Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0

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昼間の地方ニュースコーナーで三重県の国体の話題を取り上げていたのだが、『GO TO ISE』!!って書いてあったのでメチャ反応してしまいました(*´Д`)。



国体のキャラも可愛いですね♪

午後の天気コーナーでよく出る映像に「三重県伊勢正午」とかテロップが出ているのにもよく反応します(*´Д`)(*´ω`)。今日は大雨だったみたいですが被害などないことを祈ります。

ちなみに、私が今住んでいる地域にも「伊勢」という地名があるので、毎日家の前を「伊勢町行き」のバスが走っています♪毎日反応です(笑)。
 





最近は営業時間以外の仕事の時は、大体AmazonのAlexaで音楽を聴いているのですが、聴ける限りのShoyan全曲ランダムの中で、『風ひとり旅LIVE・アコースティック』の音源でいつも躓く。

この『通り雨』と『君と歩いた青春』のギターが微妙で、つい「アレクサ、次!」って言ってしまいそうになる。なんともやりきれない。Shoyanの歌を飛ばし聴きするなんてアリエナイのに。

DVDの方には参加ミュージシャンのクレジットがあるのだが、この音源CDの方にはミュージシャンの名前がない。大体の予想は着きますが、私はちょうど時期的にこのひとり旅やなごみーずのステージを数回しか観ていないのでわからない・特定できないのだ。まさか、よもや、Shoyanご本人???とか、とてもモヤモヤする。それはないと信じたい(^^;)。でもそうだったらゴメンナサイ(滝汗)。

と、同じように、後世の何十年か何百年かのちに伊勢正三というミュージシャンに興味を持ってこの音源を手にした人の中にも「このギター誰が弾いてるねん!?」ってギモンに思う人が出てくるかもしれない。少なくとも、生まれ変わってまたShoyanファンになっている次世代の私がきっと悩む!(笑)

その次世代のワタシはリアルタイムのステージを一切知らないから「伊勢正三のライブ音源なのだからきっと伊勢正三という人がメインのギターも弾いているのだろうか」なんて思って、でも違和感に悩むかもしれない。ただでさえ、今現在出遅れて後追いファンの自分には、後世の未来のファンの人たちのもどかしさ・口惜しさが少しだけわかる気がする。正やんの音楽は絶対に数百年後も熱心に聴く人がいる。その人の中でとてもとても大切なものになっているはずだ。だから、もっと知りたい・わかりたい・って、きっと強く願うし深く想うだろう。

・・・

長きにわたって発表されてきたレコード・CD・配信、それぞれの音源のそのすべての演者を知っておきたいとやはり思う。音楽って心をゆだねるものだから、音の出自を知っておきたい。そのうえで納得したり不満を持ったり!?したい。

「ギターも弾けないアナタが何を言う権利があるのか」、と言われるかもしれないけど、私は"聴く人"なので、感じたことはちゃんと言いたいと思うのだ。


※2006年~2013年ころにかけて書いたものをまとめました


・・・・・

これはまた私には思い入れ深いシーンである。『moonlight』や『Heartbeat』に続くものである。時が沈んだり、ミステリーが潜んでいたり、そして最近では『緑の秋』も。数は多くないけれど、どの歌もとても気にナル。

何故私がShoyanの"湖"に惹かれるのか?
その辺はまだ具体的に言えない、というかわからない。伊勢正三と言えば"海"というイメージの方が大きいように思う。でもなんとなく、湖のその山と森に囲まれて閉ざされた空間的なトコロがまた私にはShoyanらしく思えて、そんな意味で好きなのかもしれない。

・・・

夕暮れの湖岸のホテル、暗くなるのが早い中、ポツリポツリと灯りがともって、湖は少し波に残照。誰もいなくて波の打ち寄せる音だけが・・・なんて、とてもいい景色。

しかし、この歌は何年も前に地方局のテレビ番組で『心の海』というタイトルで歌われていたそうで歌詞も違う。「♪~キミは海のようだね」となっている。

やはり海だったのだ。
でもその"海"が"湖"に変化した訳はなんだろう?
「欲しいモノ」から「与えるモノ」に変わった部分があるからではないのかと思う。そしてもっと独占的な二人だけの約束。与えることと独占することって相反しているようだけど、実は似た様な愛のカタチではなかろうか。

開け放した心の中から「なんにもあげられないけど」と言いながら「全部君のせいさ」とは、なんて罪なフレーズだろう。

ラストのフレーズの

♪~あの頃のままに僕はここにいるのに

は、だけど、雲なんだよね。

山の向こうに流れては消え、また山の彼方からやってきては湖面にその影を白く映して表情を変える。それに雲が流れてくる時は風も吹いている。湖面もその影響で表情を変える。

波立つからこそ、それは鏡ではないのだ。
想いを湛えた水。
それは時に干上がったこともあったかもしれない。流れ込む土砂で濁ったかもしれない。人工的にダムにしてしまった時もあるかもしれない。

でも、時が経ってまた静かな湖面と、どこまでも透明な水底が戻ってきた時、前と変わらず白いコットンシャツみたいな雲が浮かんでたら、それはどんなに愛しい風景だろう。

・・・

♪~潔癖なことで自分を苦しめるなんて
  君はベージュのようだね

って、それってなんとなく星占いでいうところの"乙女座"な、生真面目で誠実な女性が思い浮かぶ。

なんと遊びのないお堅いキャラなんだろうと思うのだけど、でも自分が苦しむ潔癖って、それってある意味「向上心」だよね。「これじゃいけない」「こうあるべきだ」って、何か強い気持ちがあるからなのだと思う。私はこのフレーズが好きだ。とても大切なことだと想う。

女性に向けた言葉のようであるけども、これはShoyanご自身にもあてはまるニュアンスなのでは?なんて思ったりもしている。

アジサイを例えに出して諭されると、頑なな気持ちも一気に氷解してしまう。花の良さは"変化"だ。変わることを繰り返すことで永遠なのだけど・・・
アジサイって自分で色を変えるのだろうか?
いや、浴びたくない酸性雨とか水不足とか、自分で動けない分、周りの環境がモロに影響するだろう。でも、アジサイは逃げられない。くすんでドライフラワーのようになっていつまでも落ちない花ガラも、それは自然な姿で恥ずかしいものではない。

それに今年咲けなくてもまた来年咲けばいいじゃん・て、切り詰められたらその分花芽を増やそうって、そう自然に思えたら苦しむこともなくなるんじゃないかな。

ただ、一方で、

♪~目立たないように 
  ふさわしくあるように 
  なだめているばかり

これは「え~、そんな殊勝なヒトいるの~?」って、ホントはそんな受動的なフリして実は一番気に留めてもらいたいんじゃないの~?と思ったりもするのだ。

こんなこと思う私ってやはり心が汚れているのだろうか(汗)なだめているってことは自分に嘘をついているんじゃないの?優等生だけど、誰かが手を差し伸べてくれるのを当てにしてるように思えるよ。

『能動的に目立たない』ってことも可能じゃないだろうか。素直に「愛されたい」キモチを出せたらいいのにな。そうすればもっと円滑にカンケイも運ぶし、周りの理解も得られると思うんだ。ベージュの自己満足でその謙虚さを仕舞っていては、相手にしてあげられることが半減してしまう。

・・・

♪~僕の手のひらに掬えるだけの
  シアワセで それだけでいいなら・・・

それ以上何を望むというのでしょうか。
だがしかし、自分が全部反映されないと不幸だ・と思う人がいる。何かを諦めて今現在を得たと思っている人は、今に満足したら過去に失ったものを取り返そうとする。

でも、どんなに辛いことがあっても人生はいつも足し算だと私は思う。失うものなんてないのではないかと思う。大きな苦しみも悲しみも、心の傷でさえ何かプラスになっていくのではないか。諦めたように思いこんだ夢も誰かに掬ってもらうものではない。諦めきれないんなら自分でカタチにすればいい。そういう"気付き"を掬える手のひらをShoyanの歌は持っているんだと思う。だからそれに気付くキッカケを私にも一掬い分けてくれているのだ。

でも・・・現実はそういった心の強い女性には世間は優しくなくて、恵まれていることに気が付かないくらい無頓着な弱い女性ほど他者から幸せにして貰ってる気もする。
何もしない人の方が、周りが何かしてくれるから・・・

なんて(=´ω`)・・・
でもやっぱり、何かしてもらう人よりも、何かしてあげられる人にこそ本物の愛よ訪れて、とそう願う。

・・・

ベージュはおとなしい色でありながら他の色には染まらない未漂白のウブな色だ。そして天然素材の手触り。このウブさと頑固さがいいな。

『君はベージュのようだね』
『古いアイボリー(象牙)のように』
『白いシャツさえ色褪せてゆく』

Shoyanのこの色感覚がすごく好きだ。
色と色の間にある時間を探すのがすごく上手で、そこに目を向けさせてくれる導きがたまらない。

Shoyanの色はいつも優しい。

・・・

※のちに追記

この歌のことは以前に一度色々書いたけど↑、今になって改めてドキドキするフレーズがあった。

♪~やすらぎの中で二人が終わることの方が
  恥ずかしくないか・・・

これは裏を返せば、"このまま続けると安らかでない状況"ということだよね。

でも、

「安らかじゃない状況でも続ける二人でいよう」

という、モノスゴク激しい情熱なんだと、あとになって実感してワナワナしている。ココの部分だけ急に突出して熱い!

終わるほうがメリットが多いカンケイ。だけど二人で共に味わえるならデメリットでさえ甘い絆なのかしら…と。

"誰にも負けない気持"って何だろう。
愛以上のもの?
自負みたいなもの??

この歌で描かれる"キミ"のキャラクターは、とてもしとやかで引っ込み思案に見えるけど、でも、この強い愛の言葉をオトコに言わせているのは、潔癖で目立たないようで実は無意識にシタタカなキミの方だったりして・・・なんて思う。でもそれがこの彼女の魅力であり長所なのだ。

ベージュのふさわしさには打算や依存はないから、実直な愛が最後に残るのだろう。

・・・

「キミは僕を愛しているね?」

なんて、言われたら最高だろうナ…(´ー`*)
なんかそんな風に言われてる気がするこの歌なのダ☆
※昨日の投稿は説明不足があったので少しだけ手直ししました。

・・・

今日、九月九日菊の節句は他の節句に比べて影が薄いけど?
でも、なんとなく好きだ。

子供の頃に読んだ小泉八雲の短編からか、なんだか切ない日な気がする。(もとは雨月物語の『菊花の約』のようだ)

深く心を交わした相手との約束の日=重陽の節句に、遠く捕らわれの身では逢いに行けぬ、だから自死して身を捨て、魂となって友の処に訪ねてゆく。元の話では男性同士でも深い仲(心の情は男女問わず)だったようだから、尚更逢いたかっただろう。待つ方も本当にその日を大切に思って待っていた。ただの約束を守る話じゃないのだ。

『あの人の手紙』でも魂だけで還って来た恋人のことが歌われている。冷たく感じるその手で抱いてくれるほどに実体感があるのに、、、でも、この場合彼女はすでに知っていたのだよね彼の死を。

私の祖父の弟も、特攻隊で亡くなったのだが、田舎の実家に還ってきた話がある。

ある夜遅く帰還して来たその彼に、ひとりの従妹が応対して、風呂を立て布団を敷き明日の朝みんなに会おうねと就寝したが、朝には温かさの残る風呂ときちんと敷かれた夜具だけがあったと。

そしてあとからその彼の戦死の報せが来た、、、、と。
本当に悲しくて、私は完全にその話を信じている。
田舎の家に行って、彼のお墓にもお参りしてきた。

人の魂は他の人には見えないけれど、AさんとBさんの中に同じ心があれば同じものが見えるのかもしれない。同じものを感じることが出来るくらい、互いに深く想いあえたらいいな、と、こんな涼しい夜に想う。

その雨月物語には「人の魂は一日に千里をゆく」とあるそうな。
今、ヒッグス粒子の作用?で私の魂は肉体の中に納まっていますが、陽の気がMAXな今日・重陽のような日には、少しだけ飛び出して千里を走っているかもしれません(個人の見解です(笑))。

雨月物語も元は中国の説話だそうです。
人はどこにいてもいつの世でも、自分と同じもの・自分の片割れを探しているのかもしれない。
私が何十年もShoyanの音楽のファンであり続けるのも、そんなことが理由に含まれているのでしょう。

旧暦の重陽の節句は10月の25日頃だそうだ。
さそり座の始まりの頃、小菊が庭に沢山咲く頃だ。
今年のような憂き年は、そんな秋のさみしさが慰めになるだろう。


※友情って性別問わず、恋愛感情よりも濃いもののような気がします。


 

まだ菊には早いから、葡萄の畑に半欠けの虹を・・・☆
ケイ・ウンスク氏が歌う『雨の日には訪ねて』は、自分で音楽誌を片っ端から見て、調べて聴いた歌だったから想い出深い。90年代中頃まではネットもまだ普及していなくて、新譜情報は自分で毎月活字を追うしかなかった。

今はネットで何でも揃って、椅子に座ってオークションやフリマサイトでも探せばキーワードひとつで欲しいものを知る事が出来るし、お金さえ出せば古いものでも希少なものでも手に入る。映像だって音源だってみんなYoutubeにある。でもその分喜びも少し薄い気がするし、知らない人がアップロードした正やんの映像や情報なんて、自分のものじゃないじゃん!てひねくれたりする(笑)。

世の中がそうなってから逆にそういうのが煩わしくなり、色々サーチしないで話題に遅れている自分です。ひたすら引き籠っているワケです。

・・・っと、脱線しましたが、

この歌、時々引っぱりだしてきては無性に聴きたくなる。自編の雨Best二枚目に『雨の日のイントロ』と共に入っている。

Shoyanの解放された雨遣いの魔法に、吉川忠英氏のメチャ垢ぬけたガットギターの刻みと国吉良一氏のBossaアレンジ&アコスティックなピアノが相まって、非常に高尚な、品のある一曲になっていると思う。

愛の歌でもなく、恋の歌でもなく、哲学的というか、人の感情って水のようで、流動的で翻弄されるものだってサラりと記されている。

雨は何?
気まぐれな男心?自分の心に出来た染み?肩を濡らすサミシサ?今でも二人を繋ぎとめるもの?

変幻自在に例えに遣われる雨の行方が、聴く者の胸の隙間に吹きこんでくる。恋の懐かしさを知る者には、特にその冷たさに熱を感じてしまうほどで、やめられなくなる・・・

伊勢正三という人ほど"雨"の正体に探求を重ねているアーチストは他にいないのでは?と思うのだ。代表曲が『なごり雪』だから、雪の人では?と思うかもしれないけれど、雪以前の「雨」から始まっているその自然現象と、人の「心」の発生理由をきっとShoyanは重ねて何かを見出そうとされているのではないだろかと思っている。ソコガスキデス。


特に二番が好き。
フレーズのひとつひとつが今は実感込めて聴ける。

♪常識と非常識の すれすれのあたり
 あなたは行ったり来たりするけど
 誰もが日常壊せなくて 
 もがいているのよ

この目線、アヤウサこそが花だと思うワタシには意を得たりなフレーズなのだ。フツーが一番、協調が大事、みんなそう言うけど、そうじゃないものにナゼ惹かれる?

この歌を最初に聴いた頃は思いもよらなかったけど、思いがけず日常を壊してみた後で今聴けば、Shoyanが見ていた側に飛び込めたような気がして嬉しくもあるし、また新しい"日常"との闘いの連続なのだなとも思う。

 ♪一度は傷ついて そんなときなぜか
  自分の生き方に戻れるわ・・・

他者と付き合って愛し合って傷つけあうその触れ合いは、自分を一人ではなくしていく。関わりあう沢山の他人の引力に自分というものが引っ張られ、摩耗して揺らいで見失っていく。コトの終わりとは深手を負ったりボロボロになったりするものだけど、でも赤剥けた自分の芯だけになった時、すべてのものが目の前から消えて遠くが見えたりする。

そしていつかやっぱり、懐かしい面影が、その後姿が、風化もせずに佇んでいるのが見えたら、聴こえなくても手を振りたくなる。

私の街で降る雨が、あなたの街に辿り着く頃、その気配にフッと想い出してね、、、って。

・・・

もし出来たなら、ケイ・ウンスク氏のカスレ声じゃなくて、いつかShoyanご自身の甘い声で聴いてみたいと思っていたけれど、Re-bornではそれに近い現象が起きたのでまぁ、、いいかナ?(*´ω`)デモイツカキキタイデス 


今の自分をやっと愛せるようになって、
抱きしめてもらいたい時に聴く歌。


冷たい雨の日だからこそ、
その熱い遠隔抱擁に気付けるのだ。


何度も言うようだけれど、アルバム『メガロポリスの錯覚』は、私には特別に覚醒的なアルバムだった。なんと言っても、ずっとShoyanに歌って欲しいと思っていたBossaNovaなアレンジの曲が二つも収録されていたからだ!

『水槽の街』と『二つの朝』、ダブルJUN!氏たちの最高にWetな完成度の高いアレンジに、Shoyanの抑えに抑えた熱をはらんだ低い声が絡んで、独特の色気を醸している。この頃のShoyanの低音ヴォイスは私の密かな独りだけの宝物だった。今でも好き過ぎて聴くたびに苦しくなる。だからRe-bornで更に厚みを増して戻ってきてくれて、今また本当に悦びなのだ。

この歌のラストの長い余韻を聴き終われば、まるで一編の映画を観終わったかのような充足感を得る。

梶原順氏の至極まっすぐなGutギターの清新さ。浜口茂外也氏の軽やなパーカッションのリズムがWetな中に風通しを感じて飽きない。フルートの息吹とドラムスのロールがドラマチックなエンディングを盛り立てる。そして音が終わった後の静けさに自分の溜息が加わる。

Shoyanの数ある"シネマチック"な曲たちの中でも、特に"視応え"のある歌だなと思う。カメラワーク、コマ割り、サイドストーリーや伏線回収が事細かに想像できる素晴しい歌だ。

真っ白な粉砂糖がかかっているだけの、一皿のガトーショコラのような濃密シンプルさがこの歌の魅力で、何年経っても聴くたびに深くときめくのだ(憧)。

・・・

♪君に一つ預けてる朝を
  も一度だけ僕に返して欲しくて

預けているのは一つなのに「もう一度」とは、ひとつなのに何度もやり取りできるものなのか?しかも彼女はそれを自分の意志で受け取ったのだろうか(後述)?

「預けてる朝」って何だろう。
二人それぞれの「二個」の朝。
一人で迎える朝と二人で一緒に迎える朝「二種類」の朝。
どちらとも言える。

この彼のこの行動からすると、「別れた日」から今日まで心の中は段階を踏んでいて、何かの勢いで破局したものの、今になって幸せだった「二人の朝」の想い出に心が揺れていたのではないだろか。

君と共有していた幸せな時間=朝・を、すべて清算したくて(完全に未練断ち切って)彼女と俺はやっぱり相容れない違う存在なんだ!って確認したくてここに来たのかと思った。

女が一人で夜を問わず外出している=よくないこと、というこの古臭い融通の利かない彼。しかも、思い切れなくて吹っ切れなくて彼女の部屋の前まで行ってみちゃう。どんだけ気になってるねん!と。ここで彼女が「ウェーィ」な感じのオラオラ系の男友達と朝帰りしてきたらどうするつもりだったのだろう?ifの場面を色々想像してしまう。女の私から見たらちょっと情けない彼。勘ぐり&待ち伏せうろうろストーカーギリギリ気質?とさえ思ってしまうほど・・・。

けれど、曲ラストの、そんな彼はこの素敵な彼女に実は想われていたという事実に、こんな彼だってナカナカのイイオトコなのかもしれないとも思うのだ。本当は互いに一歩踏み込めば似たもの同士愛し合えたのではないか?

先に踏み出したのは彼女だった。
この彼女の凄いところは、ちゃんと"自分を愛していること"。しかもその上で彼のこともちゃんと理解している。しかもしかも押しつけがましくもなく、「もしかしたら」という非常に絶妙な加減の備えで彼の好きな香りの紅茶を戸棚に未開封で忍ばせてあるという・・・なんというオトナな女性になったのだろう。

「僕に返して欲しくて」という、誤解の解ける日を彼女は意識してその"朝"を預かっていたのかと思う。でも、ポストに新聞を数日分も溜めちゃうような「好きになったこと(星の撮影)には集中し過ぎちゃう」ような可愛いところもあるのがまたヨイ☆

一番救いのない歌が『ほおづえをつく女』だとしたら、一番報われる歌がこの『二つの朝』ではないかと思っている。(個人の感想です)

・・・

二人で棲んでいた時、きっと彼は「俺に寄せてくれ」と思っていたのかもしれない。融合こそが二人が一緒になることだと思っていたのかもしれない。でもそれが余計に二人の乖離を招いた・・・でも今、この彼女の存在意義そのものである広大な心の宇宙のその寛さを、先入観のないゼロ視点で彼が目の当たりにしたとき、彼女の中に自分がストン、と収まったような気がしたのではないだろうか。


朝は無理矢理に混ぜるものでもなく、ふっと目が覚めた時の、開いたまぶたの先にあるものを自然に見つめることなんだと・・・多分この数時間後に彼は気付く。

・・・ ・・・

だがしかし、これまた25年以上経って今、やはりある意味では「二人の朝は二つの朝のまま」なのではなかろかと想ったりもする。同じテーブルで同じトーストを食べていても、、、なんだかやはり二つの朝な気がする・・・。一個のみかんの中に袋がいくつもあるように、各々の朝がひとつの愛の容れ物に収まっている。そんな調和が幸せの風景なのかもしれない、とそんな風にも考えている。

そしてそれを踏まえたうえで

「あなたはアールグレイ、私はキーマンよ♪」

って平和なお茶の時間を持てたらいいと思う。

※この歌を一番最初に聴いたとき、♪僕の好きだったあの日の香り・でアールグレイをイメージした。ベルガモットの薫りが私は大好きだったからだ。それから何年も経ってラジオか何かでShoyanご自身もアールグレイの紅茶が好きだとかおっしゃっていたような気がする。なんとも他にない香りで、紅茶そのものの香りではなくフレーバーティーなのだけれど、某東急デパートの喫茶店でバイトして覚えた香りなので、今でも忘れ難い。(アイスミルクティー美味しいデス(*´∀`))


紅茶も、ナゼか昔の方が美味しかったような気がする。今は水が変わったせいか、同じブレックファストでもどこか違うんだな・・・

この彼の好きだった香りの紅茶は、本当は何なのかわからない。ストレートなのかフレーバーなのか、茶葉のメーカーによっても違うし、、、けれどそれを知っている彼女は彼にとっては唯一無二の存在なのではないだろうか。「理解されたくば理解しろ」という示唆なのかもしれない。

その紅茶の缶の、封の賞味期限内に開封できてよかったネ☆


追:しかしこの彼女、伊勢正三のラブソング中で一番の"イイ女"ではなかろか。こんな女性が居たら私でも惚れます(*´▽`*)~3 タメイキ。


お盆も最終日になると、入りの日よりも急に日が暮れるのが早くなって虫の声も増え、この数日の前後ではホントにガラリと季節感が変わる。そして決まって必ずこの歌を聴く。

『汐風』は特別の特別過ぎて、語るのを躊躇するほど好きなのだけど、やはりナカナカ上手く書けない。言葉ではなく胸で感じる歌だから・・・♪

以下、散漫お許しを。

・・・

サンズイに「夕」の『汐風』。

「潮」よりもっと風通しのいい「汐」、大好きな文字だ。『汐風』がはらむ温もりは夕陽の色。元気いっぱいの新しい朝ではなく、日が沈む前の穏やかさなんだ。

 宵闇で君の顔が見えなくなる前に
 もう一度 その笑顔見せておくれ

って・・・。
日が暮れる前にその腕に抱かれてしまえば、夜はもう怖くないのです。

とはいえ、言い出せない恋心・眠れないくらいの恋心・思わず抱き寄せてしまう恋心。ここに駆け引きや躊躇はないのだ。そんな真っ直ぐな、水平線に沈んでしまう太陽を手で掬い上げるような彼の純情がホントに清潔で暖かい。


恋は二段階で始まる。

見かけた君が気になりだして、「好き」という気持ちが発生した独りステージの開幕。そして会う約束をして逢えた時の二人のステージの開幕・・・。独りステージの稽古で覚えたセリフが実際逢ったら全部役に立たなくて、彼女を傍にしてやはり理屈ではなくなって、思わず抱き寄せてしまうこの大いなるナチュラルがたまらなくキュンとするのであります。

彼がこの鄙びた海辺の町でどんな"最後の休み"を得たのかわからないけど、夏のアルバイトの一番かき入れ時の忙しいお盆休みが過ぎた8月最後の週の平日休みなのかな?・・・とか、まだ学生で9月になっても数日ある夏休みのことかな?・・とか、初めて逢っていきなり抱き寄せないだろう・ということは、普段からシフトが一緒なのかな、それとも大学とか予備校でゼミが一緒なのかな、とか。若い人の恋愛を全く知らないワタシには妄想の宝庫なのだ。それだけでも色々想像して楽しい。

君を見かけたのはずっと前なのに、"夏の恋"はこのままで終わるかも・・・と、何やら純情には共通点があるようで、こういう"男心の双葉"のような、恋愛前段階の青みかんのような時間の香りがあるよね。

♪思わず抱き寄せた 壊れそうなほど
♪壊れるくらい離さない
♪壊れそうな気持ちだったの?

『秋の葉の栞』の時に、「抱きしめちゃだめだ壊れちゃうから!」なんて思ったけれど、相手を粉々に砕いて、そのすべてを自分の中に取り込んで一体化してしまいたいほどの衝動、そして実力行使。その恋の一体化願望、当時それに私自身も実生活で悶絶していたので、本当にこの『汐風』の青々とした甘酸っぱい煩悶が我がことのように今でも愛おしい。

日焼けと海水で汗ばんだ腕についた砂が、陽が落ちる頃には乾いてはらはらと落ちるような、"何かの変わり目"が優しい。

・・・

過去何度もこういう場に書いてきたが、80年代当時のコンサートではこの『汐風』を歌う際にShoyanは、

「この歌をこの世の中のすべての恋人たちに。次もまた二人で来られる様に、今好きな人がいない人は次は好きな人と一緒に来られるように、みんなの顔を覚えていますから♪・・・汐風」

と、この決まり文句を言って、はにかみながら優しく歌ってくれた。

この言葉は当時の私を励ましてもくれたし、慰めてもくれた。寂しい自分だった。どうしていいかわからない心の謎の中にいた私をこの歌は手を引いて導いてくれた。

「切なくてもどかしいことも、悪いことじゃないんだヨ」

って、

「もっと自分の心の中と話をしてごらん」

と教えてくれた。

自分でエレクトーンで演奏するのも好きだったし、海辺(鎌倉湘南)に沢山の思い出があった。10代の当時、とても近くにいてくれた歌だった。

オレンジ色に染まるエレピのイントロ&エンディング。SlowRockな波に揺られるリズム。白い波頭の飛沫のようなShoyanの声。頬を撫でるフルートの風。転調する頃にはきっと陽も沈んで甘い夏の残照に身を任す・・・卓上ピアノのような可愛い音がおさなごころを残していつまでも色褪せない暖かさを残している。そんな蜂蜜色の景色が大好きだった。

アルバム『HalfShoot』は全体的にシンセや打ち込み系の音色だけど、曲の世界はすごくアコースティックだ。とても純粋で切ない。

『汐風』は伊勢正三のLOVESONGというと、真っ先に浮かんでくる曲の一つなのだ。私の原点であるこの歌にこの夏もまた慰められている。

・・・

今年は軽井沢で夏を送れず、『ほんの短い夏』も『月が射す夜』もこの『汐風』も聴くことが出来ないけれど、そんな時は自分で歌いましょう。その歌を自分で歌えば、今年の夏も、いつだってどこにいてもShoyanと共に居られると想っています。

命のある歌をアリガトウ正やん。
何十年もかけて確かめてきた"歌のぬくもり"よ今こそ、と、遠くで強く抱きしめております☆


猛暑だって愛おしい季節の瞬間です。
山の中から海を想って、秋の"音連れ"を待つことにします。


今年も アイヲコメテ☆



・・・

追:

♪ダイヤル回したよ・・・なんて、今の若い人たちはピンと来ないだろう。この収録アルバムの『HalfShoot』には「アンサーフォン」という単語が出てくる曲もある(『グレー通りの灯り』)色んな過渡期。恋を取り巻くアイテムの多様化が始まった時代だったのだな。

でも、モノや手段が無い時の方が、身一つ心一つで想う時間が永くてよいですネ(*´ー`)。

猛暑お見舞い申し上げます☆
コオロギは鳴き始めました♪


で、追加的なことなのですが、そう言えば、そのRe-bornの二曲以外にも

『アフタヌーン通り25』のイントロ、ピアノが終わって本編の演奏が始まる間の無音部分に実は♪チチチー、チチチーってカウントらしき音が入っているのと、『闇の夜のハネムーン』のエンディングにも謎の電子音が入ってるのと、新録音の『夜のFM』の最後の最後、ピアノが終わったあたりにガットギターのような幽き音が入っているのが気になる。

「なんでそういう重箱の隅つつき隊みたいなことするの?(^^;)」

と、お叱りを受けそうですが(笑)、「何だろう!?」って思ったことは常に後を引いているのだ。

本当はでも、、本当はShoyanはきっともっとわからないようなところにわからないような音を沢山忍ばせていらっしゃるのだろうと思う。でも、私は音楽的な素養も技術的なことも全然ない者なので気付けないのかもしれない。

"言葉"のことは少しはわかれるかもしれないが、"音"のことはほんに素養がナイ(音楽の授業もエレクトーンのレッスンも苦手でした^^;音符・楽譜読めない(笑))ので、Shoyanの歌の半分のことはワカラナイままでいるのかもしれません。

でも、モノを知らないなりに、自分なりになんとか絵を見るように音を聴いてみようともがいています。

体温より高い気温で脳みそが茹だっているので、しばらくはスローに行きます(*´∀`)。


プロフィール

HN:
No Name 七氏−1.0
Webサイト:
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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