Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0

2025/10    09« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »11
その、伊勢正三50年のキャリアの中で、一番アコースティックから離れそうになったのがアルバム『HalfShoot』かな?

電話したら出ないので、(もしくは傍の公衆電話から?)、その窓の下まで訪ねていってあかりのついている窓を見て在宅確認して悶々としてるなんて、なんというストーカー行為(^^;)

だけど、これがストーキングではないのは、そこに"せつなさ"があるからだ。

「会えない日」も「会える時」も、いつも昂ぶって・・・一歩違えば恋愛感情は、欲望や憎しみや刃傷沙汰になる。三つ先の信号が気になるほど心は逸ってしまう。

でも、そのパワーを制御するのは他でもない、嫌われ者の"せつなさ"や"やるせなさ"だ。

傷つきたくないからとマイナスイメージのせつなさを遠ざけていては、甘いだけの炭酸飲料のような恋しか出来ない。 炭酸が全部抜けたらお払い箱になってしまう。

実体のない錯覚で終わってしまうから、乱暴な行為や節度のない行為に移行しやすくなる・・・なんのための恋心なのか。

このあたりのモヤモヤ、収拾のつかなさ、もどかしさ、を多方面から追及して解釈していってくれるから私はShoyanの歌が好きなのです。永く好きなのです。

・・・

この彼、このあとどうするのかな。

がむしゃらに揺さぶって、栓を開けたら全部吹きこぼれるか、それとも、彼女の時の流れが瓶内二次発酵して落ち着くのを待つのか・・・?

この歌はまるで書き出しだけで止まっている小説のようだ。まさに"Half"な感じ。でも、ずっと気になってしまう、短いジングルのように・・・


一時期、この歌もBossaアレンジでサクっと演って欲しいなって想っていた。ロマンチックなメロディに似合うと想ったんだ。そうしたらもう少し深い感情や彼女の輪郭が見えてくるのではないかと思っていたのだ。

でも、やはりストーリーが短いかも?
続編は他にあるカンジだよネ♪
Shoyanの素描のような一曲だ。

♪キャッチフォーン~の"フォーン"の音が好き。
始まりと終わりの音が変わってしまうこの曖昧さが好きだ。

・・・

♪~woo 君を取り囲む世界はとても速く見える

この彼女の周囲には沢山の人の影。
そんな時は、関わる人みんなの時間が合流して激しくぶつかり合う。その"時間たち"は滝のように流れ落ちて一度に色んなものを運んでいってしまう。

激流の中で見失うものもあるけど、そのスリリングな感覚から抜け出せないのも事実・・・。
仕事でも、恋でも、つるむのが好きな華やかな彼女?
頭も良くてコミュ力が高くてキレる女性なのかな?居留守を使えるこなれたメンタルのヒト。
川べりの納涼床で軽やかに涼む絽の着物美人みたいに、宴の中の遠い姿。

一方、彼の岸辺目線はもどかしく、橋もない、小舟もない、彼女の中洲までは足元もおぼつかない。時の流れ初心者だろうか?踏み出して膝下までの水深でさえすでに前にも進めず、かといって引き返せず・・・恋の奔流で立ち尽くしている感がある。

先へ先へと急ぎすぎて、みなアクセルを踏みすぎてそれでもつっかえて、瞬きしているテールランプが溢れる都会の時流。

時の流れが違うもの同士は相容れない。
これも、相性の一種なのかもしれない。
八面六臂の彼女を射止めるのは・・・今は無理かも、と傍観者は息をつくのです。

でも、そんなムリ目の女性ほど、心惑わされ、そそられるんだよね。 

(´∀`)オトコッテ オトコッテ・・・夢ヲ見テイルノ


『白いシャツの少女』や『夜のFM』が最近私をこのあたりに誘うのです。



※この頃に"キャッチフォーン"という単語を使うなんて、「ナウい」と思いました(*´∀`)。風の途中頃からユーミンなどの歌を引き合いに出して、横文字を意識的に使う試みについておっしゃっていたけれど、この歌の場合はかなり意識的にはめ込んでいる感じで、短めの歌の中に沢山使用されているのが面白いなと思うのです。
※10年以上前に書いたものを再考してみた

・・・

シブイ!
だがしかし、初めて聴いて以来20年以上(40年近く)経つが、歌詞の前後をいまだ把握していない。

この歌こそ"くちあたり"とか"ニュアンス"っていう言葉がピッタリくるのではないだろうか。

だから、歌詞を詳しく解き明かしてみようとか思わず、具体的な景色を決めないでそのまま今に至っている。陽炎のようにそこにあるだけでいい、と想う不思議な歌だ。

聴き始めた頃(高校生!)はあまり印象にも残らなくて、収録アルバムの『北斗七星』自体が渋い作りなために、10代の頃は興味が後回しになっていた。この歌もずっと控え選手のような存在だった。

ただ最近、此の辺の歌が心地良く懐かしい。この5分弱の時間を何も考えずヘッドフォンで聴いてると、頭の中が整理されて清清しい自分が戻ってくる。これは若い頃には思えなかったキモチだ。

なんとなく、歳をとればとるほど『北斗七星』のアルバムがグッとくる。Shoyanの30歳前後と40歳過ぎたころからの自分の何かがシンクロしてるのかもしれない。こんな境地になろうとは、ハタチの頃は思わなかったことなので、この歌を聴いて今感じることが自分には深い。

振り返ることの出来るある程度の時間が自分に蓄積したからなのだろうと思う。この心境はShoyanの歌を思うとき必ず出てくるものだから、他の曲の記述とも何度もダブるけど、その度同じようなことを書かせてもらうことにする。

・・・

ハミングから始まるイントロ。
Shoyanが一番低い声で歌っていた頃の曲だ。
(※今は『Re-born』も低いと思いますが)

音を重ねてあると思うので、刷毛で塗ったような声。ちょっと紗のかかった翳りのある声がたまらない。声で優しく鬢のあたりを撫でられているような心地よさに涙。Shoyanの色っぽさの蕾が膨らみ切った声がする。(それは『渚ゆく』で開花するのだ~♪) 自分の脳内ではこの曲はスローBossaで、大きな古い寺の襖絵みたいな安定感に安堵する。ストリングスが峰にかかる霞みのように見えて、何か旅の途中で見たような景色だ。

フリューゲルホーンが示す道筋ってなんだろう?
過去も見えない・未来もよく見えない。忙しない毎日の荒波の中で一瞬凪いだような、鏡のような水面に自分が映る歌だ。

(この景色が色を変えると、後の『闇の夜のハネムーン』のどこかと重なるような気がするのだけども・・・)

オトコの歌であるけれど、それはすごく自分にもあてはまる、他の女性たちとはちょっと違う人生だからかな。

しかしこの『北斗七星』には"オトコ"が出てくる歌が多いように思える。そのShoyanのオトコっぽさが心地良くて、最近はオトコの人に甘える許しを自分も持てたのだなぁと思っている。このアルバムはこの頃のShoyanご自身の"自らを再認識する作業"が垣間見えるようだ。

・・・

後半~エンディングのハミング部分のバックで密かに聴こえるエレキギターの繰り返し。おそらく今剛氏の演奏だと思っているのだけども、音の一筆書き・この"たゆとう感"が今剛の醍醐味っていうか、私の好きな音だ。

コシのある細めの毛でまとめた太筆の筆致みたいなギターが大好きだ。ヘッドフォンで聴くと吸い込まれそうで、このアルバムの今剛の演奏ではこの曲のこの演奏がかなり好きだったりする(『都方人』はまた特別なのだけども)。

※Shoyanご本人のエレキの演奏のことはまた他で・・・♪

Shoyanのソロの前半『北斗七星』~『ORANGE』までは、こういった"アニキたちの演奏"という感じのバックバンド重視な構成がすごくよくて、自分でも色々勉強になった。

昔は今ほどの情報量がないので、少ない印刷物の少ない文字の羅列を隅々まで繰り返し見た。バックミュージシャンの名前を見たってどんな人かわからない。でも少ない情報量で得たことは忘れがたく印象深い。だから他のアーチストのアルバムなどでも同じ名前を見かけるとまた覚えてしまう。覚えると興味が沸く、そうするとまた他の機会で得るものがあったりする。

私は自分の事を"マニア"とは思っていないし、そこまで追及は出来ないのだけれど、物事を構成する要素をひとつひとつ解き明かしていくことは無駄な作業ではないと思っている。

・・・

サンルームやバルコニーのように明るく暖かく光に満ちた場処の傍らには、それとは対照的に月影の知り難い闇もどこか同じように存在していて、その中に隠れている熱もあるのだろうと思う。

きっと人は長い人生において、その両方を行ったり来たりしながら時を重ねていくのだと思う。その自分の薄っぺらな人生をShoyanの歌が待ち針のように留めていってくれる。だから振り返ってみることも出来るし、もう一歩踏み出すことも出来る。

自分にとってはまさに、この歌自体が月影に燃える想い出そのものなのだ。


・・・

(追)何十年、、、レコードからCDに、そしてサブスク配信だなんて、、、永い永い歴史だと、この年の暮れに感慨なのであります。
或る穏やかな春の一日が終わり暮れる

一見日常

けれどそれは

春そのものが終わる頃合い・・・

いくつかの出逢いや別れや

傷つけあいと慈しみあい

そんな転がり跳ね回るような青春の勢いが

フト収まる時が来る

不確かな春が終わる

確かな愛を得ての安堵

自分以外の"他"との

いずれ新しい季節

その幸せをかみしめる

・・・と

そんな歌だと最初の頃は思っていた

『サンルームの鍵』とセットになっている気がして

錯覚していたかもしれない

(いやそれはもちろん正解なのだけども)


さみしい自分とは一番遠くにあるような歌だ

だがしかし、"君"を凌駕する"春"の存在感に

無意識に親近感を持ち

何故かずっと大切な歌だった


この"甦るうしろ姿"は何処にいるのだろう?

ずっと長いこと一番近くに想う

大切な人のことかと思っていた

「君がいるから」だと・・・



だがしかし、それが"うたかた"なのだとしたら

それは

「君がいたから」

だったのかもしれない、と今は感じたりもする

今ここにいなくてもいい・・・と



40年以上も時が経ったなら

歌の中の"君"もいくつかの分身になって

今のあなた

違うあなた

新しいあなた

それぞれに寄り添う変化(へんげ)

でもいいではないか・・・

うしろ姿なら尚更だ


春のあやふやさはやはり

時を超えてFitするために永遠なのだ


Spring Forever☆



※で、「終り」「終わり」どっち?♪
~胸さわぎには 二通りあるわ・・・

なんて、ドキっとするフレーズ。

これが男性であるShoyanから生まれた言葉だと思うと不思議なようで・・・だけどとても説得力のある"気付き"だったりする。

胸騒ぎのネガorポジ・・・
サスガ、Shoyanのまなざし。

きっと人間の"内面は、男性も女性もなくて、本当は人の感性に性別はないのだと思う。

サッカーなどの女子プロチームのプレイなど見てると更にそう思う。枠を取り払って前に進むパワーが炸裂してた。その両方の特性をモノにして開花させた人が芸術でもスポーツでも一つ飛び越えられる能力を持てるのだと思う。(それは本来、誰にでも出来ることだと思う)

Shoyanの歌の世界って、実経験なのか?とか、誰宛に作っただとか、男目線だの女目線だのってことで解かるような浅さではなくて、伊勢正三という感性のフィルタがすくい上げたエッセンスを、とても丁寧に編纂した図鑑か標本のようなものだと思うんだ。

その構築とチョイスの繊細さ・丁寧さが良い歌の所以なのだと思う。

だから聴く人の性別を超えて陰と陽、両方にバランス良く届くんだキット。

・・・

この『ひき潮の海』。
歌っているのがダ・カーポのお二人で(主にご主人の方)、それがややソフトネス過ぎて情景の印象が薄くなっていた感がある。 違うアレンジで妙齢の?女性シンガーが歌ったら、もっと涙の量が増えたかもしれない・・・なんて思う。

知ったのは音楽誌の広告で、90年代にCDを見つけて初めて聴いてから普段は何気なく聴いていたのだけど、最近いくつかのフレーズでグサっときて、ため息の逆で息を呑む・・・

"予感"なども胸騒ぎの仲間で、恋愛などにおいては得てして現実になるので哀しい。

砂浜の恋の波打ち際の別れ際・・・立っているだけで足元の砂をすくわれていくような、眩暈のような"不確かな時"が哀しい。

引くか満ちるかで結末が大きく違う二人の海。
私は海を嫌いにはなりたくないな・・・
二人の海はそのままにして去りたい。

イツカ カエッテ クルトキノタメニ

・・・

~あなたを待つ人がいる

こんなにストレートな言葉に表すなんて珍しい気がする!
しかも"許されない恋"なのだと・・・

"愛した人には愛した人がいる"
"愛した人は愛されている"
"愛されているのに愛してはいけない"

物質的には耐えられない。
でも、寄せて返す波は答えを教えてはくれないんだよね・・・


~今はだれかが 私のせいで 
 苦しむのが わかるほど

でも、そんな彼女自身も苦しんでいるでしょ?
その苦しみには誰が報いてくれるの?
"先か後か"ということだけで、ナゼ、愛する資格に優先順位が出来てしまうのだろう。 私はこの彼女の存在が悪いものだとは思えない。
むしろ、自分に苦しみを選んだ潔さに男らしささえ感じる(泣)。

だけど最後に 独り言のように

~あなたがもしも 行くあてもなくて
 ふとあの頃を思い出したら・・・
 ドアをたたいて いつでも心は 
 熱いときのそのままで・・・

と、別れを切り出しているようで、そうでない想いもあるのが切ない。

"本心は自然"だ。

未練でも往生際の悪さでもなく、何か確信的に置いていく言葉が別れの出発点。

これが"いつか満ちてくる潮"なのだろうか?  

キット、この彼、彼女に想いを残しているんだね・・・
"現実"という水平線より下の海の中では「アイシテル」が溶け込んでいる、ってわかっているからこの砂浜で別れるんだね。

・・・

・・・

誰もいなくなった砂浜が教えてくれるのは

 "得られなかった者に与えられる 
  唯一の祝福が「せつなさ」なのだ"

ということ。

ずっと、熱い心のそのままで
潮のひいたその遠浅の浜辺を想うのは
ホントにせつないことだね

・・・涙
- ポ ラ ロ イ ド -

今、あまり見ないですね。

♪色褪~せたポラロ~イドの~四角い世界から~

『涙を連れて旅に出ようか』と『Hideの秋』も繋がっていたのかな?

この、簡易的にプリント出来るけどモヤ~っと浮かび上がってくるまでの時間が不思議な写真ポラロイド。そして儚くもあり・・・今のスマホやデジカメで撮る写真もなんとなくポラロイドの世界に近い気がするのだ。Instagramの四角い世界が好きなのも、この頃の雰囲気に寄せているからかもしれない。だからShoyanご本人もこの今こそ、Instagramやってくれたらいいのになぁっていつも思っている。

『Hideの秋』は一番多く自分で演奏した曲だなきっと。以前にも書いたが、昔はエレクトーンが少し弾けたので(エレクトーン!(笑)←苦笑するほどコンプレックス(悲))、高校の時にバイト先に借金してまでアノ音楽春秋の楽譜※を買って、テキトウな略コードで弾いて、それでも充分気分良くて(*´∀`*)~♪BossaNova風味でのほほんと、私の一番のナゴミSONGだった。

だって、謎っぽい曲で飽きないでしょ!!!?

銀色のプラスティックの指輪ってナニ!?

ナニ?ナニして遊んでんのかな!?

弟って誰?

レモネード!
部活の時の必須飲料ですよね!←それは自分

この、体育会系日暮れ色センチメンタル風景は、私の中では最初からもう何十年も横浜の実家のそばの某私立T学園の、野球とラグビーのグラウンドがある小高い旧い丘の夕景なのだ。個人的過ぎる風景がこの歌の中にある。

今みたいに近代的な建物はなくて、子供が遊びに入っても怒られなくて、犬の散歩ついでに家族みんなで草ぼうぼうのグラウンド脇で遊んだりした。新興住宅地の残された山の上、だだっ広いところって夕陽がきれいに見えるんだ。ゴールポストの影が長く伸びて・・・チョークの痕が残る大きなスコアボード、色んな競技の道具が静かに佇んでいた。

今でも、その時間を想い出せばチョト涙。
一緒に散歩した大好きな祖父も犬ももういない。
その時間はもう還らないから・・・
この歌は私の大切なノスタルジーのコラージュなのだ。

Hideの秋は本当に名曲。
3分に満たないこんな小さな歌。
だけど息が長い。

登場人物のモデルが誰とか、詞にはどんな意味があるのだろうとか、細かいことや深いことを考えずに、そのShoyanの優しい声と音を「視る」だけのセピアのショートフィルムなのだ。

大好きなスチールドラムの可愛いらしいトレモロ。エレクトーンでは出せなかったので色んな音を混ぜてみた。(ヴィブラフォンとフルートとか混ぜられるんです(*´ー`)) 転調がキモだなと思ったり、足のペダルで上手にフェイドアウトさせたり。課題の曲はちっとも練習しないのに『Hideの秋』は楽しかった♪

少し前までは時々ステージでも披露されていたし、サブスクでも聴けるようになったから、今は沢山の人が知っていると思うけど、でも私にとってはいつまでも秘密の小箱。

お盆過ぎてちょっと日暮れが早くなってくる頃、午後の暑さに隠れている秋がトンボの背に乗って偵察に来る。でも砂や芝生の上で弾ける"子供心"はまだそれに気づかない。そんな交錯が一枚の儚いインスタントな額の中にある。何十年も変わらずに在れることが今証明されている。こんな小さな歌がそんなに永い。本当にShoyanの音楽って凄いんだ。


風に乗って聴こえる野球部の掛け声。
錆びて転がった大きなローラー。
幼い妹と犬と私。

今でもそこで楽しそうなまま、隠れんぼしているかもしれない♪


・・・

※音楽春秋の楽譜はすごい作りで、タブ譜でしかも観音開き!なのでした。1984年ころ、バイト先の書店の仕入れに同行して神田御茶ノ水界隈の楽器店で発見しました。店長にバイト代を前借りさせてもらってその場で買えたのですが、この発行元はすぐに(すでに)無くなってしまい、保存用の二冊目を買うまでに至りませんでした。購入してから38年(^^;)観音開きなので折り目が破れやすく、紙はすでに茶色く劣化し、張り合わせたセロテープまでもうパリパリに乾いて剥がれるほど年月が経ちました。

↓もう一枚右に開くワケ


↓28年前からは雪模様のラッピングフィルムで包んであります♪


今はオークションやフリマで検索すれば手に入るかもしれませんが、共に過ごしてきた年月は何にも代えがたいものであります。

☆最近このあたりのShoyanブームです(>▽<)

*こんなサンプルEPがあった♪

「リアス式の恋」

なんともShoyanらしいタイトルである。
「それ何?」と思わせてしまうキャッチーな組み合わせ。地理や観光に興味がなければ、そんなに身近な言葉ではなかったかもしれない。しかもその「恋」とは?

普段は穏やかな、細長い奥まった入江。でも一度波が押し寄せてくると津波になって斜面を駆け上がる。その、倍々に掛け算になるパッション。そして、岬~入り江~岬~入り江・・・と凸と凹の連続なワインディング。恋の定まらぬ熱量の象徴かなと思う。

『ORANGE』というアルバムの幕開けに本当にピッタリな、真っ直ぐでワクワクしたこの曲が大好きだ。溌剌とした青い柑橘系のスプラッシュ!もう40年近くも毎年聴くのだけれど、本当に飽きない。もちろんすべての曲が飽きないのだけど、ORANGEの収録曲は特に「今来た」感が褪せない。つい、まだ当時のままの心で聴いてしまう。

好きすぎていつも聴き流しているままだったので、改めて聴き直すとまるで玉手箱のようなアレンジで感激が深まる。モチロン、私は"佐藤準愛好会"(※笑)会員なので、準チャンのやることなすこと大好きなのですが、この歌、Shoyanのヴォーカルひとつとっても、最初の

♪走る景色に重なる~

からのフレーズはディレイ(リバーブ?)が効いていて、抑えた伴奏の表面に浮き上がったShoyanの甘い甘い声が際立ってタマラナイのだけど、更に

♪気分は週末色に~

のところで、「週末色に~」から「~待ち合わせたけど」まで、極限定的にファルセットのような別のヴォーカルが被さっているのだ。歌詞からすると中途半端な箇所なのだけど、前後のメロディ展開の導入や繋ぎに関わるタイミングが絶妙。この限定的な高い声のユニゾンが無意識に働きかけてドラマチックな仕上がりになっていたんだなぁと感銘なのだ。(素人の感銘ですお許しを^^;)

♪このまま遠くへさらってゆくつもりさ~ 

からの♪トゥルル系コーラスも本当に軽快でお洒落でスタンダードで、楽しい気分になる。せつない曲や哀しい曲は印象に残りやすいが、こういったコロコロと転がるようなサックリした恋の歌もShoyanの歌世界では多数輝いている。特にこうした超級ミュージシャンたちの参加もあって、本当に屋台骨のしっかりとした色っぽい永遠の作品群だなぁと今になって思う。

このアルバムの他の曲でもそうだけれど、佐藤準氏の裏メロ仕事がそこココに効いていて、様々なエレピやシンセの音が聴こえる。 最後のリフレインにかかってくるシンセのピコピコした音も超可愛い☆ドラムスやベースはミュージシャンの演奏なのか、準氏の打ち込みなのかは各曲のクレジットが無いのでわからないけれど、この曲、ギター系はほとんど聴こえないので準チャンと正ヤンの声だけで出来ちゃうんじゃないかな?などと思って余計に愛着なのであります。

※佐藤準愛好会とは
準氏の音楽を愛してやまない私が勝手に名乗っているだけのミニマムな団体です(笑)。

・・・

この歌、タイトルに続いて言葉がとても面白くて、「週末色」とか「紅茶も冷めないほんの15分」「高速はジグザクの夜」「マリンハウス」 なんて、Shoyanの実験魂が感じられて、以後そういう「言葉」に敏感になっていく受け手としての自分の出発点だったりもする。
(そういえば、キリンジの歌にも ♪熱い紅茶も冷める距離だね~なんてあるけど、紅茶って"冷める前提"なんですね)

♪走る景色に重なる君の横顔が好きで~

とは?
もしや、時々助手席に乗せながら、運転中にチラ見していましたね? よそ見運転ギリギリですね?(笑) 「うでの中」の君のこと2日間も考えてて、思いつめていて、15分で逃したら言えなくなるとか、切羽詰まっていますね(*´ω`)たまらんですね。『夜のFM』では言えなかった想い、ここでも同じように心の中でグルグルしてるのだけど、今度は違う。言葉以前にある大前提!

「好きになってしまえば 同じ気持ちがかよって」

という、この恋の鍵がこの歌ではガチャっと回されるわけで、待ち合わせてドキドキしながらテーブル挟んで君の顔色を伺っていたら、君がかすかにうなずくのだ。その、ほんのほんの極ちっちゃいリアクションによって劇的にシーンがガラッと変わるのが快感なのだ。「それでどうするの?それでどうするのー?」と、こっちが身を乗り出して聴いてしまう悦びがここにある。

最終のフライトにまだ間に合う・って、飛行機まで使ってどこまで行くんだ!?っていうぐらい壮大な恋愛の幕開け。急に二人の密着した物語が始まって、「思いつめてる」が二人分になって、一気に熱量があがって色々なものが膨らんでしまう。身体が熱くなるような最高潮のクライマックス!

だが・・・それと見せかけて、話はそこでスパッと肉体を通り越して、心の機微にストンと嵌まるエンデイングのリフレイン。

♪秋には さびれてしまう
 マリンハウスの
 そんなせつなさが
 好きな ふたり

これ本当に凄いんだ。

この二人、これからナニすんの?どこ行くの?恋はじまった!!うわーっ(*'▽')!てトキメイた瞬間に、侘び寂びの機微で余韻だなんて・・・寸止めの極みのようで胸の中はずっと巡ったままになる。永久機関のように・・・

この最後のフレーズが私は大好きなのだ。「そんなせつなさ」を知っている者同士はきっと、相手のことを自分のことのように想えるのではないか・と。そして、いつか「恋」が終わっても、その次に在るものを見つけられるんじゃないかなって。

余計なことを何も入れないで、このフレーズですべてを包み上げたShoyanからの珠玉の贈り物だと思う。だからずっとずっと大切にしてこられたと、この可愛い歌が今凄く愛おしいのです。

・・・

☆追

アルバム『ORANGE』は、自分が車の免許さえ持っていなかった頃に聴き始めたアルバムだから、シチュエーションにとても憧れていた曲が多い。国道10号線を北へ走るのは実際にやったケド(笑)、高速でジグザクの車線変更とか、岬を回るドライブや、豪雨の中のドライブなど、今でも憧れる気持ちが強い。その情熱を今でも時々懐かしく思うし、なんとなく自分の中にまだ埋もれてあるような気がする。 この頃ってシートベルトをしなくて良かった頃かな?今より少し自由だった。ハメも外した。情熱に憬れすぎてカラぶったことも多々あるが、『リアス式の恋』は私の青春に添ってくれた大切な一曲であります。

※今ちょっと調べたら、高速道路のシートベルト着用義務化は1985年からだった。本当にこのころはシートベルトもしなくて良かったんだ。バイクのヘルメットもね。 そう考えると結構時間が経っているね笑。


好きになってしまうと同じ気持ちが通うのは、このアルバムでは一つの大事なフレーズ。 フライトも高速道路の逃避行も、夏も旅もいろいろリンクし合っている曲が多い。印象がよくまとまった素晴らしいアルバムだ。当時のギター誌のインタビューで、『ORANGE』とは故郷のみかん畑のオレンジと、夕暮れのオレンジ色、トンネルや高速道のライトのオレンジ色がリンクしている、と語られていたように思う。故郷=ルーツのことはとても大事なことだから、そこを意識して聴いてみてね♪というShoyanからの導きに気付いたアルバムだった。また他の曲のことも考えてみたい。自分にとっては80年代の曲たちこそ"故郷"なのだと最近改めて意識しなおしている。
☆そのインタビュー記事で、自ら運転する車中のShoyanご自身の横顔写真が載っていた。真っ黒サングラスなのだけど、左ハンドルにかけた細長い腕が素敵で・・・下敷きに入れて授業中ずっと眺めていましたわ(*´ω`)=3。ドライビングShoyanは永遠の憬れです☆
 
十何年も前に書いたことを今読み返しても、その頃とは違ってしまったものがある。gardenの曲たちは特に、当時ちゃんと聴けていたのか自信がない。自分の感性を今一度見つめ直してまた新たに聴き直さなくてはと思っている。

以下、その10年以上の行ったり来たりを交えながら、脱線しまくり再考再投。イミフメの長文ですがお許しを。

・・・

自分語りから始まるが、この唄を聴いて思い出す風景がいくつかある。想像の景色ではなく実際に昔自分が通っていた川なのだけど、そこは東京から近い神奈川の小さな川。流れ沿いに林道があり、釣りあがっても下ってくるのが楽でヘタレな私でも魚釣りをすることが出来た。両側が少し高くなっていて、ちょっとした谷間になっていた。小さな滝もあった。私はいつも父母・妹など家族で釣りに行っていた。

当時、夢中になって釣りあがっていくとあっという間に夕方で、日暮れ時は一番釣れるので終り際が一番テンションが高い。不思議なことに魚(ヤマメ)は真っ暗に暮れた夜でも釣れた。膝より下の浅い瀬に月の光が飛沫になっている夜の川はすごく綺麗だ。私なんかはロマンチックな気分になりそそくさと竿をしまうのだけど、しつこい父や母が竿を振るとそんな月光の瀬でヤマメが釣れるのだ。川の中はどうなっているのだろう?山の夜は暗い。林道の入り口の小屋&駐車場まで戻らないと灯りはない。流れが浅くて川原が広いから歩いて帰ってこられるけど、その時間になるとさすがに他の釣り人はほとんどいない。そんな真っ暗な中でエサが見えるのか?魚にとっては日没からしばらくの間は夜じゃないのかもしれない。その日は月が綺麗で、山と山の間にぽっかりと光っていて絵のようだったのを覚えている。

そしてもう一つの風景。私が今いる場所の裏の山には本物の夜がある。砂防ダムと林道のアスファルト以外に人工物がないような深い山。実は今の自宅から50mほど下にあるコンビニが山を降りて最初のコンビニだ。ウチから上にはもうコンビニはなくて、標高2000m以上の国立公園の山々を越えて長野県に出るまでないと思う。最近、ちょうどその長野側に行くことがあったが、地元のスーパー以外コンビニはなかった。がしかしなんと!近くの某施設には釣行で訪れたShoyanご本人のサインが飾ってあった!2004年春のもので、まさにgarden直後のものかと思うと感慨深かった。

そこは本当に深い山塊だ。だけど、そんな中で月の光が降り注ぐ川に下りてみたい気もする。自分がオトコだったらきっと野営に出かけたに違いない。水晶が光る夜の川から上を見上げたら宮沢賢治のお話のように美しいものが見えるかもしれないね。・・・と、これを書いた当時は思っていたのだが、実際は・・・>文末に続く(謎)。

・・・

真夏の昼間ってほんとにまったく喰わないヤマメ。アブラハヤやオイカワまで釣れない。Shoyanが擬人化して呼ぶ「君」は誰もが胸の中で泳がせている夢という川に棲んでいるヤマメだ。釣れる時間のことを「朝マズメ」「夕(ゆう)マズメ」なんていうけど、釣れない時間は何だろう?凪というほど止まる訳じゃない。川は流れているんだ。その追い立てられて留まれない時の流れの中で、だけど居眠りをしていたい時もあるよね・・・。

大岩の下だろうか、張り出した緑の枝の下だろうか、、、gardenはその喰いを忘れてうたたねをしてるような、まどろみのようなニュアンスがあったかと思う。サウンド的なことは詳しくないけど、アレンジもエレキかエレピのアルペジオが、アコギとストリングスの透明キラキラ感に纏わりついてしまうようなモワモワ感があって、それがちょっと気になっていた。当時のShoyanご自身の自負は他からの評を許さないものがあったかもしれないけど(汗)、やはりまだ実験的な部分もあったかと思う・・・。ただ、なんとなく、それから10何年もの時を経て、Shoyanご自身の今=未来、はまさに「マズメ」の時間!喰いまくっているなぁ、という感激の中にいる。Re-bornの構成は詞もサウンドも予断のない完成だったと思う。ずっとShoyanは前へ・奥底へ・高みへ・と精進されていたのだなぁとわかる。『夏ヤマメ』は出発点だったのだなと。

夢の着信履歴が残った携帯を置いて、新しい瀬に泳ぎ出した今のShoyan。サイドチェンジのボールをとうとう蹴ったShoyan。今は竿を置いて、フライボックスは閉じたまま、、、釣り人ではなく、自在に泳ぐ魚のようなスタンスなのかもしれない。♪だって真夏の午後はCrazy~ですから。

確か、ランタナや準決勝で夏が終わったくだりはShoyanご自身ではなく、お知り合いのエピソードだったように思うが(うろ覚え)、Shoyanの音楽活動50年の記念になる今この歌を聴けば、その夢の種をとてつもない大株に育てあげて、またバッサリ刈り取って切り倒すような、Shoyanのスケールの大きな人生に感嘆しきりなのだ。その端に自分も触れられるといいなと思っている。

・・・

話がまた戻るが、ちょうどこの歌が発売された頃、釣りをしたいと横浜から若かった妹夫婦と幼い子供たちが遊びに来た。ファミリーで行けるような川で釣るのはハヤとかオイカワなんだけど、妹はすごく嬉しそうだった。学生の時以来、子育てで自分を忘れていた妹の息抜きだった。昼の暑い時でナカナカ思うように釣れないのだけど、竿を離さなかった。そんなママを見て子供たちは最後まで「帰ろう」って言わなかった。

誰も皆、少年なんだろうと思う。
女の子もだ。
少年の心というのは人間の基本的なキモチのような気がする・・・。当時の妹も夏の名残のような蒸し暑い日に、心の三角窓をちょっとだけ開けてみることができたのではないだろうか。男の人ほど大きな旅はできないけど、女のコだってライズしてみたい時があるんだなキット。

おっと、家族の話になっちゃった。
でも、Shoyanの唄は私にとって家族のようなものだから、一緒に語ってもいいのだと思う。

ちなみに、Shoyanご自身が乗られていた車・いすゞ117クーペの三角窓を思い出したりする♪

・・・

『僕と子犬と1月のバス通り』でも「彼」と僕だった。
犬を「彼」、ヤマメを「君」って呼ぶShoyanのその目線が好きだ。ライブのMCなどでは「gardenの中では一番解りづらい唄と言われてるけど」のようなことを言われていたが、色んなシーンが切り貼ってあるからかと思う。多次元中継になってるようで、それらのシーンを行き来するのがとても楽しい。

月が照らす群雲の夜空からランタナが七変化する庭先、携帯電話の液晶から泡立つ冷たい淡水の中。男女のリアルなやりとりがあるわけでもなく、切ない恋がある訳でもないが、なんともキュンとする愛の唄だ。この唄を聴いていると"夢見ることに嘘つきじゃなかった頃の自分"と今現在の自分との距離を辿る過程にキュンとする訳で、その"自分時間"と"草花や川の流れの自然の時間"との対比がなんとも切ないのだ。夢を見ることも叶えることもほとんど出来なかった私にもこの歌は優しい。むしろ今になって余計に距離が縮まったような気がしている。

自然をいとおしむ心も、自分を愛してやることも皆ラヴソングになる。こういうShoyanの胸ポケットの中のような唄が大好きだ。

夏の木陰の緩やかな淵で、水の天井を見ながら私もうつらうつらしてみたい。色んな小さな夢が浮き上がって羽化していくのをボ~っと眺めていたい。今年は釣りに行こう、コロナ禍二年目の七月の最初の日にそんなこと想っている。



・・・


※何年か前、長野県のとある標高の高い源流で、車のキーを急流に落として紛失しました。うかつにも予備を持たず(アホ)、ずぶぬれで探しましたが見つからず(当たり前だ)、保険会社のレスキューを要請して、川の水で冷え切った身体に、真っ暗な森と急流の流れの傍で何時間も過ごしました。満月が木々の間に昇り、川の冷気と鹿の鳴く声・秋の夜温、それはそれは恐ろしいものでした。月の光は自分の無力さを反省する鏡でした。

恐怖と心地良さが完全一致してそこにある、それが原始の森だなと実感する出来事でした。天然が心地良いのは「帰る保証がある」からこそなのだと痛感いたしました。備えあってこそのロマンチックだと・・・。

信州限定キティちゃんのキーホルダーが付いた車のキーをどこかで見かけたら、ご一報ください(^^;)。


※一部加工してあります
※セルフカバーアルバムが発売されたころに書いたものに加筆。

・・・

以前どこかで、アルバム『メガロポリスの錯覚』の頃のShoyanのヴォーカルが好きだと書いたような気がするのだが、そのアルバムの中でも、特に『WRONG TIME』の歌い方が好きだった。こういう歌い方、もっとして欲しいと想っていた。あの、低く底の方を浚っていくような囁きはISE SHOZOの"裏魅力"というか・・・私の密かな発見だと思っていた。

そして、あの頃から随分時が経ったけど、今回、セルフカバーのアルバムが出ると聞いた時やっぱり

>今の正やんには
>優しく、甘く、柔らかく・・・そして時々スパイシーに・・・
>声を置くように歌って欲しいのだけど・・・

と、想った。

今、そんな永かった願いが更に甘さを増して叶った気がしている(涙)。

というか、私の"願い"だなんて不遜だ。Shoyanの現在のNaturalがそうなったのだとしたら、そこに、自分の心が偶然寄り添えた・・ってことなのだろうと思う。

・・・

『渚ゆく』に関しては、思い込み全開でしつこいほどのキモチを書きたいと想う。歌の内容・言葉の意味などは今は置いておいて、感じたことを好き勝手に(ほぼ妄想で)残したい。

手にして以来、毎日毎日聴いているけれど、その歌声はもう、それ以上を望ませないほど最高に、最高に"私にとってのこの世の音の全て"だった!私が伊勢正三のことを何故好きなのか?という、原点が解禁になったような現象が起きている。 ※そしてそれはRe-bornで倍々に開花したのですが、それはまたいつか。

とても独りよがりな受けとめ方だけど、やっと、隅々までのその"Shoyanの音"と一心同体になれた気がしている。こんなに一体感を感じるヴォーカルって今迄他にない。

俗っぽい意味ではなく、本当に・・・素肌や身体さえ通り越して、互いの胸と胸の中が溶け合ってひとつになれる愛のヴォーカルだと思うのだ(涙)。

こんなにも聴き手に寄り添える歌を歌うことが出来る今のShoyanを心の底から尊敬するし、その胸の内をそこまで解放できる潔さ・懐の深さ・愛の深さを想うと、心の芯から熱い震えがくる。どこか、胸の奥の目に見えない遠いところで、奏でるものと聴くものはすべて繋がっているのだと・・・

 ソンナ オモイコミ ユルシテ クダサイ…

クジラが使う海の"サウンドチャンネル"みたいに繋がっているのか?
いや、それ以上にソコとココに"同時発生"しているものを如実に感じさせてくれる。それは眼に見えないしカタチのないものだから、証明するのは普段は困難だけど、同じく目に見えない「声」に「想い」を込めて繋ぐ・という作業を、今回Shoyanは実現したくて、このセルフカバーアルバムを作ったのではないかしら、なんて想ったりする。

目に見えない「声」というものの情報量がいかに多いものなのか・無限かと言うことを、Shoyanは今回の『渚ゆく』で証明してくれたんだ。40年以上も"音楽という悦び"と自らの感性に誠実に向かい合ってきた伊勢正三と言う人の真っ直ぐなまなざしなのだと思う。その動機を思うとこのセルフカバーの音源がどんなに濃くて愛おしいものか・・・感激で胸がいっぱいになって、言葉より先に涙が出る。

・・・

今回、この『渚ゆく』が一番生まれ変わり度が高いようで、新しい情報いっぱいなのが嬉しい。

この骨太なロマンチシズムが新鮮。"Rock Bossa"って感じがイイ☆ 新しい愛の強さを良く示してくれてるこの"ロマンチックにノれる"アレンジがとても素敵。

81年オリジナルは朦朧体ニュアンスが濃くて、当時流行ったリゾート画みたいな少し線の細い優しい色合いだったけど、今回は下地にキラ(雲母)を塗った岩絵の具の発色みたいで、そこに程よく吐息が沁み込んだ筆のようにShoyanの声が言葉を置いていく・・・何度見ても飽きない"永遠の渚"の風景。本当にShoyanらしいと想って憧れる。

2コーラス目からは更にその"囁き筆致"が増して「悪い癖」の「わるい」、「もてあそび」の「あそび」、「海風」の「うみ」、そういったところに痺れるほどの官能が溶けている。これが今回一番の聴き処なの。

この安堵感と一体感はまさに"Shoyanの腕枕"なのだと想っている。

腕が痺れては明日の仕事に障るので一晩中とは言わないけれど♪ この4分45秒・・・それだけ、無心で甘えさせていて欲しい。そんな幸せな妄想は純粋に心の糧なのだ。

もう、テクノロジーとか音楽の理論じゃなくて、裸の心と心の摩擦熱の高さがこの歌の評価だと思う。

ラストのガットギターのフレーズは、このアルバムで一番饒舌な愛の囁き。ずっと待っていた♪

 「その愛が何よりも強く光り始めたら、もうずっと一緒だから」
 「それに気付いたら、これからはもう離れないんだヨ」

って、

いつかきっとこんな風に言ってくれると思ってた。一番欲しかったResponseのような気がしている。私が一生聴いている分のそのすべての答えがここにあるような、Shoyanからの最高のGIFTをこの数秒のギターのフレーズに想う。

なんだかやっぱりまだ想っていることを上手く書けない。もどかしくて、でも愛おしくて、まだ、まだ何度も何度も繰り返して聴く。

初めて聴いた時からずっと導だったこの歌を、更に強く光らせて高く掲げてくれた今のShoyanに感謝の気持ちでいっぱい・・・。

音で抱きしめてくれて
アリガトウ(涙)

・・・

※2021追

と、よもや、これより更にこの愛の世界が深く潜行するとはこの時はわからなかった・・・ということは・・・?まだ今からも更にどこかへ向かいつつあるのかもしれないと、アキラメない愛の行方を・・・だ。Re-bornの先、テレポーテーションの先、いや根源に戻って永遠の渚の風景を・・・と。

プロフィール

HN:
No Name 七氏−1.0
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

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http://shoyanlove774.jugem.jp/
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