Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0

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※3年前に載せたものですが、改行など再編集して再掲します

・・・
ベンジャミンの鉢植えって、何故、二本絡み合わせて仕立ててあるのだろう?
見た目の面白さかな?

一本では立てない訳ではあるまいに・・・
あの、二本の幹を縒り合わせてある仕立てが
象徴的ですよね・・
と、この歌を聴いた当時想ったっけ・・・
・・・
「何も出来ないわよ」
と、そっけなく応えながら、時間外の食事の支度をしてくれる彼女。
"冷蔵庫の明り"のように、冷たいのに暖かい・・・と。

こんな夜中に、そんな寛大な態度をとれるなんて、それは"素敵な女性だ"と思っていた。
出来た女だ・と永いこと思っていた。
でもなんだろうこの違和感・・・
「何も出来ない」って実際はネガティブな言葉。本当は優しい女(ヒト)なのに、ハッキリしない彼を前にすると出てしまう体温の低さ。

どこか、すべて委ねていない。
そんな風に最近思う様にもなった。
「私って何も出来ないから」
「それはやったことないから」
「もう○○歳だから」
などと、謙遜のつもりで言う言葉が、サウンド的に相手の無意識に対して、ネガティブな印象を与えていることがある。悪気はないのだろうけど、そういうことって、無意識ゆえに少しづつ後からじわじわ効いてくる。
聴き始めたころは彼女のよく出来た部分の象徴だと思っていたこのフレーズが、最近、二人の隙間の温度差にも思えてしまう。

彼、言葉少なにグラスを置きながら無意識に贖罪みたいな気持ちになっていたのじゃないかな・・・
あるいは"ひけ目"のような・・・
「私はこんなにちゃんとしてるのに、あなたは何が不満なの?」
「自分でもわからないけど、好きだけど、好きでいられない」
などと、男と女ってナンギな存在だ。
だって、別物だもの。
惹かれあうのに、異質なもの・・・
互いに縒り合わせていける柔らかい愛情を持てなければ、いつしか、そのワンルームは窮屈になる。心のワンルームはそれでひとつの"価値観"だ。独りの部屋に二人は棲めない。マンションの部屋の合鍵は二つ作れても
個人の鍵穴はそれぞれ違う。

でも、それが同じ鍵で開くようになるのが
恋愛の不思議というか・・・男女が結ばれる理由なんだろう。
まさに『恋愛は人生の秘鑰なり』だ。
・・・
何故、この彼は置手紙を書きなぐって出て行くのか?
しかも追いかけてくれたら・・・って。
まったくもってフニャフニャした頑固さだ。
厄介な意地だ。
でも、この彼女は顔を真っ赤にして必死で追いかけてくるような女だろうか? 
泣きじゃくって胸に飛び込んで
「行っちゃヤダ!」
って言える女だろうか・・・?
ソコガ不安ダ
・・・
この恋、どちらかがオトナになり過ぎたのだろうか。
合鍵を作った頃の傷つきやすい初々しさを、
男はいつまでも引きずってチョット理想化してたりして・・・
でも、女は傷つきたくないから必然的に少しづつ強くなって・・・
そんなスタンスの違いが窮屈さを産むのか?
でもさ、本末転倒ダヨ。
お互いに好きで、必要だから一緒にいるのに・・・
台所に立つ姿も
居間でくつろぐ姿も
ベッドの上の寝顔も
色んな顔がオンナにはある
彼、そこに気付いているのに、ぶつかり合う手間を避けて出てゆくなんてちょっとズルイヨ☆
モウ ケンカハ コリゴリナノ?
この歌は、Shoyanの歌の中でも特に、非常に高度な恋愛解説なのだ。
尚且つ、Basicでもある(難)。
答えがひとつじゃないところが曲者だ。
・・・ 
次はきっと
彼女はこう訊くだろう

「今、何が食べたい?」
って♪
暖めなおしの恋を
今度は焦がさないように・・・☆


※やっぱり今でもバカラックの『Wives&Lovers』を共に想い出してしまう(Julie London Ver.など)。特にこんな梅雨のはしりの時期には・・・

 三拍子だから?
 似てるという訳ではなく、、、
 何か、このアルバム全体がとても
 sophisticated(死語?(^^;)
 な作りで、お洒落だからかな・・・?
 Shoyan、Jobim、Bacharach は
 私の永遠三大Composerなので
 引用しても許して神サマ♪

 数あるShoyanの歌の中で、輝度の高さでは上位3曲に入る『眩しい曲』で(他2曲は?)いつ聴いてもゴキゲンになれる。サウンド的にもスゴク完成度の高い歌じゃないだろうか。

フルートの"風感"な音はShoyanの歌に良く似合うし、この歌のGutギターの刻みは乾いていて硬質で、とても心地良い(癒)。カランカラン♪としたギター、この湿気の無さが好き。

アルファベットが多いのも特徴的で,
『backgammon』とか、引用がカッコ良すぎる!「エネルギー」を『エナジー』とか、勉強になりました。

だけど・・・
ぬかりなく?ちょっとセツナイ。
この場合のセツナサは、一点のシミもない乾いたサウダージ。そんな絶妙なニュアンス、Shoyanにしか表せない。

南北縦に割った子午線を、僕と君で別々に東回り?西回り?しても結局、ここに戻ってきてまた逢うネ♪ という気付きと、

渚の熱い砂浜で肩を寄せあって座っていても、その寄せ触れた肩は、1cmでも離れれば一瞬でボクとキミは地球一周分離れているのだよ・という、二人の刹那さ・・・。

それをこのさりげない夏の日の一場面。
眩しい恋の1Shotに込めているShoyanの技ってもう、お洒落過ぎて心憎くて堪らないモノがある。毎夏の何十年の悶絶。

KAZEの頃からまだ何年も経っていないのに、この垢抜けたシチュエーションは! 美しいメロディーとバランスのとれたサウンドは!! それは、聴き手にとっては劇的な変化だったに違いない・・・。(もちろん、KAZEの頃も洗練されてお洒落な曲はたくさんあるけど)

話、少し逸れるが、
1981年てスゴイ年で、寺尾聰氏の名盤『Reflections』が4月にリリースされているのだけど、この『スモークドガラス越しの景色』が同じ年の秋にリリースされているのは単なる偶然だろうか・・・私の中ではこの2枚、少々シンクロする。

といっても、実際は双方に関連性はないのだろうけども・・・。

でもこの『僕と君の子午線』と『渚のカンパリ・ソーダ』は、それこそ眩しさ・輝度がチョット似ている気がするんだ♪(と想っているのはキット私だけだと思いますが)

シチュエーション的に「あぁ、世の中明るくなったんだなぁ」と思わせる部分で、この頃の歌に共通する屈託のないニュアンスかもしれない。

でも歌の中に前述した哲学的なこと?というか、"時の流れ"の具体的な考察や愛の性質を考えちゃうとか・・・の部分、そういう"インナートリップ癖"は寺尾氏のこの歌には無い。"プレイボーイ目線じゃ"ない"ところがShoyanらしくて、『僕と君の子午線』はサミシガリヤのフィルターに引っかかるのだ。

サウンド的な変化や、引用する言葉の多様化に惑わされずに、そういったShoyanの歌の本質をこの歌から感じ取れたら、もっとずっと聴き続けていたい・って想うんじゃないかな。だから、この曲に限らず『スモークドガラス越しの景色』のアルバム自体が、とても大切な分岐点だったのだと思う。

Shoyanが(音楽業界全体が?)この後デジタルに移行していく前のアナログ最後の、手作り感溢れる至高のアルバムだったのでは?と想う。※でもたぶん、デジタル技術はその角が取れてこなれるまで、あと10年くらいまたかかった様な気がする。と、音楽的シロウトが申してみるテスト^^;。

・・・

「砂浜にあったよ」
唐突にこんなセリフから始まる歌が面白い。『有り得ない偶然』の「そんなことがあって」に匹敵する。そして、生まれたままの姿のキミへ目線が移り・・・情景が非常に立体的でShoyanらしい空間の組み立て方だ。聴き手は「それでそれで!?どうなった?」と興味津々になるワケ。

そうやってその場の太陽光線の強さまで痛いほど感じられる。それがこの歌の眩しさになっている。"臨場感"、それはShoyanの歌の隠れたスパイスなのだ♪

~(暑い夏の日の)
 時は その時間だけを
 流れてゆくものでもなくて

何度も何度も、何度も聴いてきてフト、こんな部分にハッとする瞬間がある。

生きてゆくタイムラインのことをまた考える。
この恋を一瞬だけのものではなく、持続させたい・永遠にHoldしたいということだろうか。"裏時間"の存在に気付いたらそれが可能になると・・・?
でも、Holdしたいのは恋だけじゃない様な気がする・・・ソレハナニ?

水平線を断ち切って、モーゼの奇蹟のように海が割れるほどの"実現"が遂行出来るだろうか? 海の底まであらわになるような、そんな"思い切り"を集中力と呼ぶのだろうか。

Shoyanが「キセキ」を口にされる時、いつものこの歌のこのフレーズを思い出す。とても軽やかでブリリアントなこの歌だけど、本当はこんな深いコトも忍ばせてあるから好きなんだ。

蒼い西風のようなこの頃のShoyanの果実味溢れる声もたまらない☆(><*)
曲のラスト、テンポアップしてオルタネート?したBassが超カッコよくて、本当に粋で素敵なアレンジ、何度でも、何度でも・・・湧きたてられる。あと何十年聴くのだろう?こんなゴキゲンなLastSceneに私もいつか辿り着きたい。

遠く離れすぎて、またここに戻ってくるまで♪ 

See You~☆
※オリジナルの『海風』を一言も語らないままに、セルフカバーセレクションの『海風』のことを書いてみたのを載せておきます。でも『海風』って語れます? イヤイヤまだ無理。まだまだ、38年感じてる最中ですよ!(>_<)

・・・

普段、自由な心を持つことがままならない自分としては、CDの音源に浸るだけでも貴重な時間。ただ、生の音に逢えないのはやはり少し寂しい・・・ 

でもそんな私を一番奮い立たせてくれるのはこの海の風!!あなたの海のあなたの風だ!!

メロウな『置手紙』などとは逆で、ヘッドフォンではわからないバリバリと空気が弾ける生のスパークがスッゴクいいのだ。店や車の良いスピーカーでガンガンにかけたいセルフカバーの『海風』。聴くたびに思わず身体の方が先に動く。

でも、CDで初めて聴いた時はそんなにインパクトがあったわけではない(汗)。アレンジもそんなに変わっていないし、ライブ盤のようだなって思った。

『海風』も原曲が完全な出来のような気がするし、Shoyanの"海抜ゼロm"の大事な曲だから、セルフカバーは容易ではないと思ってた。小細工は出来ないゾ・という歌だと思うんだ。だから正面から体当たりの"LIVE"感というのは、とても大事なことだと思った。でも今回その点がバーーーン!と第一印象にきたので、手放しで音の渦の中に飛び込めた。それはインパクトと言うよりはむしろ安定で・・・キャッチャーの捕球のような、ずっしりとしたものを感じた。

間奏のハモンドオルガン系の音は、海流がぶつかってうねる潮目に泡が渦を巻いてる感じでサイコーにイイ!!! 海水の中で泡立つ大小の気泡、ハモンドオルガンの音が大好き♪海の中まで見えた『海風』はこれが初めてじゃないかしら。(だからShoyan-Clockは「海」なのか)

その上では中野督夫氏のエレキギターが、大型のミズナギドリのように海面すれすれに飛翔していく。

Shoyanのギター(ギブソンか!?)は、潮辛い風にはためくシャツの裾・・・ちょっと砂を含んで・・・その立ち姿を私は遠くで眺めているだけで幸せ。

ドラムスとベースとパーカッションのリズムは、どこまでも漕ぎ出していける広い彼方の海鳴りを聴くようでカナリknot数高いゾ ヨーソロ♪

特に、本当に今回のドラムスは素敵で、(センチの演奏の中でドラムに一番興味アル)ベースとパーカッションはちょっと"乾き過ぎ"かなと思うのだけど、それは悪いわけではなく、もっともっと!!!というコト。知れば知るほど欲張りにナル。


それらのゴキゲンな演奏が進んでいくうちに、ほんの少しの人工物を景色の端に感じる。リゾートや世界遺産のような大仰な自然ではなく、どこか、人間の暮らしがある海辺を想う。消波ブロックを砕いてしまう波と、トタン屋根を赤く錆びさせる濃い海風!蜃気楼の向こうのかすかなコンビナート群。ステージでShoyanがジーンズの膝を曲げて左右に身体を揺らすステップを想う。人が生きている海の風を想う。

センチの演奏は(いい意味で)重たいので、海水の比重さえ感じる雰囲気になったのが良かったと思う。お洒落だとか洗練だとかじゃなくて、欲しいのはあの日からの時間を含んだ"故郷の風"!それはこのセルフカバーにギッシリ詰まっている。大満足だ。

その日からずっとShoyanの胸の中に吹いている風はその歌を聴く人の胸にも届いて、こんな私の幼い日の想い出さえ湛えて今も吹き続けてくれるんだ

「あの日の夢 とてもきれいな夢」は、そのまま聴く者も共体験できる"原風景"なのだと思う。今は、Shoyanの感性そのものが私たちの『海風』なのだ。

・・・

こうせつおいちゃんは「もう、今はない」と歌った故郷。でもShoyanの中には「今もふるさとに吹く」海風がある。

あの頃の幼き頬にはためいた風にはもう二度と逢えない。けれど風は今も吹いている。自分がそこにひとりで立つ時感じられるもの、それらはすべて自身の投影なのだと、教えてくれる不変の感触が「海風」なのかもしれない。

・・・

その後、風ひとり旅の音源もCDになったが、やはり"バンド感"ありきの海風が聴きたい。コロナが収まったら、ちゃんとしたバックバンドを従えたShoyan のステージが観たい。

それが今の私の夢、とてもきれいな夢、なのです。


(追)
実は昔、何十年も大昔、中野督夫さんと同じ町内会に住んでいた。組も一緒で町費を集金に行くレベルでご近所だった。ステーションワゴンにギターケースを積んだりするお姿が素敵でした。ギタリストなのは存じ上げていたが、その後Shoyanと共演されることになるとは、驚きとともに感無量です。

現在、ご闘病中とのこと。一日でも早い平癒お祈りしています(願)。
※これまた昔書いたものに加筆。

・・・

『夜のFM』という歌は、ちょっとだけ可哀想な曲かもしれない。

いや、"可哀想"は不適な言葉だ。だけど、今・現在は他の曲より一歩下がって、仄かな蔭があるような、特殊な位置の歌に思われる。

BEST盤のWORKSやソロ・シングルス・プラスには何故か収録されていなくて、チョット寂しい。一時期(大昔)、この歌はLIVEの華的存在で、その頃のShoyanの傍にいつも居た。ステージの盛り立て役だった。

その後、休養してたShoyanが復活してからはBossaスタイルにドレスアップして、数々の新曲たちの中で時折アダルトな色を添えてくれた。けれど、知らず知らずのうちに段々と有名曲オンパレードのジョイントライブやKAZEひとり旅などが増え、ソロの曲が演奏される機会が減るにつれ、この歌に遭う機会が減っていったように想う。

(これも私が聴きにいけていないだけかもしれないが)

でも、だから、それを60thのアニバーサリーライブに持ってきてくれたのは嬉しかった。この歌は、なんだか"昔の恋人"みたいな、どこかに置いてきたもの・みたいな、止まっている時を含んだ曲だ。

・・・

♪はりさけそうな心 打ち明けられないままで・・・
♪渡したくない気持 君を誰の手にだって・・・

この歌を知った当時は、情熱的な部分が印象に強くて、恋の中にいる時間のことばかり聴いていた。歌と一緒に軽い興奮をいつも感じていた。

だけど、、、最近はやっと、「突然思い出して」の前後の機微を深く感じる。
ソレガマタ セツナイ

2011年11月13日の佐藤準氏との色っぽい演奏でRealizeしたように、この歌の本当の切なさに近づけたような気がして今また違う感じ方で聴いている。たぶん、自分も歳をとったのだろうと想う。

当日のShoyanのヴォーカルも"はりさけそうな心"よりは、聴き流している夜更けのラジオ越しのベルベットVoiseみたいに静かに沁みた。そんな経年が愛おしかった。


「抱きしめるより 見つめて欲しい」

そんな感じで昔の恋人が言う。
少しだけ、想い出してくれる時もあるンだね・・・と。

・・・

初めて聴いた当時は、恋の翻弄ばかりに気が向いて、長い髪や細い肩・など、絵的な事ばかり考えていたのだけど、きっとこの歌の彼女、ワケアリの女? 口説いてはいけないヒトだったのかもしれない・・・

だから、彼の願いがかなっても、彼女的には"blue shade"だったのか・・・と。


♪そう言えばあの日 
君が見つめていたのは
沖行く船の灯り・・・

これもただの景色ではなくて、彼女の"束縛"の象徴だったのかも・と想う。

沖行く船の行く先。 水平線の向こうへ旅立ってゆける自由な心。 籠の鳥のような彼女のまなざしを今、想うと凄く切ない。
デモソレハ安穏・・・

「帰さないよ」というフレーズをもしも彼が口に出していたら、彼女は自由になったのだろうか・・・。この彼の"内部完結"癖はShoyanの歌の基本色。ゆえに過去と現在の層が出来ている顕著な例だと想う。

しかし、夜のFMからは何が流れていたんだろう。何か歌がかかっていたのか、誰かのトークだろうか、自分的にはボズ・スキャッグスやNed DohenyのValentineがかかっていたら胸キュンだろうなと想ってたけど(ストレート過ぎるかな?) 今は、ヴォーカル(言葉)のないメロディーだけの曲だったかもしれない・なんて想ってる。

・・・

人も歌も、近づいたり離れたりしながら時の流れを身につけていくんだ。

♪ふっと現われる時・・・

まさにそんな感じで在るのがイイ。
常に一緒にいて常に盛り上がっているなんて・・・そんな"サイコーの持続"なんて不自然なことかもしれない。そういう点でこの『夜のFM』は翳りを帯びながらも、とても自然にShoyanの一部になっていたのだと想う。

この歌を聴くとき、旧友に遭えて嬉しいような気がする。あの六本木の夜のことはこれからもずっと忘れ難い(涙)。出来ればまたいつか聴きたい。

※Shoyanの歌はリバーシブルになっていて、裏と表の多重構造になっている歌が多い。色んなアレンジでそれを紐解くのも楽しいと想うのだ。

2011年12月

・・・

で、その後『オールタイムベスト・Then&Now』のボーナストラックとして、近いアレンジでスタジオ録音されたのだが・・・、やはり私は佐藤準氏のピアノとShoyanご自身のエレアコで収録して欲しかったと今でも密かに想っているのだ。(岩井さんや細井さんの演奏がどうこうではなく) お二人の演奏はなんとも他に代えがたいものがあるのです。

そのあたりはせっかくなので、六本木のアニバーサリーライブの感想を再アップしてみようと思う。Shoyan&JUNちゃんの演奏に関してはそこにて・・・つづく。

最近ではエレガットで立ったまま、片膝を軽く曲げて刻むShoyanがメチャカッコよかった。84年ころにNHKFMか何かのスタジオライブでやった、バンドでバリバリの『夜のFM』もカッコよかった。あのエアチェック音源は死ぬほど聴いた。(高校生の時、本屋でバイトしながら隠し持ったラジカセで必死に録音したものだ(笑))

君焚きのラジオ番組内でラストの英語歌詞の説明があったと聞くが、私は君焚きをあまり聴きこんでいないので(個人の事情)いつかそのうちに、、とは思っているけど、「ふっと現れる時派」の自分はずっと放置のままでいくかもしれない。
(でも六本木音源をオンエアしてくれたのは嬉しかったですが)

・・・

夜更けにふと聴くFMの、ちょっとチリっとした音に大人の時間を感じていた懐かしさ。私は想い出す方だろうか、それとも想い出される方だろうか・・・

新音源のラストのラストのほんの消え際に、うっすら聴こえる唯一のガットギターの幽かなフレーズは、遠い昔の面影からの問いのようだ。
※少し前に書いたものです。

・・・

まず、河合徹三氏のアレンジに驚き歓び。
この期に及んでBossaNovaなShoyan曲が聴けるなんて・・・
シンプルにベーシストらしいリズムと、ほんの少しの音を加えただけでギターは岩井氏の生でメリハリをつけて、とても聴きやすいアレンジだったのですんなりと歌の中へ入っていけた。

が、それがクセモノ・・・
最初のひと聴きで泣け過ぎて、ちょっとしばらくは放心していた。

曲調はいわゆる、80年代の演歌歌謡のようなテイスト。ちょっとベタ・・・?せつない、とことん切ない直球勝負で、シチュエーションもテレ○・テンが歌ったらハマりそうな(それは私には非常に懐かしいもの)どっぷり浸ってしまう系の、"Shoyanの原液"みたいだなと想った。

でも、ちょっと変わった単語の選び方と、決して日陰の線の細い女性像ではない印象で、その"ベタ"の中に微妙な揺らぎが生まれて面白い。

切ない過去の恋歌に「大阪城」というシブい単語が出て来たり、白いシャツの彼を「天使」と表現してみたり、この、クリームあんみつみたいな"異種マッチングの妙"を感じる。こんな風に"ひっかかる箇所"があるのがShoyanの歌の魅力であって、後を引く原因なのだけども・・・

でも、私が白いシャツを好きな理由と同じ様なこと、Shoyanも感じてるのかな・・ナンテ、ちょっとドキドキした(謎)☆

・・・

♪夜にかくまわれて

「匿われる」というのは結構特別な言い回しだよね。相当に人目をはばかって逢う間柄だったことが伺える。

そして、"淡い(色の)ネクタイ"を選ぶ女性とは、きっと対照的なこの彼女。「淡い」の反対は「自己主張」?その淡くないセンスは彼女を強く見せる。

♪私のために"遠回りした"
 その分だけ誰かと 
 幸せになってね

と、ここに、この彼女の視点の高低差を感じるワケで、もしかして、、、この彼女が愛した彼は"年下くん"だったのではないか・・・などと、何度か聴いていくうちに想えてきた。若い女の子と年上上司・みたいなアリガチを超えて、人目を忍ぶ恋のパターンには色々あってもいいよね・と。 
※これは私の100%妄想ですが。

そんな風に想わせてくれるこの歌。
Shoyanのオトナの優しさを感じてしまって、女性目線の歌なのに、Shoyanの男らしさが匂う・・・新しい歌にそれを感じられるなんて嬉しい。今のShoyanだから醸せるSmokyなフレーバーに咽ぶ。

・・・

現在は"快速"の電車で帰る遠い街。それは特急で去るほどの遠い地方ではなく、ベッドタウン~外環の街、都会の末梢神経のような新興地かもしれない。大阪なら他にも大きな街が隣接していそうだから『街』なのかな・・・

特急で山でも越えてしまえば思い切れるかもしれないケド?"快速の電車"という、その遠過ぎない日常的な距離感が哀しい。

放射状に広がる時の流れの外枠へ、別れた彼も今は環状線のいずれかの方向にOutOfTownしているのだろうか?家族と共に、知らない人生を生きているのだろうか・・・。

曲中の"環状線"、ラストの環状線はリアルの交通機関だけど、一節目の環状線は彼女の胸の中に沈む夕陽のオレンジで染まった電車なのだろう。

心の中と外、恋の時間と現実の結界の二重構造が交通機関なのが切ない。自分の意思で動かす乗り物じゃないからね・・・電車。

・・・

"白いシャツ"と"思い出逃れて遠い街に住む"という、永遠のモチーフは、BossaNovaの鼓動で刻まれるのがとても自然で心地良く切ない。

この痛いほどのフレーズは、ブラッドノットの最後の糸を通してギュっと引っ張り締めるみたいな一体感。提供曲ではあるけど、それが嬉しい。

久しぶりに全部の感性を解放して聴ける歓び。そんな切ない歌との豊かな今日からの暮らしがまた始まったのだなって・・・。

Shoyan、今もこのセツナサは約束のように私を泣かせます(涙)。
それはとても良い涙。 大切にしたいと想う。


※青木まり子さんのところどころ情感を濃くする歌い方に耳を委ねる。彼女の低めの声は、結構Shoyanもお好きなのでは?なんて想いながらまた繰り返し聴いてみる。このCDを購入した時、おそらくまり子さん直筆でメッセージと宛名が書かれていて感激した。ずっと大切に聴きたいと思います。

・*・・・*・

☆~追記 誰そ彼のホーム


♪会いたさに 言葉じゃなくて 
 そっと肩を 抱き寄せてくれた

その感じ・・・それでいいんだ・と、とても欲しかったシーンだ。

「言葉じゃなくて」は大切なキーワード。

でもホントはもっと、、、
もっと深いカンケイの仕方もアル。

♪今でもそばに あなたがいるようで
 黄昏のホーム ふと振り返る時

と、そんな風に想ってしまう時、きっと相手も同じ様に想っているのだ。同時に瞬時に発生している機微がある。

コレハホント

でも、確認できないことは事実にはならない。「そんなことある訳ない」と否定しないで。
別のタイムラインのもう一人の自分のためにも・・・涙。

・・・

 僕が君を抱きしめたり…
 くちづけを交わしたり…
 見つめたりすることは…
 いけないことかな?

そう訊かれたら
こう応える

 ねぇ、 
 "いけないことでも必然" 
 ということが
 この世に沢山あるんだわ…
 きっと

と、そう素直に・・・♪



☆Send ale to OSAKA!
もう、何年も聴いているのに、歌詞カードがなかったので、印象がいつもふわふわとして定まらない歌がある。聴くたびに綿飴のように溶けてしまって、甘い名残りだけが・・・

そういう歌って定期的に何度も聴きたくなる。サビから始まる作りも珍しい。そしてまたアヤフヤな印象のまま忘れられないのだけれども・・・


『雨の土曜日』
『なおさらせつなくマリンブルー』

両曲とも、歌い手の幼さ・あどけなさにマッチして、独特のニュアンスがあって、たまらなく好きだ。歌の作りや歌い手が自分のリアルタイム世代なので、(当時は興味なかったのに)今になって"尚更に切なく"、CDで音源を買いなおしてから懐古趣味でまた良く聴いている。

・・・

「ダリの絵に囲まれて過ごしてみたい」

なんて、それは相当の変わり者ではないか>彼。そして、かなり"精神年齢上昇志向症候群"の男性じゃないかしら・・・?この彼女のおっとりさと反するイメージで、それが既にこのふたりの"不毛"を予感させる。

だけど、そういう異質同士ってすごく惹かれあう時期があって、特に芸術肌の感性には、そんな惹かれ合いがぶつかり合いになる過程を痛みながら楽しんだりするキライがあるのでは?と想う。彼女の激情を引き出してしまうのは、この彼の"暖簾に腕押し"な、罪な感性のせい。

でも、女のコはそんな精神的な遊びが苦手だから、もっとリアルに愛して欲しいんだよね・・・キット。

風の星座のような、自由で垢抜けた男心には、雨の土曜日のような物憂さは、ただの束縛でしかないのかもしれない。

・・・

他の女優さんが歌った『転校』もそうだけど、Shoyan"Drawing SONGS"はちょっと特別・・・。最近になってよく美術部の部長云々なエピソードが紹介されるけど、それよりもずっと以前から、Shoyanと絵のカンケイは私には大切な歌の軸なのだ。

『ヨーロピアン・ニューヨーク』『JUN』あたりにチラリと出てくるけど、Shoyanご自身が大切にされている絵の想い出が、どこか深いところにソッと埋められているのではないかって想像してみたりする。(何故なら、、、私もそうだからだ(妄))

「歌の中に感じる色」は合言葉みたいなものだ。
ふたりで聴いていた歌の中に、色を感じられるなら、いつだって恋は出来る・と言うけれど、
彼の残したスケッチに果たして彩色はしてあっただろうか?

素描だけで、恋をすべて写したとする彼の、ピリオドがイニシャルだなんて、なんと酷い置き土産なの・・・。本当に子供っぽいのは、そんな彼の方じゃないのかな。

・・・

「風邪をひいたあくる日の朝」

Shoyanのお得意な、リアルなフレーズの引用。愛や恋を歌う中に急に肉体が出てくることで歌が絵空事でなくなる。このワンフレーズはとてもShoyanらしい場面転換Magicだと想う。

歌自体は印象派♪
前後のつなぎ目が、少し不安定な歌詞もShoyanの歌においては言葉という名の絵の具。塗り絵のように型に嵌めなくても"ニュアンス"で感じれば遠めに見て美しい。

離れて眺めたり、近くで見たり、その度に聴こえ方が違っていいじゃない・・・って、どこまでも曇りガラス越しの景色なのが切なくていい。

背伸びして聴かなくていいから私には優しい曲です。
※そうそう、当時の伊藤つかさの写真を見ると、もしかして、彼女の雰囲気は案外Shoyanの"隠れ好みのタイプ"なのでは? なんて想った。理由はなくて、何か直感!?

妄想オユルシヲ~☆
作詞のクレジットの順番は「大久保一久・伊勢正三」となっているので、ほとんどの部分は久保やんの作なのだろうかと思いながら、では、Shoyanが書いたフレーズはどの部分なのだろう?と、何十年も漠然と聴き流していた。

そんな聴き流しの歴史の途中『水槽の街』で、♪白いmen'sのシャツにせつなく包まれ~眠りに就くひとときも・・・などという大事なフレーズが現れたりして、となるとそもそものタイトル=「男物のシャツ」自体からしてShoyanが関わった可能性が高いのか?と、それ以来"メンズシャツの沼"にはまってしまったのであった。

久保やんが出してきた"男物のシャツ"というフレーズがヒントになったのか、Shoyanご自身が今一度このシチュエーションを育ててみようと試みられたのか、どちらかはわからないけど、『水槽の街』でもう一度このシチュエーションが出てくるということは、これが意味の濃いフレーズであることは確かだ。

私自身が『水槽の街』を特別に想っているからなのかもしれないけれど、この過去(心)に影のある女性がメンズシャツを纏って眠る・というシチュエーションのなんと萌え度の高い景色か!と、何年経っても聴くたびにざわめいてしまうのだ。

この眺めが好きなのだ。私は一応女性だけれど、女性が自分と異質なもの(メンズグッズ)を纏う"変化henge感・コスプレ感"にドキドキするのだ。彼が残していったシャツなのか、自分で何かを託して買ったシャツなのか、今目の前にいない存在の"残り香"を身に纏って眠るなんて、心底切ないではないかと・・・。それは『男物のシャツ』という曲ではシャツの所有者は明確でなく、彼女の私物のようでもあり、"今彼"のシャツを私物化してるのか、よもや"元彼"のそれなのかはわからないけど、でもこの、部屋には二人しかいないのに、時間差の三角関係が匂う平穏な不穏がたまらない。元カレや秘密の心の存在をシャツ一枚で組み込んでくる、とてもオトナな歌であって、風というグループの一種の成熟を感じるのであります。表記は「Kaze」になりそな感じです。※ドイツ語の「Katze(カッツェ)」ならば「猫(雌猫)」になるのだけども?

奇しくも?『古暦』のジャケットは一枚の軽やかなシャツだ。ブラウスかもしれない。男物なのか女物なのか袷を確認しようと思っても、写真には裏焼きというトリックもあるので、写真家の意図なのかそれはブレていてよくわからない朦朧だ。

※LPの中の歌詞スリーブにはブレていない写真がある。しかもこの電話を持つ正やんがメッチャクチャカッコ良くて堪らんのです(悶絶)。このひねり立ちポーズが大好きな訳です。


で、話戻るけど、なので『男物のシャツ』の

♪男物のシャツを着けて眠る癖を
 僕は君におしえないのになぜ

♪男物のシャツの袖を折るしぐさ
 君はまるで黒猫の目をして

の、どちらかのどこかの部分がShoyanの関与した部分ならいいのにナと思ってしまう。(私は自分が黒猫大好きだから余計にそう思ってしまうのですが)でも、この部分て肝なので、いずれにせよ気になるフレーズであることは間違いない。"黒猫の目"って怖いようなイメージがあるかもしれないけど、実際の黒猫のまなざしはとても深くて可愛いものです。だから、この彼女の"過去の翳り"はこの後、二人に問題を起こすようなものではなく、いつか癒えていくものであって欲しいと、飼い主的に想うのです。また、ここが100%久保やん的フレーズなのだとしたら、それはまた違う意味で惜しいと、こんな思わせぶりな色っぽさ、この部分もっと延ばしていって欲しかった・・・と思うのでした。

でも一方で、

♪君の別れと幸せ 肩でおどけている

は、どうなのかな〜?
ヨクワカラナイ、な部分に思える。

・・・

Shoyanが創る歌たちはその後を聴けば尚更に、不偏的に主役級なのはモチロンなのだけれど、久保やんの歌もアレンジ次第では非常に素敵でまろやかな味わいのものであったとオトナになってから気付く。

海風~MoonyNightあたりの久保やんの歌はアレンジと共にとても好きで、もっと聴きたかったなと思うのです。

Shoyanの歌の世界は酒の肴のように旨味の凝縮が激しいものだけれども、久保やんの歌は産地限定米や全粒粉のパンのように、優しい"待ち"の味があったように思う。そのバランスがやっと取れてきた時が風の活動休止だったなんて、機というものの流れはナカナカ難しいのだなと思う。

・・・どうも、当時を全く知らない私が想像だけで思ったことをあれこれ言うことは、不遜で不明なので、語らない方が賢明だとは思うけれど、妄想で関わる自由をお許し下さい。もうどこかでこの歌の解説やエピソードは公式に既出で、フレーズの謎も解明されているのかもしれないけど、まぁイイヤ(笑)。

・・・

『男物のシャツ』『水槽の街』両曲とも本編はシンプルで、長めのエンディングで聴く人それぞれの胸の内を揺り起こす仕組みになっている。そんなアレンジが大好きだ。佐藤準アレンジの醍醐味かもしれないと想いながら聴いている。

Shoyanご自身はどこかで「MoonyNightは外国人アーチストを使ったけど、古暦は日本人だけでやりたかった」みたいなことをおっしゃっていたと思うが、私はこの外国人プレイヤーたちの音もいいなと思ってる。特にエンディングのあのフィョフィョしたソロフレーズとか気になってしょうがない♪。吹いてるの?弾いてるの?あれがエレクトリックSax?なのか?シンセなのか?とか、久保やんが弾くエレキってどこだ?とか、この2021年になっても楽しめている。この頃の本当に贅沢なミュージシャンたちの手の演奏の妙味に浸っているんだ♪


☆準チャンのアレンジは時々猫が鳴きますネ。言葉では喋りたくない・ような時に(笑)。nya~♪



My cat
 Manyaco
#大久保一久
そしてチョット再びの、

「抱きしめてみても 心は奪えない」
「人の心 人は見えない」

のことを少し・・・追記。


先日、「奪えないのは"無い"からではないか」と書いた。

そして、そもそも奪う必要はなかったのだ、と。

ボクとキミのカンケイは

奪わなくても

欲しい心は

すでに互いの胸に在ったのだと。

同じココロが二人の胸に在るんだから
そのままでヨカッタんだ☆

で、

そしてもしもそれでも「見えない」と感じるなら、やはりそれはそこに無いことと同じであって、”カンケイ"の終焉・もしくは未発動なのだと思う。自分の胸に同じココロがあるのなら、見えなくても在ることはわかるはずだから・・・

・・・

人は大昔から全然全く見えないはずの「心」や「想い」にこだわってきた。その正体を明らかにしようと色んな芸術家が音や言葉や色形で表そうとしてきた。でも作品は終点じゃないんだよね。作品自体に答えはなくて、アーティストの想いと同じ分だけの自分の想いの待ち合わせの目印のようなものかもしれない。

Shoyanの歌ほど深い森は他にはない。
一生かけても聴ききれない想いがあるのだろう。
その想いの最深部には私は到底辿り着けないけれど、せめて峠を越えたら遥か遠くに雪の頂が見えたらいいなぁ。

「ヤッホー!」の代わりに「ショーヤーーン!」って叫べばきっとコダマが還るでしょう(*´ω`)。歌を聴くことってなんか、そんな、感じデス。

プロフィール

HN:
No Name 七氏−1.0
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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