正やんご自身が「それでいい」と思っているのか、
全力なのに「そう」なのか(悲)、
私はむしろ楽器の鳴りに違和感を感じる。
アコギしか弾かないんならそのアコギは100%でいて欲しい訳。
数年前の軽井沢で聴いていた音には程遠い。
ギターが息切れしてる。
楽器のコンディションが気になる。
そして、
何か・・・出し切れていないものがあるのでは?と思う。
正やんご自身にも「これだけは必ず届ける!」という押しの強さがちょっと薄かったような・・・何か、自分のことで手いっぱいのような・・・・謎。
それでも客席は熱狂だし、正やんの声が埋もれちゃうようなバラバラの演奏でも、盛り上がってる。もうみんな「それでいい」って思ってるのかな。
妥協?
波風立てないのがオトナ?海風なのに?
ステージ上にいてくれたらそれでいい?
正やんのナニがそこにあればそれでいいのサ??
命削って参加した自分なので
「今日もまぁこんな感じ」
なんて思いたくないわけです。
なので、命かけてまた思ったことは書くと思います。
毎回見ているわけでもなく、最前列で観ているわけでもないので、今の正やんのコト何もわからない自分だけど、今聴いた音だけは正直に反応したい。
・・・また追々書きます。
少し休もう自分(*´ω`)。goodnight☆
『汐風』の肌触り思い出しながら・・・
※セルフカバーセレクション発売時に書いたものです。
・・・・・
もう何年前になるか、このものろーぐの元のデータで一番最初に書いたのが『夏は知ってる』なのだけど、セルフカバーセレクションをずっと聴いていたら、なんだか無性~にCrosby, Stills&Nashが聴きたくなり、2枚しか持っていないアルバムを発掘してきた。(今まで実家をいくら探してもなかったのに、壊す直前に箱ごと出てきた!)
もう10年近く聴いていないのに、あの頃ピンと来なかったとこまでなんだか今チョット泣ける。
「あれ、こんなに良かったっけかな・・・」って。
『Just A Song Before I Go』 好きだな。
『青い目のジュディ』なんて、私がゼロ歳の頃の音源なのか・・・この、今のShoyanのすべても40年後、50年後まで聴いていたい(涙)。
・・・・・
♪海辺はとても汚れてしまった
あの頃の二人には 戻れなくて・・・
あの頃の二人には 戻れなくて・・・
♪あの頃君と歩いた海辺は埋め立てられて
砕ける波の 自由さえも 奪い・・・
砕ける波の 自由さえも 奪い・・・
この歌が世に出た頃=30年前には「戻れない」と思ったその"海"も、もしかしたら、こんな現在は時が一巡して自浄作用みたいなものが働いて、意外と、思っているよりきれいな波打ち際が還って来ているのじゃないかしら・・・
二人はもう、今一緒にはいないかもしれない。
でも"二人の海"はそこで、そのままあの日のままの波を寄せて、反してを何十年も繰り返していたんだ。
でも"二人の海"はそこで、そのままあの日のままの波を寄せて、反してを何十年も繰り返していたんだ。
こんなに時が経って、その間に様々なものが浄化されて、いつしか澄んだ海辺が戻ってきていたのではないかと、このShoyanの声を聴いていてそんなことを想うのだ。それほど時は流れたのだと、しみじみと想う。
賑わい、発展を遂げて、充ちて満ちて、いけるところまで行った時、得たものも多かったけれど、一番大切なものを汚して・・・去っていく時間。その後に残るのはなんだろう?
たぶん、美しいだけで人生は済まない。
甘い思い出ばかりじゃない。
甘い思い出ばかりじゃない。
『スモークドガラス越しの景色』は、歌の中に何か具体的なやりとりがあるわけでもなく、ただ、ほんの少しのアイコンが置かれるだけで、車でハイウェイを移動してゆく様と、過ぎた夏の日が歌われているだけなのに、その、経過とともに浮かぶ想い出=あの頃の二人の、そのほんのりした景色が切ない。ハッキリ見えないから切ないのだ。(だから"スモークド"なのかしら)
記憶はスモークドガラスの向こうにあるように、いつしかシルエットだけになってゆくようで・・・
・・・・・
今は誰も座っていない助手席の空間
その夕映えのドアガラスには
運転する自分が映り込んでいる
その夕映えのドアガラスには
運転する自分が映り込んでいる
明かりの灯り始めた海辺の街並みは
スピードを上げれば流れて去っていき
外が暮れれば暮れるほど
黒くなった窓ガラスに独りの自分の姿だけ映る
スピードを上げれば流れて去っていき
外が暮れれば暮れるほど
黒くなった窓ガラスに独りの自分の姿だけ映る
そんな本当の"ひとり"に戻ってしまうまで
夕陽が沈んでしまうまでのもう少しの間
君との想い出にしばし浸っていたいのだ
夕陽が沈んでしまうまでのもう少しの間
君との想い出にしばし浸っていたいのだ
・・・と
Shoyanの紗がかかったような声の重なりが美しくて、その甘い熟した香りと比べると、81年バージョンはまだ青いパパイヤのサラダのようだ♪(あの丁寧さもタマラナイのだけども)今回、この曲が一番原曲と変わらないような気がして、それだけにShoyanご自身に絞ってのアプローチの経年変化が良く比較できると思う。どちらが良い悪いじゃなくて、1981年と2010年がユニゾンで聴こえるのが掛け算の贅沢♪
原曲はもう何回聴いたろうか?
一番最初に買ったソロアルバムだから、きっと生涯一番多く聴いていると思うけど、でも、この2010年のバージョンも全然違和感がなくて正直、驚いているくらいだ。どちらもまさにShoyan!!!81年のいい意味でのソフトネスな輪郭を、今回はシャープネス効かせた感じで、強いタッチ、強いコントラストになったのが少し違うくらいで、陽の色味・潮風の匂い・加速の踏み込み感、それはどちらも同じShoyanの音楽の心地良さそのままだ。それはとても良い事だと思う。最初は「どれだけアレンジが変わったのかな?♪」と、新しいアレンジを楽しみにしていたのだけど、これだけ変わらないのも面白い。だから、時が一巡したような感じを覚えるのだな。
一番最初に買ったソロアルバムだから、きっと生涯一番多く聴いていると思うけど、でも、この2010年のバージョンも全然違和感がなくて正直、驚いているくらいだ。どちらもまさにShoyan!!!81年のいい意味でのソフトネスな輪郭を、今回はシャープネス効かせた感じで、強いタッチ、強いコントラストになったのが少し違うくらいで、陽の色味・潮風の匂い・加速の踏み込み感、それはどちらも同じShoyanの音楽の心地良さそのままだ。それはとても良い事だと思う。最初は「どれだけアレンジが変わったのかな?♪」と、新しいアレンジを楽しみにしていたのだけど、これだけ変わらないのも面白い。だから、時が一巡したような感じを覚えるのだな。
・・・・・
間奏のギターの音がスゴク好き。
アオサギのような大きな水辺の鳥のはばたきと、車線変更のドキドキ感が縒り合わさって2コーラス目へ続く。
アオサギのような大きな水辺の鳥のはばたきと、車線変更のドキドキ感が縒り合わさって2コーラス目へ続く。
♪体預けて 沈んでゆくサスペンション・・・
時折、低い声のときに開く快感がある・・・
Shoyanの歌唱というと、昔から高音に話題が行きがちな気がするけど、今回のアルバムではポイントは低音だと思うんだ。その辺は・・・『渚ゆく』ででも書こ♪
Shoyanの歌唱というと、昔から高音に話題が行きがちな気がするけど、今回のアルバムではポイントは低音だと思うんだ。その辺は・・・『渚ゆく』ででも書こ♪
しかし・・・
バンド演奏・編成というのは本当にいい(´∀`)。
音の羅列が音楽なのではなくて、肉体が奏でるバイブレーションが音楽なんだ。そういう音を私は聴きたいんだ・って改めて思わせてくれた今回のセルフカバーだった。
バンド演奏・編成というのは本当にいい(´∀`)。
音の羅列が音楽なのではなくて、肉体が奏でるバイブレーションが音楽なんだ。そういう音を私は聴きたいんだ・って改めて思わせてくれた今回のセルフカバーだった。
本当に、「歌は人」なのだと思う。
伊勢正三という人の感性と身体を透過して聴こえてくる景色は天然の美しさがある。それは私にとっての故郷でもあるし、そしてどこか自分の胸の中とも同じ景色なのかもしれない・・なんて、今ちょっと子供のように都合良く想っていたりする☆
伊勢正三という人の感性と身体を透過して聴こえてくる景色は天然の美しさがある。それは私にとっての故郷でもあるし、そしてどこか自分の胸の中とも同じ景色なのかもしれない・・なんて、今ちょっと子供のように都合良く想っていたりする☆
・・・・・
Shoyanの海は、
やっぱり何年経っても変わらないと思う。
やっぱり何年経っても変わらないと思う。
その海岸を走るICのない"時間のハイウェイ"
制限速度は自分で決めていいのかもしれない。
制限速度は自分で決めていいのかもしれない。
2011年01月29日
https://mainichi.jp/articles/20190814/ddf/012/200/007000c
※毎日新聞有料版
謎なのである。
先日も公式サイトやFacebookに告知もないまま、読売新聞の夕刊関西版のエンタメ欄に写真入りで『君歩』の告知&インタビューが掲載されていたのである。で、今回のこの毎日新聞も告知がなくて残念なのである。
私はこの催しものには一度も行かず(行けずぅ)、また世代的にチョットお呼びでない感もあるので(汗)いいのですが(いいのか!?)、お写真入りのインタビュー記事なんて見たいじゃん!読みたかったじゃん!!(>_<)やはりお知らせはしてもらいたいなと思うのであります。(そういえばメルマガ会員登録とかってあったよね??配信されているのかな?私には来ていませんが^^;)
やはり謎なのである。
しかし、この続く大阪推し感、、、(*´ω`)
大阪には何かイイコトがあるのかな♪
古くは『大阪のお嬢さん』から(笑)・・・
『君焚』『君歩』どんな『君』?
・・・・・
と言っている間に、こちらでは軽井沢の雰囲気が漂ってまいりました。お盆を過ぎたら秋です。フェーンで暑くても、すでに夕暮れが早くなってきてなんとなくキモチがざわめくのであります。あの、9月のひっそりした避暑地と秋の花々が呼んでいるように・・・。
大賀ホールもRe-bornなのかな?それともまた少し違うのかな?西から強く吹いてくる雨風に、予定を尋ねてみようか・・・
インタビュー記事の夏毛のShoyanがメチャ素敵で眠れずに、また少しキョリを想う台風の夜です。
※毎日新聞有料版
謎なのである。
先日も公式サイトやFacebookに告知もないまま、読売新聞の夕刊関西版のエンタメ欄に写真入りで『君歩』の告知&インタビューが掲載されていたのである。で、今回のこの毎日新聞も告知がなくて残念なのである。
私はこの催しものには一度も行かず(行けずぅ)、また世代的にチョットお呼びでない感もあるので(汗)いいのですが(いいのか!?)、お写真入りのインタビュー記事なんて見たいじゃん!読みたかったじゃん!!(>_<)やはりお知らせはしてもらいたいなと思うのであります。(そういえばメルマガ会員登録とかってあったよね??配信されているのかな?私には来ていませんが^^;)
やはり謎なのである。
しかし、この続く大阪推し感、、、(*´ω`)
大阪には何かイイコトがあるのかな♪
古くは『大阪のお嬢さん』から(笑)・・・
『君焚』『君歩』どんな『君』?
・・・・・
と言っている間に、こちらでは軽井沢の雰囲気が漂ってまいりました。お盆を過ぎたら秋です。フェーンで暑くても、すでに夕暮れが早くなってきてなんとなくキモチがざわめくのであります。あの、9月のひっそりした避暑地と秋の花々が呼んでいるように・・・。
大賀ホールもRe-bornなのかな?それともまた少し違うのかな?西から強く吹いてくる雨風に、予定を尋ねてみようか・・・
インタビュー記事の夏毛のShoyanがメチャ素敵で眠れずに、また少しキョリを想う台風の夜です。
※2012年5月~数回分をまとめたものです
・・・・・
「戦争は嘘かもしれない・嘘だろう」
って、誰が言ったんだろう?
某所のインタビューでShoyan自ら
"でも一番伝えたかったのは
「戦争は嘘(うそ)じゃない 本当のこと」
という歌詞"
「戦争は嘘(うそ)じゃない 本当のこと」
という歌詞"
とおっしゃっていた。
だから一番気になる。
だから一番気になる。
NASAのアポロ月面着陸映像を嘘だ・という説を信じる若者が多いというけど、そんな話のレベルとはワケが違う・・・
どこから"戦争は嘘"という前提が出てきたのだろう?
どこから"戦争は嘘"という前提が出てきたのだろう?
この"戦争"というものがひとつではなくて、また始まりも終わりもないものだと。そう想いながら聴いているけれど、これらの断定的な言い回しが少し、、ほんの少しだけ「らしくない」ような気がする。
一番大切な部分だと言うのに?
それが"新しい"ということ?・・・否否?
それが"新しい"ということ?・・・否否?
この部分のメロディがとても好きだから、とってもShoyanらしいメロディだと想うから、本当にキニナルヨ・・・「知らない」ことと「嘘だと思う」ことは随分と違うことのように思える。「嘘」という単語、響き、その前提にほんのりとした違和感を覚える。
夫婦喧嘩だって争いだ。
人は、人と争ったことを、そう簡単になかったことには出来ない。たとえ体験していなくても、大勢の人が争い・亡くなった事象を「嘘」だなんて思うだろうか・・・
人は、人と争ったことを、そう簡単になかったことには出来ない。たとえ体験していなくても、大勢の人が争い・亡くなった事象を「嘘」だなんて思うだろうか・・・
それと、ホタルの光に戦の火花を重ね、爆撃機を鈍色の鳥と呼び、若い兵士と母、戦争、傷み、胸が千切れる・・・という、非常にストレートというか、類型というか、戦争っぽい単語を置いて静物画スケッチをしたかのような、そんな印象も少し"らしくない"気がする。
Shoyanがセッティングするフレーズはいつも、針の先のような鋭い言葉や、暖かい陽射しのような親近感に溢れたものだったりする。でもそれは決して他の言葉と差し替え出来ない唯一の合致だったはずだ。だけど今回の詞はフレーズとフレーズを編む接着剤が希薄で、脈絡が感じられない部分があるようで、だから、どこか散漫な気がしてしまう。そこが腑に落ちない=Shoyanらしくないのでは?と。
これらが聴き手の胸の中で少しの軋みを感じるのなら、やはりその動機・嵌めこみ方に何らかの"外的要因"がある気がしてならない。
これらが聴き手の胸の中で少しの軋みを感じるのなら、やはりその動機・嵌めこみ方に何らかの"外的要因"がある気がしてならない。
シツコイネ ワタシモ (汗)
部分的に何度も消して、そしてまた足して、凹んだ元の言葉の消し痕に鉛筆がひっかかるような、何故かそんな感じがするのだ。
・・・・・
映画本編も観ず、舞台挨拶も見に行っていないのにこんな問いを起こすのはすごく失礼なことかもしれない。でも、勇気を出して書いておく。いつか、Shoyanに(歌を通して)具体的に伺ってみたいことだ。
~戦闘機の爆音 今も未来は遠い
~泳ぐ魚の群れに石を投げてみた
逃げる魚たちには何の罪があるの?
逃げる魚たちには何の罪があるの?
そう、歌った人の、今の言葉なのか・と。
(「紛れもなく僕の言葉だよ」とおっしゃるかもしれないが)
・・・・・
"映画の主題歌"とは、まず映画ありきだと思う。歌の聴き手としてはそこが難しいところ。ましてや、O林監督のような"映像権力者"なら歌にまで・・・などと思ってしまう。
(「100%俺の歌ですが何か?」ってShoyan怒るだろうな^^;)
戦争という事象は非常にナイーブでデリケートな事柄だ。本当に、一個人が一概に決め付けたり"利用"したり出来るものではないと想う。今回Shoyanがご自身名義の歌の中でそういった単語をお使いになったことに私はこだわりたい。
・・・・・
一方、
~望まないまま 急いで早く運びたくなる
ここが、すごくShoyanらしいと想う。
「そんなもの」って何?
空を飛ぶ自由さと、思いがけない身に不相応なチャンス。それらを手に入れても、もてあまして扱いに困って投げ出すか、勘違いして傍若無人に振り回したくなる。むしろこの一節が争いの矛盾と人の愚かさを匂わしているのじゃないか・・・って、Shoyanの意図か意識か、無意識か・・・それはわからないけど、でも、聴き手への確実な一石であると感じる。胸に正しい波紋が広がる。こういった表現がArtistの仕事だなって想う。
※ものを産み出すことと、どこかから持ってきた材料をディスプレイ(虚飾)すること、この二つは、まったく違うことだ。
そしてそのメロディーは本当に自由で軽やかで、まさに今のShoyanの一本足打法!どこかが奇数になっている不安定さが更に大きな安定感を産む。
私が小さい頃から大好きだった、
~睡蓮の花のベッドの上で~♪
に通じる切ない暖かさの曲だって・・・
まずメロディーに委ねてみる♪
詞よりも先に曲の心地良さがキュンとくる。
詞よりも先に曲の心地良さがキュンとくる。
不思議だ。
メロディーを楽しむために歌詞を覚える感覚・・・
ワルツの、すくい上げるような曲調は、沈む心やうつむく泣き顔をそっと持ち上げてくれる。全神経が集中した柔らかいShoyanの手の温もりを感じる。キスする前に顎に添える手みたいに・・・
メロディーを楽しむために歌詞を覚える感覚・・・
ワルツの、すくい上げるような曲調は、沈む心やうつむく泣き顔をそっと持ち上げてくれる。全神経が集中した柔らかいShoyanの手の温もりを感じる。キスする前に顎に添える手みたいに・・・
「でも今はしないヨ みんなが見ているからネ♪」
と、ウィンクされて未遂に終わるのがイイ。
戦争モチ-フの歌なのに、そんな部分に色っぽいことを感じる私は"耳がerosなタイプ"なのかもしれない・・・スミマセン(汗
だから、この歌の具体的な言葉の表現よりも、メロディーの"香り"や"ニュアンス"・"起伏"に「Shoyanの本当のこと」を感じるのだ。絵本の読み聞かせのような丁寧な歌声とギター、これだけで充分なんだ。
・・・・・
その歌の、根底に流れている不変のメッセージに触れた時、一切の雑音が消える。
「まず、自身が愛に満たされること」
平和の源はそこにあるのだと教えてくれる。
その愛の音に気付けるか?
聴き手の大切なミッション、これからもこの歌を聴きながら遂行していきたい。
聴き手の大切なミッション、これからもこの歌を聴きながら遂行していきたい。
ShoyanがLOVESONGを歌われる根拠に私たちがなれたらイイナと想いながら・・・
※2023年に途中追記
・・・
この歌には二つの雨が出てくる。
・・・
この歌には二つの雨が出てくる。
君のいない朝に窓を叩く現実の小雨と、乾いた砂に沁み込む夏のにわか雨。
いつまでも終わらないような孤独の歴史年表。あっという間に過ぎ去ってしまう季節。対比が切ない。
・・・・・
少し前になるが、ある化粧品ブランドの新しい口紅のラインナップに、昔の色がリバイバルされて、その中に1970年代に一世を風靡したというオレンジ色の口紅があった。それを見た時、この歌のことを想い出した。当時、外国で流行っていたその口紅を、この歌の彼女が使っていたか?というリアルは抜きにして、70年代のシンプルでペタっとした色を想う・・・
この"電車道に沿って咲いてる名も知らぬ花"って何だろう?淡いオレンジ色・・・想い出す君の唇。
この頃植わっていた町の花って、カンナ、マリーゴールド、マツバボタン、ダリア?もしくは土手などに咲く野の花ノカンゾウやオニユリ・・・この頃は外来植物も少なくて素直な植生だったろうか。マルバルコウソウはすでに帰化植物か、オレンジ色の花って実は少ない?
案外、"陽に焼けた君"から逆算した色ではなかっただろうか・・・
※ちなみに、オレンジ色のノカンゾウやヤブカンゾウは別名『ワスレグサ』と言うそうな。淡くはないが意味は合いますね。
※ちなみに、オレンジ色のノカンゾウやヤブカンゾウは別名『ワスレグサ』と言うそうな。淡くはないが意味は合いますね。
この歌を知ってから何十年も経つけど、未だかつてオレンジ色の口紅を買ったことは無い。いかな色黒の私でも似合いそうもなくて・・・(落)可愛くないとダメそうで・・・。
きっと、夏だけ陽に焼けた黒目がちのキュートな女性を想う。
『NEVER』の"♪いつか君に合わせ縮めたゴーグル"みたいに、身に付ける物から別れた人の表情を想い出すシチュエーションがたまらなく、たまらなく切ないのだ。
・・・・・
"電車道"、"踏切の音"、、、鉄道好きにはグッとくるフレーズもあって、ただのセンチメンタルじゃないShoyanらしい空間認識を感じるんだ。
恋人と過ごした夜。特別な夜がいつしか日常になり、日常が更なる現実となって明けてゆく朝。それでもまだこの頃は二つの心を溶かしあって一つの音を聴くくすぐったさがあったのだろうか。…今はきっと空っぽのその心に、現実だけがカラカラと音を立てて転がっているのだろう。
この小雨は満たしたり潤したりしてくれるものではなく、
想い出を遮ってゆく無情なカーテンなのだろうと思う。
想い出を遮ってゆく無情なカーテンなのだろうと思う。
・・・・・
同じアルバムに入って、同じようにマイナー調な『あの唄はもう唄わないのですか』などに比べると、この『忘れゆく歴史』はより"個人的"だ。
『あの唄はもう唄わないのですか』『22才の別れ』『海岸通』などの"読みきり劇画"系と違って、こういった、地味だけど個人的な想い出に入り込んでくる歌は、"あとからジワジワくる長期連載"なのだと思う。
長い時を経て、経験や感情の幅や他人との関わりが増えて、それだからこそ味わえるせつなさと気付きがある。
編まれる物語がある。
編まれる物語がある。
『忘れゆく歴史』は私にも今は"痛みソング"。十代で聴くのと四十五十越えてから聴くのとでは、今の方が数段色鮮やかに淋しさを視ることが出来る。
こういう古い写真のような歌、イイナ。
しかし、雨は切ない…
絆のようで、距離でもある。
絆のようで、距離でもある。
今聴けば、私も乾いた砂が恋しい・・・
なんて素敵な歌だろう!!
こういう歌があるから私はShoyanの音楽が好きなのだ。
こういう歌があるから私はShoyanの音楽が好きなのだ。
Shoyanのお茶目セクシーなヴォーカルと、スキップしているような曲の雰囲気が相まって、ミュージカルを観ているような、本当に甘酸っぱい一曲だ。この歌のShoyanの声はこのアルバムの中で最高柔らかく、サックリチェリーパイ☆みたいに甘く心がほぐれる
(*´ω`)。
(*´ω`)。
♪君のほっぺにご飯粒・・・
ほんとはいつかそっとキスしてみたかった君の柔らかいほっぺ。あどけない彼女の「ん?どしたの?」的な表情がアリアリと見えて、めっちゃ可愛い最高のシーンだ。そしてこの彼女の描かれ方から、なんとなく、この恋のその後も想像出来るようで、安堵するのだ。
この彼女、その後の展開にきっとビックリ戸惑って
「〇〇、なんで今ソレ言うかな~?も~ぅ知らないっ、明日私行っちゃうしー、、、、困るぅ・・・でも、アリガト(下を向く)・・・(頬染)」
みたいなシーンを思ってしまい、この彼女、いつかこの町にまた帰ってきそうで、サバサバっと彼とうまくいきそうで、なんだか勝手に嬉しがっている近所のオバサン目線で聴いている♪
「〇〇、なんで今ソレ言うかな~?も~ぅ知らないっ、明日私行っちゃうしー、、、、困るぅ・・・でも、アリガト(下を向く)・・・(頬染)」
みたいなシーンを思ってしまい、この彼女、いつかこの町にまた帰ってきそうで、サバサバっと彼とうまくいきそうで、なんだか勝手に嬉しがっている近所のオバサン目線で聴いている♪
桜吹雪と春風のカンケイが少しの陰影を与えて緊張感もあり、シリアスと和みのコマ割りが本当に素敵で、なんて鮮やかな曲なのだろうと思う。
・・・・・
幼馴染みの彼の、精一杯の素直なキモチ、背伸びして、でも委縮して、でもやっぱり・・と「幼馴染みの季節に知らず咲いてた花をそっと・・・」という本当にデリケートな彼の純粋な心が愛おしくて堪らない。歌詞カードには薔薇の大きな花束がレイアウトされているけれど、二人の間に咲いた花を実際花束にして送るなら・・・きっとフリージアやパンジーのような懐かしい何気ない花かもしれないと思っている☆
♪そのわけも知らず唇あてた暖かい春の日・・・
が、少し成長するとこんな感じで恋の自覚が生まれるのかなぁって思ってキュンとする。
心底キュンとする・・・(涙)。
心底キュンとする・・・(涙)。
『秋の葉の栞』は後から気付いた男のストーリー。
でもこの歌の彼は先に気付いたのかもしれない。
でもこの歌の彼は先に気付いたのかもしれない。
ガンバレ彼!
これからの人生でいくつかある"曲がり角"。
その最初の最初はこんなピュアなものであったのだ。
その最初の最初はこんなピュアなものであったのだ。
Shoyanの"永遠少年"らしさ、が最高に輝いている一曲。この今聴かされてタマラナイ気持ちになる。
"春"という季節が"SPRING"だという、弾むココロを忘れないでいたい。
"春"という季節が"SPRING"だという、弾むココロを忘れないでいたい。
※聴きながらいつも「イエイエチガウンデス」で、ついジェスチャーつけちゃうんだよね(笑)。
プロフィール
HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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