Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。
誰でも自分だけの景色・匂い・想い出みたいなものを気持ちのどこかに持っていると思う。
この歌は私の中のそういう大切な部分を暖かくしてくれる特別な歌だ。初めて聴いた頃から特別大切にしてきた歌だし、もう「さそり座」と言う単語が出てくるだけで嬉しくて、ずっとフェイバリットな歌。今年も暖かいココアを飲みながら聴きたい。
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なんてデリケートな唄い出しだろう。
なんて優しいShoyanの声だろう。
20代のShoyanの声だ。
まるで処女のような声だ。
なんて優しいShoyanの声だろう。
20代のShoyanの声だ。
まるで処女のような声だ。
♪土曜日へと流れる~
の「どよおび」の響きが大好き。
自分が生まれた季節ってどうしてこんなに好きなのだろう?私は11月から12月にかけての晩秋の頃が一番好きだ。そして自分の生まれた土曜日が好きだ。晩秋の土曜日は私が一番ほっとする日。正確に言うと私の誕生日は11月2日なので、この歌よりちょっと早いかもしれないが、今自然がいっぱいの鄙びた町に住めば、秋の山や空の美しさがより一層に私を慰めてくれるのだ。
※近年、Shoyanご本人は秋は体調がすぐれないから苦手っておっしゃっていましたが・・・(^^;)
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この歌では何月何日に誰が生まれて、何の花が甘く香っていたのか具体的には書いていない。でも密かに用意されているキーワードが聴く側にピンとくるものがあるんじゃないだろうか。決まりきったただの"描写"じゃ捉えられないものをShoyanはそっと埋め込んでいるはずだ・と思いながら聴いている。
ゆく秋を懐かしむ窓辺の花はなんだろう?
姿はサザンカ?
香りは少し早いキンモクセイ?
それとも祝いのユリやバラのブーケだろうか。
ヒヤシンスには少し早いね。
庭の小菊も綺麗だけど。
姿はサザンカ?
香りは少し早いキンモクセイ?
それとも祝いのユリやバラのブーケだろうか。
ヒヤシンスには少し早いね。
庭の小菊も綺麗だけど。
70年代の半ば頃にあった花を思い出してみる。今みたいに多種多様の凝った品種はなかったと思う。懐かしい昔のスタンダードな花たち・・・そんなことも今になると考えてみたりする。
私の幼き日、通っていた幼稚園の庭のザクロ、友達の家の池の睡蓮、国道の排気ガス、絵の具のレモン色、肌色、ビリジアン。若い母と父がいた借家の、縁の下のカタバミやデージー。オケラがいたブロック塀の下。未舗装の道を抜けて川縁のサイクリングロードに出るススキの原。遠くには雪を頂いた連峰・・・
今住んでいるところとよく似ている。だから、いつまで経ってもこの歌が懐かしい。
私が数あるShoyanの歌の中で大切にしているいくつかのフレーズ、その中でもかなり上位にある歴史のある言葉。
♪もうそれは還らない日々だけど・・・
父の仕事の関係で幼稚園時代を福島という地方都市で過ごした。妹二人もそこで生まれた。その東北の小さな都市で自分の雛形は出来上がったのだと思う。でも小学校にあがる前に引越しをして東京(横浜)に出てきたことで、その福島にいた頃のことはぽっかりと私の心の中に小さな世界を作った。
小学校にあがっても、高校生になっても、私はその頃のことをよく思い出したし、折りにつけ懐かしんだ。暮らしぶりに特別な違いがあったわけじゃないのに、子供の頃から子供の頃が懐かしかった。
この歌の「もう還らない日々」はいつのことだかわからない。でも、私にとっての「還らない日々」はその幼い日のことなんだ。この歌を知ってからずっと、このピュアすぎる一曲に自分の想い出も預かってもらってきた。昔、優しい年上のお兄ちゃんに遊んでもらったように子供の私がいる。その懐かしい日からの今を思えば、自分が生まれたことも大切に出来る。
当時のShoyanがどんな思いでこの歌を作ったのかもわからない。でも歌の意図なんて考えないで100%自分のモノにしてしまえるほどこの中の景色は自然だ。こういう歌があるから私は伊勢正三の歌が好きなのだ。"私の中にあるもの"と同じものがここにある・と知った時から私はファンになったのだと思う。
それはこれまでずっと私がShoyanのファンであったことの最大の理由なのです。
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この曲のアレンジもとても好きだ。
シンプルで、ちょっと実験的で、挑戦的で、ボーカルがフワっと浮かんで聴こえるようなシンプルさ。ドラムの楔と佐藤準のピアノが牽引する、バックミュージシャンの際の際で「彩る」音が本当に美しい。
シンプルで、ちょっと実験的で、挑戦的で、ボーカルがフワっと浮かんで聴こえるようなシンプルさ。ドラムの楔と佐藤準のピアノが牽引する、バックミュージシャンの際の際で「彩る」音が本当に美しい。
Shoyanの声やメロディー・詞を邪魔しない絶妙の存在感でワクワクさせてくれる錦の帯みたいだ。超後追いファンの私は90年代に入ってからスティーリー・ダンの『Aja』を知ったのだけど、それに勝るとも劣らない素晴らしいアレンジ&演奏だと思う。
エンディングに連なる繰り返しは、血がザクザクと沸くような胸の中で石が発火するような熱さが堪らない。ミスタッチギリギリのところで転がるJUN氏のピアノがShoyanが描いた景色を昇華させていく・・・
本当に堪らない。
※結局、佐藤準アレンジが大好きなのかも自分
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今から「ゆく」のに
すでに「懐かしむ」秋
すでに「懐かしむ」秋
本当は寒いのに「暖かい」冬
この頃のShoyanの意識的な折り込みをを感じるフレーズ。同じアルバム内の『冬京』でも冬を越すには「暖かい愛」が必要だと、そして『そんな暮らしの中で』では「寒さの中にかくれているのは暖かさなのだから」と、対比は実は同じもの・という気付きがある。
"冷たさと暖かさ"この反復があるから、聴く人の胸に露が宿るのだ。
暖かいカップからは湯気が立ち
暖かいカップからは湯気が立ち
冷たい缶には水滴がつく
何か、そんな発見をこの頃からのShoyanの歌に感じていくのだ。『海風』というアルバムは伊勢正三の"海抜ゼロm"だと思っている私。そのことはまた追々書きたいと思う。
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紅葉の華やかな時期は終わり、クリスマスの賑やかさにはまだちょっと早いこの静かな初冬の頃。まだ落ち葉がしっとりとして積み重なる静かな日、自分の事を考えるにはちょうどいい頃だ。
そしていつも毎年、傍にはこの歌があることだろう。セピア色の古い写真のように、暖かく、懐かしいままでずっと・・・。
2005年10月記より加筆
プロフィール
HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
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