Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
そう、この歌は某ロッテGREENガムのTVCFイメージソングだったのだ。こんなにいい歌がCMソングだったのだ。贅沢な時代だった。1998年、Shoyanももう復活の枷から解き放たれて新たな展開を始めた頃だったように思う。

白州のべるがでの野外ライブが始まったり、この歌を歌う山本潤子さんとのユニット活動が始まったり(その前に池田聡氏とISというユニットも一瞬ありましたね)、アルバムも三枚出して、フライフィッシングという趣味にまで勤しみ、なんというか、落ち着きだしたというか、Shoyanの"整い"を感じる時期だった。

べるがという場所のことも忘れ難い。
私はこの歌は前年のべるがの野外コンサートがあってこそ出来た歌だと思っている。Shoyanはそれまで、都会・街を舞台に歌を作ることが多かった。故郷もそれは都会との距離を測る片翼で、都会と故郷はいつもセットになっていたのではないかと思う。

『緑の季節』は人の縁のない、ただの自然との対峙を舞台にして、しがらみのない"原初の場所"で今何を想う?という問いかけの歌だと思う。

♪この星に降りてきた頃の
 森の記憶がささやいてる

誰が・何が、いつ?
いやそうじゃなくて、生命がこの星に宿った頃・・・酸素を吸って息をする=生き始めたころのことかな?その頃から植物の葉緑素いっぱいの緑の葉が、サワサワと頭上でこすれてそよぐ様子はそのままで今もある。

♪緑の季節は変わらない

って、そういうこと?

そして、、二人が出会って結ばれて維持されていくこの過程においても、その"原初"は変わらないのよ・って彼女は彼に伝えたいのだろうか。

忙しさとは「心を亡くす」と書くもの。
週末の遠出の誘いが「無理」に思えるほど、今の彼、身辺が立て込んでいるみたい。ちょっとだけ冷たかったり、八つ当たりとか、あったかもしれない。だけど、パートナーの彼女は彼の原初である「やさしさ」をKeepしていてくれる。素敵なカンケイだ。口でとやかく言うよりも「不変の象徴」である大自然に連れ出す方が効果的だって解っている彼女は知的でロマンチストだ♪

※そうそう、「彼」と書いてしまったけれど、最初に聴いたときは男女とは関係なく、同性の友達でもイイナと思っていたのだった。そしてもちろん自分自身へのこととしても。

潤子さんのキャラクターにはそういう性差を超えたものがある気がして、それを見越してShoyanはこの歌をお作りになられたのかと思う。

・・・
「川の中に立ち入ると、すぐ隣にいる人の声も聴こえないほど流れの音は大きい。でも、ちっともうるさく感じないのは何故なのでしょう?」

そんな問いの答えが何気なく・・・Shoyanのこの歌の中にある。

せせらぎが静けさだと思えるか、ノイズだと思うか、それとも何も感じないか?それを決めるのは人の心なのだと。しかもほぼ無意識に・・・。実際、せせらぎの音は耳に入っている、でも聴こえているのに心が"そばだたない"時、それがふたりのナチュラル。この自然・天然の境地ってマニュアルや説明書はないのだ。森の言葉に気付ける人だけが辿り着けるものなのかと思う。

♪なぜか都会のざわめきは聴こえない
 僕はまだ独りじゃない・・・
 @『秋の葉の栞』

こちらは緑じゃなくて秋の葉だけれど、これは本当に聴こえないんだと思う。都会の喧騒を凌駕する君と過ごした時間の安らかさ・そして笑い声という彩り。今の彼には「都会どころじゃない」のだ。『緑の季節』と似ていることだけど行方が違う、切ない季節。

『もしかして二人は』には

♪夏の蝉の声がうるさく聴こえるのは 
 きっと自分の方が違う場所にいるだけ

ともある。

けれど、

♪都会の中の孤独な僕らに
 蝉の声が痛みすぎて分かる
 @『夏の沈黙』

と、都会の中でも自然や季節の無常を感じることができるなら、とShoyanは提示してくれる。

これらの曲は「二人と独り」「ナチュラルと不自然」そんな問いのニュアンスが濃いように思う。そのことはこの後『garden』に至るまでねじれ現象を起こしながら撚られていくのだけれど・・・garden以降なんとなくShoyanはその件について保留になさったというか、引き出しにいったん仕舞われたような気がしている。

(もはや自分で何を言っているのかわかっていない^^;)

そしてソレハ、Re-bornで超新星爆発した(と思う)のだけど、またそれはいつかそのうちに・・・

・・・

人の膝くらいの流れでも、もう充分に歩けないほどそれは強いチカラ。川は、源流のその一滴から河口の海に至る場所まで、上から下まで同じパワーで動いている。

若い頃だって、歳を重ねてからだって、時の流れの抵抗は同じなはずだ。22年も経って今年もまた聴いているこの歌に「変わることと変わらないことは同じなのよ?」と励ましてもらっている。

本当は変化に富んだ大自然。嵐で荒れた山、崩れた崖、朽ちた遊歩道。空き缶の埋もれた源流の岸辺。美しいばかりではない現実もそこにある。だからこうやって互いに互いの心の静けさに向き合い・ケアしあえる関係を持続更新しながら築いていけたら素敵だな。


何億枚もの新芽も落ち葉も、みんな一つの山になるんだ。その中に一体何万色の緑色を見つけられるか・・・毎年そんなことを想いながら聴いている一曲です。


追:
そういえば、復活後のShoyanがあの真っ黒サングラスをはずして、初めて素通しの眼鏡でステージに立ったのはあのべるがのコンサート初回ではなかったかと、、、そんなこと思い出したのだけれど定かではない(;´∀`)。(もうほかの地方ライブなどでそうだったかもしれないし)

Re-bornでは皆無なこの"土の匂い"(それがまたいいのだけれど)。『緑の季節』とは今一番離れた極に来ている気がする。もう少しで背中合わせになりそうな・・・Shoyanの中の自然と不自然?が混然一体となるその時を私は感じたい。Shoyanが歌を作り歌い始めてからこんなに年月が経って、こんなにも先が見えない今。

♪何気なく過ごす毎日が
 とても大切な時が来るわ

本当に、そんな毎日が今この時だ

だけど、だから、、私は今、伊勢正三の歴史の底から水面を見上げるような気持ちで待機しているのだ。



聴く度に静かに優しい涙がふわふわと溢れてくる。

由紀さおり氏と安田祥子氏の桜色の声が重なって、柔らかい慈愛に満ちた最高の歌だと思う。
ママのモノローグが辿る家族のひとときの積み重ね。平穏に大切に過ごしてきた夢の時間。それが今、娘の結婚という分岐に来た、その立ち止まりの凪の時間を想う。

女の子が、女の子として大切に育てられてきた正しい安穏。たとえ聴く人の我が身にそれがなかったとしても(男女や年齢の区別もなく)、まるで自分のことのように愛を受け取ることができる慈しみのラブソングだ。
Shoyanの瞳の深い美しさを思い知らされるのだ。母親より母親らしいそのまなざしは、万人を癒すものだと心底思う。

・・・

いつだったか、由紀さおり氏がインタビューでご自身に重ねて「子供を持っていなくても母の心にはなれる」とおっしゃっていた。十年以上前のその言葉に、私はまだなれなくて、尊敬の念を持ちながらもどこか心の隅に置いておいた。けれど、、実際に自分も随分年を重ねて、母どころかおばあちゃんにもなれそうな年齢になってきたらそれがわかるようになった。特に、去年、そう強く解ることがあった。

以前少し書いたけれど、子育てをしたことがない私がするお義母さんの介護は、(初期からの辛い出来事も含め)本当は神様からのプレゼントだったのかもしれなくて、今は最後には私にだけいつも見せてくれたお義母さんの笑顔が思い出される。

自分が産んだから育てるのではない。そこに自分の愛が必要なのだ・と確信するから愛するんだ。だから、男性である伊勢正三という人が作った歌でも、真の母の愛になるのだ。

ただ、その"愛の確信"の証拠というか、カタチ・原因を今まだちゃんとここでは説明出来ない。私の生涯の研究テーマなのです(*´ω`)フフフ。シバシマタレヨ。

っと、脱線したけれど、この歌は伊勢正三のラブソングチャートの、"ある方向"においてかなりの高得点ソングじゃないかと思っている。

・・・

♪下校時間のチャイムと
 ウエディングベルの響きが・・・

このShoyanの耳。

ママが迎えに行くような学校だから、おしとやかな・女子校なのかミッション系なのか、その辺の野性的な公立校(スミマセン^^;)とは違う特別感があるけれど、そのチャイムの音はやはり教会の鐘の音とは違う電子音のチャイムだと思うのだ。だけど、今この時の母親の胸の中では完全にクロスする同じもので、ママの中に在る娘との"永遠時間"の存在をじんわり実感する。

他の女性歌手が歌った『転校』という歌のなかでも

♪遠くから聴こえる野球部のエール
♪白墨が折れる音 現実に戻る音・・・

など、

音は目に見えないものだけれど、記憶の中の風景とは同じ素材で出来ているのかもしれなくて、今は目に見えないもう一つの世界と今を繋ぐ役割があるのかもしれない。Shoyanはいつもそこを敏感に、わかりやすく置いておいてくれるので、ハッとしてなおかつこれまた我がことのように追体験が出来るのだ。(意外性と親近感のふり幅が、聴く者の心のキャパを拡げるのです)

♪パパはまた煙草を吸い始めたみたいよ

女子たちの世界にここで「パパ」がポツっと開ける小さな窪み。結婚して、子供が生まれて禁煙した男性。(バルコニーで休日してた?)パパの役目をひととおりこなし終えたらチョットだけオトコに戻る彼が素敵なのだけど、、、だがしかし、実は数年のうちにもしかして「じいじ」としてまた禁煙するのかなって思ってウフフと思うのだった。幸せというものは役割を変えて降り積もっていくものなのかな。

「ゆめのかたち」とは=イコール「家族のかたち」かもしれない。「♪彼のために尽くす」ことがそうなのだとしたら、ゼロからのスタート。それを経験者であるママは優しく傍観するのだ「ここ」で。

自分ひとりの中に在る夢は自由自在に変えていける。でもふたりで出力しながら作り上げていく夢は「カタチのあるもの」で、それは自由ではなくて、むしろままならないものかもしれない、でもそこに気付けたら・・・ずっとふたり(+子供や孫?)で歩んでいけるのだろう。

「♪今 友達として」というママの心境。単なるお友達親子ではなく、このあと娘ちゃんが子育てなど始まったら、キット"戦友"みたいな更なる絆を持てるのかもしれない。母と娘の特権ですね(^^)。

私は、この歌を語る資格はないのかもしれないが、でも、癒される資格はあると思うので、何度も何度も愛されるために聴く。

ママの膝のぬくもり、部屋のドアの中の女の子の香り、パパの煙草の匂い、ベルの響き、、色んな五感をくすぐるブーケに顔をうずめる心持ちです。

・・・

どこかジョビンの音のようなメロディーの階段を昇り降りしながら、Shoyanご自身の愛のバックグラウンドの寛さを、心から敬う気持ちで聴いているのです。


春に通販で買ったセッコク。
品種名は『イセ』!

(*´Д`)ぅぉぉ

それが無事に咲きました。
なんと品のある素敵な白花でせう。
『イセ』という名前だけで衝動買いしてしまったのだけど、この小さな蘭の花の佇まいは非常に好ましいもので、虜になってしまいました。(実は他にも『コウセツ(香雪)』という品種もあったのでいつか揃えたいです(野望))

伊勢に惹かれすぎ自分。
伊勢神宮にもいつか行ってみたいと思いながら行けてないし。一生に一度くらいは詣でてみたい。本当は母のお腹の中に居たころ両親といったことがあるらしいのですが、ちゃんと生まれていないので一生中ではないですネ(*´ω`)。いつか改めて・・・☆(昔は父が出張帰りに買ってきてくれる赤福の中の”伊勢だより"も大切にとって置いたりしました(笑))

以前、Shoyanが伊勢神宮方面を訪ねる旅番組があったような気がするのですが、伊勢の語源が「磯瀬」なのでは?という内容が興味深かった。やはり海カンケイなのだ~♪

伊勢志摩の海、綺麗だろうな・・・
大分の海も・・・

海、行きたいな・・・涙

しばらくは東国で小鉢のイセの白花と戯れて我泣きぬれておる毎日です。



右は5年育ててる万里紅。
氷点下でも戸外で冬越し出来る、素晴らしい日本の蘭。
おっと、また脱線園芸日誌になってしまいました(汗)。







サヤエンドウの白花を見ていて思い出したのだが、アルバム『時のしずく』の歌詞カードの『A Girl of 14teen Summers』のページには豆の花のようなアートワークがある。

当時これを見た時に「?」と思った。
花の絵ではあるが、なんか、絵柄は可愛くないように思える(スミマセン)。しかも女の子の歌にどういう意味付けだろう?って。

メンデルの法則?遺伝的なコト?じゃ、やはり娘ちゃんのことを想うパパ目線?などなど、思ったのだが、それはやはりそうなのだろうと思う。

人は14歳の頃に聴いた歌を一生好きでいる・という説があるそうだ。まさしく、まさしく!本当にそうだ。自分が中学二年の時にShoyanの歌に出会い、そこから一日も欠かさず一生聴き続けているのだから、その説は正しい。(一生”中二病"の私だけかもしれませんが(笑))

・・・

その頃・・・自我の蕾が開きかけてきて、外界と接触した時にその"無垢"は初めてのことに過敏に反応するだろう。恵まれた家庭の環境や、幼いころから蓄えた感受性を後ろ盾に、最初の勇気を覚えて臨む季節。

だが大抵の14歳はここで泥まみれになり、みっともなく敗れ、無力を知ってペチャンコになるだろう。でもそれが向上心を得る源なんだ。そして"友達"という家族以外の絆に気付く頃でもある。自分のチカラは自分だけでまかなえるものじゃないってわかって、もっと大きくなれるのだ。

中には恵まれすぎて、温室のなかの世界の珍しい植物たちに囲まれて満足している夢の花もいるかもしれないケド♪

・・・

♪悲しいときは 話してごらん

ここが一番好き。
どうしても、自分一人で何も出来ないもどかしさ、無力さ、理不尽、、それを先達に打ち明け・受け止めてもらうのは恥ずかしいことじゃなくて、大人びた素直さを得る老成の予行演習なのだ。

パパじゃなくても、兄でもよかった、私にも少しだけ先をゆくやさしい誰かがいてくれたらなぁ、と今でもさみしく思うことがある。14歳の頃は幼い妹二人と耐えていたなぁ自分(*´ω`)。祖父母と父母4人で全面バトルしていなくてもいいのに(笑)。

だから、『時のしずく』でShoyanがこういった歌を作って歌ってくれて、本当に嬉しかった。後からやっと自分も甘えることが出来たような気がしている。

・・・

実がまん丸に熟すとサヤが弾けて、豆は知らない場所へとはじき飛ばされる。その弾ける気持ちを忘れたくない。

どこへ飛ばされようと
どこで芽を出そうとも
自分の種からは
やはり自分が生まれるのだから
どんなことがあっても
そのままでいたいと想う

Shoyanの笑顔も何十年も変わらないネ♪

サングラスの奥のPaleBlueの優しいまなざしは、ふんわりと、いつまでも少年のままで・・・。
♪Taxi停めるまでは 
 二人になれるのに
 貴方はテーブルで見送るの・・・

なんという恋愛CPU!
どんな微細な機会も逃したくない、その恋心の高速回転!

女心の計算の極致を男性的な狩猟的勘で動かすと、こういう視点でその数分の心の機微を言葉に出来るのだな・・・。

この『昨夜の出来事』。
知ったのは2000年頃のことだけど、元々は1990年の曲だったのだ。道理でとても惹かれるワケだ・・・。その頃の自分は一番ザワザワしていて好いも悪いも両極端だったから、若気のココロにマッチしていて"自分年代"な歌だと思える。とても珍しい年代感なのだ。

この曲のアレンジが意外にも?石川鷹彦氏で、その割りにとてもお洒落でポプシカル♪甘酸っぱいキャンディーみたいな歌だと思う。そういうところも好きだ。

佐田玲子氏が白鳥座だった頃、シングルレコードを買ったことがあって嫌いじゃなかったので、氏がこんなに素敵なShoyanの歌を歌っていることに感激した。

何度繰り返して聴いても軽やかで好ましい。こういう明るい曲調の切ない歌は。本当にShoyanの歌の真骨頂だと思う。こんな1990年頃という、Shoyanのご活動の歴史の上では少し複雑な時期の歌だけど、"永く聴ける歌"として今だってキュンとする歌だ。

・・・

そう計算しておいて

~ついあわてて選ぶドレス
 いつも貴方の隣に似合うつもりで・・・

~もっと強くナゼ激しく
 問い詰めないの?
 今の私の気持ちを・・・

なんて、すでに翻弄されている女心が可愛い。そしてセツナイ。恋愛のパワーバランスは不思議だ、中庸というものがない。

男はいつも席に着いたまま立ち上がりもせず、視線だけで女を動かす。女はいつも声さえ訊かずにその先を想像して右往左往・・・

いつしかその先に

「可愛い奴だナ」

と想ってもらえるか

「ウザイ女だな」

と視線を逸らされるか

どうもそれって紙一重な気がする(汗)。

この彼女、器用に立ち回って技巧にはしろうとしても、すでに自分の気持ちが理屈を超えていることに気付きながら悔しいのだろうね・・・

オトコナンテ オトコナンテ (>_<)

※だがしかし、思わぬパラレル癒着が起きて、この彼女の横にもっとイイ男性が現れて、あっけなく彼女のホントの幸せラインが分岐して去っていく可能性だってあるのだ。

「なりゆき」とか「自然」なんて幻想なのだ。彼がユラユラ楽しんでいる吊り橋は、まだ釘を打っていない未完成なものなのだと思うと、聴いている側としてはハラハラとしてしまう"冷たい風"なのだ。

・・・

~時がさらさらと 
 そのシュガーポットに
 こぼれ落ちてゆく砂時計・・・

Shoyanはちょっとしたテーブルの上やキッチンの小道具や身の周りのものを比喩に使うのがとても巧くて、その視線の近さや捉え方の深さにいつも感動するのだ。

他の歌だけど

~ミルク溶けない冷たい紅茶
 かき混ぜるようなわだかまりなの・・・

など、提供曲などは余計にそんな部分がピックアップされるようで、つい何度も細かいところを楽しんで聴き込んでしまう。Shoyanのこの視線と感性は、"日常"の中にいかに色彩を見出すか・のお手本で、本当に暖かい芸術なんだ。

ちょっとした、ほんの昨夜の出来事。
こういうサラリとした一場面が意外と後々まで心に残るものなんだね。

※歌詞カードが手元にないので文字は正確ではありませぬ。ご容赦。
全然関係ない話題です。

今放送中のNHKの朝の連続テレビ小説『エール』は、初回にナゼかよしだたくろうの『ある雨の日の情景』が引用されて驚愕したのだけれど、回が進むとやたらと"かぐや姫"という単語が連発して、更に"離婚歴三回"って言葉まで出てきてニヤニヤしてしまう。なんかね~、なんかね~、、、、

このドラマは、前述した福島の大偉人作曲家古関裕而先生ご夫妻をモデルにしたものなわけだけれど、私が福島に住んでいた頃はちょうど1969年~1974年で、Shoyanがかぐや姫してた頃とちょっとリンクなんです。

懐かしいフグスマ弁と大正浪漫、詩人と作曲家の幼馴染みの友情、ただの伝記ではなくて"音楽"の根本的な在り様を見せてくれる楽しいドラマであります。

ただ、来週は私の神さまのひとりであった志村けん氏の最後のお姿登場ということで胸が痛みます。(涙)

励ましと別離を同時に表すことのできる"音楽"というものの、凄さと切なさをもっと感じられたらいいなと思いながらここのところ過ごしています。

この今が「世界が変わる」ということなのかな、と考えながら・・・

この歌は私にはスペシャルなオトナの絵本で、あまり理屈は考えないで、夢想的な心地好さに心を委ねてしまう。色々考えることなど出来ないのだ(放心)。

満月・湖・森・ジャンクション・君をさらってく・夢に見た聖域・・・これらのパラダイス理論(謎)というか、Shoyanの音楽の背景にいつもある、原初の場処なのでは?と思う。いつも憧れている"罪の無い森"なのかなと思う。

しかも、

♪その素肌を
 今そっと抱いて願い叶える 
 未来という湖で
 信じるままでいい・・・

うおっ!エロい!!!
「素肌を抱く」よりも
「未来という湖」がめちゃエロい!

"エロス"というものは、物事の根源的なパワーで、また回帰出来る安穏でもあって、成就と後悔・男と女・脱ぐと纏う・アナタとワタシ・好きor嫌い?のように極と極を融合させるチカラだと思う。(※個人の感想です)

キミの中に在る?「未来という湖」に、果たして"底"などない蜜の湖にわが身を投じるという、、、そのオトコの"決"がスゴくセクシーなのだ。

しかもそれが、

♪この手は離さない
 ずっとずっと 守り続ける・・・

だなんて、なんて"純情"!
このエロスと純情の二本立てはまさにShoyanの必殺技で、もう、紅潮と胸キュンの波状攻撃に参ってしまう。

たった今の孤の自分を捨てて、キミと未来へ、ふたつをひとつに溶かし合って新しい愛の塊になって永遠に・・・という生まれ変わり=Re-bornの物語は、すでにここからも始まっていたのだなぁと、今つくづくと想っている。

・・・

今回、「麗しく流れ落ちる金色の雫を纏うヴィーナス・虹色の霧に包まれながら・湖水はクリスタルブルー・などなど」とても解り易い説明が多いので、舞台の色どりをイメージしやすい、なので絵本なのだ♪

でも、一方で「見つけられないHamlet・恋はアセンション・夏が過ぎた秋も緑あふれる森~緑の秋・君とspirit away・満月は湖の中に沈んでる」~などという新しいフレーズも沢山投げ込まれていて、ココロをピリピリっと攪拌される。

攪拌されると謎が深まる。それは歌を解き明かす時間が伸びているということで、とても幸せな時間が得られたということなのだけど・・・解らないことは嬉しいことなのだ!

この、豊かで深くて濃いぃ世界を今味わう醍醐味を言葉だけでレスポンス出来るのか?と、もどかしい思いで長い時間が経ってしまった。

言葉って時に虚しい。でも「言葉では言い表せないほど」なんて安易に言いたくないので、もっともっと視えたものをハッキリと心に刻みたい。
でもでも・・・?

もしや、枯れない言の葉・紅葉しない言の葉があるのだろうか?言葉にしない以前の言葉がもしかしたら、永遠の緑の言の葉かしら・・・?

緑の秋の森の樹々は単なる常盤木ではなく、うつろわない季節の落葉樹、落ちても落ちても芽吹いてくる止められないキモチなのかと思う。

・・・

満月は欠けない月、終わらない時の象徴?
哀しみの意味や脱ぎ捨てるものに気付いたら、満月は気付かれずに沈んでいる。気付かれないのなら欠け始めることはない、未来という湖の中に沈んでいる満月は永遠の成就なのだろうか。そして完璧という出発点なのだろうか。誰にも気付かれずに一つに溶け合って満ちているなんて、なんて素晴らしい刹那サ、なのだろうと思う。

恋人たちの気付きと気付かれない事項の交錯も面白い・・・と、またこの後のRe-bornと併せ思いながら聴いている。
Shoyanのこの”リアルなメルヒェン”の世界、これからもコレクションしていきたい。色と季節の関係を楽しみにして、まだこれからも新作・続編を待っていたい。
こんな今だからこそ欲する"夢"を、もっともっと!と思う。
私の湖の底にはおそらく新月が沈んでいると思われるが、そこでまた約束の無い夢を待つもよし、なのだ。
今のところ、外は荒んではいないようだ

だから、世が終わるのはまだ先のようだ

その前に"夜"が終わることを願う
外はスーパームーンだという
なんと濃い月影!

だが今は蒼い服を着て有縁の街に行ってはならない、戯れ名は命取りだ・・・

・・・

HIRO氏の『祈り』がヘヴィロテである。背筋がゾクっとする。

この歌を聴いたとき(読んだとき)あまりに階層が深くて、どこに自分の支点を置いていいかわからなくて、感じたことが感じすぎて言葉に出来ず、曖昧な感想しか書けなかった。とても後悔している。早く、今想うことを書きたい。この今こそなのかもしれない。

でも、私がその時感じたままに、世はこの歌をなぞって流れている気がする。

怖い。

Shoyanご自身は今、何を想っていらっしゃるだろうか。もうすでにその先へ漕ぎだされているのだろうか。月を見れば、置いて行かれるような気がしてさみしい・・・
輝き過ぎている月を見て

祈る?
願う?
想う?
逃げる?

物質的に触れあうこと以上に、心で愛し合う時がいよいよやってきた。

人の心が人には見えないのは、心はそこに無いからなのだ(後述)。なのに「心で愛し合う」とは?
命に係わる恐ろしい出来事の中で、それがよくわかってきた。またその反面の、愛のない人のどうしようもなさ・も。

怖くて怖くてどうしようもない事態なのだけれど、Shoyanの歌たちで透かして見ると"真実"の方が明確に見えて、冷静でいられるんだ。

楚歌の逆を想う、そんな心持ちでここ数日過ごしています。

※今日は凄まじい満月で、言葉がだいぶ回っているかもしれません。お許しを。

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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