Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0
この歌は私にはスペシャルなオトナの絵本で、あまり理屈は考えないで、夢想的な心地好さに心を委ねてしまう。色々考えることなど出来ないのだ(放心)。
満月・湖・森・ジャンクション・君をさらってく・夢に見た聖域・・・これらのパラダイス理論(謎)というか、Shoyanの音楽の背景にいつもある、原初の場処なのでは?と思う。いつも憧れている"罪の無い森"なのかなと思う。
しかも、
♪その素肌を
今そっと抱いて願い叶える
未来という湖で
信じるままでいい・・・
今そっと抱いて願い叶える
未来という湖で
信じるままでいい・・・
うおっ!エロい!!!
「素肌を抱く」よりも
「未来という湖」がめちゃエロい!
「素肌を抱く」よりも
「未来という湖」がめちゃエロい!
"エロス"というものは、物事の根源的なパワーで、また回帰出来る安穏でもあって、成就と後悔・男と女・脱ぐと纏う・アナタとワタシ・好きor嫌い?のように極と極を融合させるチカラだと思う。(※個人の感想です)
キミの中に在る?「未来という湖」に、果たして"底"などない蜜の湖にわが身を投じるという、、、そのオトコの"決"がスゴくセクシーなのだ。
しかもそれが、
♪この手は離さない
ずっとずっと 守り続ける・・・
ずっとずっと 守り続ける・・・
だなんて、なんて"純情"!
このエロスと純情の二本立てはまさにShoyanの必殺技で、もう、紅潮と胸キュンの波状攻撃に参ってしまう。
たった今の孤の自分を捨てて、キミと未来へ、ふたつをひとつに溶かし合って新しい愛の塊になって永遠に・・・という生まれ変わり=Re-bornの物語は、すでにここからも始まっていたのだなぁと、今つくづくと想っている。
・・・
今回、「麗しく流れ落ちる金色の雫を纏うヴィーナス・虹色の霧に包まれながら・湖水はクリスタルブルー・などなど」とても解り易い説明が多いので、舞台の色どりをイメージしやすい、なので絵本なのだ♪
でも、一方で「見つけられないHamlet・恋はアセンション・夏が過ぎた秋も緑あふれる森~緑の秋・君とspirit away・満月は湖の中に沈んでる」~などという新しいフレーズも沢山投げ込まれていて、ココロをピリピリっと攪拌される。
攪拌されると謎が深まる。それは歌を解き明かす時間が伸びているということで、とても幸せな時間が得られたということなのだけど・・・解らないことは嬉しいことなのだ!
この、豊かで深くて濃いぃ世界を今味わう醍醐味を言葉だけでレスポンス出来るのか?と、もどかしい思いで長い時間が経ってしまった。
言葉って時に虚しい。でも「言葉では言い表せないほど」なんて安易に言いたくないので、もっともっと視えたものをハッキリと心に刻みたい。
でもでも・・・?
もしや、枯れない言の葉・紅葉しない言の葉があるのだろうか?言葉にしない以前の言葉がもしかしたら、永遠の緑の言の葉かしら・・・?
緑の秋の森の樹々は単なる常盤木ではなく、うつろわない季節の落葉樹、落ちても落ちても芽吹いてくる止められないキモチなのかと思う。
・・・
満月は欠けない月、終わらない時の象徴?
哀しみの意味や脱ぎ捨てるものに気付いたら、満月は気付かれずに沈んでいる。気付かれないのなら欠け始めることはない、未来という湖の中に沈んでいる満月は永遠の成就なのだろうか。そして完璧という出発点なのだろうか。誰にも気付かれずに一つに溶け合って満ちているなんて、なんて素晴らしい刹那サ、なのだろうと思う。
恋人たちの気付きと気付かれない事項の交錯も面白い・・・と、またこの後のRe-bornと併せ思いながら聴いている。
哀しみの意味や脱ぎ捨てるものに気付いたら、満月は気付かれずに沈んでいる。気付かれないのなら欠け始めることはない、未来という湖の中に沈んでいる満月は永遠の成就なのだろうか。そして完璧という出発点なのだろうか。誰にも気付かれずに一つに溶け合って満ちているなんて、なんて素晴らしい刹那サ、なのだろうと思う。
恋人たちの気付きと気付かれない事項の交錯も面白い・・・と、またこの後のRe-bornと併せ思いながら聴いている。
Shoyanのこの”リアルなメルヒェン”の世界、これからもコレクションしていきたい。色と季節の関係を楽しみにして、まだこれからも新作・続編を待っていたい。
こんな今だからこそ欲する"夢"を、もっともっと!と思う。
私の湖の底にはおそらく新月が沈んでいると思われるが、そこでまた約束の無い夢を待つもよし、なのだ。
私の湖の底にはおそらく新月が沈んでいると思われるが、そこでまた約束の無い夢を待つもよし、なのだ。
今のところ、外は荒んではいないようだ
だから、世が終わるのはまだ先のようだ
その前に"夜"が終わることを願う
外はスーパームーンだという
なんと濃い月影!
だが今は蒼い服を着て有縁の街に行ってはならない、戯れ名は命取りだ・・・
・・・
HIRO氏の『祈り』がヘヴィロテである。背筋がゾクっとする。
この歌を聴いたとき(読んだとき)あまりに階層が深くて、どこに自分の支点を置いていいかわからなくて、感じたことが感じすぎて言葉に出来ず、曖昧な感想しか書けなかった。とても後悔している。早く、今想うことを書きたい。この今こそなのかもしれない。
でも、私がその時感じたままに、世はこの歌をなぞって流れている気がする。
怖い。
Shoyanご自身は今、何を想っていらっしゃるだろうか。もうすでにその先へ漕ぎだされているのだろうか。月を見れば、置いて行かれるような気がしてさみしい・・・
輝き過ぎている月を見て
祈る?
願う?
想う?
逃げる?
願う?
想う?
逃げる?
物質的に触れあうこと以上に、心で愛し合う時がいよいよやってきた。
人の心が人には見えないのは、心はそこに無いからなのだ(後述)。なのに「心で愛し合う」とは?
命に係わる恐ろしい出来事の中で、それがよくわかってきた。またその反面の、愛のない人のどうしようもなさ・も。
怖くて怖くてどうしようもない事態なのだけれど、Shoyanの歌たちで透かして見ると"真実"の方が明確に見えて、冷静でいられるんだ。
*****************
「それより自分のことを
マジ愛してるかい?」
マジ愛してるかい?」
2018年夏のHIRO氏への提供曲4曲の中で一番好きなフレーズだ!!!今一番大事な言葉だ。
・・・
自分を愛することと
他者を愛することは
違うことなのか?
同じことなのか?
他者を愛することは
違うことなのか?
同じことなのか?
そもそも「愛する」ってナニ?
他と自は別々のものではなくて、本当は同じものではないかと思うのだ。だけど、他人の心は思い通りにならないので、自分以外のものだと思ってしまう。
かといって、自分の心だって思い通りにはならなくて、結局、自分の心も他を含んでいるし、他人の中にも自分と同じものがあったりする。だから、人の悪口ばかり言ってる人は自分のことも嫌いだったりするし、時どきそういう人に会ったりする。
他人を信じられないから、自分を信じられないのだ。
他人に心をゆだねるのは損だと思ってる、だから必要最小限の付き合いしかしない、傷つきたくない・自分のペースでいたい・って。でもそれって、自分自身にも向き合っていないのでは?って思うのだ。
他人に心をゆだねるのは損だと思ってる、だから必要最小限の付き合いしかしない、傷つきたくない・自分のペースでいたい・って。でもそれって、自分自身にも向き合っていないのでは?って思うのだ。
自己愛はエゴなのだ・と、エゴイズムは忌むべきものだ・他人を思いやる心が大事・などと、知ったかぶった人が言うけれど、愛は他から引き込むものじゃなくて、体得するもの・自分自身の中から湧き出る泉なのだと思う。
雨を乞うのか・というフレーズがあるけれど、その場に雨が降ったとしても、それは一時しのぎで、やはり、地下の水脈は自分の知らないところで降る雨(それは縁だったり偶然だったり、それこそ家族や他者の愛)で、それをろ過するのは自分という地層・年月なのではないかと思うのだ。
けれど、何故か人は他人の評価やよその芝生が気になって、「他ありき」で物事を考えてしまいがち。今の世の中それが普通になっている。他人に合わせることが平和だと勘違いして、みんながみんな幸せの基準を他人任せにしているから、幸せの空洞化が起こっているのではないだろうか。
・・・
自分を愛することって実は辛いもの・でもあると思う。自己嫌悪とのせめぎあいで、もっとも人目を気にする作業だ。でも、本当の自己愛は周囲を幸せにするはずなのだ。
「本気で」というのが大事なのではないかと。
いつも悩んでいる人・自暴自棄な人・誰かに救われたいと思っている人・みんな周囲に心配かけてるばかりだ。見せかけだけの快楽を「癒し」だなんて錯覚して、これまた周囲に迷惑をかけて没頭逃げをしている人の多いこと、だ。
だからこそ逆に、私は自分は第一にこんな自分を認めてやろう、自分のことは自分でしか愛せないんだ、そこから始まるんだ!!って思っている。そして、その気持ちはShoyanの数々の歌たちをずっと聴いてきて、教えてもらったからこそなれば!なのだ。
愛を得たければ自分で愛の種をまきなさい・と教えてくれたのだ。私は伊勢正三の愛の歌に倣って自分を豊かに育てられたと、今でも思っている。自分のことを見捨てずに、自分自身に興味を持ち続けていられるのはShoyanの「自分を愛することもラブソングだよ」という隠れメッセージのおかげなのだ。本当に感謝しています。
I(私)の愛と、相(手)の愛が出遭い、気持ちが合い、そして生成された混合愛が真のやすらぎをもたらすのだと、信じていたいと思う。(時に哀も含むかもしれないケレド・・・)
自分との戦いは孤独だから、、、でも、キミの導きによって自分も歩みだせるかもしれない・だから、キミだけには許して欲しい、、ってちょっとの甘えは許されるかもしれない。一足先にソレに気付いていた先駆者のキミの愛が遠くの灯台のように見えたなら、真っ暗な闇の海の岩場も越えてゆけるかもしれないと、足を擦りむきながらも・・・ガンバレ俺!と。(漂う海上から見えた"灯台の灯り"なら、諦め・漂い・漕ぎだす・のかもしれないが、またそれは別の機会に。)
甘やかすことと愛することは違うのだと、分かったならいつかきっと気付けると思う。間違ってもいい、みっともなくてもいい、うわっつらの「易しさ」に反逆してみる試みは本当に自分を強くしてくれると思うのだ!
(実際は自分を甘やかしてばかりダケレドモ・・苦笑)
「自分」が18回、「愛」が25回も出てくるこの歌に、今回「そのまま進め」と強くエールを送ってもらったような発奮を感じている!
HIROさんがすごく面白くて気持ちのいい曲をつけてくれて、心底爽快だった。これからもずっとそばに携えて聴き続けていきたいと思う護符のような歌だ。
先日、都内に季節はずれの雪が降った。
うっすら積もるほどに。
科学を通り越してしまった東京に。
うっすら積もるほどに。
科学を通り越してしまった東京に。
ニュースでは当たり前のように『名残り雪』となりました』と言っていた。漢字の字幕も出て。
Shoyanご本人がよくおっしゃるように、元は『名残りの雪』(全く別の「既に残っている雪」)と言う言葉があったけれど、『なごり雪』という歌のおかげで、一般的に『ナゴリユキ』という呼び方の新しい違う意味の言葉が定着したのだ。短文と単語の違いもある。
だがしかし、単に季節外れの雪を『ナゴリユキ』と呼ぶことと、歌の『なごり雪』が含んでいるものには大きな違いがあると思う。
今更感かもしれないですが、
『なごり雪』は、そこに二人の人間がいて、その二人が今離れていく・という場面だからこそ成り立つタイトルだと思う。
『なごり雪』は、そこに二人の人間がいて、その二人が今離れていく・という場面だからこそ成り立つタイトルだと思う。
(すでにあった 「名残りの雪」は置いといて)冬という寒い季節の名残りを今一度知らしめる春の雪・が『名残雪』で、『なごり雪』は「心の名残惜しさ」がそこにあることが大切なんだ。
何に対しての名残り惜しさ?
ここから去りゆく彼女に、
その大人になっていく彼女の幼さに、
ここで終わる二人で積み上げてきた時間に、
昨日までの僕自身に・・・
その大人になっていく彼女の幼さに、
ここで終わる二人で積み上げてきた時間に、
昨日までの僕自身に・・・
その彼女と彼の分岐の一瞬に降っていたのが雪だったから歌になったんだ。
別れの場面、その舞台セットは雨でも風でもドラマチックになると思うのだけど、でもそれ以上の確実さ・必然さには、雪の「落ちてはとける」性質が必須だったんだね。
地面に落ちる瞬間までは目に見える白い固体だったのに、次の瞬間ただの黒いシミになって地面に同化してしまう。積もるわけではない春の雪。この経過が、彼と彼女のその、別離の前後を表しているわけで、君が去った後の空虚と、今朝まで君がいた東京の空と、見えると見えないの深い違いがあるのだと解る。
って、こんなことファンなら誰しも最初から知ってるよ!当たり前だろ?と笑われてしまうだろうけれど、ニュースでただ漠然と『名残雪・名残り雪』なんて使われていて、「正やんがひらがなにした意味を考えて使ってよ!」と思ったりした訳デス。
『名残雪』では「残雪」という他の単語と被るし硬い、でも大和言葉のようにやさしい『なごり雪』という字面、まさにその時、歌を作ろうとしていたShoyanの手のひらに空から落ちてきた結晶そのままに歌になったなごり雪。
その結晶を50年近く一切崩さずに、大切に歌い続けてきた今のShoyanの真摯なスタンスに、私は今年も導かれている。
・・・
「季節はずれ」=「イレギュラー」なだけではなく、降るべくして降る必然的な別離の雪ということ、両方想いながら聴き続けてきた。
都会に雪が降らなくなっても、汽車という移動手段がなくなっても、この世に”別離"がある限りずっとこの歌は残る。
人はいつも何かと別れながら生きていくのだと実感しながら、昨日今日遠いことを想って過ごしています。
※この歌のことは最重要課題で、40年くらいじっくり考えてからと思っていたけど、今書けることは書いておかねばと思いました。中途半端ですがご容赦!
※※"大人になる歌"いくつかあって気になるので、そのあたりもまた考えていきたい。
そう、その頃は「都会が好きになった」なんて、想っていたのだ。
で、少し自分のこと書きます。
支離滅裂お許しを。
支離滅裂お許しを。
・・・
セルフカバーではないオリジナルの『なごり雪』が収録されているかぐや姫の『三階建の詩』が発売されたその年に、私は福島からトーキョーへ帰ってきた。(何度かここでも書きましたが)
その時、幼稚園のクラスのみんなが私にくれた手紙には
「とうきょうにいってもわすれないでね。」
「とうきょうにいったらなにをしますか。」
「とうきょうでは、とうきょうには・・・」
と、東京という単語が沢山書かれていた。
けれど、私にとっては東京は帰る場所なのに未知の街であったように思う。
その時、幼稚園のクラスのみんなが私にくれた手紙には
「とうきょうにいってもわすれないでね。」
「とうきょうにいったらなにをしますか。」
「とうきょうでは、とうきょうには・・・」
と、東京という単語が沢山書かれていた。
けれど、私にとっては東京は帰る場所なのに未知の街であったように思う。
実際には祖父母の待つ都内の家に帰るのではなく、近くの横浜市内の社宅に住むことになるのだが、目の前には大きな国道、周囲は日に日に一山削って全部住宅地に造成され、倍々に膨れ上がっていく街の姿が忙しなくて、友達もいないなか、小学校に上がるまでの数か月、、、私は社宅から出ずにひきこもりになってしまった。
帰ってきたのにどこかへ帰りたい、、、自分の故郷は、ホームはどこなんだろうって、幼心に具体的にはわからないまま、ただ、ずっとさみしかった。。。東京の真ん中に住むわけではなく、ほんの数分外に出た都会の殻のような場所から、福島のお友達と東京の差を眺めていたような気がする。
だから、私は伊勢正三の歌における"東京"に、何か自分の幼き日の心を重ねていつも聴いてしまうのだ。そしていつも何か特別な近しい気持ちを積み上げてきてしまった。青春まで至らない、自覚のない幼稚な心ではあるけれど、Shoyanの歌にはそれが許される寄り添いがあるように思う。
そしてそれは都会と地方とニュータウンの三角関係にまで及ぶのだが、それはまた別の時に・・・。
そしてそれは都会と地方とニュータウンの三角関係にまで及ぶのだが、それはまた別の時に・・・。
・・・
で、話はさらにねじれるが、
で、話はさらにねじれるが、
福島にそんな想い入れのある私は、今回の"復興五輪"なんて銘打たれたトーキョーオリンピックが決まった時、正直とても違和感を感じた。
震災で故郷を追われ、家や物を失い、愛する者と別れた人がこの日本中に沢山いる中で、ナゼ、TOKYOが浮かれなくちゃいけないのか???なんなん??って。
現に、今年その年2020年になっても、仮設の住宅で生活している人や、自宅じゃないところに避難している人はいまだ何万人もいるわけで、解決されないままに強行されて今年になってしまった。
(激しい言い方をすれば)今回のオリンピック、私は選手と子供たち以外をあまり応援したくない。新しい巨大な競技場や施設、ホテル、選手村というブランド付きの住宅に道路、駅、目に見えるものだけでもキリがない。それに一体どれだけの"スポーツ以外の思惑"が絡んでいるんだろうと思う。人の痛みをすり替えて、何が”復興”なのか?どこに誰の復興があるのでしょうか?と。
オモテのナシな、裏ばかりのイベントで名前を乱用された東京が可哀想だ。この軋みを、自分は忘れたくない。素直な違和感を感じていたい。調和を乱す空気読めない人間と言われていいやと思いつつココに本心を書いておくことにした。読んで気分を害された方がいたらゴメンナサイ。
・・・
1964年の東京オリンピックの行進曲は、福島の大偉人・古関裕而先生の作品だ。
溌溂とした、晴れ晴れとしたメロディーのなかに、やはり一抹のサウダージ・愁いがあって、歴史の大きな傷みを越えてここに至った当時のトーキョーが、日本という国と一体であったのだとよくわかる。本当に素晴らしいことだと今も感じる事が出来る。
Shoyanの一番新しい歌にも都会がいくつも出て来た。"都会ウォッチャー"なShoyanの見解を今も聴けることが本当にうれしくて、私もまた同じようにこの興味と違和感を大切にしていける。音楽の中に人の営みが感じられる、そんな在り方をする歌は、この孤独と不安の中で本当に必要な寄り添いだと痛感する。
・・・
出たり入ったりして、内から外から思う街東京。ここ数年は外国人さんの姿がとても多くて、ここはアジアの別の新しい国なのか?と思うほどだったけど、今回のことでもう一度ゆっくりと"東京らしさ"を感じる機会になればいいと想う。
江戸が東京に変わった頃の、あの混沌と今現在って、結構似ているのかもしれない。ここ数日は、歴史を学ぶような気持ちで過ごしている。
・・・
出たり入ったりして、内から外から思う街東京。ここ数年は外国人さんの姿がとても多くて、ここはアジアの別の新しい国なのか?と思うほどだったけど、今回のことでもう一度ゆっくりと"東京らしさ"を感じる機会になればいいと想う。
江戸が東京に変わった頃の、あの混沌と今現在って、結構似ているのかもしれない。ここ数日は、歴史を学ぶような気持ちで過ごしている。
もっと、もっと東京を知りたい、と思いながら・・・
・・・
・・・
と、まとまりのない、イミフメなつぶやきでありました。思いつくままに書き散らかしました。このブログも二周年ということでお許しを。
ひとまずの東京語りおしまい。
ひとまずの東京語りおしまい。
※2011年1月11日
今日は休みなので少し遠出をした。
池袋サンシャイン劇場へ舞台を観に行ってきた。首都高から直結のパーキングで楽だったのが感激。久しぶりに車で都心を抜けてデンジャラスなJCTをナビして、緊張と懐かしさで・・・想うことも更新された。
首都高からの眺めって昔から好きだから・・・
サンシャイン屋上展望フロアから360度の東京を眺める。屋外にも出られるから、高層のナマの街の風の中で遠い海や半島、遠い雪の山まで見れて寂しかった。
冬の東京はいいナ。
寒いから人の活動がチマチマしていて優しい。1月の祝日は車も少なくて空気が澄んでいて、空もビルの反射もきれいだった。
寒いから人の活動がチマチマしていて優しい。1月の祝日は車も少なくて空気が澄んでいて、空もビルの反射もきれいだった。
・・・
セルフカバーセレクションの『なごり雪』は「東京のカケラもない」(いい意味で)って、昨夜まで想っていた。
100%ふるさとの、線路脇に菜の花の咲く、蜜蜂の羽音さえ聞こえるような静かな駅の時刻表の合間を想ってた。
だけど、今日、東京の端っこから都会のボーダーな部分を走りつつ、この21世紀の『なごり雪』を聴いてみたら、、、、そうしたらなんとなく、
「あぁ、今はShoyanの"東京の捉え方"が変わったのかもしれないな」
と、思った。
"変わった"というより、"移行した"という感じかな。勝手な思い込みだけど、ふんわりと、更に外環へ外環へと、忙しない都会を緩めて意識しているニュアンスを今回の『なごり雪』に感じるんだ。
ふるさとの駅と鉄路で繋がっているのは、郊外の駅も含まれるかもって・・・。今は、、、郊外も人が多過ぎて、街と町の境目はなくなりつつあるケド・・・。
八王子とか青梅とか、千住や玉川だって東京だものね?
チョットチガウゾ ッテ
イワレルカモ(笑)
(^^ゞ
イワレルカモ(笑)
(^^ゞ
ただ、こののどかな『なごり雪』、都会の駅のホームでも、端のコンクリートの隙間に春の小さな雑草が芽を出すかもしれないよ?という希望を含んでいるようで安らかなのがスゴク良いと思う。大好きなテイクだ。
この途中からの"ホール感"がイイナ♪ どんどん天井が高くなっていくような歌とギターの響き方、細井さんの畳み掛けるピアノが天国にかかる梯子みたい・・・(と、この頃は思っていました)
4分にも満たないシンプルな歌『なごり雪』。だけど想うことは無限だって今日も思い直して感激。
たまの遠出でもう一本の時刻表に乗り換えられたんだ。
たまの遠出でもう一本の時刻表に乗り換えられたんだ。
今日は少し、都会が好きになった(´ー`*)。
・・・
なんてことを想っていた・・・(謎)
Shoyanの歌を聴く上で"東京"ははずせない。私がShoyanの歌を好きな理由のひとつでもある。
そもそも『なごり雪』からして座標軸の片一本は"東京"だ。『東京1975』の「あの頃」っていつのことだろう? 1970年頃のことかな・・・
この歌を知ったのはすでに1985年頃。オリジナルのLPレコードを買う余裕もなく、物心付いた頃にはレコード店の店頭にはもうレコードそのものが無くなっていた。ちょうどレコード盤からCDに移行する頃で、今と違って少し前の作品はもうすでに廃盤扱いで店頭に無かったように思う。
だから長いことギター譜の歌本の歌詞だけだった。どんな歌だろう?とずっと想像してた。とても伊勢正三作らしい良い歌だなって想っていた。
でも90年代に入ってやっと耳に出来たクボヤンのメロディーは、、、私の勝手な想像とはだいぶ違って、しかも途中、ノッキングのような難しい節回しとテンポがあって(それをクボヤンテンポという?(笑))最初に聴いた時はしっくりせずに、想像していたイメージと遠かった。
だけど、何十年も経って聴くと、今はなんだかホッとできる不思議な感じがする。若い頃より今のほうがクボヤンのメロディーを好ましく思っている自分がいる。そして、ベースラインのお洒落さとか、肩の力の抜けた演奏とアレンジが実はもうすでにファーストアルバムからして"フォーク"じゃなかったんじゃないか・とか、面白さも見つけてみる。
・・・
きっと、今勝手に想像するに、この詞はShoyanご自身の中でずっと後を引いて、無意識に熟成され、確信を経て『冬京』で"成人"したのではないだろうか。
そしてその後、更にその"冬京"をも通り過ぎて"都会・街"の正体の探求という大きな括りへと移行していったのではないだろうか・・・
ShoyanとTOKYOの対峙は単なる距離を表現することではなくて、さみしさと人恋しさの容れ物を吟味する作業なのでは?と思う。
・・・
西岸良平の漫画『三丁目の夕日』に出てくる地方出身の自動車整備工の六さんは、コーヒーの飲み方を知らなかった。背伸びして喫茶店に行っても同席の水商売のお姐さんに教えてもらうまで、ミルクを入れることも知らなかったように思う(単行本を失くしたのでうろ覚えである)。その漫画の舞台は昭和30年代だけど、1970年代半ばはそろそろ次の小洒落たモードに移行するまでの、最後の純朴が残っていた時代だったかなと思う。
慣れたふりして飲むコーヒー
合挽きのコーヒー
そして二杯目のコーヒー
コーヒーポットの湯気・・・
合挽きのコーヒー
そして二杯目のコーヒー
コーヒーポットの湯気・・・
コーヒーでさえこんなささやかなステイタスだったあの頃、確かに大きくて、淋しくて、愉快な場所だけど、まだ東京に血が通っていた頃1975年・・・
♪…誰にでもあるけれど
淋しがり屋な僕です
淋しがり屋な僕です
意外と、Shoyanご本人も本当に"さびしがりや"なのだと思う。親の愛いっぱいで育ったって、豊かな暮らしをしていたって、誰でも子供の頃はどこかさびしい。
そして苦しい若き日・・・
そして苦しい若き日・・・
その感覚を街や季節、海や恋人の存在と反応させて"せつなさ"に変換していく。そんなことが出来るShoyanの詩作はKAZEの頃に沢山種蒔きされていたように思う。
雨や、街や、独り、あの頃、淋しがり屋なぼく・・・ここからいくつもの歌が生まれてきたと思う。
クボヤンが曲をつけて歌っているから、普段はShoyanの歌だとの認識は薄いかもしれない。でも、ホントはとてもShoyanらしい大切な歌だと思っている。
"東京"はみな憧れるシンボルだけど、でも誰のものでもない不思議な街だ。その謎解きをShoyanが歌にしてくれるのをまだこれからも待っている
・・・
※我が家の家人は
「"東京が肩をたたく"なんてフレーズは
やっぱりShoyanにしか書けないなぁ」
やっぱりShoyanにしか書けないなぁ」
と言っていた。
ホント、私もそう想います(敬)
ホント、私もそう想います(敬)
※2011年ころ書いたものに加筆
今日のラジオ、短い時間だったけど、Shoyan元気そうで楽しそうだった♪
季節柄、タイムリーに釣りの話が出て、やっぱりちょっと遠ざかっていたのかなと、自分の感じ方そんなに外れてなかったナと、でもそれが今のShoyanのナチュラルなのだと思えば、非常に納得なのであった。
とある郊外の実家を処分して、私の近くに越してきた父母は70代の今も渓流に・アユ釣りに出かける。じいさんばあさんが竿を出している姿、ある意味凄いのですが(;´∀`)。
膝が痛くても、腰が痛くても、どこか具合が悪くても、釣りに行きたい!川に行きたい!!!というキモチは本当は止められず、キット無理をしても出かけてしまうものなんです。
デモ、今現在のShoyanが"リハビリ"中とおっしゃっていたのは、視点の角度を変えるとキット、やはりリアルのクリークよりも、某所の"源流"への探訪に忙しい・ということなのだろうな、と勝手に解釈している。それは去年、Re-bornを聴いていて真っ先に思ったことだった。今のShoyan、フィールドよりも"feel"にシフトしてるのかなって・・・。
ただ、私は自然というものの真実が好きなので、"都会=恋のあぜ道"な、Shoyanのその多角度的な現在の歌創りにこれからももっと自然を見出したいと思っている。源流の一滴からコンクリの暗渠まで・・・なんかそんな感じを今のShoyanの歌に感じたいって想った今日でした。
なんか、散漫に脱線してしまった(;´∀`)♪オヤスミナサイ
季節柄、タイムリーに釣りの話が出て、やっぱりちょっと遠ざかっていたのかなと、自分の感じ方そんなに外れてなかったナと、でもそれが今のShoyanのナチュラルなのだと思えば、非常に納得なのであった。
とある郊外の実家を処分して、私の近くに越してきた父母は70代の今も渓流に・アユ釣りに出かける。じいさんばあさんが竿を出している姿、ある意味凄いのですが(;´∀`)。
膝が痛くても、腰が痛くても、どこか具合が悪くても、釣りに行きたい!川に行きたい!!!というキモチは本当は止められず、キット無理をしても出かけてしまうものなんです。
デモ、今現在のShoyanが"リハビリ"中とおっしゃっていたのは、視点の角度を変えるとキット、やはりリアルのクリークよりも、某所の"源流"への探訪に忙しい・ということなのだろうな、と勝手に解釈している。それは去年、Re-bornを聴いていて真っ先に思ったことだった。今のShoyan、フィールドよりも"feel"にシフトしてるのかなって・・・。
ただ、私は自然というものの真実が好きなので、"都会=恋のあぜ道"な、Shoyanのその多角度的な現在の歌創りにこれからももっと自然を見出したいと思っている。源流の一滴からコンクリの暗渠まで・・・なんかそんな感じを今のShoyanの歌に感じたいって想った今日でした。
なんか、散漫に脱線してしまった(;´∀`)♪オヤスミナサイ
プロフィール
HN:
No Name 七氏−1.0
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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