Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0
※超長文ご容赦
「どんな時も~初めての旅」とはいかに?
やはりそれは"他日"なのだろうか。
「どんな時も~初めての旅」とはいかに?
やはりそれは"他日"なのだろうか。
抱きしめてみても、触れ合ってみても、他は他のまま?
「抱きしめてみても 心は奪えない」
「抱きしめてみても 心は奪えない」
「人の心 人は見えない」
この二つのフレーズを初めて聴いたとき、
「この世界が闇になって もしも君とはぐれても、抱きしめるとわかる・・・」
と、言っていたShoyanの歌の中で、この四半世紀近くの時を経て何が移行したのか!?と激しい衝撃を受けた。違和感のように思えたけれど、それはすぐに濃い同感になった。なぜなら自分もこの長い時間の中でそう思うことがあったからだ。"抱きしめるとわかるもの"="君"は、他ではなく自分の中にいたのだ・って。
ナゼ奪えないのか?
ナゼ見えないのか?
ナゼ見えないのか?
それは、人の心なんて初めから「無い」からではないだろうか?
Shoyanは風に例えて「行方 誰も知らない」と歌われているように、人の心は橋の上から見下ろす川の流れのようなものかもしれない。
常に流れているから"川"だけど、その底石の上を流れていった水は一瞬で去っている。固定して存在する時間はナイ。人の心もそんな風に無常なのではないだろうか。心は胸の中をずっと吹き抜けている風なのだ。花が揺れたり、雲を運んでくるから見えるように思うけれど、、、頬の冷たさもぬくもりもKeepは出来ない・・・。
それをとどめたように錯覚させるのが、言葉や誓いのジュエリーや肉体関係だ。人はそれに執着するのが価値観だと思っているかもしれない。けれど、東から吹いていた風が急に北風になることだってある。川の水も干上がることも濁ることもある、そして蒸発して雪になったりコップの雫になったりする。人の心だけが"確かなもの"であるわけはなく、この世の自然の理と同じく、疑問以上の説得力で散ったり凝縮したりしながら存在を移していってしまう。それが"心の正体"なのではないか?と、最近想っている。
無きゃ見えないはずだ。
無いんだから奪いようがない。
無いんだから奪いようがない。
「しかしそれではあまりにも虚しいではないですか?」
とも思うのだ。
そこで、Re-born発売から一年以上経って、毎日毎日何度も聴いて、もう少し考えが進んだ。
キミの心、奪わなくていい
既にココに在る
既にココに在る
と。
だから、抱き締めなくても離れていてもココに在る、と。それがこの冷たい言葉の裏に在るShoyanの提案なのじゃないかと想っている。
(そしてそれは『テレポーテーション』などにも繋がっていくコトなのかもだけど、それはまた別の機会に)
・・・
昨日の二人と今日の二人は違う、今二人は昨日よりもっと愛し合っている。けれど、明日の二人は別のルートに一歩づつ踏み出して薄く小さくちぎれ始めるかもしれず・・・二人の旅プランにはルールがない。ルーツは「混じったっていいジャン」というけれど、逆算のルーツ・・・この歌では過去であるルーツが後から"改編"出来て、不確かなはずの未来が"約束"されている。それがとても面白い。
しかも、「抱き締めてみても心は奪えない・人の心人は見えない」という冷たい"断言"のすぐ裏に「愛しい君ここへおいでよ」という絶大な"甘言"がある。 (※いい意味での甘言)
おそらく、、本当に他人の心が虚しいときがある。奪った=得たと思って信じていた対象に裏切られることもある。キミやお前やあなたという存在が、永遠に"一心同体"であるわけではない・というその虚しさと、哀しさと、表裏一体の甘い「ア・イ・シ・テ・ル」が同時進行して語られるこの曲の凄さを今痛感している。何度聴いてもザワめく両極SONGだ。
コタエハ デマセン
・・・
♪愛したくて 好きにはなれない
スキになってしまうと、キライになる日が来るかもしれない、だから、永遠に愛してるままでいたいから好きにならないでいる!
私にはそう聴こえた。凄い真理だと。
でも・・・
ナゼ、"真心"は存在するのだろう?
音楽は・音は目に見えないけど人の心を捉える。目に見えない者同士感応しあうのかな。私はShoyanの一連の歌詞・メロディ・歌声・楽器のPlayに誠実な真心を感じるのだ。抱きしめてみても奪えないけど、抱かなくても心を奪えるということを、Re-bornでは身をもって悟ることが出来た。なんて素敵なカンケイだろうって、伊勢正三という人の50年近い超絶なキャリアをずっしり感じるのだ(涙)。
音楽は・音は目に見えないけど人の心を捉える。目に見えない者同士感応しあうのかな。私はShoyanの一連の歌詞・メロディ・歌声・楽器のPlayに誠実な真心を感じるのだ。抱きしめてみても奪えないけど、抱かなくても心を奪えるということを、Re-bornでは身をもって悟ることが出来た。なんて素敵なカンケイだろうって、伊勢正三という人の50年近い超絶なキャリアをずっしり感じるのだ(涙)。
前奏間奏のたゆとうエレキギターももちろんだけれど、この歌のShoyanの、饒舌な愛撫のようなベースのPlayは最初から最後まで全部カッコイイ(特に連打!)!ので、全部覚えたくて毎日のように聴いている。(ちなみにドラムスの途中のブレイクなどもカッコイイですね)
モールス信号が被さってくる部分のベースのPlayは大きな大きな上げ潮の波のようで、しかも広い砂浜を「ここまでは来ないだろう」というすぐ足元まで伸びて迫ってきた波にくるぶしをくすぐられて悶絶する。
いつか、、、ひき潮で遠く去った波だろうか・・・。「アイシテル」が溶け込んでいたあの日の波がまた満ちてきた、と。もうその波に掬われて、同じ海に還ろう・と言ってくれているようで、全編本当に素晴らしい演奏だと、心の底から涙が出る。旅の終着と始発にある安寧を感じて「あぁ、やっぱり」と得心するのだ。
「愛しい君 ここへおいでよ
ここからは 約束の未来」
ここからは 約束の未来」
と。この言葉はこのアルバムの中で一番心に触れるフレーズで、聴く度に胸が熱くなる。
gardenの頃は「今も遠い未来」と「いつの日かきっとたどり着ける気がした未来」だった。この歌の未来は"約束の未来”だと。すでに今未来だと、とうとうShoyanは"あの頃"から"未来"にスタンスを移されたのだなって思った。過去と未来は同じ源にアルと二人とも気付いたのだ!って。
『テレポーテーション』の二人は何も確かめ合ってなどいないけれど、こうしてきっとひとつになったのかなって想ったのだ・・・(また涙)。
『テレポーテーション・冬の恋parallel・旅する二人』は、それぞれ前後しながら「愛の過渡」を教えてくれる3つの連書のようだ。カラダはいつか終わってしまう、でも二人の意識は交わえる。ひとつになったり、何か生まれたり、消滅したり?ひきずったり、、、目に見えないところで繰り広げられていく人の心の中の愛の結び目がよくわかる。
その、見えない部分を感じられれば自分自身も愛したい人のこともわかるようになるのだと、そう教えてくれる気がするのだ。
Shoyanのラブソングのお仕事はそういうところにあるのだと思う。やはり、何度も言うようだけど、人の心は見えなくてもいいのだ。
・・・
この歌、凄まじい歌なので(ある意味ナマモノ)、次に聴くときにはまた違うことを想ってしまうかもしれない。粘菌のように?姿を変えたり移行したりするこのDEEPな世界に、多分これからは永遠に迷い込んで出てこられないと思います。
なんという至福でしょうか!!
なんという至福でしょうか!!
この、一曲には永いShoyanの歌作りのボトム(底)のような果てのようなものを特別に感じる。そして伊勢正三のLOVESONGにアセンションきたー!と愛の軸の回転現象を目の当たりにした感です。
聴きどころが満載で、いつも聴き終わると涙と冷や汗が出ます。
まだまだ先は永い・・・
まだまだ先は永い・・・
※以上、イミフメな長文ご容赦(汗)
追:1
余談だけど、車を運転しながら聴くときは低音をMAXにしてドアに腕をもたれる。ブレーキペダルやドアスピーカーからShoyanのベースが全部振動で伝わって身体で感じることができる!耳以外でもShoyanのPlayを感じることが出来るんだ!って、触れているのと一緒だ!と私の密かな愉しみ方を発見した。ベーシストが一番モテる理由もこれでよくわかる?(やはり自分はカナリのヘンタイかもしれない^^;)
追:2
波という字と・彼という字は似ている
色々な愛の波形を想う。
重なり合う波、引いたり満ちたりする波、パルスのような波、留まらぬ波、気を許している波・・・次のテーマは、、波の正体を!
重なり合う波、引いたり満ちたりする波、パルスのような波、留まらぬ波、気を許している波・・・次のテーマは、、波の正体を!
追:3
「チョコ好きな君」が一番ザワめきます(>_<)「ネパーリアン?」よりザワめきます(>_<)(>_<*)タマラン
☆~海辺のジャパニーズレストラン
『海辺のジャパニーズ・レストラン』は、なんとなく『渚ゆく』と同じ海が見える。カモメが出てくるからかな?
とっても好きな、夕暮れの杏色の空と海。そして月影の飛沫が光る夜の海。でも"せつなさ"は違うみたい。
『渚ゆく』が(たぶん)現在進行形なLOVESONGであるのに対し、『海辺のジャパニーズ・レストラン』は、どこか第三者的・・・。60年代チックな"渚ソング"の踏襲を感じる。それはきっと、Shoyanご本人の大好きな世界観であって、歌作りのとても基本的な習作ノートの一部なのだろうと思う。
~あの日恋の渚に長い手紙を書いた
砂の文字をまた波が洗う
砂の文字をまた波が洗う
なんて、ロマンチックなフレーズはリアルな色恋じゃない・・・ような。
だが、それがイイ☆
そういった"リアルじゃない"風景が、現実で疲れた心を癒してくれる時がある。それこそ、波に浮かぶカモメの水兵さん♪みたいに、ちゃぷん・・・て波に身を任せていたい時がある。この歌のリズムというのか、バウンスな感じのアレンジが、そういった"波揺られ感"でいいナ。
一時、ステージでこの歌を何度も続けて歌われていた時は、「ん、またこの歌?」と単に思っていたけど、いつしかそれも収まり・・・また今年の夏はこの歌がセツナクテしょうがない。
今はこんなに優しくて穏やかな気持ちになれないから、特に恋しいのだこの海が。戻ればいいのか、先に進めばいつかまた辿り着けるのか、、、ニュースで見たら、湘南の海は人出が凄くてにぎやかだったけれど、それは本当の賑わいなのだろうか・・・。私には波が止まって見える。留まった波はいつ動き出すのかな。
いま私は昔のようにShoyanの歌の海に慰めてもらっている。歌の中には愛しいアイテムが沢山あるけれど、Shoyanの"海"は特に不滅だ。『入り江』以降、そんなことばかり考えている。
~綺麗だった貝殻もいつしか砕けて
夢のかけら拾い集めそっと海へ帰そう
夢のかけら拾い集めそっと海へ帰そう
この部分が一番好き。
眠れない貝殻も、罪な波に翻弄され、苦しみぬいてその身が砕けた頃、やっと海に帰れるのだ。
眠れない貝殻も、罪な波に翻弄され、苦しみぬいてその身が砕けた頃、やっと海に帰れるのだ。
粉々になって無に還る夢・・・そこからが本当の独りの始まりだ。破れた恋の当事者だったら、「誰のせいでもない」なんて思えない。
本当に終わったんだ・本当のサヨナラをしたんだ・と、わかってしまった時、人の"移り変わる心"が全くの自然現象であると、個人では抗えない大きな流れを知る。
その"暖かい空しさ"。
この歌のそんな部分が今は好きだ。
この歌のそんな部分が今は好きだ。
人は何度か古い自分を捨てて、以前の自分とは違う暮らしを生き続けていくのだ。
暖かい空しさを胸に抱いて、愛したり、愛されたりしたことを受け入れる。その痛みを、褪めてゆく陽焼けの痕みたいに懐かしく撫でながら歳をとっていくのかな。
しかし、塞がらない生傷にはいつまでも海の水が沁みて沁みて・・・ピリピリとチクチクと答えを欲したり我慢したり・・・片想いはセツナイものです(涙)。(*´ー`)
暖かい渚の歌はホントに私のシェルターです。
・・・・・
☆~眠れない貝殻
☆~眠れない貝殻
♪だから綺麗になれないの・・・
あなたが遠すぎて
それ、哀しいね。
もしかして"日常"に還ってきたら、二人の時間はナイものなの?秘密の恋さえしていてはイケナイの? 離れていても繋がっているから恋は甘いのに、物理的な距離=二人の距離だったらせつなすぎる。
そのくせ、恋の波打ち際で、いつまでたっても寄せて返す気まぐれなさざ波が二人のカンケイを翻弄してコロコロゆらゆら)))。。
独りじゃ何も出来ないもどかしい貝殻。
独りじゃ何も出来ないもどかしい貝殻。
陸にもあがれない
海にも潜れない
セメテ ヤドカリ ダッタラ ヨカッタノニ・・・?
海にも潜れない
セメテ ヤドカリ ダッタラ ヨカッタノニ・・・?
想いをくりかえすのもきっと同じ巻貝の貝殻。出口と入り口を間違えるとその迷路の行き先が大きく違う。
波任せの恋はなんだか哀しい。
貝殻を砕いて砂に還してしまうのも、たぶん同じ波だから・・・
貝殻を砕いて砂に還してしまうのも、たぶん同じ波だから・・・
せめて、つがいの外れた二枚貝のように、ずっとずっと離れたあなたを想っていたいものだ。
※昔書いたものと、今の気持ちを茫洋と記してしまいました。ご容赦。
#海辺のジャパニーズレストラン
#眠れない貝殻
※昔書いたものと、今の気持ちを茫洋と記してしまいました。ご容赦。
#海辺のジャパニーズレストラン
#眠れない貝殻
"罪になる恋"・・・って相当な背徳だと思うのだが、それが"向かい風"の中で無事に正当な未来を得るのは、、本当はすごく難しいことではないだろうか。
この二人は今どんな状況なのだろうって、何度も何度もリアルを想像しては煩悶し、今に至る。何かを壊してまで先に進みたいのかな?と、、、壊してしまうと、壊した方も激しく壊れるから、その点で二人の気持ちは果たして一致しているのだろうか?と。
彼女の
「楽しかった」とうつむく
「でも寂しい」と微笑む
「でも寂しい」と微笑む
に、最初の最初はモノスゴク切なくなって胸がグーッと締め付けられたのだけれど、何度も繰り返し聴いていくうちにナゼか、、別れ際に無意識にこんな表情をしてしまう彼女って、実は既にかなりアヤウイのでは?と思うようになった。逆に、意識してこんなアプローチが出来るのだとしたらアザトイなとか、、、今慎重に考え進めているところで、Shoyanの目の付け所の凄さに立ち止まってしまう。
しかし、それに対してそれを「やさしさ」だと思っている彼。しかも未来を信じていて失いたくなくて、何でも引き受けると言い切る少しの楽観に、彼と彼女には意識の温度差があるのでは?と思ったりもする。やはり、男の人のほうが真的にピュアなのかもしれない。
彼女の方はそんな先まで今の自分をKEEPし続けられるのだろうか。一抹の不安を感じてしまう「恋」の歌?「愛」はいまだ完全発芽していないように思えてならない。
冷たい雨の中で朝顔の硬い種のようにヤスリ掛けされているような、痛みを超えなくては辿り着けないもの。彼が肩代わりできないこと、預かれないものがあるようで、彼女、耐えられるのだろうか・・・
冷たい雨の中で朝顔の硬い種のようにヤスリ掛けされているような、痛みを超えなくては辿り着けないもの。彼が肩代わりできないこと、預かれないものがあるようで、彼女、耐えられるのだろうか・・・
この恋は、まだ幼いような気がしてならない。
この純粋な彼の一途さを信じられない私は、、きっと心が汚れているのだろう(汗)。
「今度いつ逢える?」
が憎くて堪らない(泣)。
が憎くて堪らない(泣)。
「なんでそんなこと、優しい声で訊くの?」って。
さみしくてさみしくて堪らないのだ・・・涙。
さみしくてさみしくて堪らないのだ・・・涙。
この問いがナゼ憎いのか・・・
それは「いつ逢える?」という「予定の成立が相手次第」ということだからだ。
普通なら「ねぇ、今度はいつ逢おうか?」って、二人で同じ位置で話し合うべきところを、「僕(私)はいつでも逢えるのに・キミ(あなた)はいつ都合つけてくれるの?」みたいな偏りを感じてしまう。
言われた側に「逢えない原因がある」と小さく責められたような気がしたのだ。「いつでもイイヨ♪」って気軽に答えられない。。。
無意識に相手に投げかける「小さな束縛」が積み重なっていったらどうなるのだろう?
「束縛」と「束の間」は表裏一体で、また「約束」も守られてこその未来だと思ってしまう、この歌はナゼか、聴く度にいつもザワメく。どこかリアル過ぎるのかもしれないのだ。
「束縛」と「束の間」は表裏一体で、また「約束」も守られてこその未来だと思ってしまう、この歌はナゼか、聴く度にいつもザワメく。どこかリアル過ぎるのかもしれないのだ。
・・・
でも「君をつたう滴になる」というフレーズは震えるほど嬉しくて、この彼は本当に彼女のことを愛しているのだと痛いほど感じる。
哀しく・孤独で・びしょ濡れの冷たい泥ハネに汚れて泣く存在に、こんな方法で寄り添うことが出来るんだ!って、凄い表現だ!って、今のShoyanのまっさらな愛の新しいチカラを感じる、凄く深いところから出てきた愛の言葉だと思った(震)。
哀しく・孤独で・びしょ濡れの冷たい泥ハネに汚れて泣く存在に、こんな方法で寄り添うことが出来るんだ!って、凄い表現だ!って、今のShoyanのまっさらな愛の新しいチカラを感じる、凄く深いところから出てきた愛の言葉だと思った(震)。
"約束"って、二人いないと出来ないことだ。でも、二人だから別々のココロだ。Re-bornの他の曲たちと何か一線を画すような、"約束の未来"の理想と現実みたいなものを感じた。
曲間のラップ?と言われる部分、もう少し落ち着いて更に畳みかけて、クドイくらいの口説きのドキドキを壁ドンレベルで囁いてもよかったのでは?と思うケド(欲張り自分)。#白いキャセロールに・・・を想いだして、Shoyanは昔からコレやりたかったんだなぁ♪って、懐かしく想った。もっともっとこういった試みにチャレンジして欲しい!Shoyanの色々なヴォイスを感じたいではありませんか!楽しみにしてこれからも待っているのであります。
・・・
私のような聴き手とShoyanの間に"約束"は一切ない。だがひとりだけの欲する心は常にここにアル。約束しなくても待ち合わせの場所に辿り着いてしまうような、そんな聴き方をこれからもしていきたい。この歌の恋人たちが辿り着く浜辺、その行方を私も見届けたいと思いながらこれからも聴き続けるだろう。
※しかし、「今度何観る?」とか「どこに行こうか?」ではなく「何食べる?」ってスゴクShoyanらしい!と思う。
「食べる?」って凄いフレーズだ。
生々しくて、馴れ馴れしくて、最深部だ。
デートの真骨頂だなと思うのであります。
(溜息)
生々しくて、馴れ馴れしくて、最深部だ。
デートの真骨頂だなと思うのであります。
(溜息)
テレビで放送された今年のサマピの映像を観ていると、Shoyanとおいちゃんの『22才の別れ』の時に画面が引きになり、バックに海を挟んで博多の港の風景が見えた・・・ずいぶん近いように見えた。でも、自分の記憶の中ではもっと遠くに蜃気楼のように浮かんで見える景色がある。
・・・
中学生の時、レンタルレコード店で『windlessblue』と『時は流れて・・・』を借りた。それはカセットテープに録音して大事に大事に何度も聴きました。(録音してよかったのかどうかはわかりませぬ、時効にしてください^^;)
ちょうど修学旅行で京都奈良に行く頃聴き始めたので、windlessblueの曲たちは何故か私に関西っぽさ、旅先感、関東以外の場所を思い出させる。そしてその頃、非常にムツカシイ思春期心理の真っただ中にいたので、懐かしくて寂しくてタマラナイ気持ちと共に今もあるアルバムなのだ。
その、思春期からの距離感を一番感じるのが『3号線を左に折れ』だ。ずっとずっと、私の胸の中で浮いたり沈んだりしながら漂い続けている一曲。
まず、地図帳を広げた。当時の私にとっての3号線は"首都高三号線"であって、用賀や六本木を通って東京タワーへ分岐するあの、都会の足場のような景色なのだけど、、、そうじゃないだろうって思って一生懸命国道3号線を探した。
「ググる」なんて文明の利器(笑)がない頃は、そんなことから始まった幼い探求心だった。「国道3号は九州にある!福岡か~、スゴイ!10号線と併せてぐるっと一周できるのか!」と興奮した。でも「あの街並みが見える遠くかすんで・・・」ってなんだろう、海を見に行ったのにナゼ街並みが見えるの??って、とても不思議だった。
今となっては、もしくはリアルタイムでファンだった人たちには既出で既存のことでも、追っかけひとりぼっちファンの自分にはわからないことだらけだったのだ(涙)。
だから一生懸命地図を見て、3号線を左折して行ける海で街並みが見える場所・・・と探したときに"海の中道"という場所があると知ってすごく感激した。本当にそこなのかは今もわからないけど、ぐるっと回り込んだ砂洲で、しかもアノ!志賀島に続いているところだと知ってなおさら興奮した。それこそストリートビューもない訳で、地図だけ見て本当に色々空想した。
塩辛い砂交じりの風が吹く
さみしい海
季節はきっと秋から冬?
行ったことのない九州の季節ってどんなだろう。Shoyanの故郷は大分なはずだけど、博多湾てどんなところだろう、海の色や砂の色はどんな色だろうって、想いながら、、独りになりたい自分は何度もこの歌の中で独りになった。
さみしい海
季節はきっと秋から冬?
行ったことのない九州の季節ってどんなだろう。Shoyanの故郷は大分なはずだけど、博多湾てどんなところだろう、海の色や砂の色はどんな色だろうって、想いながら、、独りになりたい自分は何度もこの歌の中で独りになった。
こんなにさびしい曲、他になかなかない。数あるShoyanの歌の中でも極度にさびしい一曲ではなかろうか。
ずいぶん後になって、Shoyanが一年大学浪人して博多にいたことがあると何かで読んだか聞いたかした。その時の気持ちが歌に反映されているのかな。この歌はすごく「当事者的」で、目線とかメッセージとか想いのようなものよりも、ただ自分が本当にそこに立ってるだけ・の砂浜の風の"寒しさ"を感じる。ただそれだけで本当に茫漠とした空っぽの自分になれる。それがすごく好きなんだ。
故・羽田氏のピアノのシンプルな伴奏と侘しささえ漂うトロンボーンの音が案内してくれる、誰もいない”季節はずれの海”。本当は細かくアコギやエレキの一音、ドラマチックなドラムも入って、当時の音楽好きな男性ファンなどは凄く聴きこんだんじゃないかなって思わせる豊かな情景。ラストのフレーズはShoyanのヴォーカルが重なって聴こえる。この頃の音楽はみな演奏のアプローチが豊かで、曲を作ったり歌ったり聴いたりすることがとても楽しかっただろうなと思いを馳せる。
・・・
後年、といってももう30歳も過ぎた頃、ある機会があって、初めて博多の街に行くことがあった。用事を済まして翌日、迷わずレンタカーを借りて海の中道へ車を走らせてみた。リアル3号線だ!って表示板を見て大感動しながら走った。
雁ノ巣というところだったろうか、その先の砂浜だったろうか、何もない砂浜はややオレンジがかった白い美しい浜で、広くて、本当に海を挟んでビルやタワーが立ち並ぶ博多という都会の街並みが見えた。それは東京湾のようにギラギラしているわけでもなく、横浜のように余裕かましているわけでもなく、とても素朴な、人の生活感のある優しい都会だった。西の街は歴史が長いからなのか、東京より景色が柔らかい気がする(個人の感想です)。
本当はいけないのかもしれないけれど、持っていた小さなペットボトルに砂をひとすくい汲んできた。ゴミも不純物もない鳴き砂のように綺麗な砂だった。家に帰ってきてしばらくしてから紙の上にあけてみたら、さらさらの砂の中に小さな貝殻が入っていた。泣けてしょうがなかった。
数少ない旅行の経験の中で、この海の中道を訪ねた記憶は本当に忘れ難く苦しくさみしいもので、靴の中に入った砂のようにくすぐったいものです。
っと、自分語りを延々してしまいました。お許しを。
・・・
砂に埋めた二人の記念写真は・・・いつか時の潮が満ちて来たらまたきっと掘り返されて波打ち際に還ってくる。それとも、沖の深い海溝の底へ還っていくのかな・・・37年聴いてもまだ決められない・・・
波打ち際に立つと、目を閉じてみたくなるのは、つい独りに還ってしまうからだ。『bayside eyed soul』の彼女も、つい、一瞬、横にいるその彼のことチョットだけ忘れたんじゃないかナ。
自分以外の存在と出逢って好き合って、ひとつになりたいと思う時、でもそれは自分が"純粋=個"じゃなくなるコト。「きれいなもの」だけでいられなくなるコト。二人が混じり合うにはまだ若過ぎたのかナ・・・(寂)。
自分以外の存在と出逢って好き合って、ひとつになりたいと思う時、でもそれは自分が"純粋=個"じゃなくなるコト。「きれいなもの」だけでいられなくなるコト。二人が混じり合うにはまだ若過ぎたのかナ・・・(寂)。
・・・
♪しまっておいたストーブ
もう出さなければいけない季節です
もう出さなければいけない季節です
このワンフレーズですべて語れてしまう凄さなのだ。Shoyanのこの熨斗の水引のような見事な締めくくりは、私の胸の中にも切なさを確実にホチキス留めしていく。バチッバチッて。
ちょうどそこで聴こえるトロンボーンの一節が本当に切なくて・・・秋の"慕わしさ"を引き剥がして冬の"諦め"に持っていく。何気ない喪失感が堪らない。涙。
ちょうどそこで聴こえるトロンボーンの一節が本当に切なくて・・・秋の"慕わしさ"を引き剥がして冬の"諦め"に持っていく。何気ない喪失感が堪らない。涙。
※このトロンボーンの奏者は私の大好きなheartbeatのあの音と同じ新井氏なのか、クレジットの漢字が違うので謎のままなのだけど、同じ人だったら嬉しいな。
毎年この時期にふわっと浮かび上がってくるこの歌は、一度その"寒しさ"を嚙みしめてから、冬に向けて自分を暖め直そうと想う切り替えSONGなのだ。
聴く度に、せつなさのアルバムが厚くなっていく、そんな歌であります。
冷たい雨の一晩が過ぎて
朝に晴れて雲が流れたら
高い山々は半分くらいまで
雪に覆われていた
紅葉の山に白く粉砂糖のように
青空の中で朝日に光って
それはとても美しいものです
朝に晴れて雲が流れたら
高い山々は半分くらいまで
雪に覆われていた
紅葉の山に白く粉砂糖のように
青空の中で朝日に光って
それはとても美しいものです
私の住む町は周囲を高い山に囲まれている。3000m級のガチな山々だ。それがあまりにも急にそこに在るので、人の暮らす町と大自然の境目が無くて本当に不思議な風景だと思う。台風さえ避けてしまう巨大な物質がそこに在る。
なので、町中にある最新設備の県病院などに防災ヘリで山岳遭難者が運ばれてくる。一刻を争う速さで屋上にヘリが降りてくる様子はいつ見ても緊張するものです。
この、風の『あいつ』という歌が作られた当時は、2019年の今とは全然違う登山環境だっただろうと思う。化学繊維の高機能性ウェアもなかっただろうし、スマートフォンもGPSもない、雪崩ビーコンもない、登山靴やロープの品質だって全く違うものだっただろう。食品だって今みたいな多彩なインスタント・レトルト食もなかったよね。
この歌の彼は、どのようにして「山に還っていった」のかはわからないけれど、当時は救助の様子だって全然違っただろうと思う。とても些細なことで遭難が成立してしまっただろうし、捜索も救助も困難だったはずだ。今はその3000mの山頂からほんの数分でヘリで病院の屋上に運ばれてくるというのに。
現代だったら助かっていたかもしれない・・・
だけど、だから、彼の存在はそのまま山の一部になって、そこでそのまま"そっちの世界の者"になったのだ。もちろん今だって収容されず行方不明のままの人もいる。でも、この頃は大自然の中での死が、今よりもっともっと身に近いものだったのろう。
そんな、環境の変化・移り変わりを最近はこの歌によく感じるのです。
※還っていったのはこの彼の身体なのか、魂だけなのか、それはわからないけれど。
※還っていったのはこの彼の身体なのか、魂だけなのか、それはわからないけれど。
・・・・・
ウチの店によく来てくれる近所の年配男性がいる。私の父と同じ世代の方で、今はおひとりでお住まいでいらっしゃるので外食もよくされるのである。仮にYさんとお呼びする。
その来店時にはいつも色んな武勇伝を聞かせて下さるのだが、先日、海外の高峰で遭難死したある若者の話をしてくれた。
(当時、全国ニュースにもなった)
亡くなったのはそのYさんの旧友の息子さんで、第一線の登山家だったのだ。その彼はYさんも小さい頃から一緒に遊んだり、可愛がりつつ成長を見守り続けた若者だった。その法要が最近あったと話してくれた。
(当時、全国ニュースにもなった)
亡くなったのはそのYさんの旧友の息子さんで、第一線の登山家だったのだ。その彼はYさんも小さい頃から一緒に遊んだり、可愛がりつつ成長を見守り続けた若者だった。その法要が最近あったと話してくれた。
その彼のことをYさんは思い出話の中でしきりに「あいつは」「あいつが」と呼んでいた。『夏この頃』でも"山で死んだ"のは"あいつ"だったよね。
"あいつ"って言うフレーズは悲しい。
その当の本人はそこにいない・ってことだものね。誰かと誰かがそこにいない人のことを話す時に使うフレーズ・・・しかも、かなり遠い何か隔たりがある人のこと。
もう死んで会えない人のことを、恋人や友人はどんな思いで語ればいいのか・・・しかも若くして亡くなったりして"ただそれだけのはなし"と淡々と捉えなければ、どこまでも底のない悲しみに引き込まれ続けてしまいそうだ。距離を置かねば、、、そのやるかたのなさに後を追ってしまいたくなる場合もあるのではないか。
"あいつ"という言葉の"距離感"を具体的に気付いた今日この頃。
"あいつ"という言葉の"距離感"を具体的に気付いた今日この頃。
この歌のイントロは雪解け水の小さなせせらぎみたいで、人の命を奪う山と、誘う山の眩しさが綺麗だ。
「忘れちまえよ」と言いながら「また山で迎えよう」と、忘れきれない大切な友人、知人、恋人・・・一人の人間の死は、大自然の中ではひとつの事象にすぎないけれど、生きていく人間にとっては本当に深くて抜けない心のくさびだ。しかも、登山はある意味当人が積極的にそこへ近づく作業だから、どこか、否定しきれないその別離なのだ。♪山男にゃ惚れるなよ(山男の歌)という歌があるけれど、そのリアルな答えがここにある。
私は個人的にはこの恋人だった彼女は、本当にちゃんと忘れることが出来ると思うのだ。忘れるということは「なかったことにする」わけではない。その、距離を受け入れるってことだ。「思い出一つ何も残さない」なんて、でもそれはやはり「愛」ならば残っていると思うのだ。彼女はそれをちゃんとわかって忘れて、先の人生を生きていくのだと思う。
・・・・・
私は個人的にはこの恋人だった彼女は、本当にちゃんと忘れることが出来ると思うのだ。忘れるということは「なかったことにする」わけではない。その、距離を受け入れるってことだ。「思い出一つ何も残さない」なんて、でもそれはやはり「愛」ならば残っていると思うのだ。彼女はそれをちゃんとわかって忘れて、先の人生を生きていくのだと思う。
・・・・・
歌を作った当時のShoyanの身近にそういう人がいたのか、どこかで目にしたニュースからなのか、それとも純粋にShoyanの編んだ物語なのか今の私にはわからないけれど、Shoyanが永い間かけて色々な場面で計って(測って)きたもののうちの、"死んでしまった存在との距離"を想う歌だ。物質がない・時間もない・距離と言えない距離を表す言葉かもしれない「あいつ」。
・・・・・
今この山深い町に住んで高い山に囲まれていると、毎日のように登山関連のニュースも目にするし、周りに登山を日常の趣味にしている人が沢山いる。遭難のリアルを事細かに知ることが出来ると、人の生命と運命と大自然が同時に存在してるのがよくわかる。
生きることと死ぬことは表裏一体なのだと
確認したくてみんな山に登るのかな?
昔も今も・・・
確認したくてみんな山に登るのかな?
昔も今も・・・
こちらからその雪の頂はよく見えるけど
そちらからこの小さな私が見えますか?
そちらからこの小さな私が見えますか?
山を見るたびに、いつもそう想います
2009年09月25日記に加筆
※※「あ・い・つ」の意味って、私思うに「あそこに いる やつ」のこと、ってことにしておきたい(*´ω`)。
ここじゃない、あそこにいる人のコト。
※※「あ・い・つ」の意味って、私思うに「あそこに いる やつ」のこと、ってことにしておきたい(*´ω`)。
ここじゃない、あそこにいる人のコト。
誰でも自分だけの景色・匂い・想い出みたいなものを気持ちのどこかに持っていると思う。
この歌は私の中のそういう大切な部分を暖かくしてくれる特別な歌だ。初めて聴いた頃から特別大切にしてきた歌だし、もう「さそり座」と言う単語が出てくるだけで嬉しくて、ずっとフェイバリットな歌。今年も暖かいココアを飲みながら聴きたい。
・・・・・
なんてデリケートな唄い出しだろう。
なんて優しいShoyanの声だろう。
20代のShoyanの声だ。
まるで処女のような声だ。
なんて優しいShoyanの声だろう。
20代のShoyanの声だ。
まるで処女のような声だ。
♪土曜日へと流れる~
の「どよおび」の響きが大好き。
自分が生まれた季節ってどうしてこんなに好きなのだろう?私は11月から12月にかけての晩秋の頃が一番好きだ。そして自分の生まれた土曜日が好きだ。晩秋の土曜日は私が一番ほっとする日。正確に言うと私の誕生日は11月2日なので、この歌よりちょっと早いかもしれないが、今自然がいっぱいの鄙びた町に住めば、秋の山や空の美しさがより一層に私を慰めてくれるのだ。
※近年、Shoyanご本人は秋は体調がすぐれないから苦手っておっしゃっていましたが・・・(^^;)
・・・・・
この歌では何月何日に誰が生まれて、何の花が甘く香っていたのか具体的には書いていない。でも密かに用意されているキーワードが聴く側にピンとくるものがあるんじゃないだろうか。決まりきったただの"描写"じゃ捉えられないものをShoyanはそっと埋め込んでいるはずだ・と思いながら聴いている。
ゆく秋を懐かしむ窓辺の花はなんだろう?
姿はサザンカ?
香りは少し早いキンモクセイ?
それとも祝いのユリやバラのブーケだろうか。
ヒヤシンスには少し早いね。
庭の小菊も綺麗だけど。
姿はサザンカ?
香りは少し早いキンモクセイ?
それとも祝いのユリやバラのブーケだろうか。
ヒヤシンスには少し早いね。
庭の小菊も綺麗だけど。
70年代の半ば頃にあった花を思い出してみる。今みたいに多種多様の凝った品種はなかったと思う。懐かしい昔のスタンダードな花たち・・・そんなことも今になると考えてみたりする。
私の幼き日、通っていた幼稚園の庭のザクロ、友達の家の池の睡蓮、国道の排気ガス、絵の具のレモン色、肌色、ビリジアン。若い母と父がいた借家の、縁の下のカタバミやデージー。オケラがいたブロック塀の下。未舗装の道を抜けて川縁のサイクリングロードに出るススキの原。遠くには雪を頂いた連峰・・・
今住んでいるところとよく似ている。だから、いつまで経ってもこの歌が懐かしい。
私が数あるShoyanの歌の中で大切にしているいくつかのフレーズ、その中でもかなり上位にある歴史のある言葉。
♪もうそれは還らない日々だけど・・・
父の仕事の関係で幼稚園時代を福島という地方都市で過ごした。妹二人もそこで生まれた。その東北の小さな都市で自分の雛形は出来上がったのだと思う。でも小学校にあがる前に引越しをして東京(横浜)に出てきたことで、その福島にいた頃のことはぽっかりと私の心の中に小さな世界を作った。
小学校にあがっても、高校生になっても、私はその頃のことをよく思い出したし、折りにつけ懐かしんだ。暮らしぶりに特別な違いがあったわけじゃないのに、子供の頃から子供の頃が懐かしかった。
この歌の「もう還らない日々」はいつのことだかわからない。でも、私にとっての「還らない日々」はその幼い日のことなんだ。この歌を知ってからずっと、このピュアすぎる一曲に自分の想い出も預かってもらってきた。昔、優しい年上のお兄ちゃんに遊んでもらったように子供の私がいる。その懐かしい日からの今を思えば、自分が生まれたことも大切に出来る。
当時のShoyanがどんな思いでこの歌を作ったのかもわからない。でも歌の意図なんて考えないで100%自分のモノにしてしまえるほどこの中の景色は自然だ。こういう歌があるから私は伊勢正三の歌が好きなのだ。"私の中にあるもの"と同じものがここにある・と知った時から私はファンになったのだと思う。
それはこれまでずっと私がShoyanのファンであったことの最大の理由なのです。
・・・・・
この曲のアレンジもとても好きだ。
シンプルで、ちょっと実験的で、挑戦的で、ボーカルがフワっと浮かんで聴こえるようなシンプルさ。ドラムの楔と佐藤準のピアノが牽引する、バックミュージシャンの際の際で「彩る」音が本当に美しい。
シンプルで、ちょっと実験的で、挑戦的で、ボーカルがフワっと浮かんで聴こえるようなシンプルさ。ドラムの楔と佐藤準のピアノが牽引する、バックミュージシャンの際の際で「彩る」音が本当に美しい。
Shoyanの声やメロディー・詞を邪魔しない絶妙の存在感でワクワクさせてくれる錦の帯みたいだ。超後追いファンの私は90年代に入ってからスティーリー・ダンの『Aja』を知ったのだけど、それに勝るとも劣らない素晴らしいアレンジ&演奏だと思う。
エンディングに連なる繰り返しは、血がザクザクと沸くような胸の中で石が発火するような熱さが堪らない。ミスタッチギリギリのところで転がるJUN氏のピアノがShoyanが描いた景色を昇華させていく・・・
本当に堪らない。
※結局、佐藤準アレンジが大好きなのかも自分
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今から「ゆく」のに
すでに「懐かしむ」秋
すでに「懐かしむ」秋
本当は寒いのに「暖かい」冬
この頃のShoyanの意識的な折り込みをを感じるフレーズ。同じアルバム内の『冬京』でも冬を越すには「暖かい愛」が必要だと、そして『そんな暮らしの中で』では「寒さの中にかくれているのは暖かさなのだから」と、対比は実は同じもの・という気付きがある。
"冷たさと暖かさ"この反復があるから、聴く人の胸に露が宿るのだ。
暖かいカップからは湯気が立ち
暖かいカップからは湯気が立ち
冷たい缶には水滴がつく
何か、そんな発見をこの頃からのShoyanの歌に感じていくのだ。『海風』というアルバムは伊勢正三の"海抜ゼロm"だと思っている私。そのことはまた追々書きたいと思う。
・・・・・
紅葉の華やかな時期は終わり、クリスマスの賑やかさにはまだちょっと早いこの静かな初冬の頃。まだ落ち葉がしっとりとして積み重なる静かな日、自分の事を考えるにはちょうどいい頃だ。
そしていつも毎年、傍にはこの歌があることだろう。セピア色の古い写真のように、暖かく、懐かしいままでずっと・・・。
2005年10月記より加筆
風、の歌の中でたぶん一番好きだ、
と特に想うようになった。
もちろん、『海風』と双璧なのだけど、この切なさ極まりない胸の締め付け感&エロティシズムは『海風』とは背中合わせの受け持ちパートなので、どうしてもどちらか一方になんて絞れない。
一見シンプルなように見えるこの歌はしなやかな豊かさを持っていて、後々の数々のLOVESONGの原点になっていったように思う。この歌からどれだけの歌が派生しただろう。これこそ「ジャンルは伊勢正三」な曲だと思う。
ギターも凄くナマな感じでジャリジャリと絡んで、手作り感のまだあったあの頃の東京の街をこの歌に縫い付けているのが切ない。
古暦のアレンジも渋くて大好きだけど、この二パターンは赤と青の立体画像の原画みたいに胸のうちで重ねて聴くと、その時代の空気感が浮かび上がって、過ぎ去ったセツナサを今も肌で感じることが出来る気がする。
"あの頃"に戻る、ということは、"今"との距離が測れるということだ。イントロや間奏のギターのフレットの移動、スライドの音がそんな風を感じさせるのかな・・・
私は勝手に
♪~ぼくの胸に顔をうずめて潮の香りがすると・・・
の「潮の香り」は、汗の匂いの中にあるのではと想っている。
すべてが溢れている街の片隅の、何もない部屋の何気ない時間の中で、寂しさを重ねて抱き合った二人。その熱さと淡さの混じった愛の営みの、男の汗の匂いの中に 女は気付いたんだと思う。
本当は "去った"のは 男の方なのではないだろうかと。潮の香りは街との"距離の香り"だ。ふるさとのない街の女はきっと、それに気付いてしまったのかもしれないって・・・
すれ違い
欲するものの違い
生まれ育ってきた時間の違い
欲するものの違い
生まれ育ってきた時間の違い
赤の他人と求め合う愛は、肉親が与えてくれる"暖かい愛"とは違うもの。独りと独りが"ふたり"になるために必要なのは、身体の触れあいとか、部屋という空間や、ステイタスではなくて、互いの「時間」を溶かし合うことなのでは、と想う。
それには自己犠牲も含まれる。
自分の内なる時間に相手の時が溶けこんでくることを避けて拒んでいるうちは暖かい愛をみつけることは難しい。その愛の暖かさとは、実は互いにぶつかり合い・傷つけあって発生する苦しい摩擦熱の還元の一部だ。それは恋人同士に限ったことではなく、友人間や、隣近所や、仕事仲間などの「他」全てに同じことだと想う。
自分の内なる時間に相手の時が溶けこんでくることを避けて拒んでいるうちは暖かい愛をみつけることは難しい。その愛の暖かさとは、実は互いにぶつかり合い・傷つけあって発生する苦しい摩擦熱の還元の一部だ。それは恋人同士に限ったことではなく、友人間や、隣近所や、仕事仲間などの「他」全てに同じことだと想う。
喧嘩や欲求・束縛・依存は良くないものと思われがちだけど、人と人は、埋められない溝・越えられない壁を無理にでも破壊して、再構築してゆく手間に本当の愛を見つけるのだと思う。
しかしまたそれに気付かず去ってゆくのも引き潮の法則・・・都会の中の人の営みの天然。陽が沈んだり、秋の深まりに葉が落ちるようなことと同じ無常で、どっちが正しいのかなんて答えが出ない。
いつか、自分の胸の中からその町の潮の香りがしてくる日が、きっとくると・・・そんな予感をはらみつつ何十年も聴いている。
そんな愛しさ、それが冬京。
追:
♪~そんな サ・み・シ・サ・ソ・れも東京
の「S」の羅列がすごく好きだ。
木枯らしが吹き始めそうな音だよね。
木枯らしが吹き始めそうな音だよね。
※高倉健氏存命の頃に書いた
ある時ある日の文章です
ある時ある日の文章です
・・・・・
♪あぁ、健さんのように強くて・・・
今日はワイドショーもスポーツ新聞も高倉健の映画出演の話題だった。80歳・・・恐る恐るチラ見したらメチャカッコ良かった。素敵・・・
一日中『離婚歴三回』がアタマをグルグルして、仕事中も離れなくて、思い出してはついニヤニヤしてしまった。部屋に帰って、とても久しぶりにかぐや姫の音源を聴いた。この歌大好きやねん!こういう歌を作っているイセショウゾウという人に興味津々で、こういう歌を歌っているKAGUYAHIMEという人たちがとても好きだった。
今、改めて聴くと、この単語選びが本当に可笑しくて、聴きながら大笑いしてしまった。そしたら、なんだか気が楽になった(´∀`)。
女性の様子を例えるのに、男性のヒーローや食べ物・虫!が出てくるのが面白い。本当にこの頃の作者の身の回りのものが目に見えるようで、これは後になったら絶対作れないんじゃないかと思う。クリープ・ゴキブリ・蛍光灯・ふんどし!?・茶わんむし・ざるそば・カマキリ・入れ歯!!etc、etc・・・1971年ならではだと思うんだ♪
でも、後の
♪古いシトロエン マチスの色
・・・
午後の謎めくピノ・ノワール・・・
・・・
午後の謎めくピノ・ノワール・・・
と、なっても違和感ないのがスゴイ。
私はこの2曲を同列線上の物として捉えている。
私はこの2曲を同列線上の物として捉えている。
・・・と、脱線。
しかし『離婚歴三回』というタイトルもスゴイ。どうして"離婚歴"!?(笑)しかも三回も!結婚じゃなくて離婚が三回ってスゴイ。それを19歳かハタチの若者が作るというその動機が知りたい。
意識して面白い歌を作ろうと作り始めたのか?それとも偶然?キッカケは何だったのだろう。どうしたらこんな面白い比喩を思いつくのだろう?Shoyanの言葉のセッティングって本当に凄い。
しかも、おいちゃんの曲もよく馴染んでいて、サラリと自然でスゴイ二人!
♪長島さんのように燃えやすく
♪茶わんむしのようにさめやすく
♪茶わんむしのようにさめやすく
って、本っっ当~~に面白過ぎる。・゚゚・(>_<)!!
『僕だめ』の"ダメ語り"もそうだけど、Shoyanのこの状況提供のセンスってサイコーだ!
『僕だめ』の"ダメ語り"もそうだけど、Shoyanのこの状況提供のセンスってサイコーだ!
(後の回文の言葉選びもそうでしょう)
・・・と、ここまで以前に書いておいたのだけど、昨年のHIRO氏に提供の『祈り』や『久しぶりのしょうがない奴だ』『JunkFood』『B級映画のように』『メガロポリスの錯覚』『イノセント・ノベル』『風の日の少年』などなどなど、Shoyanの言葉選びはいつの世もキレキレでまったく錆びない!それはShoyanがご自身の言葉のカッティングナイフをいつも真摯に研いでいるからだ。しかも、他のアーチストも追随出来ない凄まじい静謐な集中力で・・・。
臆病な人は自身のナイフを研ぐのを怖がる。錆びる以前に鞘からも出さないだろう。
ギャグのような 言葉遊びのような、軽やかなものであっても、その言葉のエッジは他と比べようがない。Shoyanの魔法のファセットなのだ。いつまでも、いつまでも憧れてやまないものです(*´ω`)。
※ずいぶん過去の何かのインタビュー記事かなんか(いい加減な記憶)で、Shoyanご自身が「ある占いによると僕は三回結婚するらしいです」とかおっしゃっていたのを目にした記憶があるのだが、ナニソレ不穏!(笑)
と、と、とにかく、
三回も"離婚"するのは容易じゃないよね。
(;´∀`)滝汗
三回も"離婚"するのは容易じゃないよね。
(;´∀`)滝汗
プロフィール
HN:
No Name 七氏−1.0
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
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