Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0
そういえば先日、来年の新潟のRe-bornライブの予定が出たけど、、、また同じ会場???ん?いいなあ。
地方のコンサートの予定が出るのは嬉しいものです。私は新潟はちょっと遠いので多分行けないけど、でも「東京じゃない会場なら行けるかも」というファンは結構いるのではないでしょうか。一部の常連さんたちはどこの会場でも同じでしょうが(笑)、地方>地方へ移動するだけならちょっとだけ気の持ちようが違うでしょう。
この調子でShoyan、お願いです、トーキョー以外のコンサートを増やしてください(祈)。
「またキミはトーキョーを目の敵にするのかネ」
と、お叱りを受けるかもしれないけれど、首都圏と地方のはざまのような場所で暮らしている自分には、東京の意識の特殊さが良くわかります。
今回この件について考える本当にいい機会になったと思う。
地方のコンサートの予定が出るのは嬉しいものです。私は新潟はちょっと遠いので多分行けないけど、でも「東京じゃない会場なら行けるかも」というファンは結構いるのではないでしょうか。一部の常連さんたちはどこの会場でも同じでしょうが(笑)、地方>地方へ移動するだけならちょっとだけ気の持ちようが違うでしょう。
この調子でShoyan、お願いです、トーキョー以外のコンサートを増やしてください(祈)。
「またキミはトーキョーを目の敵にするのかネ」
と、お叱りを受けるかもしれないけれど、首都圏と地方のはざまのような場所で暮らしている自分には、東京の意識の特殊さが良くわかります。
今回この件について考える本当にいい機会になったと思う。
そうそう、早11月、このままでいくと11月8日の滋賀の振り替え公演はこのまま開催されるということかな。久しぶりのステージのShoyan、行ける人羨ましい、私も逢いたい(涙)。
これからもステージ写真などのFacebookでの公開ぜひ続けてアップして欲しいものです。今般、それぞれの大切な事情で行けない人が沢山いるけど、そんな存在を切り捨てないで意識していって欲しいと切に願います。
11月からのShoyanの再始動、どうか楽しくご無事でスムースに事が運びますように祈っています。心の底から祈っています!
これからもステージ写真などのFacebookでの公開ぜひ続けてアップして欲しいものです。今般、それぞれの大切な事情で行けない人が沢山いるけど、そんな存在を切り捨てないで意識していって欲しいと切に願います。
11月からのShoyanの再始動、どうか楽しくご無事でスムースに事が運びますように祈っています。心の底から祈っています!
シンフォニーヒルズに近い一般駐車場が事前予約出来ることを知り、今サイトから予約してみた。
行く気なのか自分(^_^;)。
10万キロ超えのボロい軽自動車で!(^_^;)
東京の感染者数を見て毎日一喜百憂しとります。
家人の顔色も伺いつつ、、、
何か、いい方向へ導かれますように(祈)。
10万キロ超えのボロい軽自動車で!(^_^;)
東京の感染者数を見て毎日一喜百憂しとります。
家人の顔色も伺いつつ、、、
何か、いい方向へ導かれますように(祈)。
『冬の恋』を聴く時、Shoyanの豊饒なギターのプレイはまるでフィリグリー(金線細工)のようで、金と銀の正確無比に編まれた三角錐の籠の中に、永遠に独りで居たくなる心地なのだ・・・
が、またそれに絡みつく弦の"キュキュ音"もタマラナイのだ。
冒頭のスライドもそうですが、
~♪逢いたくて 逢えなくて
寂しいわけではないこと・・・
などに被ってくるギターのキュッキュッという音に胸が震えてしまう。
あぁ、Shoyanの指・・・硬くなった指先と指紋が撫でる弦。コーティングの弦を今も使っているのかな・・・
聴く者の心の中を擦る音。
Shoyanの指がソコを擦る度に何かが香る。
まるで練り香水のように・・・
こんなにもキュキュ音が顕著な録音って他にあるかな、シンプルの極みのようで、最高に贅沢なギターの音の重なりを、この今に聴くことが出来て本当に幸せです。(涙)
いつも、忙しい買い出しなどの車の中で、少し大きめの音で聴く・・・ほんのひととき我に還る時間を持てます。アリガトウShoyan(愛)。
が、またそれに絡みつく弦の"キュキュ音"もタマラナイのだ。
冒頭のスライドもそうですが、
~♪逢いたくて 逢えなくて
寂しいわけではないこと・・・
などに被ってくるギターのキュッキュッという音に胸が震えてしまう。
あぁ、Shoyanの指・・・硬くなった指先と指紋が撫でる弦。コーティングの弦を今も使っているのかな・・・
聴く者の心の中を擦る音。
Shoyanの指がソコを擦る度に何かが香る。
まるで練り香水のように・・・
こんなにもキュキュ音が顕著な録音って他にあるかな、シンプルの極みのようで、最高に贅沢なギターの音の重なりを、この今に聴くことが出来て本当に幸せです。(涙)
いつも、忙しい買い出しなどの車の中で、少し大きめの音で聴く・・・ほんのひととき我に還る時間を持てます。アリガトウShoyan(愛)。
ずっと以前のこと、ベスト盤のWORKSが発売になった頃にその何曲かの短い感想を書いたのだが、その際に『ほおづえをつく女』は伊勢正三の曲の中で唯一"救いのない特殊な曲"だ」なんて書いた。
生意気なコメントだな~と呆れるのだが(汗)、それから早20年経って今でもやっぱりそう思う。その後、gardenの曲たちや数々の提供曲単発曲、数あれどやはり『ほおづえをつく女』という歌は一つだけ独立した世界にある気がしている。
・・・
風ひとり旅での印象はアコギ?。でもここ2.3年、ステージでエレキギターをお持ちになる機会が増えたのと併せて、その存在感が倍々にUPしていると思う。何か、熱の入れようがUPしたというか、Shoyanの武器というか兵器というか(オダヤカじゃないな^^;)、砦というか出城というか、エレキギターの速弾きフレーズや正確無比な極みのストロークなどとともに、何かShoyanの先制攻撃的なものを感じるのだ・・・。気になってしようがない。
それはさておき、この歌をお創りになった頃の若いShoyanは、その冴えわたる観察眼で世の中から様々な人間関係のサンプルを採取されていたのだろうと想像するのだけど、その中からこういったキャラクターの女性の逸話仕立ての曲が出来たのはどんなきっかけがあったのだろう?と思う。とても醒めた、"女に期待しない感"溢れるシビアな世界。ここに伊勢正三の感性の一端である恐ろしい"絶対零度"の芽生えをまざまざと感じるのであります。
この女性、容姿も良くて男が放っておかないモテるキャラ・一見イイオンナのようだ。でも関係が始まるとそれは一方通行で、火をつけてもらう=何かしてもらうのが当然という図式で時が流れる。やり取りのない関係は底のない砂時計。恋の粒が落ち切ってしまえばそれで終わりだ。しかもまたそれを繰り返していく哀しさ・・・。ここでの「振り向きもせずに」には何の含みもない、一瞥もくれずに男は去る。最初から交わらなかった"無関係"の証でしかない。
自分の愚かさに気付けない=救いがないのだけど、彼女にリベンジの場は与えられない。自分を育てられずに大人になった、愛を知らない可哀そうな女性なのだ。誰も手を差し伸べてはくれない。このままずっと気付けぬままで彷徨い続けるだけなのか?
~♪夜空の星がとても美しいのは
ほんの少し光っているから・・・
これを教えてくれるのは誰なのだろう。親?祖父母?学校の先生や友達?最初の彼氏?・・・いや、やはり自分で気付くものではないだろうか。
色々なことに恵まれて育つと、その恵みを得るプロセスを知らないまま「当然」という聖域から抜け出せない人がいる。しかも才能や美貌や身分まで最初から持っていればその恵みが流動的なもの=いつか失われる儚いもの、ということにも気付けない。なので、他者とその尊い恵みの喜びを共有しようとは思えないのだ。
煙草を咥えたら火は勝手に着くものだと思ってる。でもそれは傲慢なのではない、彼女の生来の無知ゆえの"怠慢"なのだ・とShoyanの歌は示しているのだと思う。手を頬に当てているということは、その手を使っていない証拠だものね。
この歌の女性の行動は、胸のボタンをはずすこと、髪を切ること、煙草を咥えること、半年泣き続けること、男を探し続けること、化粧を直すことしかしない。精神的なことが何もナイのだ!「女は生まれ変わった」というが、"Re-born"ではない。惨めな自分から目をそらしただけ。ある意味現実逃避なのではないか?与えないから満たされないのだと、気付かぬままの堂々巡りだ。
"幸せな日々"を思い出すだけで、去った男のどこに惹かれていたのか、自分はどうやって愛されていたのか、二人で何がしたかったのか、ちっとも省みていない。分析する気がない。こんなに愛のない女性像が描かれていることに、伊勢正三というアーティストの一番冷たい部分を感じて、その重要性に慄くのです。この氷点下の極みのような乾ききった歌があるからこそ、その前後のラブソングの熱さ・温もりが際立つのだと思うのだけれど、この両極をすべて歌にしてしまう伊勢正三という人は際限の無い感性の持ち主なのだなぁと、心の底から畏敬の念を抱くのです。一番新しい『Re-born』が登場して、その想いは更に確かなものになりました。
※でも、その温度差、、時々ヒートショックみたいなこともあるので聴き併せは慎重に・・・!?
・・・
この歌を初めて聴いたのは、前述したように14~15歳の頃だが、元来"やりすぎ部"な私は何でもやり散らかして、謙虚な"ほんの少し光る星"にはなれなかった(滝汗)。けれど、気付いていれば修正も出来るし反省も出来ると思う。恵まれないから恵まれている、ということに気付けたら、誰かに何かをしてあげよう・という心持ちで誰かと接着出来るのではないかとせめて思っている。
ほんの少し光っている星も、本当は一番遠くで白いほど熱く燃える星なのかもしれない。
(*´ー`*)☆
女性でも男性でも、誰もみな無意識の頬杖を備えている。どんなに豊かな愛を捧げられても、"気にしながら見過ごす"ことがある。でも、それを見逃さないように、愛の機微にびくびくしながら小心でいることは本当はとっても大切なことだと思う。「失うことなんて怖くないわよ」って言う強い女もいるかもしれないけれど、小さな心だからこそ相手の心の小さな隙間に入っていけるのだと思う。
古い燃えさしは、、、そう何度も火が着くものではない。もう燃え残りもない空の灰皿を前にして、煙草の切れた空き箱を握りつぶして投げ捨てる女の姿が見える。
やはり、そこに救いはない気がする・・・。
私は音楽や楽器の専門知識もないので、ちゃんと語れないけれど、この『ほおづえをつく女』は何十年経って聴いても、本当に渋くてエイジレスな完成度を保っていると想う憬れの歌だ。瀬尾一三氏のチョット初期SteelyDan的なカッコイイアレンジと、Shoyanの挑戦的でフレッシュなリードギター、斎藤ノブ氏の洒脱なパーカッション、故・武部秀明氏の軽やかなベースなど、イイオトコ揃い踏みの贅沢な音を聴きながら、今からでもまだ遅くない・と、イイオンナってどんなん?という謙虚な探求心を忘れずにいたいと思う。
頬杖よりも腕枕的に♪・・・と☆

※昔は見かけるとつい買ってしまった何枚かの中古レコードLP。未使用のシールが入ったままのものがあった。このwindlessblueのジャケット写真の色が大好きだった。夕消えの紫をはらんだ凪紺青は、本当にShoyanにピッタリのハンサムな色だ。今でもそんな中にShoyanの後ろ姿がシルエットになって見える気がする・・・
風のあなたを知らない私なのに(涙)。
生意気なコメントだな~と呆れるのだが(汗)、それから早20年経って今でもやっぱりそう思う。その後、gardenの曲たちや数々の提供曲単発曲、数あれどやはり『ほおづえをつく女』という歌は一つだけ独立した世界にある気がしている。
・・・
風ひとり旅での印象はアコギ?。でもここ2.3年、ステージでエレキギターをお持ちになる機会が増えたのと併せて、その存在感が倍々にUPしていると思う。何か、熱の入れようがUPしたというか、Shoyanの武器というか兵器というか(オダヤカじゃないな^^;)、砦というか出城というか、エレキギターの速弾きフレーズや正確無比な極みのストロークなどとともに、何かShoyanの先制攻撃的なものを感じるのだ・・・。気になってしようがない。
それはさておき、この歌をお創りになった頃の若いShoyanは、その冴えわたる観察眼で世の中から様々な人間関係のサンプルを採取されていたのだろうと想像するのだけど、その中からこういったキャラクターの女性の逸話仕立ての曲が出来たのはどんなきっかけがあったのだろう?と思う。とても醒めた、"女に期待しない感"溢れるシビアな世界。ここに伊勢正三の感性の一端である恐ろしい"絶対零度"の芽生えをまざまざと感じるのであります。
この女性、容姿も良くて男が放っておかないモテるキャラ・一見イイオンナのようだ。でも関係が始まるとそれは一方通行で、火をつけてもらう=何かしてもらうのが当然という図式で時が流れる。やり取りのない関係は底のない砂時計。恋の粒が落ち切ってしまえばそれで終わりだ。しかもまたそれを繰り返していく哀しさ・・・。ここでの「振り向きもせずに」には何の含みもない、一瞥もくれずに男は去る。最初から交わらなかった"無関係"の証でしかない。
自分の愚かさに気付けない=救いがないのだけど、彼女にリベンジの場は与えられない。自分を育てられずに大人になった、愛を知らない可哀そうな女性なのだ。誰も手を差し伸べてはくれない。このままずっと気付けぬままで彷徨い続けるだけなのか?
~♪夜空の星がとても美しいのは
ほんの少し光っているから・・・
これを教えてくれるのは誰なのだろう。親?祖父母?学校の先生や友達?最初の彼氏?・・・いや、やはり自分で気付くものではないだろうか。
色々なことに恵まれて育つと、その恵みを得るプロセスを知らないまま「当然」という聖域から抜け出せない人がいる。しかも才能や美貌や身分まで最初から持っていればその恵みが流動的なもの=いつか失われる儚いもの、ということにも気付けない。なので、他者とその尊い恵みの喜びを共有しようとは思えないのだ。
煙草を咥えたら火は勝手に着くものだと思ってる。でもそれは傲慢なのではない、彼女の生来の無知ゆえの"怠慢"なのだ・とShoyanの歌は示しているのだと思う。手を頬に当てているということは、その手を使っていない証拠だものね。
この歌の女性の行動は、胸のボタンをはずすこと、髪を切ること、煙草を咥えること、半年泣き続けること、男を探し続けること、化粧を直すことしかしない。精神的なことが何もナイのだ!「女は生まれ変わった」というが、"Re-born"ではない。惨めな自分から目をそらしただけ。ある意味現実逃避なのではないか?与えないから満たされないのだと、気付かぬままの堂々巡りだ。
"幸せな日々"を思い出すだけで、去った男のどこに惹かれていたのか、自分はどうやって愛されていたのか、二人で何がしたかったのか、ちっとも省みていない。分析する気がない。こんなに愛のない女性像が描かれていることに、伊勢正三というアーティストの一番冷たい部分を感じて、その重要性に慄くのです。この氷点下の極みのような乾ききった歌があるからこそ、その前後のラブソングの熱さ・温もりが際立つのだと思うのだけれど、この両極をすべて歌にしてしまう伊勢正三という人は際限の無い感性の持ち主なのだなぁと、心の底から畏敬の念を抱くのです。一番新しい『Re-born』が登場して、その想いは更に確かなものになりました。
※でも、その温度差、、時々ヒートショックみたいなこともあるので聴き併せは慎重に・・・!?
・・・
この歌を初めて聴いたのは、前述したように14~15歳の頃だが、元来"やりすぎ部"な私は何でもやり散らかして、謙虚な"ほんの少し光る星"にはなれなかった(滝汗)。けれど、気付いていれば修正も出来るし反省も出来ると思う。恵まれないから恵まれている、ということに気付けたら、誰かに何かをしてあげよう・という心持ちで誰かと接着出来るのではないかとせめて思っている。
ほんの少し光っている星も、本当は一番遠くで白いほど熱く燃える星なのかもしれない。
(*´ー`*)☆
女性でも男性でも、誰もみな無意識の頬杖を備えている。どんなに豊かな愛を捧げられても、"気にしながら見過ごす"ことがある。でも、それを見逃さないように、愛の機微にびくびくしながら小心でいることは本当はとっても大切なことだと思う。「失うことなんて怖くないわよ」って言う強い女もいるかもしれないけれど、小さな心だからこそ相手の心の小さな隙間に入っていけるのだと思う。
古い燃えさしは、、、そう何度も火が着くものではない。もう燃え残りもない空の灰皿を前にして、煙草の切れた空き箱を握りつぶして投げ捨てる女の姿が見える。
やはり、そこに救いはない気がする・・・。
私は音楽や楽器の専門知識もないので、ちゃんと語れないけれど、この『ほおづえをつく女』は何十年経って聴いても、本当に渋くてエイジレスな完成度を保っていると想う憬れの歌だ。瀬尾一三氏のチョット初期SteelyDan的なカッコイイアレンジと、Shoyanの挑戦的でフレッシュなリードギター、斎藤ノブ氏の洒脱なパーカッション、故・武部秀明氏の軽やかなベースなど、イイオトコ揃い踏みの贅沢な音を聴きながら、今からでもまだ遅くない・と、イイオンナってどんなん?という謙虚な探求心を忘れずにいたいと思う。
頬杖よりも腕枕的に♪・・・と☆
※昔は見かけるとつい買ってしまった何枚かの中古レコードLP。未使用のシールが入ったままのものがあった。このwindlessblueのジャケット写真の色が大好きだった。夕消えの紫をはらんだ凪紺青は、本当にShoyanにピッタリのハンサムな色だ。今でもそんな中にShoyanの後ろ姿がシルエットになって見える気がする・・・
風のあなたを知らない私なのに(涙)。
いつの間にか夜が明けて・・・ここのところの急な冷え込みに山は雪になりました。ベランダから見える高い山々はみな白くなりました。そうなると町に降りてくる風が雪の上を渡ってくるので、冬の香りがします。とても、寂しいです。
ひたすらに過去ログを読みながらの作業をしていたのだけれど、その度に号泣しているワタシ。世話ないな~(^^;)・・・自画自涙。Shoyanに逢いた過ぎて苦しいほどであります(涙)。でもさっき作業が終わったので、またいつものペース?に戻ります。
はたして、Shoyanご本人も、ご自身の歌を折りにつれ聴きなおして、泣いたり苦笑したり悶絶したりなさることもあるのだろうか・・・
矢沢永吉氏はファンから「永ちゃんご本人はYAZAWAのライブを客席から観ることが出来ないなんて、切ないっす悔しいです、それほどに永ちゃんのステージは素晴らしいものです!」というようなことを言われたことがあるそうですが、私もそれに近いことを想う。
Shoyanの歌はいつも私たちの心を潤して癒してくれる。ギターの絶技で鼓舞してくれる。優しい声で導いてくれる。その永きにわたるShoyanからの深いGIFT、受け取ってばかりの私は何かShoyanご本人にお返しが出来ているのだろうか、、、いや~、無理だ。。でも、いつか、いつかきっと、私たちが受け取るのと同じくらいの愛を、、、Shoyanがステージ上で演奏されているときに客席のすべてから感じていてくれたらいいのにな、と強く想う。どうかいつか届きますように(祈)。
今年初めのラジオ出演で、カヴァー曲をやりたい・自分が好きだった歌を歌ってみたい、というようなことをおっしゃっていたと思う。私はそれにメッチャ賛成なのだ。普段は"オリジナル至上主義"の私だけれど、今のShoyan自らのチョイス&パフォーマンスを知りたいし楽しみたい。この状況下で心境やスタンスの変化もおありだろうとは思うけれど、自らの感性を慈しんで、好きなことを思いきりなさって欲しい!とワクワクしながら待っているんだ。
青春という名の埠頭で、コンクリに腰かけて上げ潮の波に靴を濡らして聴いていた、Shoyanの時間を少しだけでいいから、こんな後追いの自分にも教えてもらえたなら・・・と、そう想うのだ(憧)。
今日は倉庫の屋根の上にいた♪
※拡大してお楽しみください(笑)
ひたすらに過去ログを読みながらの作業をしていたのだけれど、その度に号泣しているワタシ。世話ないな~(^^;)・・・自画自涙。Shoyanに逢いた過ぎて苦しいほどであります(涙)。でもさっき作業が終わったので、またいつものペース?に戻ります。
はたして、Shoyanご本人も、ご自身の歌を折りにつれ聴きなおして、泣いたり苦笑したり悶絶したりなさることもあるのだろうか・・・
矢沢永吉氏はファンから「永ちゃんご本人はYAZAWAのライブを客席から観ることが出来ないなんて、切ないっす悔しいです、それほどに永ちゃんのステージは素晴らしいものです!」というようなことを言われたことがあるそうですが、私もそれに近いことを想う。
Shoyanの歌はいつも私たちの心を潤して癒してくれる。ギターの絶技で鼓舞してくれる。優しい声で導いてくれる。その永きにわたるShoyanからの深いGIFT、受け取ってばかりの私は何かShoyanご本人にお返しが出来ているのだろうか、、、いや~、無理だ。。でも、いつか、いつかきっと、私たちが受け取るのと同じくらいの愛を、、、Shoyanがステージ上で演奏されているときに客席のすべてから感じていてくれたらいいのにな、と強く想う。どうかいつか届きますように(祈)。
今年初めのラジオ出演で、カヴァー曲をやりたい・自分が好きだった歌を歌ってみたい、というようなことをおっしゃっていたと思う。私はそれにメッチャ賛成なのだ。普段は"オリジナル至上主義"の私だけれど、今のShoyan自らのチョイス&パフォーマンスを知りたいし楽しみたい。この状況下で心境やスタンスの変化もおありだろうとは思うけれど、自らの感性を慈しんで、好きなことを思いきりなさって欲しい!とワクワクしながら待っているんだ。
青春という名の埠頭で、コンクリに腰かけて上げ潮の波に靴を濡らして聴いていた、Shoyanの時間を少しだけでいいから、こんな後追いの自分にも教えてもらえたなら・・・と、そう想うのだ(憧)。
今日は倉庫の屋根の上にいた♪
※拡大してお楽しみください(笑)
あ~、今日はグリパラだったのですね。中止だなんて残念。
旧体育の日、晴れの特異日なはずなのに・・・おいちゃんパワーすごい(^^;)。もしかしたらこういう機会にShoyanがゲスト、とかアリだったかもしれないのに~
リベンジ公演として12月に渋谷での開催があるそうですが、秋の日比谷の野外だったから行くっていう人が多かったのではないのかな。師走の渋谷の箱の中、だいじょぶなのかなー
なんか、これから、いい季節限定で地方の小さな屋外ステージツアーとかやってほしい。べるがみたいな場所でもいいし、もう少し大きなフラワーパークのステージとか、人数を半分で時短でやれば結構いろんなことが出来る気がするのだけど・・・
拓郎さんも自身のラジオでライブ引退宣言とかされちゃっているけど、ナゼ、ギター一本の弾き語りに戻ろうとはなさらないのか。ラジオでずっと弾き語ってくれてたらいいのに、なんて思う。おいちゃんもモノ凄くギターが上手でらして、いつもキラリと光る音を出されているのに、なぜお仕着せバンドみたいな構成に埋もれているのか・・・(バンドのみなさんゴメンナサイ)。
私がShoyanの音楽を好きな理由は、「俺が俺が!」っていう部分を素直にお出しになっているからです。そして、いつも自分(俺)に真っ向対峙されているからです。アーチストの方たちはみな我が強いからアーチストなのだと思う。でも、歳を経るにつれ重ね着しちゃって、コーディネイトとかスタンスとかにアクセサリーまで付いて身軽さが遠くなってしまう。
それをどれだけ脱げるか、脱ぎ捨てられるか、裸になれるか、っていうトコロをこれから見せて欲しいと願うのです。軽やかなShoyanでいて欲しいと願うのです。
そんなファンというものの"我が儘”もまだまだ枯れませんよっ。
旧体育の日、晴れの特異日なはずなのに・・・おいちゃんパワーすごい(^^;)。もしかしたらこういう機会にShoyanがゲスト、とかアリだったかもしれないのに~
リベンジ公演として12月に渋谷での開催があるそうですが、秋の日比谷の野外だったから行くっていう人が多かったのではないのかな。師走の渋谷の箱の中、だいじょぶなのかなー
なんか、これから、いい季節限定で地方の小さな屋外ステージツアーとかやってほしい。べるがみたいな場所でもいいし、もう少し大きなフラワーパークのステージとか、人数を半分で時短でやれば結構いろんなことが出来る気がするのだけど・・・
拓郎さんも自身のラジオでライブ引退宣言とかされちゃっているけど、ナゼ、ギター一本の弾き語りに戻ろうとはなさらないのか。ラジオでずっと弾き語ってくれてたらいいのに、なんて思う。おいちゃんもモノ凄くギターが上手でらして、いつもキラリと光る音を出されているのに、なぜお仕着せバンドみたいな構成に埋もれているのか・・・(バンドのみなさんゴメンナサイ)。
私がShoyanの音楽を好きな理由は、「俺が俺が!」っていう部分を素直にお出しになっているからです。そして、いつも自分(俺)に真っ向対峙されているからです。アーチストの方たちはみな我が強いからアーチストなのだと思う。でも、歳を経るにつれ重ね着しちゃって、コーディネイトとかスタンスとかにアクセサリーまで付いて身軽さが遠くなってしまう。
それをどれだけ脱げるか、脱ぎ捨てられるか、裸になれるか、っていうトコロをこれから見せて欲しいと願うのです。軽やかなShoyanでいて欲しいと願うのです。
そんなファンというものの"我が儘”もまだまだ枯れませんよっ。
うー・・・・
モーツァルトホール、微妙な対策・・・
SNSなどで近々開催されたコンサートの写真を何枚か見たが、む~・・・あんな、席のわきにシート立てただけ!?一列置きになっているらしいけど、すぐ隣に人がいるのかぁ・・・一席空けないのか・・・しかも、端っこの端っこの席は、隣に不透明シートがあって、果たしてステージ中央の正やんが見えるのだろうか???
あ~・・・悩む(涙)。
夏からずっとこの件で悩んでいる。
家人の理解が得られるだろうか。
こんなことばかり書いていて悲しい(^^;;;;;)。
徒歩6分の民間の駐車場が予約出来るシステムを発見したのは朗報。
まだまだ悩んでみます。
モーツァルトホール、微妙な対策・・・
SNSなどで近々開催されたコンサートの写真を何枚か見たが、む~・・・あんな、席のわきにシート立てただけ!?一列置きになっているらしいけど、すぐ隣に人がいるのかぁ・・・一席空けないのか・・・しかも、端っこの端っこの席は、隣に不透明シートがあって、果たしてステージ中央の正やんが見えるのだろうか???
あ~・・・悩む(涙)。
夏からずっとこの件で悩んでいる。
家人の理解が得られるだろうか。
こんなことばかり書いていて悲しい(^^;;;;;)。
徒歩6分の民間の駐車場が予約出来るシステムを発見したのは朗報。
まだまだ悩んでみます。
もうすぐ十五夜。
流れる群雲の向こうに丸く張った月が出れば心もざわめく。皓々と輝く月夜もいいけど、そんな雲越しのお月さまもいいな。
本来ならば・・・
私にとっての月の景色は、Shoyan(の歌)との対話の場だった。月が出てくる歌、多いでしょう。しかもみんな大好きな歌でしょう。それはもう数々の歌を知った10代の頃からの、自然な心の持ちようだったのに・・・
ある時から、月を見上げることをやめていた時間が長かった。月が苦しく忌むものだった時があったのだ。でも、そんな暗い感性も、Shoyanとの距離のおかげでどこか遠くへ薄まって消えていった。今はまた愛しさの距離を測るフォーカルポイントとして欠かせないものに戻った。
純粋な気持ちで再びのShoyanの音楽と一緒に"月読"出来る自分がいる。
あの人はどこでこの月の光を浴びているの?
私が想ったことはあの月面で反射して、あの人の元に届くの?大昔からあの月を見て同じようなことを考えていた私が何人もいたはず。そして今もこの世界のどこかで、あなたに逢いたくてあの月を見上げる私がいる。
誰かを慕う小さな願いが束になって白く輝く。たったひとつで全てを受け止めている永い月は、どこにいても想いを託せる優しい鏡だ。
・・・
古暦の『月が射す夜』のイントロは、本当に、出の遅い臥待月に群雲が絡むようで、なんとも言えない妖しさがあって好きだ。一度寝て起きた夜のような、あやかしの時刻、丑三つの月・・・
その、言葉では喋りたくない時・・・
MoonyNightのオリジナル『月が射す夜』では、互いの視線だけで会話するような、月も澄んだ空に高いような、清かな光景が見えてくる。
けど・・・
一方、古暦のバージョンは、夜更けにふと目覚めてしまった夜空に低い月が出ていて夜風も止まっている。
満たされない衝動をもてあまして、寝息を立てて眠っている君を無言のまま再び求めてしまう・というような、そんな、"這う様な独りよがり"が感じられてDarkSideで良い・・・無性に良い。
このバージョンのShoyanの歌声(の録音)は案外細くて、アレンジもオリジナルよりエッジが甘いけど?何故か漂う色気はJUNチャンMagicなのかな(*´ω`)。
何だかいつまでもクセになるのだ。
・・・
そして、この歌に想う究極のアプローチは・・・互いに目の前にいなくても心の中が通じる間柄?(それは"静かな雨音"にも通ずる世界でしょうか)
時とか、空間を利用せずとも、既に逢えている無意識の疎通を想う。喋る以前に既存なのだ。ただその夜空の月を見上げるだけでいい。月光はそのものだけでは目に見えない。何かに当たったり反射したりして、蜂蜜のような光と、漆黒に分かれて物の輪郭を映し出す。それと同じなのだ。
そこにある扉に気付くか見落とすか、読めるか読めないか、そのあたりは意識してできるものじゃないのかもしれない。意識しようとするとそれは妄想やオカルトと紙一重になる危うさ=「Moony」?
だけど、野生だった頃の感性のために、大きなヒントをくれるこの歌。21世紀の今日ただいまだったらどんな風に歌ってくれるのだろう、感じさせてくれるのだろう、と毎回想いながらコンサートホールの暗闇の中で待っているのです。
・・・
~その風鈴、ナゼ音が途切れたのか?
風が止んだのか、それとも短冊が千切れて無くなってしまったのか?
人は"他"という風がなくては鳴れない。独りではやっぱり寂しいもの?・・・価値観という短冊が嵐にちぎれ飛んでしまっても、また付け替えれば良い。
「生まれ変わって新しい風を待てばいいんだよ」
って、何度でも何度でも・・・
言葉だけでは説明しきれないことを、ソッと含ませてる月光のまなざし・・・Shoyanの歌は、まなざしであって抱擁でもある。
さびしいものだけに解かるいつか失くした"無意識のピース"なのだと想う。Shoyanの歌の底にいつも流れている"絶対孤独"という結び目。自分の胸の中に射すこの月明かりで、これからまだ 残された夜にあといくつ見つけられるだろうか・・・
このロストな、失われた2020年の夏を、送ることも出来ないで新月のような気持ちで迎える秋だけど、孤独は絆だというお月さまからの慰めを受け取る気持ちで過ごしていきたい。
☆
※そうそう、『月が射す夜』は古暦バージョンの中で風鈴のような音が微かに入っている。ウィンドチャイムの残り香か?別の鈴の音なのか?本当に微かだけど素敵♪Darknessな一連の中で最後に吹いてきた"改めた風"という感じがするのだ。
流れる群雲の向こうに丸く張った月が出れば心もざわめく。皓々と輝く月夜もいいけど、そんな雲越しのお月さまもいいな。
本来ならば・・・
私にとっての月の景色は、Shoyan(の歌)との対話の場だった。月が出てくる歌、多いでしょう。しかもみんな大好きな歌でしょう。それはもう数々の歌を知った10代の頃からの、自然な心の持ちようだったのに・・・
ある時から、月を見上げることをやめていた時間が長かった。月が苦しく忌むものだった時があったのだ。でも、そんな暗い感性も、Shoyanとの距離のおかげでどこか遠くへ薄まって消えていった。今はまた愛しさの距離を測るフォーカルポイントとして欠かせないものに戻った。
純粋な気持ちで再びのShoyanの音楽と一緒に"月読"出来る自分がいる。
あの人はどこでこの月の光を浴びているの?
私が想ったことはあの月面で反射して、あの人の元に届くの?大昔からあの月を見て同じようなことを考えていた私が何人もいたはず。そして今もこの世界のどこかで、あなたに逢いたくてあの月を見上げる私がいる。
誰かを慕う小さな願いが束になって白く輝く。たったひとつで全てを受け止めている永い月は、どこにいても想いを託せる優しい鏡だ。
・・・
古暦の『月が射す夜』のイントロは、本当に、出の遅い臥待月に群雲が絡むようで、なんとも言えない妖しさがあって好きだ。一度寝て起きた夜のような、あやかしの時刻、丑三つの月・・・
その、言葉では喋りたくない時・・・
MoonyNightのオリジナル『月が射す夜』では、互いの視線だけで会話するような、月も澄んだ空に高いような、清かな光景が見えてくる。
けど・・・
一方、古暦のバージョンは、夜更けにふと目覚めてしまった夜空に低い月が出ていて夜風も止まっている。
満たされない衝動をもてあまして、寝息を立てて眠っている君を無言のまま再び求めてしまう・というような、そんな、"這う様な独りよがり"が感じられてDarkSideで良い・・・無性に良い。
このバージョンのShoyanの歌声(の録音)は案外細くて、アレンジもオリジナルよりエッジが甘いけど?何故か漂う色気はJUNチャンMagicなのかな(*´ω`)。
何だかいつまでもクセになるのだ。
・・・
そして、この歌に想う究極のアプローチは・・・互いに目の前にいなくても心の中が通じる間柄?(それは"静かな雨音"にも通ずる世界でしょうか)
時とか、空間を利用せずとも、既に逢えている無意識の疎通を想う。喋る以前に既存なのだ。ただその夜空の月を見上げるだけでいい。月光はそのものだけでは目に見えない。何かに当たったり反射したりして、蜂蜜のような光と、漆黒に分かれて物の輪郭を映し出す。それと同じなのだ。
そこにある扉に気付くか見落とすか、読めるか読めないか、そのあたりは意識してできるものじゃないのかもしれない。意識しようとするとそれは妄想やオカルトと紙一重になる危うさ=「Moony」?
だけど、野生だった頃の感性のために、大きなヒントをくれるこの歌。21世紀の今日ただいまだったらどんな風に歌ってくれるのだろう、感じさせてくれるのだろう、と毎回想いながらコンサートホールの暗闇の中で待っているのです。
・・・
~その風鈴、ナゼ音が途切れたのか?
風が止んだのか、それとも短冊が千切れて無くなってしまったのか?
人は"他"という風がなくては鳴れない。独りではやっぱり寂しいもの?・・・価値観という短冊が嵐にちぎれ飛んでしまっても、また付け替えれば良い。
「生まれ変わって新しい風を待てばいいんだよ」
って、何度でも何度でも・・・
言葉だけでは説明しきれないことを、ソッと含ませてる月光のまなざし・・・Shoyanの歌は、まなざしであって抱擁でもある。
さびしいものだけに解かるいつか失くした"無意識のピース"なのだと想う。Shoyanの歌の底にいつも流れている"絶対孤独"という結び目。自分の胸の中に射すこの月明かりで、これからまだ 残された夜にあといくつ見つけられるだろうか・・・
このロストな、失われた2020年の夏を、送ることも出来ないで新月のような気持ちで迎える秋だけど、孤独は絆だというお月さまからの慰めを受け取る気持ちで過ごしていきたい。
☆
※そうそう、『月が射す夜』は古暦バージョンの中で風鈴のような音が微かに入っている。ウィンドチャイムの残り香か?別の鈴の音なのか?本当に微かだけど素敵♪Darknessな一連の中で最後に吹いてきた"改めた風"という感じがするのだ。
それに、詞の裏で刻んでるE.Gがカッコ良くて、なんだかもうすでに80年代の音がしてるネ(憧)。
プロフィール
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No Name 七氏−1.0
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飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
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林道歩き・鉱物鑑賞
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