Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
ずっと以前のこと、ベスト盤のWORKSが発売になった頃にその何曲かの短い感想を書いたのだが、その際に『ほおづえをつく女』は伊勢正三の曲の中で唯一"救いのない特殊な曲"だ」なんて書いた。

生意気なコメントだな~と呆れるのだが(汗)、それから早20年経って今でもやっぱりそう思う。その後、gardenの曲たちや数々の提供曲単発曲、数あれどやはり『ほおづえをつく女』という歌は一つだけ独立した世界にある気がしている。

・・・

風ひとり旅での印象はアコギ?。でもここ2.3年、ステージでエレキギターをお持ちになる機会が増えたのと併せて、その存在感が倍々にUPしていると思う。何か、熱の入れようがUPしたというか、Shoyanの武器というか兵器というか(オダヤカじゃないな^^;)、砦というか出城というか、エレキギターの速弾きフレーズや正確無比な極みのストロークなどとともに、何かShoyanの先制攻撃的なものを感じるのだ・・・。気になってしようがない。

それはさておき、この歌をお創りになった頃の若いShoyanは、その冴えわたる観察眼で世の中から様々な人間関係のサンプルを採取されていたのだろうと想像するのだけど、その中からこういったキャラクターの女性の逸話仕立ての曲が出来たのはどんなきっかけがあったのだろう?と思う。とても醒めた、"女に期待しない感"溢れるシビアな世界。ここに伊勢正三の感性の一端である恐ろしい"絶対零度"の芽生えをまざまざと感じるのであります。

この女性、容姿も良くて男が放っておかないモテるキャラ・一見イイオンナのようだ。でも関係が始まるとそれは一方通行で、火をつけてもらう=何かしてもらうのが当然という図式で時が流れる。やり取りのない関係は底のない砂時計。恋の粒が落ち切ってしまえばそれで終わりだ。しかもまたそれを繰り返していく哀しさ・・・。ここでの「振り向きもせずに」には何の含みもない、一瞥もくれずに男は去る。最初から交わらなかった"無関係"の証でしかない。

自分の愚かさに気付けない=救いがないのだけど、彼女にリベンジの場は与えられない。自分を育てられずに大人になった、愛を知らない可哀そうな女性なのだ。誰も手を差し伸べてはくれない。このままずっと気付けぬままで彷徨い続けるだけなのか?

~♪夜空の星がとても美しいのは
  ほんの少し光っているから・・・

これを教えてくれるのは誰なのだろう。親?祖父母?学校の先生や友達?最初の彼氏?・・・いや、やはり自分で気付くものではないだろうか。

色々なことに恵まれて育つと、その恵みを得るプロセスを知らないまま「当然」という聖域から抜け出せない人がいる。しかも才能や美貌や身分まで最初から持っていればその恵みが流動的なもの=いつか失われる儚いもの、ということにも気付けない。なので、他者とその尊い恵みの喜びを共有しようとは思えないのだ。

煙草を咥えたら火は勝手に着くものだと思ってる。でもそれは傲慢なのではない、彼女の生来の無知ゆえの"怠慢"なのだ・とShoyanの歌は示しているのだと思う。手を頬に当てているということは、その手を使っていない証拠だものね。

この歌の女性の行動は、胸のボタンをはずすこと、髪を切ること、煙草を咥えること、半年泣き続けること、男を探し続けること、化粧を直すことしかしない。精神的なことが何もナイのだ!「女は生まれ変わった」というが、"Re-born"ではない。惨めな自分から目をそらしただけ。ある意味現実逃避なのではないか?与えないから満たされないのだと、気付かぬままの堂々巡りだ。

"幸せな日々"を思い出すだけで、去った男のどこに惹かれていたのか、自分はどうやって愛されていたのか、二人で何がしたかったのか、ちっとも省みていない。分析する気がない。こんなに愛のない女性像が描かれていることに、伊勢正三というアーティストの一番冷たい部分を感じて、その重要性に慄くのです。この氷点下の極みのような乾ききった歌があるからこそ、その前後のラブソングの熱さ・温もりが際立つのだと思うのだけれど、この両極をすべて歌にしてしまう伊勢正三という人は際限の無い感性の持ち主なのだなぁと、心の底から畏敬の念を抱くのです。一番新しい『Re-born』が登場して、その想いは更に確かなものになりました。

※でも、その温度差、、時々ヒートショックみたいなこともあるので聴き併せは慎重に・・・!?

・・・

この歌を初めて聴いたのは、前述したように14~15歳の頃だが、元来"やりすぎ部"な私は何でもやり散らかして、謙虚な"ほんの少し光る星"にはなれなかった(滝汗)。けれど、気付いていれば修正も出来るし反省も出来ると思う。恵まれないから恵まれている、ということに気付けたら、誰かに何かをしてあげよう・という心持ちで誰かと接着出来るのではないかとせめて思っている。

ほんの少し光っている星も、本当は一番遠くで白いほど熱く燃える星なのかもしれない。
(*´ー`*)☆

女性でも男性でも、誰もみな無意識の頬杖を備えている。どんなに豊かな愛を捧げられても、"気にしながら見過ごす"ことがある。でも、それを見逃さないように、愛の機微にびくびくしながら小心でいることは本当はとっても大切なことだと思う。「失うことなんて怖くないわよ」って言う強い女もいるかもしれないけれど、小さな心だからこそ相手の心の小さな隙間に入っていけるのだと思う。

古い燃えさしは、、、そう何度も火が着くものではない。もう燃え残りもない空の灰皿を前にして、煙草の切れた空き箱を握りつぶして投げ捨てる女の姿が見える。
やはり、そこに救いはない気がする・・・。

私は音楽や楽器の専門知識もないので、ちゃんと語れないけれど、この『ほおづえをつく女』は何十年経って聴いても、本当に渋くてエイジレスな完成度を保っていると想う憬れの歌だ。瀬尾一三氏のチョット初期SteelyDan的なカッコイイアレンジと、Shoyanの挑戦的でフレッシュなリードギター、斎藤ノブ氏の洒脱なパーカッション、故・武部秀明氏の軽やかなベースなど、イイオトコ揃い踏みの贅沢な音を聴きながら、今からでもまだ遅くない・と、イイオンナってどんなん?という謙虚な探求心を忘れずにいたいと思う。

頬杖よりも腕枕的に♪・・・と☆




※昔は見かけるとつい買ってしまった何枚かの中古レコードLP。未使用のシールが入ったままのものがあった。このwindlessblueのジャケット写真の色が大好きだった。夕消えの紫をはらんだ凪紺青は、本当にShoyanにピッタリのハンサムな色だ。今でもそんな中にShoyanの後ろ姿がシルエットになって見える気がする・・・
風のあなたを知らない私なのに(涙)。
いつの間にか夜が明けて・・・ここのところの急な冷え込みに山は雪になりました。ベランダから見える高い山々はみな白くなりました。そうなると町に降りてくる風が雪の上を渡ってくるので、冬の香りがします。とても、寂しいです。

ひたすらに過去ログを読みながらの作業をしていたのだけれど、その度に号泣しているワタシ。世話ないな~(^^;)・・・自画自涙。Shoyanに逢いた過ぎて苦しいほどであります(涙)。でもさっき作業が終わったので、またいつものペース?に戻ります。

はたして、Shoyanご本人も、ご自身の歌を折りにつれ聴きなおして、泣いたり苦笑したり悶絶したりなさることもあるのだろうか・・・

矢沢永吉氏はファンから「永ちゃんご本人はYAZAWAのライブを客席から観ることが出来ないなんて、切ないっす悔しいです、それほどに永ちゃんのステージは素晴らしいものです!」というようなことを言われたことがあるそうですが、私もそれに近いことを想う。

Shoyanの歌はいつも私たちの心を潤して癒してくれる。ギターの絶技で鼓舞してくれる。優しい声で導いてくれる。その永きにわたるShoyanからの深いGIFT、受け取ってばかりの私は何かShoyanご本人にお返しが出来ているのだろうか、、、いや~、無理だ。。でも、いつか、いつかきっと、私たちが受け取るのと同じくらいの愛を、、、Shoyanがステージ上で演奏されているときに客席のすべてから感じていてくれたらいいのにな、と強く想う。どうかいつか届きますように(祈)。

今年初めのラジオ出演で、カヴァー曲をやりたい・自分が好きだった歌を歌ってみたい、というようなことをおっしゃっていたと思う。私はそれにメッチャ賛成なのだ。普段は"オリジナル至上主義"の私だけれど、今のShoyan自らのチョイス&パフォーマンスを知りたいし楽しみたい。この状況下で心境やスタンスの変化もおありだろうとは思うけれど、自らの感性を慈しんで、好きなことを思いきりなさって欲しい!とワクワクしながら待っているんだ。

青春という名の埠頭で、コンクリに腰かけて上げ潮の波に靴を濡らして聴いていた、Shoyanの時間を少しだけでいいから、こんな後追いの自分にも教えてもらえたなら・・・と、そう想うのだ(憧)。


今日は倉庫の屋根の上にいた♪
※拡大してお楽しみください(笑)
あ~、今日はグリパラだったのですね。中止だなんて残念。

旧体育の日、晴れの特異日なはずなのに・・・おいちゃんパワーすごい(^^;)。もしかしたらこういう機会にShoyanがゲスト、とかアリだったかもしれないのに~

リベンジ公演として12月に渋谷での開催があるそうですが、秋の日比谷の野外だったから行くっていう人が多かったのではないのかな。師走の渋谷の箱の中、だいじょぶなのかなー

なんか、これから、いい季節限定で地方の小さな屋外ステージツアーとかやってほしい。べるがみたいな場所でもいいし、もう少し大きなフラワーパークのステージとか、人数を半分で時短でやれば結構いろんなことが出来る気がするのだけど・・・

拓郎さんも自身のラジオでライブ引退宣言とかされちゃっているけど、ナゼ、ギター一本の弾き語りに戻ろうとはなさらないのか。ラジオでずっと弾き語ってくれてたらいいのに、なんて思う。おいちゃんもモノ凄くギターが上手でらして、いつもキラリと光る音を出されているのに、なぜお仕着せバンドみたいな構成に埋もれているのか・・・(バンドのみなさんゴメンナサイ)。

私がShoyanの音楽を好きな理由は、「俺が俺が!」っていう部分を素直にお出しになっているからです。そして、いつも自分(俺)に真っ向対峙されているからです。アーチストの方たちはみな我が強いからアーチストなのだと思う。でも、歳を経るにつれ重ね着しちゃって、コーディネイトとかスタンスとかにアクセサリーまで付いて身軽さが遠くなってしまう。

それをどれだけ脱げるか、脱ぎ捨てられるか、裸になれるか、っていうトコロをこれから見せて欲しいと願うのです。軽やかなShoyanでいて欲しいと願うのです。

そんなファンというものの"我が儘”もまだまだ枯れませんよっ。



うー・・・・
モーツァルトホール、微妙な対策・・・
SNSなどで近々開催されたコンサートの写真を何枚か見たが、む~・・・あんな、席のわきにシート立てただけ!?一列置きになっているらしいけど、すぐ隣に人がいるのかぁ・・・一席空けないのか・・・しかも、端っこの端っこの席は、隣に不透明シートがあって、果たしてステージ中央の正やんが見えるのだろうか???


あ~・・・悩む(涙)。
夏からずっとこの件で悩んでいる。
家人の理解が得られるだろうか。

こんなことばかり書いていて悲しい(^^;;;;;)。
徒歩6分の民間の駐車場が予約出来るシステムを発見したのは朗報。
まだまだ悩んでみます。
もうすぐ十五夜。
流れる群雲の向こうに丸く張った月が出れば心もざわめく。皓々と輝く月夜もいいけど、そんな雲越しのお月さまもいいな。

本来ならば・・・
私にとっての月の景色は、Shoyan(の歌)との対話の場だった。月が出てくる歌、多いでしょう。しかもみんな大好きな歌でしょう。それはもう数々の歌を知った10代の頃からの、自然な心の持ちようだったのに・・・

ある時から、月を見上げることをやめていた時間が長かった。月が苦しく忌むものだった時があったのだ。でも、そんな暗い感性も、Shoyanとの距離のおかげでどこか遠くへ薄まって消えていった。今はまた愛しさの距離を測るフォーカルポイントとして欠かせないものに戻った。

純粋な気持ちで再びのShoyanの音楽と一緒に"月読"出来る自分がいる。

あの人はどこでこの月の光を浴びているの?
私が想ったことはあの月面で反射して、あの人の元に届くの?大昔からあの月を見て同じようなことを考えていた私が何人もいたはず。そして今もこの世界のどこかで、あなたに逢いたくてあの月を見上げる私がいる。

誰かを慕う小さな願いが束になって白く輝く。たったひとつで全てを受け止めている永い月は、どこにいても想いを託せる優しい鏡だ。

・・・

古暦の『月が射す夜』のイントロは、本当に、出の遅い臥待月に群雲が絡むようで、なんとも言えない妖しさがあって好きだ。一度寝て起きた夜のような、あやかしの時刻、丑三つの月・・・

その、言葉では喋りたくない時・・・
MoonyNightのオリジナル『月が射す夜』では、互いの視線だけで会話するような、月も澄んだ空に高いような、清かな光景が見えてくる。

けど・・・

一方、古暦のバージョンは、夜更けにふと目覚めてしまった夜空に低い月が出ていて夜風も止まっている。

満たされない衝動をもてあまして、寝息を立てて眠っている君を無言のまま再び求めてしまう・というような、そんな、"這う様な独りよがり"が感じられてDarkSideで良い・・・無性に良い。

このバージョンのShoyanの歌声(の録音)は案外細くて、アレンジもオリジナルよりエッジが甘いけど?何故か漂う色気はJUNチャンMagicなのかな(*´ω`)。
何だかいつまでもクセになるのだ。

・・・

そして、この歌に想う究極のアプローチは・・・互いに目の前にいなくても心の中が通じる間柄?(それは"静かな雨音"にも通ずる世界でしょうか)

時とか、空間を利用せずとも、既に逢えている無意識の疎通を想う。喋る以前に既存なのだ。ただその夜空の月を見上げるだけでいい。月光はそのものだけでは目に見えない。何かに当たったり反射したりして、蜂蜜のような光と、漆黒に分かれて物の輪郭を映し出す。それと同じなのだ。

そこにある扉に気付くか見落とすか、読めるか読めないか、そのあたりは意識してできるものじゃないのかもしれない。意識しようとするとそれは妄想やオカルトと紙一重になる危うさ=「Moony」?

だけど、野生だった頃の感性のために、大きなヒントをくれるこの歌。21世紀の今日ただいまだったらどんな風に歌ってくれるのだろう、感じさせてくれるのだろう、と毎回想いながらコンサートホールの暗闇の中で待っているのです。

・・・

~その風鈴、ナゼ音が途切れたのか?

風が止んだのか、それとも短冊が千切れて無くなってしまったのか?

人は"他"という風がなくては鳴れない。独りではやっぱり寂しいもの?・・・価値観という短冊が嵐にちぎれ飛んでしまっても、また付け替えれば良い。

「生まれ変わって新しい風を待てばいいんだよ」

って、何度でも何度でも・・・


言葉だけでは説明しきれないことを、ソッと含ませてる月光のまなざし・・・Shoyanの歌は、まなざしであって抱擁でもある。

さびしいものだけに解かるいつか失くした"無意識のピース"なのだと想う。Shoyanの歌の底にいつも流れている"絶対孤独"という結び目。自分の胸の中に射すこの月明かりで、これからまだ 残された夜にあといくつ見つけられるだろうか・・・



このロストな、失われた2020年の夏を、送ることも出来ないで新月のような気持ちで迎える秋だけど、孤独は絆だというお月さまからの慰めを受け取る気持ちで過ごしていきたい。




※そうそう、『月が射す夜』は古暦バージョンの中で風鈴のような音が微かに入っている。ウィンドチャイムの残り香か?別の鈴の音なのか?本当に微かだけど素敵♪Darknessな一連の中で最後に吹いてきた"改めた風"という感じがするのだ。
それに、詞の裏で刻んでるE.Gがカッコ良くて、なんだかもうすでに80年代の音がしてるネ(憧)。


昼間の地方ニュースコーナーで三重県の国体の話題を取り上げていたのだが、『GO TO ISE』!!って書いてあったのでメチャ反応してしまいました(*´Д`)。



国体のキャラも可愛いですね♪

午後の天気コーナーでよく出る映像に「三重県伊勢正午」とかテロップが出ているのにもよく反応します(*´Д`)(*´ω`)。今日は大雨だったみたいですが被害などないことを祈ります。

ちなみに、私が今住んでいる地域にも「伊勢」という地名があるので、毎日家の前を「伊勢町行き」のバスが走っています♪毎日反応です(笑)。
 





最近は営業時間以外の仕事の時は、大体AmazonのAlexaで音楽を聴いているのですが、聴ける限りのShoyan全曲ランダムの中で、『風ひとり旅LIVE・アコースティック』の音源でいつも躓く。

この『通り雨』と『君と歩いた青春』のギターが微妙で、つい「アレクサ、次!」って言ってしまいそうになる。なんともやりきれない。Shoyanの歌を飛ばし聴きするなんてアリエナイのに。

DVDの方には参加ミュージシャンのクレジットがあるのだが、この音源CDの方にはミュージシャンの名前がない。大体の予想は着きますが、私はちょうど時期的にこのひとり旅やなごみーずのステージを数回しか観ていないのでわからない・特定できないのだ。まさか、よもや、Shoyanご本人???とか、とてもモヤモヤする。それはないと信じたい(^^;)。でもそうだったらゴメンナサイ(滝汗)。

と、同じように、後世の何十年か何百年かのちに伊勢正三というミュージシャンに興味を持ってこの音源を手にした人の中にも「このギター誰が弾いてるねん!?」ってギモンに思う人が出てくるかもしれない。少なくとも、生まれ変わってまたShoyanファンになっている次世代の私がきっと悩む!(笑)

その次世代のワタシはリアルタイムのステージを一切知らないから「伊勢正三のライブ音源なのだからきっと伊勢正三という人がメインのギターも弾いているのだろうか」なんて思って、でも違和感に悩むかもしれない。ただでさえ、今現在出遅れて後追いファンの自分には、後世の未来のファンの人たちのもどかしさ・口惜しさが少しだけわかる気がする。正やんの音楽は絶対に数百年後も熱心に聴く人がいる。その人の中でとてもとても大切なものになっているはずだ。だから、もっと知りたい・わかりたい・って、きっと強く願うし深く想うだろう。

・・・

長きにわたって発表されてきたレコード・CD・配信、それぞれの音源のそのすべての演者を知っておきたいとやはり思う。音楽って心をゆだねるものだから、音の出自を知っておきたい。そのうえで納得したり不満を持ったり!?したい。

「ギターも弾けないアナタが何を言う権利があるのか」、と言われるかもしれないけど、私は"聴く人"なので、感じたことはちゃんと言いたいと思うのだ。


※2006年~2013年ころにかけて書いたものをまとめました


・・・・・

これはまた私には思い入れ深いシーンである。『moonlight』や『Heartbeat』に続くものである。時が沈んだり、ミステリーが潜んでいたり、そして最近では『緑の秋』も。数は多くないけれど、どの歌もとても気にナル。

何故私がShoyanの"湖"に惹かれるのか?
その辺はまだ具体的に言えない、というかわからない。伊勢正三と言えば"海"というイメージの方が大きいように思う。でもなんとなく、湖のその山と森に囲まれて閉ざされた空間的なトコロがまた私にはShoyanらしく思えて、そんな意味で好きなのかもしれない。

・・・

夕暮れの湖岸のホテル、暗くなるのが早い中、ポツリポツリと灯りがともって、湖は少し波に残照。誰もいなくて波の打ち寄せる音だけが・・・なんて、とてもいい景色。

しかし、この歌は何年も前に地方局のテレビ番組で『心の海』というタイトルで歌われていたそうで歌詞も違う。「♪~キミは海のようだね」となっている。

やはり海だったのだ。
でもその"海"が"湖"に変化した訳はなんだろう?
「欲しいモノ」から「与えるモノ」に変わった部分があるからではないのかと思う。そしてもっと独占的な二人だけの約束。与えることと独占することって相反しているようだけど、実は似た様な愛のカタチではなかろうか。

開け放した心の中から「なんにもあげられないけど」と言いながら「全部君のせいさ」とは、なんて罪なフレーズだろう。

ラストのフレーズの

♪~あの頃のままに僕はここにいるのに

は、だけど、雲なんだよね。

山の向こうに流れては消え、また山の彼方からやってきては湖面にその影を白く映して表情を変える。それに雲が流れてくる時は風も吹いている。湖面もその影響で表情を変える。

波立つからこそ、それは鏡ではないのだ。
想いを湛えた水。
それは時に干上がったこともあったかもしれない。流れ込む土砂で濁ったかもしれない。人工的にダムにしてしまった時もあるかもしれない。

でも、時が経ってまた静かな湖面と、どこまでも透明な水底が戻ってきた時、前と変わらず白いコットンシャツみたいな雲が浮かんでたら、それはどんなに愛しい風景だろう。

・・・

♪~潔癖なことで自分を苦しめるなんて
  君はベージュのようだね

って、それってなんとなく星占いでいうところの"乙女座"な、生真面目で誠実な女性が思い浮かぶ。

なんと遊びのないお堅いキャラなんだろうと思うのだけど、でも自分が苦しむ潔癖って、それってある意味「向上心」だよね。「これじゃいけない」「こうあるべきだ」って、何か強い気持ちがあるからなのだと思う。私はこのフレーズが好きだ。とても大切なことだと想う。

女性に向けた言葉のようであるけども、これはShoyanご自身にもあてはまるニュアンスなのでは?なんて思ったりもしている。

アジサイを例えに出して諭されると、頑なな気持ちも一気に氷解してしまう。花の良さは"変化"だ。変わることを繰り返すことで永遠なのだけど・・・
アジサイって自分で色を変えるのだろうか?
いや、浴びたくない酸性雨とか水不足とか、自分で動けない分、周りの環境がモロに影響するだろう。でも、アジサイは逃げられない。くすんでドライフラワーのようになっていつまでも落ちない花ガラも、それは自然な姿で恥ずかしいものではない。

それに今年咲けなくてもまた来年咲けばいいじゃん・て、切り詰められたらその分花芽を増やそうって、そう自然に思えたら苦しむこともなくなるんじゃないかな。

ただ、一方で、

♪~目立たないように 
  ふさわしくあるように 
  なだめているばかり

これは「え~、そんな殊勝なヒトいるの~?」って、ホントはそんな受動的なフリして実は一番気に留めてもらいたいんじゃないの~?と思ったりもするのだ。

こんなこと思う私ってやはり心が汚れているのだろうか(汗)なだめているってことは自分に嘘をついているんじゃないの?優等生だけど、誰かが手を差し伸べてくれるのを当てにしてるように思えるよ。

『能動的に目立たない』ってことも可能じゃないだろうか。素直に「愛されたい」キモチを出せたらいいのにな。そうすればもっと円滑にカンケイも運ぶし、周りの理解も得られると思うんだ。ベージュの自己満足でその謙虚さを仕舞っていては、相手にしてあげられることが半減してしまう。

・・・

♪~僕の手のひらに掬えるだけの
  シアワセで それだけでいいなら・・・

それ以上何を望むというのでしょうか。
だがしかし、自分が全部反映されないと不幸だ・と思う人がいる。何かを諦めて今現在を得たと思っている人は、今に満足したら過去に失ったものを取り返そうとする。

でも、どんなに辛いことがあっても人生はいつも足し算だと私は思う。失うものなんてないのではないかと思う。大きな苦しみも悲しみも、心の傷でさえ何かプラスになっていくのではないか。諦めたように思いこんだ夢も誰かに掬ってもらうものではない。諦めきれないんなら自分でカタチにすればいい。そういう"気付き"を掬える手のひらをShoyanの歌は持っているんだと思う。だからそれに気付くキッカケを私にも一掬い分けてくれているのだ。

でも・・・現実はそういった心の強い女性には世間は優しくなくて、恵まれていることに気が付かないくらい無頓着な弱い女性ほど他者から幸せにして貰ってる気もする。
何もしない人の方が、周りが何かしてくれるから・・・

なんて(=´ω`)・・・
でもやっぱり、何かしてもらう人よりも、何かしてあげられる人にこそ本物の愛よ訪れて、とそう願う。

・・・

ベージュはおとなしい色でありながら他の色には染まらない未漂白のウブな色だ。そして天然素材の手触り。このウブさと頑固さがいいな。

『君はベージュのようだね』
『古いアイボリー(象牙)のように』
『白いシャツさえ色褪せてゆく』

Shoyanのこの色感覚がすごく好きだ。
色と色の間にある時間を探すのがすごく上手で、そこに目を向けさせてくれる導きがたまらない。

Shoyanの色はいつも優しい。

・・・

※のちに追記

この歌のことは以前に一度色々書いたけど↑、今になって改めてドキドキするフレーズがあった。

♪~やすらぎの中で二人が終わることの方が
  恥ずかしくないか・・・

これは裏を返せば、"このまま続けると安らかでない状況"ということだよね。

でも、

「安らかじゃない状況でも続ける二人でいよう」

という、モノスゴク激しい情熱なんだと、あとになって実感してワナワナしている。ココの部分だけ急に突出して熱い!

終わるほうがメリットが多いカンケイ。だけど二人で共に味わえるならデメリットでさえ甘い絆なのかしら…と。

"誰にも負けない気持"って何だろう。
愛以上のもの?
自負みたいなもの??

この歌で描かれる"キミ"のキャラクターは、とてもしとやかで引っ込み思案に見えるけど、でも、この強い愛の言葉をオトコに言わせているのは、潔癖で目立たないようで実は無意識にシタタカなキミの方だったりして・・・なんて思う。でもそれがこの彼女の魅力であり長所なのだ。

ベージュのふさわしさには打算や依存はないから、実直な愛が最後に残るのだろう。

・・・

「キミは僕を愛しているね?」

なんて、言われたら最高だろうナ…(´ー`*)
なんかそんな風に言われてる気がするこの歌なのダ☆

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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