Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

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もう少し書く。

『僕と子犬と1月のバス通り』を聴きながら想うのは、
「涙とやさしさ」のコト。

♪君を泣かせた悲しい言葉胸に
 心やさしくなるにはもっと
 君の涙が必要なのに・・・

ずっと、ひっかかっている。
"言葉"は相手に叩きつけても自分は物理的に傷まないから、拳と違って安易に発してしまう。
だけど、言われたほうのダメージは深く、二人の絆がほどけるよりも先に胸の中が悲しい言葉で疲労崩壊する。感情のままにぶつける言葉がもたらす心の痛み・傷み、それを知ると知らないとでは意識が違う。"悲しい言葉"の怖さを知っている側が慎重になっていることを、知らない側は気付かない。

虚しさを回避したくて経験者は無口になる。
この温度差をどう埋めていくのか。
この歌を聴き続けてきて、そんな事をよく想うのだ。

・・・

それに加えて、『アフタヌーン通り25』と『少しだけの荷物』の"やさしい違い"に気付く。同じアルバムの中の歌だけど、「やさしい」の温度差があるんだなって思った。
♪君はやさしい女になった
♪この頃君はとてもやさしい目をしてる
どちらも女性側からの、ある種の"達観"であるとは思う。

「許せたやさしさ」
 と
「許せなかった末のやさしさ」

似て非なるもの。
コワイ・・・

『アフタヌーン通り25』の方は、再チャレンジ・やり直しの
「この人、私じゃなくちゃ駄目なのネ」
と、色んなことを乗り越えて、また一緒に棲むやさしさかもしれないけど、

『少しだけの荷物』は
「私はこの人では駄目なんだ・・・」
と、部屋を出て行く両極。
色んなことを越えられなかった諦めのやさしさかと思う。

なんだか不思議な言葉だ>「やさしい」。

Shoyan・・・
「やさしい涙」と「やさしい目」
どちらのほうが本当の平和なのですか?

 それがわからないなんて
 まだまだだねキミ

って言われそうダケド… (´∀`)

だけど、、、
元は他人同士なのに、「ずっとそばにいること」ってどういうことだろう?って思いながら、摩擦と距離を比較検討してみたりしてる。

冬の歌はこういうことを想わせてくれる歌が多い。
寄り添うぬくもりとすきま風。
涙の裏に隠れている季節を感じる歳になったのかもしれないと思いながら、急いで通り過ぎてゆく冬の横顔を見ている。

2012年01月27日記を改
"ロングランな歌"っていうのがある。
いつ聴いてもじんわりくる。
『冬の地下鉄』ってそういう歌。

地下鉄はわかりやすい"目安"で、地上一層では生活が成り立たない巨大な街の証拠。地下鉄のない町に住んでみるとその線引きがよくわかる。Shoyanは"地下鉄"には思い入れがおありかと想う。交通機関名曲の中でも特に気になる歌が多い。

・・・

若さを語るのに地下とは・・・
日の射さない地下で想うことは、どこか現実(現在)的ではないのかもしれない。地下鉄の限られた空間にはどこか安堵にも似たひきこもり感があって、独りで乗っていても孤独ではない。そこに惹かれるのかな?

でも、そのボーダーな空間を出て駆け昇った階段の先、地上には春の香りと言うけれど・・・
そこはのどかな春の野ではなく、身一つで放り出された大海のようで、様々な価値観が渦巻く無限不安の都会。怖いくらいに何でもある場所・・・。"大人"という鎧を身につけて闘わなくちゃいけない場所。都会に暮らせば毎日、鉄橋で川を渡ったり、地上と地下と高層ビルとを行ったりきたりして出勤と退社、onとoffの繰り返しで、様々な"行き帰り"の繰り返しだけど。時の流れだけは行ったり来たり出来ず、昨日が1ヶ月前に、1年が5年にと、ただひたすらに遠く去ってゆくのみだ。

若さがオトナに移行する過程。
それは還れない一方通行の旅。
そのライン上に日常が降り積もっていく。

でも、旧い路線の地下鉄でフト、あの頃のタイムラインの近くを通過する時、窓の外に青春のスライドが再上映されることがあるのかもしれない。開かない扉側の、壁の広告のように
眺めるだけで手は届かないけど・・・
だから、電車に乗ると人はつい何かを期待して窓の外を眺めてしまうのかもしれない。

・・・

少し、話戻して・・・
"地下鉄SONGS二卵性双生児"のような『地下鉄は空っぽ』では時の流れの存在は薄い。そして、ただ二人だけの世界だ。だって、まさに"真っ只中"だったのだから、時間は当事者である時にはわからず、過ぎてから見えるのだと想う。

『地下鉄は空っぽ』が出来た頃、Shoyanは出演されたラジオで、

「地下鉄の駅などで、若いカップルがケンカ?をしてたりして、
 男の方が壁に手を突いて彼女を帰さないようにしていて、
 そういう、若い光景が印象的で・・・」

みたいなことをおっしゃっていた。
それから10年してカタチになって出て来たのが『冬の地下鉄』だ。

~♪ホームで誰の目も気にせず喧嘩もしたあの頃なら・・・

まったく同じ恋人たちではないだろうけど、未熟の青い実のような恋の風景と熟した後、土に落ちて次の芽を出した実ほどの時の熟成があるのが興味深い。歌を寝かせた結果・・・がよくわかる。そして、永く聴いてまた沁みてくる。素晴らしい歌だって想っている。

・・・

~♪君が僕と違うわけを

今回、一概に"男と女"なんて言い切れず(『夏の沈黙』とは少し違うニュアンス?)"運命"的なものも感じる。

・・そう、人のタイムラインはそれぞれ違う。でも、ナゼそれが交差したり併走したりするのかは誰にもわからないことで、そもそも、運命って一秒先も前もって決まってはいないんだ。時の流れは逆戻りできない一本のラインのはずなのに、レールはその先にあらかじめ1cmも敷かれていない。不定形な概念が"運命"・・・

自分がその人生の背後に敷設してきたレールの長さが今の自分を縛りもするし安定もさせる。若い頃の束縛のない転がるままの自分はいつから"後ろレール"を敷き始めるのか・・・
そのタイミングの違いが"君と僕の違い"なのではないかと想う。

・・・

1996年。
今聴くと、なんと甘く、素なShoyanの歌声…(>_<)。
あの頃のShoyanの事実全てが詰まっているようだ。
自分が知っている時間の全てが録音されているような気がする。この二曲、やっと両方リアルタイムで聴けた歌だから自分の中で比べたり想い出したり出来るのが嬉しい。
昔の歌もこんな風に聴けていけたらいいな・・・

・・・・・・・

排気ガスと雑踏の臭いの中にでも春の香りを見つけられるかどうかは、そのココロモチ一つ。
歳をとれば"失った春"は胸の中で樹脂のように固まっていたりする。でも時々、想い出に擦れて仄かに香ることがある。見えない花が香る早春のように、過ぎた春もまた記憶の中で褪せないまま触れられないのだろうな・・・

だから永く 大切に キラメキ抱きしめて☆
#2012年

~この街の雨冷たく so lonely

今年の冬はわが町や関東地方は全く雨が降らなくて、カラカラの街からさらって欲しいレベルの乾いた冬なのだけど、、、。

本来ならば1月中旬~下旬の雨は乾燥注意報を一息つかせる雨。それでも暖かい季節の雨と比べるとそっけなくて、まだ季節を緩ませるものでもない、あまりにも普通の冷たい雨。

『アフタヌーン通り25』とともに『僕と子犬と1月のバス通り』はこの時期毎年ヘヴィロテである。
この頃になると、クリスマスやお正月などのハレのイベントも過ぎて、基本的な日常が戻ってくる。こうした何気ない日常の中でフト想い出したりする作業のほうが、感情的には切ないよね。
フラットな面がえぐり取られたら、その傷跡は良く目立つ・・・。何気ない毎日の中で想い出したり悔いたりすることはその分、長く引きずるような気がする。

~君に会えない 今でも so lonely

復縁のあてもないのに住む所まで"その感情"で決めてしまっていいの?部屋を借りても、容れ物だけ新調しても、中の水はこぼれたまま・・・。

フクスイボンニカエラズ

新しい涙が溜まるのを待つの・・・?
でも、この歌を聴くと、各所で"オトコって残酷…"と思う。

~涙をそっとこぼして欲しい
~君の涙が必要なのに
~心やさしくなるにはもっと 君の涙が必要なのに

って、どんな"涙"を欲するというの?

例えば・・・(チョット引用)

~朝から続く雨の日に泣きながら飛び出していった 
 @『あの頃のぼくは』

のような、彼女の悲しい涙はどう?
相手の理解を得られない時の涙ほど辛いものはない。心が通じないゆえの涙なんて二度と見たくもないし流したくもない。それを相手に欲するというの???

否・・・

~君を泣かせた悲しい言葉

彼女が、それに堪えて堪えてどうしても押さえきれなかった一粒が、全ての終わりの初めだとしたら。もっと・・・というのは、彼女の心の解放を望むものなのだろうか。悲しい涙を流して流して泣いて泣いて心が裸に赤剥けた時に、

~君と初めて出会えるのだろう 
 @『涙憶』

ということになるのだろうか?

"遠く離れて、こんなに近い"とわかったのに、それでもまだ涙を流せと言う要求は。やっぱりチョット残酷な気がする。それとも再出発のうれし涙??

・・・

別に、悲しませようとする涙でないことはわかってる。ぶつかって、触れ合って、理解を深めていく過程の副産物である"摩擦のしずく"が、ここで欲している涙なのかと思う。

でも、もう手遅れだったのかナ。。
気付いた先からもうほどけ始めていた絆。
もう、彼のための涙は存在しないのか・・・

・・・

子犬は彼や彼女の"無心"。
人は、未来や立場を意識しすぎて自分を縛ってしまう。二人とも、子犬のように相手に対して全身全霊だったなら・・・

でも、人生最初から何でもわかっている訳ではないから、人は成長していけるのだ。いつか、次の縁が訪れるまでの(いや訪れた後でも)忘れられないことも忘れるための作業だと、軽いため息をつきながら時を送っていくしかないのだろうと思う。

このアルバム『時のしずく』が2月始まりなのは、私たち日本人の感性の暦に適ってる。正当で表向きな公式の暮らしの陰で、"裏暦"みたいな心の伏流がある。そうやって長い人生の中に心の陰翳が出来てゆくのはとても素敵なことだと思う。

聴き始めた頃にはなかった感情が今の私の中に有る。それはこの時の雫が何年かかけて少しづつ穿った想い出の中の小さな窪みだ。そんな"懐かしさの窪み"がShoyanの歌と私の歴史なのだなと、大切に想わせてくれる歌だ。

・・・

降り出した冬の雨は雪にもならずに、中途半端に冷たい街を黒く染めて去っていく。もう流れ始めてしまった別々の時間が二人を引き剥がしてゆく。最後のフレーズはグサっと刺さる。過ぎてから気付く宝物のコトを・・・

この"明るい寂しさ"、"切ない絶望"が堪らない。Shoyanが一番得意とするセッティングではないだろうか。

傷は時が癒すと言うけれど、絆は時がほどくのだと言う。酷い事も、甘く楽しかった事も、いつかはみんな河口の石のように小さく丸くなって、同じ、時の砂に還っていく。そうなるまで、あとどれくらい"後悔"が必要なのだろう。

・・・

P.S.
私にとってのこのバス通りは花の名前がついたあの町のバス通り。子供の頃、お小遣いをためて初めて1人で行った商店街。駅前を越えて歩けば遠い隣町に思えた。今はどうなっているのやら・・・あの文房具屋さんも花屋さんも・・・(懐)
2012年01月25日を改
「鳥が空を飛べる訳」

それは、"現実"を抱きしめる腕を持っていないからだろうか?
それは悲しいことなのか、それとも自由なことなのか?

Shoyanが込めた真意に少しずれるかもしれないけど、私は、鳥が空を飛べるのはそれが"手ではないから"だと思うのだ。(当たり前だけど)

『翼をください』という名曲があるけれど、生意気にも私はずっと昔から「翼なんて要らない」と思っていた。あなたを抱きしめる両の腕があれば、飛ぶための翼など"欲"だと。腕と翼の両方を持っているのは天使か悪魔ぐらいのものじゃないかって…。地を行く人間の自分に必要なのは、この、現実を掴んであなたに捧げるための腕じゃないのかしら、って…そう思っていた。

自由は魅力だ。
飛び立てば未知の自由の中に更に新しい自分・本来の自分を見つけられそうな錯覚もある。でも、本当の自分は追うものじゃなくて、不器用なその手でそこで作り上げていくものなんだと思う。その不器用さが"愚かなる現実"でも、報われない切なさでも、やっぱり自分のことは自分にしか出来ないことだと、そう思って今ここにいるのだ。それに"手"は相手にも何かしてあげられるし…

ただ、心の中では渡り鳥のように無心でただ空を飛んで、自分の位置を俯瞰で把握してバランスを保てればと思ってるけど、コレがナカナカ巧くはいかない。自分の心ほどままにならないものはない。

・・・

私は地図を読むのが好きだ。
自分のNAVIが少々壊れていてもなんとかここまでやってこれた。夜空を見上げれば今年も、いつの時も、季節の星が案内してくれる。

北斗七星にすくいあげてもらいたい言葉は
「さみしい」だろうか?
それとも
「会いたい」だったろうか
・・・と

言葉に出来ない気持ちは未来が見えないことの証拠?

~ネェ? 
 君は笑うだろう 
 君のこと忘れようと 
 仕事だけが恋人だと・・・

自虐してるんだ(´∀`)イヤ、自虐でもいい。仕事をしてるのなら何も恥じることはないもの。
人は誰かを愛したり、誰かに愛されたいものだけど、そんなにいつもうまい具合に幸せは固定されなくて、孤独を強要されることもある。独りだったら自分自身に興味を持ちたい。自己嫌悪のカタマリでも、後悔の拳で叩いて叩いて、そして、壊れるものは壊れていい。全部なくなったように見えてそれは新しい何かを得る始まりだもの。

星空はまるで手の届かない天の上のようでも、本当は自分の足元のずっと下にも広がっていたことにいつか気付く。今は見えない自分だけの星に出会える時がきっと来るって、Shoyanはそう歌ってくれている気がする。

今の自分が昔の自分を思ってやるように、労わりの気持ちで聴いてみたい。女の私がそんな風に思うのヘンだろうか?そんな風にこの歌を聴いてもShoyanは許してくれるだろうか・・・

最近は星空を見上げても、将来のことより過去のことを想うことが多い。でも田舎の町の澄み渡る冬の夜空を見上げながらこの歌を想う時、自分はこれから何処へ行けばいいのかなって、少しだけ前向きになれるんだ。

「独りも悪くないヨ」・・・って、星のまなざしを教えてくれてありがとうShoyan。

2014.1
こっそりやってるクセにブログ村に登録したった(*´ω`)(笑)。

だってね~
やっぱね~
じっとしていられないんですよっ

TBS『噂の!東京マガジン』エンディングテーマですよっ!

伊勢正三『風の日の少年』

て文字を見たらざわめくわけですよ!

正やん、いいじゃないですかそのヴォーカル(>_<)。
じんわりと暖かいじゃないですか・・・
そして爽やかだ(泣

♪会え~たら~いい~な~
のメロディーが、紛れもなく伊勢正三ですよっ

早く全部聴きたいよぉ~~~

、、、って、これから2月20日まで何度書くことになるのだろう(笑)。


フフ、独りで気ままに呟くのは楽しいモノです。
◎2011年12月30日に書いたものを貼っておこうと思います

最近、One heart 1sessionのLD>HDD>DVD>PCから音だけ取り込んで聴いているのだけど、冒頭の三連続曲が『冬京』『海風』『そんな暮らしの中で』で、これって私的"Shoyanのゼロメートル"=アルバム『海風』からの三曲だと気付いて今になってホンワリウレシイ♪
やっぱり復活の1993年は再びの"海抜ゼロメートルだったのかもしれない。
※海抜ゼロメートルについてはまた後述

・・・

で、話は戻るが、
この『そんな暮らしの中で』に想う。

~芽ばえ始めた「何か」を
 大切にして生きるため
 日々の暮らしがある・・・

"何か"ってナニ?!・・・って、最近急に気になる。
近頃は時間がなくて、歌詞カードなど見ずに歌を聴いていることが多かったのだけど、歌詞カードを見たら「何か」とわざわざカギ括弧で括ってあった!恐らく今までも歌詞を目にするたびに!と思っていたかもしれないけど、特に意識しないでいた自分が甘かった。見返したらソコだけ強調してあったので驚いて、そして、ますます考える・・・

『海風』にも"今の僕に何かを残してくれた~"とある。
『冬京』にも"あの頃僕は何のために~"とある。

「何」というアバウトな言葉に無限のバリエーションを含ませたのだろうか?それとも確固たる答えがあるのだろうか?当時、若きShoyanが歌を作った瞬間にはまだ種であったコト、在り処はわかっていても手に取れないものって結構アル。

それを40年近くかけて育み、開花させたShoyanはやっぱりスゴイ。中間地点の93年のステージを観なおして、その切々とした真っ直ぐなステージからまた再び始まったもの・・・。
今年はそんなことも想ってみる。

・・・

聴き始めの最初は単に、
「子供の成長とか家族の絆みたいなことでしょ?」
と、深く考えずに触れないでおいた。でも、本当はそんな簡単な(限定的な)ことではないんだよね。

人はある時、肉体的に精神的に大人になって、もうひとつ、社会的にオトナになる時がある。自分以外の他の誰か・他者との係わり合いが発生しだして、煩わしさや慕わしさなど、良い事も悪い事も降りかかってくる。でも、そんな繋がりを持ってこそ、この世に"暮らしている"と言えるのではないだろうか。若い頃にわからなかったことって、そういうことだったのかもしれない。

「絆」だけでは足りない。
「柵(しがらみ)」という裏地も同時にあるんだということ。

・・・

蛇足だけど、私のように大人になりきれず、その「何か」が芽ばえてこない人は、どうすればいいのだろう・・・?
この歳になって振り返っても、自分で一生大切にしていこうと思うものなどほとんどなかった。そのあたりが今この歌が自分に刺さっている理由かと思う。

「君はどう?」

って、Shoyanに問われて

「芽ばえないんですが、土だけは柔らかく鋤き込んであります」

と、せめて答えたい。
心構えだけはそんな風に前向きに、次の時間を生きていきたい。

そうしていたら
まだいつか
風に乗って「何かの種」が
飛んでくるかもしれないもの
・・・
(´∀`)KAZEをアキラメナイ

・・・・・・・

~時計の針が時を流しているわけでもなく
 明日の朝 新聞の日付がただ 
 変わっているだけのこと

・・・と
今年も今日明日で終わる。
暦は新しく次の一冊になる。
もちろん新聞の日付どころか年次まで変わってしまう。
丸一年の月日がまとまって過去にされてしまう。
まるで世界が変わるかのようだ。
だけど、本当にそれだけのことで
時間は流れるだろうか?

以前、
「時を流しているのは、生きている自分自身なのでは?」
と、どこかで書いた。

時の流れは全ての人に平等だろうか?
例えば今年、様々な災害などで幸せな日常から突如放り出された人たちや、大切な物や人を失った人たちのもとで時はどう流れているんだろう。

被災地や避難先の新聞も、私の店の朝刊や日本中の新聞、みな同じ日付で配達されるのに・・・
日常を奪われるということは、晴れの日も失うということだ。お正月の晴れ晴れしさの中に一抹の哀しみ・・・

日付が新しくなっても、更新されない大きな悲しみがまだまだある。そういう"止まった時"の中で暮らしていく人たちの中にもいつか、「何か」が再び芽ばえるといいな。

・・・

悲しい目に遭ったら、焦らずに、何年でも待って、自分自身の心の砂時計を次にひっくり返せる時が来るまでじっと待つのもいいと思う。
目覚めても、あと五分は布団の中にいてもいいように♪無理して動き出さなくてもいいと思う。
じっとしているほうが芽ばえ始めた小さな双葉を見逃さずにいられる。変わりゆく生活の景色や、激しい価値観の乱高下に翻弄されずに、自分だけの"可能性"を探して・・・☆彡

ソシテイツカ 報告デキルトイイナ トオモイマス

一年を暮らす日に・・・
今日も愛を歌っている人へ
 
Shoyanのアルバム達は、夜・朝・午後・夕に分類できそうで、『HEARTBEAT』は私の中では夜のアルバムだ。最近はこの「夜にまぎれて」がまた好きだったりする。WORKSにはこの歌が収録されていて嬉しかった。私がこの世で初めて買った伊勢正三のシングルレコードだから・・・

当時、こういうオトナな・ヒミツの恋愛が徐々に当たり前になりつつある方向に世の中が向かっていた気がする。”愛人”とか”不倫”とかという言葉が表舞台に出てきてスタンダードになり、秘密の恋が秘密じゃなくなってくる過渡期だったかと思う。

今になって、あの時、本当は諦めていたほうがよかったのかもしれない、と思うことでも渦中にあっては気付かないものだ。幼稚な情熱の行方を後になって振り返るとき、それは、、、やはり間違いだったのだろうか?それとも、、、通り過ぎて痛んだ分何か残ったのだろうか?と、Shoyanの歌にそれを訊ねたい。一番教えてもらいたいことはその部分だ。

逢えない日の離れた距離の反動で、想いあふれて激しく抱きしめた時、合わさった二人の胸が挟むカメオ。その愛の偏りにいつしか割れてしまいそうな、儚いシェルのカメオ・・・。幼い横顔はそのまま優柔不断な女の肖像。果たして男の胸の中には、ぴったりと合うインタリオがあるのか?むしろこの場合、男の想いの方が浮き彫りのカメオ。丁寧に、神経質に、秘密の愛を育んで削り出した壊れそうな思慕の横顔。独占欲を乳白色に美しく残して・・・なのに、その横顔は正面を向くことはなく、幼く無邪気に違う方を見ている。ずっと胸元で、正面愛に応えられない恋の横顔。それをそれごと抱きしめなければならない男の切なさがイイ。

漱石の文学に触れると出てくる"unconscious hypocrite"無意識の偽善者、というフレーズがチラリと浮かぶ。アタマでわかっていてもココロがやめられない・・・この歌の男性のように愛したい。壊してもいいほど抱きしめたい。不恰好な一途さ・それに親近感を覚えた当時の私。

手のひらをずっと閉じ併せていないとこぼれてしまう水のような二人の時間。指の間をすり抜ける冷たさ・心地よさ・儚さが甘くて病み付きになってしまうのだろうね。抱きしめたあとに何も残らない”器を持たない女”との関係を、男は胸の中で残したくて砂のように待っているのだろう。でも、きっと、その涙は横顔の片目だけの涙。女の本当の涙が注がれるまでこの男は待てるのだろうか。

予感を想うに切ない・・・

・・・

しかし、こんなに激しい情熱レベルが最初の出逢いだったものだから、そのまま私の"伊勢正三標準"になってしまって・・・だからいつも求めるものが濃いのだ。

今でも、ずっとShoyanの情熱の底を待っている私。
時にまぎれて、いつまでもずっとだ。

時の流れに情熱を溶かし込んで身を委ねてみるのは、幾つになったって出来ることだと想うから・・・


2010年04月01日
♪月が宵待草を咲かせすぎた次の日・・・
 電車の時間を気にして 君が出てゆく
  朝は気まずさの捨て場所 


"月が宵待草を咲かせすぎた"・・・とは、やはりShoyanのレイアウトは只者じゃない。シビレル(>_<)!『都方人』というタイトルだって、無色透明の蒸留酒のように収めた胸の中で後から熱い。そういう"都会と鄙"ってことを、芸術として意識しだした80年代の色っぽさを感じる。アレンジやミュージシャンのチョイスが硬派で(その実、非常にしなやかだけど)、ちょっとパッと見ゴツイ。風の頃より重くなって、時代の浮力に対抗するウェイトのようだ。
『北斗七星』の曲たちはShoyanのgardenに置かれた水石なのかもしれない・・・とか想ったり、このあたりにもたれかかって静かなことを想うのが私の最近のマイブーム。
"宵待草"に私は大好きな竹久夢二を想う。
四冊だけ手元に残った画集を久しぶりに出してきて独り眺めてみようかな。だんだんと昔のことが一塊になって、すべて懐かしいものになってゆく。経験とか事実とかあまり関係なくて、時の流れの中で後も先も同じその"悦び"に触れることが出来る、それが絵や歌や文なんだね。
Shoyanの歌の中の悦び・・・すべての小節のすべてのオクターブの中に、これからも幾つ見つけられるのか・・・それを思えば、まさにこの今でも怖いほど胸が高鳴る。

2009年07月31日

・・・

待てど暮らせど来ぬ人に
時満ちて逢える夜
それまでの想いが溢れすぎて
寂しい宵待草も
忍び逢いの蜜を湛えて
つい、咲き過ぎる
月までがそんな妖しい心もちを煽る
皮肉にも、そんな花も咲かせ過ぎれば
一輪の花に及ばないのかしら・・・

"現実"が、"生活"が、甘い蜜を呑み込んで、"システム"の中に連れ戻す。誰かとずっと繋がっていたい自分と、逢う時だけ愛している自分と、どちらか決めかねてシステムの中で流されているのが楽だったりする。ゼロか100か・の、ゼロを選ぶ器用さが"都方人"。だけど、120%もイイヨネ・って、私の中の野暮な情熱が語りだす。

"壊すために作る積み木のように"
逢っては離れ
語っては悔い
抱かれれば泣く

生きている限り『相克相生』みたいなことを繰り返して、ただ唯一の『自分』というものを削りだしていくのだきっと・・・その手間を惜しんではダメだ。生きるよろこびというのは、きっととても手間のかかることだ。そして「これでいい」ってことはない。
不思議なことだけど、苦しんでいるってことも喜びなのかもしれないよ。私にしかクリア出来ない事柄かもしれない・と思えば、独り想いの辛さも、触れられぬ笑顔も、あてのないこの片便りも全部オリジナルな私だけの宝物だ。

「一輪花の 咲けかしと 願ふ心は 君の為め」

一輪も咲き過ぎも
元は同じ一粒の種・・・


※一輪花の~は北村透谷の詩より引用

2009年08月12日

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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