Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。
ずっと以前のこと、ベスト盤のWORKSが発売になった頃にその何曲かの短い感想を書いたのだが、その際に『ほおづえをつく女』は伊勢正三の曲の中で唯一"救いのない特殊な曲"だ」なんて書いた。
生意気なコメントだな~と呆れるのだが(汗)、それから早20年経って今でもやっぱりそう思う。その後、gardenの曲たちや数々の提供曲単発曲、数あれどやはり『ほおづえをつく女』という歌は一つだけ独立した世界にある気がしている。
・・・
風ひとり旅での印象はアコギ?。でもここ2.3年、ステージでエレキギターをお持ちになる機会が増えたのと併せて、その存在感が倍々にUPしていると思う。何か、熱の入れようがUPしたというか、Shoyanの武器というか兵器というか(オダヤカじゃないな^^;)、砦というか出城というか、エレキギターの速弾きフレーズや正確無比な極みのストロークなどとともに、何かShoyanの先制攻撃的なものを感じるのだ・・・。気になってしようがない。
それはさておき、この歌をお創りになった頃の若いShoyanは、その冴えわたる観察眼で世の中から様々な人間関係のサンプルを採取されていたのだろうと想像するのだけど、その中からこういったキャラクターの女性の逸話仕立ての曲が出来たのはどんなきっかけがあったのだろう?と思う。とても醒めた、"女に期待しない感"溢れるシビアな世界。ここに伊勢正三の感性の一端である恐ろしい"絶対零度"の芽生えをまざまざと感じるのであります。
この女性、容姿も良くて男が放っておかないモテるキャラ・一見イイオンナのようだ。でも関係が始まるとそれは一方通行で、火をつけてもらう=何かしてもらうのが当然という図式で時が流れる。やり取りのない関係は底のない砂時計。恋の粒が落ち切ってしまえばそれで終わりだ。しかもまたそれを繰り返していく哀しさ・・・。ここでの「振り向きもせずに」には何の含みもない、一瞥もくれずに男は去る。最初から交わらなかった"無関係"の証でしかない。
自分の愚かさに気付けない=救いがないのだけど、彼女にリベンジの場は与えられない。自分を育てられずに大人になった、愛を知らない可哀そうな女性なのだ。誰も手を差し伸べてはくれない。このままずっと気付けぬままで彷徨い続けるだけなのか?
~♪夜空の星がとても美しいのは
ほんの少し光っているから・・・
これを教えてくれるのは誰なのだろう。親?祖父母?学校の先生や友達?最初の彼氏?・・・いや、やはり自分で気付くものではないだろうか。
色々なことに恵まれて育つと、その恵みを得るプロセスを知らないまま「当然」という聖域から抜け出せない人がいる。しかも才能や美貌や身分まで最初から持っていればその恵みが流動的なもの=いつか失われる儚いもの、ということにも気付けない。なので、他者とその尊い恵みの喜びを共有しようとは思えないのだ。
煙草を咥えたら火は勝手に着くものだと思ってる。でもそれは傲慢なのではない、彼女の生来の無知ゆえの"怠慢"なのだ・とShoyanの歌は示しているのだと思う。手を頬に当てているということは、その手を使っていない証拠だものね。
この歌の女性の行動は、胸のボタンをはずすこと、髪を切ること、煙草を咥えること、半年泣き続けること、男を探し続けること、化粧を直すことしかしない。精神的なことが何もナイのだ!「女は生まれ変わった」というが、"Re-born"ではない。惨めな自分から目をそらしただけ。ある意味現実逃避なのではないか?与えないから満たされないのだと、気付かぬままの堂々巡りだ。
"幸せな日々"を思い出すだけで、去った男のどこに惹かれていたのか、自分はどうやって愛されていたのか、二人で何がしたかったのか、ちっとも省みていない。分析する気がない。こんなに愛のない女性像が描かれていることに、伊勢正三というアーティストの一番冷たい部分を感じて、その重要性に慄くのです。この氷点下の極みのような乾ききった歌があるからこそ、その前後のラブソングの熱さ・温もりが際立つのだと思うのだけれど、この両極をすべて歌にしてしまう伊勢正三という人は際限の無い感性の持ち主なのだなぁと、心の底から畏敬の念を抱くのです。一番新しい『Re-born』が登場して、その想いは更に確かなものになりました。
※でも、その温度差、、時々ヒートショックみたいなこともあるので聴き併せは慎重に・・・!?
・・・
この歌を初めて聴いたのは、前述したように14~15歳の頃だが、元来"やりすぎ部"な私は何でもやり散らかして、謙虚な"ほんの少し光る星"にはなれなかった(滝汗)。けれど、気付いていれば修正も出来るし反省も出来ると思う。恵まれないから恵まれている、ということに気付けたら、誰かに何かをしてあげよう・という心持ちで誰かと接着出来るのではないかとせめて思っている。
ほんの少し光っている星も、本当は一番遠くで白いほど熱く燃える星なのかもしれない。
(*´ー`*)☆
女性でも男性でも、誰もみな無意識の頬杖を備えている。どんなに豊かな愛を捧げられても、"気にしながら見過ごす"ことがある。でも、それを見逃さないように、愛の機微にびくびくしながら小心でいることは本当はとっても大切なことだと思う。「失うことなんて怖くないわよ」って言う強い女もいるかもしれないけれど、小さな心だからこそ相手の心の小さな隙間に入っていけるのだと思う。
古い燃えさしは、、、そう何度も火が着くものではない。もう燃え残りもない空の灰皿を前にして、煙草の切れた空き箱を握りつぶして投げ捨てる女の姿が見える。
やはり、そこに救いはない気がする・・・。
私は音楽や楽器の専門知識もないので、ちゃんと語れないけれど、この『ほおづえをつく女』は何十年経って聴いても、本当に渋くてエイジレスな完成度を保っていると想う憬れの歌だ。瀬尾一三氏のチョット初期SteelyDan的なカッコイイアレンジと、Shoyanの挑戦的でフレッシュなリードギター、斎藤ノブ氏の洒脱なパーカッション、故・武部秀明氏の軽やかなベースなど、イイオトコ揃い踏みの贅沢な音を聴きながら、今からでもまだ遅くない・と、イイオンナってどんなん?という謙虚な探求心を忘れずにいたいと思う。
頬杖よりも腕枕的に♪・・・と☆

※昔は見かけるとつい買ってしまった何枚かの中古レコードLP。未使用のシールが入ったままのものがあった。このwindlessblueのジャケット写真の色が大好きだった。夕消えの紫をはらんだ凪紺青は、本当にShoyanにピッタリのハンサムな色だ。今でもそんな中にShoyanの後ろ姿がシルエットになって見える気がする・・・
風のあなたを知らない私なのに(涙)。
生意気なコメントだな~と呆れるのだが(汗)、それから早20年経って今でもやっぱりそう思う。その後、gardenの曲たちや数々の提供曲単発曲、数あれどやはり『ほおづえをつく女』という歌は一つだけ独立した世界にある気がしている。
・・・
風ひとり旅での印象はアコギ?。でもここ2.3年、ステージでエレキギターをお持ちになる機会が増えたのと併せて、その存在感が倍々にUPしていると思う。何か、熱の入れようがUPしたというか、Shoyanの武器というか兵器というか(オダヤカじゃないな^^;)、砦というか出城というか、エレキギターの速弾きフレーズや正確無比な極みのストロークなどとともに、何かShoyanの先制攻撃的なものを感じるのだ・・・。気になってしようがない。
それはさておき、この歌をお創りになった頃の若いShoyanは、その冴えわたる観察眼で世の中から様々な人間関係のサンプルを採取されていたのだろうと想像するのだけど、その中からこういったキャラクターの女性の逸話仕立ての曲が出来たのはどんなきっかけがあったのだろう?と思う。とても醒めた、"女に期待しない感"溢れるシビアな世界。ここに伊勢正三の感性の一端である恐ろしい"絶対零度"の芽生えをまざまざと感じるのであります。
この女性、容姿も良くて男が放っておかないモテるキャラ・一見イイオンナのようだ。でも関係が始まるとそれは一方通行で、火をつけてもらう=何かしてもらうのが当然という図式で時が流れる。やり取りのない関係は底のない砂時計。恋の粒が落ち切ってしまえばそれで終わりだ。しかもまたそれを繰り返していく哀しさ・・・。ここでの「振り向きもせずに」には何の含みもない、一瞥もくれずに男は去る。最初から交わらなかった"無関係"の証でしかない。
自分の愚かさに気付けない=救いがないのだけど、彼女にリベンジの場は与えられない。自分を育てられずに大人になった、愛を知らない可哀そうな女性なのだ。誰も手を差し伸べてはくれない。このままずっと気付けぬままで彷徨い続けるだけなのか?
~♪夜空の星がとても美しいのは
ほんの少し光っているから・・・
これを教えてくれるのは誰なのだろう。親?祖父母?学校の先生や友達?最初の彼氏?・・・いや、やはり自分で気付くものではないだろうか。
色々なことに恵まれて育つと、その恵みを得るプロセスを知らないまま「当然」という聖域から抜け出せない人がいる。しかも才能や美貌や身分まで最初から持っていればその恵みが流動的なもの=いつか失われる儚いもの、ということにも気付けない。なので、他者とその尊い恵みの喜びを共有しようとは思えないのだ。
煙草を咥えたら火は勝手に着くものだと思ってる。でもそれは傲慢なのではない、彼女の生来の無知ゆえの"怠慢"なのだ・とShoyanの歌は示しているのだと思う。手を頬に当てているということは、その手を使っていない証拠だものね。
この歌の女性の行動は、胸のボタンをはずすこと、髪を切ること、煙草を咥えること、半年泣き続けること、男を探し続けること、化粧を直すことしかしない。精神的なことが何もナイのだ!「女は生まれ変わった」というが、"Re-born"ではない。惨めな自分から目をそらしただけ。ある意味現実逃避なのではないか?与えないから満たされないのだと、気付かぬままの堂々巡りだ。
"幸せな日々"を思い出すだけで、去った男のどこに惹かれていたのか、自分はどうやって愛されていたのか、二人で何がしたかったのか、ちっとも省みていない。分析する気がない。こんなに愛のない女性像が描かれていることに、伊勢正三というアーティストの一番冷たい部分を感じて、その重要性に慄くのです。この氷点下の極みのような乾ききった歌があるからこそ、その前後のラブソングの熱さ・温もりが際立つのだと思うのだけれど、この両極をすべて歌にしてしまう伊勢正三という人は際限の無い感性の持ち主なのだなぁと、心の底から畏敬の念を抱くのです。一番新しい『Re-born』が登場して、その想いは更に確かなものになりました。
※でも、その温度差、、時々ヒートショックみたいなこともあるので聴き併せは慎重に・・・!?
・・・
この歌を初めて聴いたのは、前述したように14~15歳の頃だが、元来"やりすぎ部"な私は何でもやり散らかして、謙虚な"ほんの少し光る星"にはなれなかった(滝汗)。けれど、気付いていれば修正も出来るし反省も出来ると思う。恵まれないから恵まれている、ということに気付けたら、誰かに何かをしてあげよう・という心持ちで誰かと接着出来るのではないかとせめて思っている。
ほんの少し光っている星も、本当は一番遠くで白いほど熱く燃える星なのかもしれない。
(*´ー`*)☆
女性でも男性でも、誰もみな無意識の頬杖を備えている。どんなに豊かな愛を捧げられても、"気にしながら見過ごす"ことがある。でも、それを見逃さないように、愛の機微にびくびくしながら小心でいることは本当はとっても大切なことだと思う。「失うことなんて怖くないわよ」って言う強い女もいるかもしれないけれど、小さな心だからこそ相手の心の小さな隙間に入っていけるのだと思う。
古い燃えさしは、、、そう何度も火が着くものではない。もう燃え残りもない空の灰皿を前にして、煙草の切れた空き箱を握りつぶして投げ捨てる女の姿が見える。
やはり、そこに救いはない気がする・・・。
私は音楽や楽器の専門知識もないので、ちゃんと語れないけれど、この『ほおづえをつく女』は何十年経って聴いても、本当に渋くてエイジレスな完成度を保っていると想う憬れの歌だ。瀬尾一三氏のチョット初期SteelyDan的なカッコイイアレンジと、Shoyanの挑戦的でフレッシュなリードギター、斎藤ノブ氏の洒脱なパーカッション、故・武部秀明氏の軽やかなベースなど、イイオトコ揃い踏みの贅沢な音を聴きながら、今からでもまだ遅くない・と、イイオンナってどんなん?という謙虚な探求心を忘れずにいたいと思う。
頬杖よりも腕枕的に♪・・・と☆
※昔は見かけるとつい買ってしまった何枚かの中古レコードLP。未使用のシールが入ったままのものがあった。このwindlessblueのジャケット写真の色が大好きだった。夕消えの紫をはらんだ凪紺青は、本当にShoyanにピッタリのハンサムな色だ。今でもそんな中にShoyanの後ろ姿がシルエットになって見える気がする・・・
風のあなたを知らない私なのに(涙)。
プロフィール
HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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