Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

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2016年11月発売
『伊勢正三45周年 ALL TIME BEST-Then & Now』より

・・・・・

この『さよなら以外に』では本当に久しぶりに 「君」に逢えた。

garden以降の提供曲・映画音楽や校歌に「君」はいなくて、Shoyanの中からそんな存在はもう消えてしまったのかなと、長いこと、永いこと寂しく思っていた。正直な気持ちを言えば、garden以降というよりは、時のしずくのあとずっと待っていた歌だったのかもしれない。
(gardenはShoyanの老荘思想なのだ!?)

『さよなら以外に』は私が伊勢正三の歌を好きになった理由が全部入ってると思っている。
暖かい声、部屋、季節、後悔、エロス、距離、分岐したタイムライン、雨、グッズと景色の切り貼り、そしてあの頃ではない「今」。

台所の蛇口の水滴の音さえ聞こえてきそうな「孤-single」のシーンが、逆に思いの果てしなさを感じる。この切なさは、なんだか野菜スープの上澄みみたいで、とても清らかで優しいものだ(涙)。 切なさは極まると無に近いものになるのだと思った。

・・・・・

この歌をCDで聴けば、まるでくちづけしながら歌うような距離感に赤面してしまい、聴く度にこそばゆいものがこみ上げる。

Shoyanご自身は出演番組などで「自分は歌があまりうまくない」などとおっしゃるけど(本心からではないと思いますが)、この歌のヴォーカルは、的に当てる銃や弓矢のシューティングではなく「罠」だと思うのだ。罠!さそり座の森のハンティングだ・・・

「ワスレナクチャ、イケナイヨネ」の最高に甘い囁きは、忘れる気なんて無さそうに思えるほどで、寂しさを超えてうろたえてしまう。


だがしかし、聴き込むごとにリアルな苦味もアル。
何かしてあげたくて、思い続けると言いながら、実際は"自分が忘れられないから"なのかもしれないと。

恋は自分の中でコントロール出来ないまま生まれ続けてくる、過ちだとわかったあとでも湧き続ける恐ろしい泉なのだ。いつまで続くのか、わからないのもオソロシイ。恋の渦中にあるその時の笑顔は、泣き顔の裏返しだったのだという事。失敗したものに対する女性の態度って極端で、聖母のような赦しの笑顔かと思えば、ヒステリックに罵倒する時もあり、、末期には無言。。。
何を境にしてそれが分かれるのか、恋が裏返る時の痛みはやはり苦いものと思う。身につまされて激しく苦い・・・

ライナーノーツで「過ぎた時間も「今」という時間と同じところに在るのではないか」と言うようなことが書かれていた。

私もそう思う。「流れない時」があると。

流れていない時点で時間ではないのかもしれないが、時間の一種だ。何十年経っても減りもせず、磨耗もしないものがある気がする。甘い事・苦しい事の区別無く、その「流れない時」の水底は、最終的にはどうなるのか・・・
このあたり、Re-bornでも所々で触れられていて、とても興味深い顛末なのだ。

・・・・・

「さようなら」って「左様ならば」=「そういうことならば、仕方がない」という諦めの意味がありそうで、英語の「Good-Bye」や中国語の「再見」のように前向きじゃない。

過ごしてきた時間と、これから襲い掛かってくる時間、を受け容れる、というのが生きていくことなのかなと思うのだが、"でもそれ以外に何か抗えることはあるのだろうか?ともがくのだ"。
そんなやるせなさにShoyanの歌たちが寄り添ってくれる。

『さよなら以外に』は相手のあるラブソング以上の、自分自身と向き合うラブソングでもあるんだなって思いながら聴いている。


その年の夏、軽井沢のライブで初披露してくれたバージョンとはラストの歌詞が変更になった。
その時は

♪まだ今でもひとりなら 
 すぐにでも迎えに行けること以外に・・・

だったと思う。
(手元でメモっただけなので違うかもですが)

ラストのフレーズが変わって、余計に、更にもう一歩距離がリアルになった。
思い続ける、ということが、何かしてあげてるってことと同じなら、報われないことも尊いのかもしれない。

本当に暖かくて切ない歌、今聴くことが出来て嬉しかった(涙)。

Re-bornはここから始まっていたのかもしれないと思う。ベスト盤の中のボーナストラックのような、不思議な立ち位置の歌だけど、私には肝心要の、想いの底のような大切な歌なのだ。

時々取り出してきて、そっと独りで聴きたい歌だ。
今日は仙台Re-bornなんだな。
イイナァ・・・
おそらく私の生霊(笑)が雨の宮城野に出没しているでありましょう。

こう見えて本当は"追っかけ"とかしてみたいんですヨ。
以前はライブを観に九州にも行ったし、大阪や北海道にも行ったりして、Shoyanのおかげで楽しくて苦しい(謎)旅が出来たことは、今はかけがえのない大切な想い出です。

でも今は、何故か遠ざかるようなことばかりの自分ですが。


さて、、、

・・・・・・

『Musician』を聴く時、いつも謎に思うことがある。
「ひとりだった頃」っていつ?・・・と、リアルに考えてしまうとわからない。
だけど、今の自分だと思い当たる節もある。
そんな心境、私にもあるよ・・・って思う。
歳を取ってからこの歌がすごく好きだ。

変な(亜流な)聴き方かもしれないけど、自分のことのように想う部分と、そんな愛が欲しい共感がうまく調和してる気がする。

"いいフレーズが弾けた自分"のことより、"今夜のpotato saladの出来=パートナーの作業"をまず気に懸ける優しさ、そのフェミニストぶりが、この歌のなんともこそばゆい隠し味になっている。

この世のわずらいに単身切り込んでゆくオトコと、我慢といなしでそれを待つオンナ・・・と、そう歌っている?けど、その実は・・・女性という鏡があってこそのオトコの強さだと、だからそんなカンケイを大事にしようヨ・という当時のShoyanの"気付き"がここにあるような気がする。

(この頃、外見は真っ黒Shoyanだったけど、中身はかなりSweet&Whiteダヨネ^^*)

『Bye Bye』あたり、カラーは全然違うようだけど、表裏一体の対SONGな気がする。

・・・

少し脱線するけど・・・
Shoyanの歌が女性の心を掴んで離さないのは、いわゆるその"癒し"とか"優しさ"だけじゃなくて、歌作りの根底に"女性の母親としての役割を尊重してる"というニュアンスがあるからではないかと最近思う。

それは子供がいるいない・結婚しているしていない以前の、女性の生まれながらの"存在理由"に触れることではないだろうか。

食べるもの・着るもの・嫌なこと・楽しかったこと、眠る場所・叱られる場所・還る場所・旅立つ場所。みんな"お母さん"とともにある。

Shoyanの歌の"女"という引用には、

「お母さんていつも色んなこと抱えて大変だナ」

という、労わりの目線がある気がする。

女性のダメな部分も、強い部分も、母親にはすべてある。
そしてそれは女性なら誰でも内に秘めている可能性でもある。

そこにShoyanの歌はダイレクトに触れてくる。だから聴けばドキッとするし、ふいに後ろから抱きかかえられるような安堵を感じたりもする。

『Musician』だけでなく、他にも沢山そういうことを感じる歌がある。それが男女夫婦のラブソング、あるいは衝突やすれ違いの歌だとしてもだ。

小さな子供がエプロンに突進してくる無心。
反抗期を乗り越えて成長の矛盾を卒業する頃の、「母さん、僕も手伝うよ」という、そのオトナっぽい思いやりの心と、その反面の客観的分析能力・・・
それを感じるんだ。

Shoyanご本人のリアル人生がどうとかいうことは別にして、Shoyanの"女性に対する優しさ・労わりの心"は世の母親へ対する純粋な愛から始まっている部分が大きいのではないかと想う。(一休さんみたいかも!?謎)

モチロン、"マザコン"なんて安易なニュアンスとはかけ離れて、もっと暖かくて深い信頼と尊敬という根源的な意味で・・・ってコト♪

これは今の年齢になってしまった自分の、ある意味、今のひとつの到達点でもあるのだ(謎)。こんなにも年齢年代がShoyanとはかけ離れているのに、何か実感するものがあるのは不思議なことです(*´Д`)。

♪~幼い頃の同じ想い出にあわせて・・・

と、誰もが想うおさなごころ。
それを感じられるパートナーと出逢えたら、最高の人生になるだろうと思う。そして子供が出来たら本当の"ひとり"は消え去っていく。"縦ラインの幸せ"と"横糸の幸せ"を織り込んだ人生、愛に充たされるってそういうことかなって思う。

・・・

この歌の完成度とバランスの取り方って、すごく高いものではないかしら。職人技の極み・檜や欅のしなやかで硬い素材を組み合わせたような、シンプルな木造建築のようだ。数奇屋造りとか書院造りとかみたいな!?

間奏のビブラフォンとかすごくシャレていて、この頃のアレンジって変な小細工もなく、それこそMusician達の腕の見せ所・裸の音だよね。こういう感じの造り・・・好きだナ。今はあまり聴くことのできない、手仕事ニッポン・・・今回音源化された武道館の『Musician』もすごく良くて、意外と?今よく聴いています。

・・・

あの頃、コンサートが終わった後、本当に自分で車にギターケースを詰め込んで帰る独りのShoyanがいた。

座席にではなくトランクだったけど、オフホワイトのXJがカッコよかった。懐かしいナ・・・

1980年代半ばのある2月、出待ちなんて言葉すら知らない高校生の私だった。

「ずっと待っていて 寒かったでしょう?」

って・・・
もうその一言が『Musician』だった。

あの時もらった温もりと、30年以上経って想う今の温度は少しの誤差もなく同じ歌の中にある。そして一番新しい歌の中にも・・・

この夏、そんなこと想い直して何度も何度も好きになることを繰り返す幸せを噛みしめた。ホントにきっとこれからもShoyanの歌大好きなまま生きていくんだな☆

しつこい自分にカンパイ(´∀`)♪
『海辺にて』の勘違いをちょっと書き足しました(^^;)。
♪ぼくから ぼく宛の手紙
 運んだのは 君だけど・・・

この一節の"気付き"がこの歌を作った動機かな?
非常に鋭いワンフレーズ。これを24歳の時に書いちゃうShoyanの感性の管の太さ・・・スゴイ。
でも、このままの感じ(どんな感じ?)で歌作りを続けていったのならば、徐々に案外アーチスト・創作者としての活動が先細りになったりはしなかっただろうか・・・?などと今思う。

私はリアルタイムを知らないから、レコードの曲たちの変遷と、ほんの少しの写真で知るShoyanご本人の見た目の変化くらいしか想うコトの材料はないけれど、『風』というユニット・現象が、栓の抜けたバスタブの大きな渦のように最後の方で急加速して、底の方へ沈んで姿を隠したのは、実は、結果的にはとても"良いこと"だったのではないかと生意気を承知で想像してみる。

伊勢正三という創作者・表現者が"本当のオトナの歌"を作るために必要な、"闇"を得るための蛹化の時期があったのでは?と思う。

Shoyanのような深い感性を持っている人は、それまでにも幼い頃から身の回りにある小さな哀しみや矛盾、疑問や無力さ・に気付きながら歳を重ねられてきたのではないかと思う。でもそれだけ深いということは、それだけ"純粋"でもあったということだと思うんだ。そんな若さの美しさの中で『かぐや姫』の名曲たちは生まれて、『なごり雪』のような凄まじい歌も出来たのだと思う。

かぐや姫や風の初期の頃の歌たちはグラニュー糖みたいなまっさらの白さがあって、クセのないそのストレートさを好む人も多いかもしれない。だけど、それだけで終わらなかったから、Shoyanの歌は息が長く世紀を越えて愛されているのではないだろうか・・・。この『はずれくじ』のような萌黄色の歌から、『夕凪』のような薄暮色へのグラデーションがある。それが今のShoyanの歌の土台・基礎なのかもしれないと思うのだ。

・・・

拒絶とか逃避とか
沈黙とか不遜とか
真摯に生きれば生きるほど
避けられない汚れがこの世にはある

「白いシャツさえ色褪せてゆく」

って言うその後のShoyan。

"不純物"は聴く人の悩みや憂いと惹き合える大切な伝達物質なんだと思う。Shoyanの"その後"の歌にはそんな"強さ"が加わったような気がする。だからこそ、永く聴ける歌がまた沢山生まれて残ってきたのではないかと思うのだ。

La Perrucheのコーヒーシュガー。
不揃いで茶色のキューブ。
カフェオレに入れると白い砂糖とはあきらかに味の余韻が違う。

Shoyanの歌が胸の中で溶けた時、その陰翳が後味になって永く寄り添ってくれるのがわかる。それがとても大切なLOVESONGの理由・・・

・・・

『はずれくじ』は石川鷹彦師匠アレンジで、軽妙でカワイイから、余計にファーストアルバムらしい初々しさを感じる。間奏のシンセ?の音が右左に行ったりきたりして、そういうの、手作り感と遊び心の昔の音作り現場っぽいいナァ(´∀`)と思う。

♪ほら そこにも ほら あそこにも

複数枚が「舞ってる」ってことは、ボク以外にもはずれくじを散らした哀しい人が沢山いるってことなのかな。

"ぼくからぼく宛"とは、恋はやはり自己満足から始まるのだろうか?"君だらけの厚い日記"だけど、日記に記してあったのは本当は"君を好きな僕自身"のことばかりだったのかもしれないよね・・・

・・・

恋の貧乏くじを引くのは得意な私(汗)。はずれたくじはパァっと投げ散らして紙吹雪にもなるけど、貧乏くじはどうにも一生抱えていかなくてはいけないようで・・・(汗汗

でもめげませんヨ。
お楽しみスクラッチはまだ削ってないと思うから♪
何事も日々、勝負!!
「伊勢正三(の歌)は色っぽい」

などと言い出したのは誰だろう? 
(ワタシ?(笑)チガーウ)

実はそう見えて、ShoyanのLOVESONGたちに直接的な表現て案外少ない(と想う)。

>細い肩のあたりに
>泣く君のおでこに
くらいで・・・

濃密なLOVESONGなのにソレが少ないのは何故か?
行為そのものは、それだけでもう終始してしまうから・ではないかしら。Shoyanが歌に込めたいものって"容れ物"に収まるようなものではなくて、もっと自由で、触れたり見たり出来るものだけではないと想うんだ。だから、肉体の作業だけでは容量が足りない・・・
などと妄想してみる。

「夜が短すぎて愛を語り尽くせない」

の方が果てしないよね。

・・・

でも、やはり時々は直球もよいのだ。

『人魚の誘惑』の

~そっと抱きしめて くちづけ交わした

などの部分は非常に珍しく、その分リアルでドッキリする(この頃の歌は共作なので、どこまでがShoyanの作詞なのかわからないけど)。でもこの歌の中で一番好きなフレーズだ。

水谷豊氏のカバーバージョンでは、この部分の詞が変更されていてちょっと残念だ。けれども、、、その分、Shoyanご本人の歌の方がニュアンスが濃くてドキドキする。
HEARTBEATのアルバムの曲たちは"抱き加減"が濃くて、9曲中4曲に「抱」が出てくるのだけど、もっと濃密な「くちづけ」が出てくるこの部分はある意味、かなり特殊なHotSpotだと想う。
同じくちづけでも、北斗七星『サンルームの鍵』の、

~「おはよう」とくちづけるひとときに

のような、鞘に収まった安寧とは正反対の、アヤウイくちづけである。
非常にアヤウイ・・・(悶

しかし、
よくShoyanの歌たちに出てくる男たちの「夢」って何だろう?

"恋心"かしら・・・
いや、"恋心を抱く行為"のことだろうか。

その『サンルームの鍵』で処分したはずの"今まで見たすべての夢"が、またこの頃やしのばれむ・・・?

~とどかぬ(かなわぬ)愛とわかっても

と『夜にまぎれて』あたりと同じ様な欲求をこの頃の前後に感じるのは、何かブームがあったのかなとか、自分がオトナになった今、ヒッソリと想ってみたりする。

・・・

時を湛えた都会の海の、その人波に漂い、まぎれて消えるから人魚なんだね。ひとたび関われば、その肉を食して不老不死になり(怖っ)死ねなくなった八百比丘尼のように、永遠に成就しない想いを抱えていかなくてはならないのかと想う。
その誘惑に勝てるのか否や!?

男の夢が恋することなら、
女の夢は愛されること。

その水深の違いが絶妙なセツナサを生む。
恋の海に引きづり込まれて溺れてみるか?足(現実)のない彼女を抱きかかえて陸の上で生きていくのか・・・楽な方を選ぶのがオトコ。

もてあそばれて悦に入るもの・・・。

・・・・・

歌を歌うはクチビル
ギターを弾くは指
それは愛の交歓のイントロのようだ

楽器を演奏しながら歌を歌う、という行為は、そもそも非常に色っぽいことなのだ。

同じ言葉を同じ音でなぞる時
その唇の動きはあなたと一緒
歌を歌うことは
無限のくちづけなのだ
それは終わらないローレライ♪
・・・と、
そんな妄想は泡になって水面に光り
空に昇ってゆきました 
(´∀`) 。o○

『テレポーテーション』を聴いていたら、このことを思い出したので投稿しておく~♪@2011年
某ギター誌のインタビューで『夏純情』の歌詞が一度、大阪弁になったことがあるなんて載っていたけれど、えー、どこがだろう?どんな風??ウチ、ずっと気になってん。

「ずっと好きやった」とか?「めっちゃ好っきやで」「「好いとってん」「今度逢えへん?」「どないしはったん?」
「滲むハートになるんやし」・・・(;´∀`)

うーむ、私にはきっと大阪弁京都弁その他の地域の関西弁の区別がよくわからないから、想像もできないのだけど、大阪に造詣の深いShoyanならきっとステキな言葉を嵌め込もうと画策されておられたのだろうな・・・知りたい>大阪弁の歌詞!

”大阪城”を歌に引用するくらい、Shoyanの大阪愛は密かに濃くて、なみなみならぬものがあるからね・・・

しかしですね、

見つめたっていいジャン♪
混じったっていいジャン♪

これ、ホントはいわゆる"ハマ言葉"じゃないんだよね。

横浜・神奈川で多用されていますが、ホントは違う。某地方からの輸入言葉であります。でも、いずれにしろ私にはメチャ馴染みのある言葉なので、非常に好きなフレーズであります。まぁ、もうすでに方言の域を飛び出して普通のタメ用語なのかもしれません。
ちなみに、私の好きな方言は・・・

大分弁の「よだきい」です(*´Д`)。
自分にピッタリ合うから(笑)!



『海辺にて』
ISのシングルより

作詞:池田聡
作曲:池田聡
作曲:伊勢正三


♪君らしくないから 
 泣かないでくれ

って、そりゃないゼ…

♪涙をそっと海に帰しておいで

なんて
それじゃ、何のために彼女はこの彼のところへ来たんだろか?

・・・
この彼女、ここへ来たのは昔の恋人に何か行動を起こして欲しい訳じゃなく、ただ、悔しさとか無力さとか、または怒り?の涙を流す重さに耐えられないから誰かに傍に居て欲しかったのでは?と思うのだ。
「キミの気が済むまで泣いたらいいヨ」
って言って欲しかったんじゃないのかな…

そう思えないオトコだからやっぱり"昔の"人なのかな。
そう言ってしまったら、また新しい愛の歌が始まるのだろうに・・・過去には戻れないよってことなのかな。でも、今の恋人とトラブッたからといって、元彼のところに電話して訪ねて来るなんて、それはそれでこの彼女の目論見も計りかねる。

だからこの歌は謎が多い・・・

過去、この二人(もしくは彼だけ)にどんな痛みがあったのかはわからないけど、一度は恋人だったオトコのところに何をしに来たんだろう?この彼女は・・・
許せない今彼へのあてつけなのか、安全牌な元彼に友達として甘えに来たのか、それとも、何か新しい覚悟で来たのか・・・

彼の方も

♪一晩くらいは徹夜してもいい

って
大事な人だったら何時間でも傍に居てやるよって思うんじゃないのかな?
「一晩くらいは」とは、今のこの男性にとっては彼女はそのくらいの存在ということなのかな・・・でも、この歌の場合はむしろ、思いやりの深さとして"一晩"と言っているんだよね。
コノ二人、本当に何がしたいのか謎だ。

これらのモヤモヤは、ISのシングルで聴いた当時から思っていたことで、後年、伊勢正三のアルバム『garden』が出て『Bayside eyed soul』を聴いた時、「コレだよコレ!!!!(>_<))!」
と、Shoyanの描く愛の位置取りに心が震えた。
そしてものすごく納得した。

『海辺にて』も『Bayside eyed soul』も同じ波打ち際なのに、登場人物もよく似ているのに、私はやっぱり「もう僕には失うものはなくて」という、裸の覚悟の方が好きだと改めて思ったんだ。

"今彼と仲直りしたら、また一緒に元彼のところへおいで"

なんて、なんか偽善的なファンタジーに思えちゃう。本当だったら気まずくないかな?(^^;)

※後注
なんてなんて、最初は思ったけど、これはこの元彼クンがいるこの場所ではなくて、ただたんにこの海へ・ってことですね。私はこの元彼クンの地元=海なのかと思って、、そこに彼女が電話して訪ねてきたのかと思い込んでいたのです。
ということは、、、、どこかで呼び出されたか待ち合わせしてわざわざ合流してこの海へ来たと・・・それはそれでなんだか微妙であって・・・・

ただし、この"元彼"との当時のお付き合いが、どの程度のどんなものだったのか、そのカンケイの深さの度合いによっても解釈は変わると思うけど・・・
(そこはBayside~とは根本的に違うかも)

ココロの関係とカラダの関係。
そんなに器用に二人の男性と付き合えちゃう女性もなんだか違和感感じちゃうナ。
「Shoyanの詩作じゃないから」という穿った見方をしている訳じゃない。やっぱり何年もかけて想ってみても、波打ち際の"浅さ"に感じる違和感は今聴いても消えないということなのだ。

でも、キライじゃないのよコノ歌。
ナンギデス ジブン(^^;)

・・・

この歌は脂の乗った当時のShoyanのヴォーカルが前面に出たユニゾンがすごく綺麗で、ファルセットもハモりもあってとても聴き心地が良いし、「錆びも落とさずに放置してるから黴てるかも?」なんて言っていたギターの音色もとてもイイし、ISの4曲は今聴くほうが昔より耳馴染みがイイナァって思う。もっと大事に聴き続けてみたい。

なんだか、今またやって欲しいと思う曲が多い。

いつにもまして勝手書いてしまったケド(汗)
とと、とにかく、やはり比較してしまう機会があると際立つShoyanの"深さ"ということです。どんなにアタマで考えても、作品と言うものは作る人の内面の深さが反映される。アーチストとしてShoyanのパートナーになれる人って、相当の"距離か容量"を持っている人でないと掛け算のパフォーマンスは出来ないのだろうなと思う。
(あと、おいちゃんのような"リミッターの外れる人"も(笑))

・・・

Shoyanの波打ち際は怖い。
広くて浅い砂浜に美しい貝殻が落ちていても、すぐ沖には数千メートルの海溝があるから・・・
Shoyanの海には、ちゃんとそういう本質があるから説得力があるんだね。
"波打ち際"は大事なSceneだから、
つい、他の感性と比較しちゃうな。
どこか生意気お許しを(´∀`)♪
6月はあっという間に過ぎてしまったね・・・
JUN、、、さみしくって~♪




葡萄も青い実がなり始めました
ピノ・ノワールではないのです




メダカでもライズするんです
波紋は煩悶の証・・・



梅雨は長引きそうですね(*´Д`)



プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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