Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。
実は、今こそ歌って欲しいと思っている歌がある。
『お前だけが』をまた聴きたいのだ(涙)。
Shoyanご自身にとっての唯一の『お前』って、”歌”そのものだったのではないか・と最近特に想うのです。Shoyanはずっと音楽と対峙されてきて、それは向き合ったり体現したり、本当に”音楽と言葉”が一生の存在であると、聴き手の私の目からはそう視えるのです。
きっと途中で休憩されていたような時期でも、それは音楽と離れたのではなくて、むしろご自身の音楽を大切にするが故の世俗からの隔離だったのではないかと今思えます。だから、休養でもブランクでもドロップアウトでもなんでもなかったんだ。むしろ濃すぎる”それだけ”の世界にいらっしゃったのではないかと思います。(また勝手に妄想してゴメンナサイ)
他から評価されることより自分の中の音楽を信じて大切に守っていたShoyanのスタンスが素敵だなって、(その頃はファンとしては寂しい知りえない時間でしたが)今出ている結果を見れば心の底からよく分かったのであります。
なんとなく、、、閉じこもりがちの自分もこれまたシンパシーなのであります。
沈黙とは最大の能動なのだと・・・
・・・
音楽という存在がいつしか虚構の偶像のようになって、その人(作者)を縛ったり目を眩ませたりすることも多いと思う。どんなに大ベテランの・ヒット曲沢山の・大御所なんて言われるアーティストでも本当にやりたいことを表現して残して聴き手に喜びを与えて、作者と音楽と聴き手が相思相愛の三角関係(!?)でいられている例って実は少ないのではないかと思っている。(先日の某たくろうさんの最新ドキュメンタリーなど拝見して余計にそう思った。間に入る存在のなんと多いコト、そしてそれらのなんとあやふやなコト、、、そして幾重にも纏った自己防衛の衣を。)
伊勢正三というお方・シンガーソングライターは、作詞・作曲・編曲・演奏・声・ビジュアル・発言・聴き手との信頼関係という、その”音楽の全方向”が隅々まで最高に充たされている稀有な存在でいらっしゃるのだなとつくづく感じる今年だった。
そう思って聴くとしっくりきちゃう『お前だけが』なのだ。
もしかして、声の具合やKeyの高さ低さで今お歌いになるのは難しいのかな、ということもあるかもだけど、機会があればまたぜひとも聴いてみたい気持ちでいる。
この東大阪が今年の総締めくくりになるのか、また新しいShoyanの次の世界が始まるのか、はわかりませんが、双方に幸せな時間であることは確かなのではと思います。充実のリハーサル~本番になりますこと遠くから祈っています。
いつも祈っているばかりの私(*´▽`*)ワハ
一番遠くから愛を込めて☆
ですが、
私はまだ先日のLIVEを引きずっております。
『さよならの到着便』は、自分でも聴いた当時の想い入れが深く、先日久しぶりのShoyanご自身の歌唱とギターに触れて想いが爆発してしまいました。クリスマスが近いということもあり、まだ抜け出せません(/ω\)。ゆえにまた駄長文です。
でも、とても切なくなってスゴク良い気持ちになっているのに、今の年齢になってこの歌のことを考えたら長々と脱線したようなことばかり考えついてしまいました。人間がスレてしまったというか、、、おバアさんになってしまった全然ロマンチックではない私の頭の中をお許しください(冷や汗)。
だって、この歌を初めて聴いた時はまだ24歳だったのです(T_T)。ナンテコッタイ
♪時はなぜ過ぎてしまったの・・・
が身に沁みて、、、
でも、今でもカッコイイShoyanに倣ってフレッシュな心でいたいと、、、サンタさんにお願いしておこうと思います☆
(そんなところは幼稚ですね(笑))
今回、かつしかのステージでのサワリだけ〜関内ホールの弾き語り、でそのパフォーマンスがあまりに切なくて心震えてしまい、暫く茫然自失でさみしさの渦の中にいたのですが、、、
※ゆえにフリーズしてしまいました(汗)。
改めて想いまくって考えまくって、その先にフトこの歌の不思議さを再認識したりする。
つい最近まで”新曲”だったけれど、もう31年の時が流れていた。
1993年『海がここに来るまで』で初めて聴いた時、なごり雪の派生曲なのかなと思った。汽車で去ったキミは飛行機で還ってきたのかと・・・
その感触は今でも変わらない
ただ、君の指を見て=指輪がない、ということは=この彼女、住む場所も変えたし他の誰かと結婚もしてた〜更に離婚までしてきた〜しかも東京に戻ってきた〜しかも元カレに連絡しておる!←イマココ
ということが今聴くと改めて生々しい。
なごり雪は”僕と別れて東京ではないところへ去る”という事実だけなのに、この歌の場合、「時はなぜ過ぎてしまったの」の「時」の中身が盛り沢山過ぎて有り余るくらいなのだなと改めて思った。
・・・
とその前に、、、
♪冬の桟橋は灯り消えたクリスマスツリー
って、どんな情景なんだろう。
船も着岸していない、人影もない、きっと観光用の桟橋ではない荷下ろしや海上保安関連の閑散とした業務用桟橋なのかな。もう30年も前の羽田のことを思い出せないくらい時が経ってしまった。だから、史実は詳しい人に任せるとして・・・当時私はこういった言い回しにガツンと心掴まれた。後の「ストロボの電車」「ステンレスの湖」みたいな、アタマじゃなくて感覚的にわかる光景がさすがShoyanのフレーズだなって思ったっけ。
♪ 工場の煙 螺旋の倉庫 淀む運河 を見て
ふっと懐かしいため息が出るなら・・・
これは、彼女と再会した今、フト空港の外を眺むれば目に入る現在の景色?普通では味気ない景色。リクリエーションの欠片もない。でも彼女が目の前にいると途端に意味のある景色になる。
♪貨物船ばかり浮かべた港だって
君とならいつまでも
ロマンティックな夜だった・・・
本来なら無骨な・風光明媚ではない京浜地帯の工業的な眺めや、化学的な人工物ばかりの風景が想い出のデートシーンだという部分は、Shoyanが逆説的に(天邪鬼に?)セッティングした技なのかと思うけれど、私はこんなところに連れて行ってくれる彼氏イイナと想っていた。
工業地帯の灯りや倉庫の建物群の眺めや夜景がエモいと人気が出てツアーまで組まれるようなご時世より以前に、ここに着目してロマンティックだと言い切ったShoyanの目の付け所にグッときた。
しかし、、、
彼の方は彼女さえそばにいればどんな景色だっていつまでもロマンティック、と思っていたかもしれないけれど、彼女の方はその時どう思っていたのかな。。ここに一抹の不安が隠れている気がする。
その後の「さよなら」を言わされてしまった彼女。今せっかく再会したのに、彼が運転する車に乗らないかと誘ったのに、モノ=monoの一本レールでいいという彼女。しかも笑顔で・・・
「私は東京に還ってきたけれど、アナタのもとに還ってきたのではないのよ」と念押しするために到着便の時刻まで教えて彼を呼んだのかな?その有り余るほどの”過ぎてしまった時”の先に・・・
その思惑やいかに・・・
彼が示す当時の思い出語りの無機質風景があまりに個人的想い出で切なく、また今の複数の交通機関の無機質な物質運びが人の心を置いていくようで、
ラストの
♪君はまだ気付いてくれない・・・
と締めくくるから、メチャもどかしく煩悶する。届かない想い、伝わらない気持ちが我が事のようで哀しい。
しかも、あまり現実的ではない(ある意味劇画チックとも言える過剰演出の)首都高で並走するほど粘着質ギリギリな彼。だけど彼女の方は「気付いてくれない」のではなくて「気付く気がない」のだから・・・やっぱり無理なのだこの恋は・・・泣
モノレールと首都高は平行世界なのではなく、未練の別次元なのかなと思う。
※でも、彼女チョットやり過ぎじゃない?
彼、期待しちゃってたよ?^^;
彼の言う♪忘れたはずの言葉〜とは「一緒にいたい・離れたくない」というコトだったのだろうか、けれどそれは贈ることが出来ない未遂未満の贈り物だから”悲しい贈物”なのだきっと。それは今、彼の助手席のシートにちょこんと置き去られて彼の横顔を見つめながら首都高の継ぎ目で揺られているかもしれない・・・(哀)。
・・・
この曲を聞いた当時は
『モノレールはこの先芝公園のところで首都高と交差するではありませんか』
と思って、少しはこの二人の未来が重なる目もあるのかな・なんて希望的観測もしてみてた。だがしかし、それは未来ではなく今現在のこの到着便のロビーラウンジの邂逅の一瞬だけのことだったんだと、あとから気づいてまた哀しい。
31年経って、人の心のどうしようもなさを感じる身としては、こんな彼女とっとと諦めて、もっとマニアックな恋人探しなヨ(*´ω`*)と、彼の肩を叩いてやりたいし、彼女の方にも都会で自分のやりたいこと探して貫いてくださいっ、って激励したい気持ちだ。
・・・
窓の外の駐車場に降りる粉雪は、冬の初めの儚いイントロダクションとして降りてきていた。だから、やり直しできるのかなと思っていたのだけれど・・・そうじゃなかった。粉雪はほんの一瞬見えたあの頃の幻だったのかもしれないと今は想う。
エンディングアウトロの最高艷やかなShoyanのファルセットのスキャットに続いてギターソロもダントツの美しさを放っていて、煌めいて儚くてそして強い。アルバムの歌詞スリーブにはMartinD45のヘッドの写真があって、その印象がとても濃い(実際のレコーディングで使用されたのはどのギターか知りませんが)。そして全編またメロディーが美しい。サビなどその長く伸ばす部分が本当に無理なく言葉にフィットしていて、そのフレーズが尾を引いて連なりあってるみたいだ。濃灰色の都会の上空に吹雪く真っ白な粉雪が、閉じたまぶたに冷たく沁みるようなその感覚でずっと聴いていたいと想う曲なのだ。
「淀む運河」や「駐車場」など、この曲は美しいアイテムや風景は一切出てこないのに美しいと想う不思議な曲。美しいから印象が変わらないし色褪せない。聴くものがまるでその歌の中に入って追体験している臨場感が変わらないのだ。
Shoyanがよくおっしゃる”映画のように・カメラワーク的に”ということが如実にわかる一曲です。
空港と首都高とモノレールと・・・人々は行き交っているのに心が行き交えない切ない二人の行く末を、またこれからも想い巡らせながら聴いていく今年の冬です。
追
※この彼の行動や、いつまでも思い切れないもどかしさ切なさに、私は個人的にとてもシンパシーを感じていました。そういう部分が自分にもあるとそう思いながら長いこと聴いてきました。
聴いた当初は到着した(帰ってきた)のに「さよなら」なんだと思って悲しかったけど、そもそも最初から「さよなら」が搭乗していて到着した(トドメを差しにきた)=『さよならの到着便』ということなのだと今になって思う。
哀しすぎる。
当事者の気持ちになるとやはり辛すぎる。
傍観者として聴くのが一番良いような気がしています(*´ω`*)タメ息。
1990年代に自分で撮影した唯一残っている羽田空港の写真を古いパソコンから発掘してきたので載せておく。
いくら古っぽく加工しても
写っているものは2024年(@_@。
ここに長文を書くことはこの上ない喜びで、私の命そのものでありました。私は想うことで生かされてたんですよね。
だから、それはいわゆる『エネ当た』でクッタリ放心していたのだなぁと、今頃になって苦笑している次第です(*´∀`)。
がっ!
おそらく紅白繋がりでと思いますがサマピ話題でイルカ氏の紹介があったのに、全然Shoyanのことに触れられず、VTRでも手だけっ!!"(-""-)"遠景にも映っているのにっ"(-""-)"、かぐや姫の白黒写真が出てもメンバーには言及されずっ、しかもしかも、サマピゲストの一覧ではその他扱いっ(-_-メ)、名前も出さないとは許せんっ。
もうNHKではなごり雪歌唱禁止レベルだ!~~
と、ひとりで憤慨していたのでした(笑)。
↑手だけっ!!?
(おいちゃんの桜ギターを借りていらっしゃったはず)
”正三の肖像権”的なこと?で、紹介も確認できる映像も出せなかったのかもしれませんが、なんか腑に落ちない。
おいちゃんのトークや大分の海の映像がとても素敵で面白かっただけに、この中途半端な内容がちょっと残念だったのでした。
先日の武道館サマピにもShoyanの出演はなかったし、、なんか、そういうこと??(どういうこと?)
21世紀令和の世になっても、歌は歌った人だけのものなのでしょうか。
と、冷え込む気温と裏腹に頭に血が上っている七氏でありました。
※本当はテレビの画面もUPしたらいけないと思うのですが、、、あとで削除しまっす。
・・・
この曲はイルカ氏がカバーしたのではなく、イルカ氏のために書き下ろした歌ということで女性が歌うことを意識しての柔らかな表現「ぼく」と平仮名なのかと思っている。
しかしそれを近年Shoyanご自身がセルフカバーされるようになって、「僕」と漢字にして音源にして発表してくれたことで、歌の素顔にまで届いた気がしてとてもとても嬉しかった。
聴き比べるとわかること・・・
イルカ氏の歌は往年の少女雑誌の読み切り連載を読む心地で
「この漫画短編凄く切ないのよ、、、」
などと、放課後に部室で読みまわすような雰囲気があるようで、それが優れたストーリーテラーとしてのイルカ氏のキャラと相まって親しさを感じるのかもしれない。
※この頃のベースラインの贅沢さよ・・と思います(T_T)。編曲は『神田川』と同じ木田高介氏とのことで、この少し速いテンポもシングル化を意識してのものだろうか。
いま改めてイルカ氏バージョン音源を聴き返したら、Shoyanご自身が歌うものとは全く別物の曲に聴こえるほどだ。先日の関内ホールのなごり雪でも感じたことだけれど、Shoyanが歌うと音と音の間にある想いの音が多くて、想像もつかない情報量だと思うのだ。
(どちらが良い悪いではないですヨ)
Shoyanバージョンの場合は”我が事”として聴いてしまうのです。
見え方が全く違うからかな。
飛び出していった側か、独りコーヒーを沸かす側か、いずれにしろ同じような心の擦り傷を持つ者が感応してしまうものがあるような気がする。
Shoyanの歌はそうやって聴く者の心と一体化するから、深く永く好きになってしまうのだ・ ・・
※それはまた最近のいくつかの歌でも始まったような気がしています。
一方で
この歌をよく聴くと本当は謎が多いかもしれない。特に「君」の行動を具体的に考え始めると実はまとまりがないような・・・?
「君の気まぐれ」ってどんなことだったの?
彼女の行動が原因だったのに、それを謝る訳でなく逆のような「やさしさ」で、とは?
これは伊勢正三の歌に時々あるねじれ現象フレーズ・何も決めないフレーズシリーズ?の特徴的な部分かと思う(単に私の理解が足りないだけかもしれませんが^^;)。
それこそ、カタチは嵌るのに絵柄が違うジグソーパズルのピースのような? 遠目に視ればちゃんとわかるモザイク画のように。音源だけで完成させないShoyanの無意識の高度なテクニックだなと思うのだ。
(「テクニック」というとちょっと具体的すぎる・・・もっと、なんか、 神の領域とかルーレットの出目的なこと!?先出の『ぴあ/クリエイター人生』の最終回でも語られていましたが)
こういう、カッチリと組んでしまわない保留部分があるので、永~くフレキシブルに聴けちゃうんだなぁと、いつも想っている。現に、Then&Nowの音源が確定ではなく、歌われるその時々その度に”その頃”が反映されて、その場で都度違うカタチになってゆく不思議な歌なのだと思っています。
※でも井上陽水氏のような”絶対無理なルービックキューブ”までいくとついていけなくなるので(笑)、そこが伊勢正三曲の絶妙な匙加減であると思っています。
・・・
想い出すことって甘い・・・
苦いだけじゃコンビニコーヒーのようで、距離は測れないから色々な味が混ざってこそだと思う。
(※コンビニコーヒーも好きですが (´ω`*)
実際、「君の長い髪はとても素敵だった」「ひとつの甘いフレーズとして」と、いいことばかりがふるいにかけられて今は残っているようで、そうしないと後悔を荷下ろしできないのかもしれないと想ったりする。
♪別れの言葉が夢の中でこんなにきれいに響いてます
も、自己完結している節があると。
去っていった者はもう関わりのない存在。
※そんな言い方をしたら身も蓋もないではないか七氏よ・・・自分がそんな別れしかしてこなかったからって、、、
イエイエ、当事者ならではの ”切り離されてはいないあの頃から繋がっているもの” も知るからこその第三者的・なのです。
(謎過ぎスミマセン)
きっと作者の中にも他の誰にもわかりえない時間がある。Shoyanが時々おっしゃる「引き出し」の中身。ご自身でさえ意識されない無意識の引き出しと、聴く者それぞれの心の引き出しの中身(それを想い出というのか)、その両方が交じり合って誰にも書けない自分だけの癒しになるのかなと思っている。
きっとそれも”合挽”のコーヒー。
・・・
などと、1974年から半世紀経ってこの歌の息の永さを深く感じている。
歳をとったって、若すぎたって、人の心の中は案外変わらないもので、その時寂しかったことは今でも寂しいんじゃないかな、と最近感じているのだ。
これもまた、ひとつになれなかった”片心”の歌なのか、と近しく想う一曲だ。
※”長い髪”は伊勢正三ファンの嗜みとして(!?)、高校生の時から30歳過ぎまでずっと背中まであるロングソバージュだった自分を懐かしく思う。本当は長い髪をずっと続けたかったけれど、それは大好きだった人との想い出と一緒に”あの頃”に置いてきた。今はShoyanより短い髪で毎日頑張っている。長い髪の私は”あの頃”で今もきっとあの人に愛されているだろう。それでいいのだ。
・・・と、せめて前向きに(涙)。
・・・
だがしかし、アインシュタイン博士の愛の手紙を私は全部は知らない、それを知ったのも最近のことだし、入手困難なので諦めてもいる(*´ω`*)。断片的な情報しか知らないでここまで来た。だからちゃんと語れない。おそらく全部読めても語れないけれど、でもその部分的でも再悶絶するほどにドンピシャな導きの見解。自分がそれを知らずに中学の頃から考えてきたこと、そのまんまじゃん!!と、しかもShoyanがその道筋上で同じ地図を広げていらっしゃった!と、、、
Shoyanは、最初にご自分でその感触にたどり着かれたのか、それとも博士の言葉があってこそ目覚められたのか、それはわからないけれど、何か、同じ事を考える者達はどこかで惹き合い巡り遭うのかもしれない。
愛の正体?
愛の仕組み?
光以上のものだったりして・・・?
ワクワク テカテカ☆と。
Shoyanは数々の実験を重ねられて『テレポーテーション』で宿題を提出なさったけれど、私は実技担当で行こうと想う。誰かが考えたこと、誰かが想ったこと、それが誰かの中でも同時に生まれている、そういうことを実証したいではありませんか!(たとえ数学の成績が赤点だったとしても^^;!?)
けれど、それは意識的にできることではなくて、長くて険しい流れに身を任せたときに、あまりの辛さに気を失って、どこかの浜に打ち上げられて・・・それでも同じ海に辿り着けるような、そんな文学的?な要素だってあるかもしれない。そこのところ、生身で実践できたらと思っています。
愛は哀でもあるから、甘いだけではない試練が必須なのかもしれません。
(と、こういうことを書いたり考えたりしていると、自然とShoyanの歌のフレーズと重なったりしますよね、それでいいのだきっと)
・・・
アインシュタイン博士が今の自分には表現できていないっ!て煩悶されていたこと、Shoyanは実現されつつあるのじゃないかと私は想っています。今年は特にそう想いました。
Shoyanは、アインシュタインの一歩先を行ってるんじゃね??です(*^^*)v
伊勢正三さまは私にとって
”愛したいン博士”なのです♪
(オチがギャグなのも愛なのかな?(笑))
プロフィール
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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