Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。Shoyan的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0
あの頃の夏を捜した・・・
もうこの歌い出しだけでキラキラとひろがる海と
眩しく白い雲と、汗ばんだこめかみを吹き抜ける潮風海風を感じてノスタルジー。深呼吸したくなるでしょう。
タイトルで堤防、そして街(都会)ではなくて町(鄙)。日本人の半数以上が即座にイメージできる海辺の普遍なのだ。砂浜や磯とは違う、天然も曖昧さもない「ここから人工物っ!」という如実な線引き。その緊張感も含んでの小さな再会。
この二人が今ここにいるのはリゾートでもなく旅先でもなく、かつて日常だった風景。彼女だけが先にフワッと移動して、広げた世界で色々な経験をしてきたみたいだけど、彼の世界はまだ堤防の内だ。
♪吹く風に止まるカモメのように
なんて素敵な例えなのだろう。
町(地元)を出ないことを卑下するでもなく諦めているわけでもなく、ましてや強がりでもない。この彼の平凡なスタンスになんとなくシンパシーも感じてしまう。
でも、風に向かって止まっているように見えてもそのカモメ、飛翔中である。空中なのだ。彼だって地元で日常を翔んでいるのだ。「まだ」と言っているからいつか出たい気持ちもあるのかもしれないけれど、彼はここで今しっかり自分の時間を持っているのかもしれない。
都会に揉まれて色んなことを経て、一度帰ってきた彼女、彼のそんな穏やかなタイムラインに救われたくてコンタクトをとってきたのだろう。
♪堤防にもたれたら海が見えないだろう
今目を向けたいのは海の向こうの憧れではなくて、幼馴染の彼の眼差しなのじゃないかな。故郷の堤防は古くて長くて硬いコンクリートの手触りだけれど、何より暖かくて確かな存在なのではないかと想う。
せっかく帰ってきて還りたかったのは風景じゃない。あの日の自分を知っているあなたなのよ・って彼女改めて想ったことと思う。
♪時が戻りそうで 夏が終わるまでの
ほんのひとときだけの季節にまた
出会っただけの二人
青春という季節は過ぎてしまったかもしれない。
けれど、互いの時間を戻したらこの”夏”はまだ終わらないのじゃないだろうか。
一旦分離したようなタイムラインでもずっと並走していたのかもしれない。ついたり離れたりしながら、ドアのガラス越しに互いの顔が見えるほどの都会の電車のように、貴重な再会の一瞬で次の待ち合わせを言い出せたらいいのになと、遠くから眺めている私は幸せな傍観者です。話の奥も、続きも気になって仕方がないのです。
・・・
このアルバム『時のしずく』の中では唯一この曲だけがShoyan自らギターをお弾きになっているという、非常に珍しい状況だった。
他では全く弾かれていなくて当時の私は正直不満だったのですが、その一曲がこの『堤防のある町』だったのは、今はもうホントそれがすべてです。これで最高・コレが最高!と大納得しています。
しかも、ここで吹かれているハモニカ(ブルースハープ)の呼吸がそのままMelodyになり、そのShoyanの意気込みが息に籠もって熱く、歌い手とともに聴手まで故郷の海風を胸深く吸い込む心持ちになれるのが最高です。
他のフォークシンガーのお歴々が器用に吹きこなすハープもカッコイイですが、Shoyanのハモニカには”同化作用”が濃いので、聴手には切なくなったり赤面したりと無二の魅力がありますネ☆
・・・
二人で堤防に寄りかかって集落の路地を眺めながら、瓶のサイダー片手に次の正月休みのことを予定立てたらいいかもと思う(*´ω`*)。自分が素に戻れる場所は”君”がいるトコロ、とお互いに再認識できたらイイネ♪
どうか、このまま夏が終わってしまわぬようにと、この夏から30年も経ってしまった私の老婆心なのであります。
遠い日の青い自分を懐かしみながら
今は聴くとしましょう。
当時(アルバムの翌年)、NHKの番組でShoyan自ら出向いて津久見の堤防でお話されるシーンが有りました。それまで伊勢正三の地元大分・津久見までが取り上げられるなんてことは少なかったように思います。なんてタイムリーなんだろうと嬉しかった覚えがあります。
(大林監督はおそらくこの番組をご覧になっていたのではないかと思う七氏であった)
ギターも少し弾いてくれて♪
はにかんだ表情で歌われていたShoyanと古い堤防。
事後に知ったのですが、ナゼか同じ月に初めて自分も津久見に行っていました。
3月だったので枯れすすきですが
(AIで自分消去^^;)
今になって調べたらなんと、これらの堤防はもしかしたら同じ堤防で、しかもまだ現在もソコにあるかもしれないのです。去年行く前に気付けばよかった(*_*)。
必ずまた自分の目で確かめに行きたいと想っていマス。次はきっと夏で!
私をまた呼んでくれてるのかなと
都合よく想っておこう♪
(この曲に関しては想うことたくさんありすぎなので、また追々書こうと想います^^)
けれど、ここ数年ステージでも歌われる機会が増えたことでShoyanご本人のコメントなども増え、”南下する”イメージをリアルに感じることが出来るようになった。なので今、より一層この歌の暖かさを感じている。ここ数年で更に愛おしさが深まって大切にしている一曲だ。
・・・
アルバムに収録されていないからこれまたナカナカの隠れ名曲だったように思うけれど、ベスト盤に入っていたことで私にとっては最初から身近だった。(幼い頃って少ないお小遣いでどれだけ守備範囲広げられるかが勝負でしたので(笑))
ヒット曲や人気曲の味覚がはっきりした歌や目立つ歌、分かり易い歌沢山あるけれど、こうした隠れ魔球のような、層の深いところにある曲が充実しているってのがShoyanの歌曲の凄いところなのだと思う。
実際この歌はシングル盤で発売されたのだ。S級扱いだったのだ。けれど、やはりこれも『時の流れ』と同じようにその後ずっと歌われることがなかったように思う。何故だろう・・・
この歌のように聴く人に考えたり想ったりする余地を与えてくれる歌は最高なのだけれど、時に”その場でわかるものにしか興味を示さない聴き手”も一定数いるのだと思う。
50年近く経った今、聴き手も切磋琢磨してその歌曲たちに寄り添ってきた。Shoyanご自身もご自分の作品に何度も繰り返し向き合ってこられて、ちょうどお互いに歌の裏表から感性のトンネルが開通して想いを結ぶことが出来たのだろうと思う。
だから、ここ数年のステージで演奏される歌たちのフィット感、受け入れ感・届け感は素晴らしく濃いものだったと思う。(涙)
・・・
”遠ざかるほど近づく”
とは、これ如何に?
『時の流れ』でもあった、
逆もまた真なり!?
♪僕の心のレールを走って
ときた!
いよいよ、”目の前”ではなく”ボクの心の中”に舞台が移った。
♪あなたを乗せた船が小さくなってゆく
♪君が去ったホームに残り
と同じように遠ざかる事案なのに、まったく逆の意味。なのに非常にしっくりくる感覚。きっとこの部分、Shoyanは直感的な考察でお作りになられたのではないかと思えるほどだ。アタマで考える理(コトワリ)ではなくて確信的な願いのようなもの。真理って理外にあるから・・・という感覚?
絆をほどきながら汽車はゆくのだから、夜汽車が南へ走ってゆくのは一種の別離なのだろう。けれど、絆がほどかれるのは反対方向に引っ張るチカラがあるからなのだ。それは端と端を結んだ一本のリボンのように、結び目をほどいても一本だった♪と思える優しい”離れ”のように思える。だから暖かく感じるのかな。
そもそも、この君って誰?
”人生繰り返してまたいつか出逢う君”はこの旅の一場面に同席した泣き声の赤ん坊そのものとも受け取れる気もする。
残してきた”愁い”の原因となった存在だけとは言いきれないと思う。そうやって人は何度も似たような他生の縁を繰り返して、生き直したりするのかもしれない。ここには巡ることが歌われているのだ。
そして、
時の流れとすれ違うように=逆行するように進む汽車と、遠ざかるほど近づく君。
遠ざかるほど遠い@Positive 2025/6/22
↑でも少し書いたけれど
まるで自分自身のような
心のなかに棲んでいる君。
そう想えるのは(例え今離れていても・関係が終わってしまっていても)自分の中では”君”のポジションはもうボクの心と同化してるから・なのだと思う。時の流れとすれ違うように=逆行するように、出逢う前や想い出の駅を通過して最果てまで揺られていったら・・・
あれ?
終点は始発点だった、と気付くのでしょう。南へ向かっていたのはそういうことだったのかと、今得心して安らかな気持ちで聴いている。
(走る国道は北へ・・・ですもんね♪)
・・・
そんな聴き手の永い気持ちに沿うようにこの曲も佐藤準氏のアレンジで色褪せない。本当にいい感じの抜け感とキャッチーなイントロでお洒落だし、暖かみのある音色が言葉と言葉の間を豊富な音で繋いでくれる。絵柄の綺麗な大きなハンモックに揺られているような包容感があるから、いつになってもずっと傍にあって欲しい曲になっている。
(今でもちょっとだけボズ・スキャッグスの『Harbour Llights』に重なるような音だなって
想っています♪)
・・・
手塚治虫のブラック・ジャックに『人生という名のSL』という一編がある。それをほんのり想い出したり、島崎藤村の『春』のラストの一文を想い出したり、鉄道員だった祖父のことを想ったりしながら懐かしく聴く。Shoyanの鉄道ソングの中で一番親しく想う歌です。
遠ざかるほど近づくのなら・・・
今一番近いんじゃない?
そう想って次の始発を待っている。
向こうのホームにあなたの姿を見つけたら手を振ってみよう。
行き先はきっと同じだから♪
*****
※手塚先生の作品は実はこの曲の発売より後の1978年発表。内容ニュアンスも違う、でもなぜかShoyanと手塚先生の共時を感じてしまうのだ。私のおさなごころがそう感じるのです。(自己満足(*´∀`))
※※追:
♪走りゆく列車の網棚の上に置かれた
誰にも馴染みの菓子箱がひとつ揺れてる
以前も書きましたが、菓子箱がひとつなのは終点が近いからなのかなと思ったり。
きっと、都会の大きな駅を出発する時にはこぼれ落ちそうなほどぎっしり積まれた手荷物でいっぱいだったでしょう。それらの喧騒が道中少しづつ降車していって・・・
その風景は本当に紐で編まれたあの網の棚だったのでしょう(懐)。
私のイメージは昔のお土産お菓子のナボナとか風月堂ゴーフルとか舟和の芋羊羹とか♪
でも、東京土産だとばかり思っていた『ひよ子』が実は福岡の別銘柄お菓子でもあったと後年知って面白く思っている。(ゴーフルも上野や銀座と神戸といろいろあるみたい)
大阪や名古屋・京都ならまた別のお菓子があるのでしょう。『菓子箱』というひとつのフレーズだけで無限の物語が想像出来るのが凄い。ここでもさすがShoyanだな・と思っています(*´ω`*)。
いつの世もお土産は嬉しいものですね♪
☆ちょうど寅さん記念館の中にこんな展示がありました。座席にも座れるのです。雰囲気アリアリで泣けてきます(*´ω`*)。
リアル網棚!
↑なんと、窓の外、寅さんがいるのは大分の駅でした♪(タップして拡大して見てみてネ)
それで今頃改めて思い出したのですが、昔からビートルズの『Girl』を聴くと、『アビーロードの街』を想ってしまうのであります。ド直球すぎるかな^^;
リズムが似てるから??
歌い出しがなんとなく色が一緒みたいな気がして、なんかこのやるせない感じが自分的には合ってるのでイイナと思っているのです。
♪ビートルズの歌がきこえてきそうと
二人で渡った交差点・・・
これは別に具体的な歌ではなく、あの横断歩道を渡る的なシチュエーションと被せて・・という意味だと思うのですが、『Abbey Road』のアルバムにはこの『Girl』は入っていないから関係薄い。でも年代的にはこのも曲もアビー・ロード・スタジオでレコーディングされていたみたいなのでお許しを。
・・・
♪好きなんだ
これは、恋を始めたいのか確認したいのか、
「私もよ」って彼女は言うのかな?
「え、そうなの?」って戸惑うのかな?
何故、今日水曜日は逢えないのか?
普段は意識しない二人のままで行動している時間も多いみたい。
無理して笑わせるくらいだから二人の心はまだ別みたい。
喫茶店や交差点、日常の延長。
この二人、学生か何かで取っているゼミの時間割が違うのだろか。彼女は電話が通じる実家か下宿先にいる水曜日。
彼もきっと今日は用事(講義)がないのに、部屋に一人いても図書館に行っても原宿あたりをぶらぶらしても、モチロン彼女がいるわけもなく・・・
でも逢いたくて、いつもの風景に身を置きたくて雨の中来ちゃった。
彼女の存在が欠けている日常を再確認しちゃって、余計に寂しさ募らせて、それを埋めたくて賭けてしまうその十円玉。
吉と出るかどうなのか・・・(悶)。
♪ガールフレンドと気軽に呼べば
君はいつだって腕を回した
『地下鉄は空っぽ』
地下鉄つながりの後年のこの曲では、”あんなこと言わなきゃよかった”と後悔やぎこちなさが先にたっていて恋のゆくえが切実なのだけど、アビーロードの街では聴く者にはその顛末は知らされないまま♪青山通り雨通り~でフェイドアウトになってしまう。だからロマンチックな気持ちで歌を置いておける。
「うん、ありがと」
って言われたのかなぁ・・・
などとこちらも考えながら外苑あたりの雨の遠景に想いを馳せるわけです。
一周回ってまたビートルズを聴いてみようかな。
同じアルバムの『Michelle』なんかもいいですネ♪
(むしろコッチ?)
この歌イキナリ色っぽい。
素肌にそれだけなのだろう・・・
けれど、独り寝なのが哀しい。
借りたままのフリースと違って
いっそ消えてなくなってしまいたいという眠り。
=時を止めている様子が手に取るように解って温度が低い。だから一層ぬくもりが欲しくなる(涙)。
それとも、”男らしく”自分を鼓舞するために自ら纏ったものなのか?
あの頃暮らした街から離れて棲む彼女の、傍らにまだあるそのシャツが不変に白くて苦しい。
♪風が吹き荒れた夕暮れの街は
とはいかに?
水槽ってガラスなどで囲われている限られたエリアというイメージだけど、なぜここではどこまでも遠く視えるのだろう?
街はどこまでも見渡せるようでいて彼女の意識はまだ”あの頃”に囚われた水槽の中にある。遠く見渡せる街並みが果てしなければ果てしないほど、彼女の時はここで留まったままで哀しい。
夕暮れの
たゆみないBossaのリズムが揺れてそれを運ぶ。
閉め切った窓の外
動いているのは景色の方で、自分はそこから動けない。置いていかれた時間。もうこれ以上考えたくない程、思考停止するほど囚われた愛(と思っていた)の時間。もう届かないのに、それを葬るまでの哀しい凪の時間をひとりいる彼女をずっと痛ましくも親しく想ってきた。
今書いていても涙が出る。
・・・
つもり・が積もって
そんなに激しい衝突じゃないから、アスファルトに沁みた水が凍ってひび割れる路面のように、微細に進行する哀しい瑕(キズ)が表面下で広がっていたことに人は気付けない。だって、自分自身の心の中のダメージだって自覚出来ない時がある。ましてや他人の心の中なんて・・・人の心が何層にもなっていると気付くのは、こんな哀しい時間を幾度ももがいた後のことなのだろう(涙)。
二人過ごした時間が崩れて、壊れて粉々になって、 砂時計の粒になる 。
まるで水槽の中に閉じ込められた魚のように・・・
Shoyanのガットギターは熱帯魚水槽のエアレーションの泡のように柔らかくたゆみない。差し込んで伸びる西陽のような準氏のエレピとシンセが背景を作り、斎藤ノブ氏の色っぽいパーカッションで胸の鼓動が時を穿つ。
イントロはまるで水鳥の着水のようで、曲が始まれば水中を縦横に泳ぐ魚の翻り、枯れた穂がたなびく荒野のような侘びたアレンジにオトナのオトコ極まったShoyanの声で切ない言葉が乗っていく。なんというハンサムなサウンドなのだろう。至高です。
繰り返しになるけれど、その昔ShoyanがA.C.Jobimがお好きだとおっしゃっていたのを聞いた時からいつかBossaNovaテイストの曲を作って歌って欲しいと想っていた。単に編曲の形態としてだけではなく、そのスピリットな部分・サウダージとして・・・ということ。
それが叶ったのですから、この歌の登場は本当に嬉しかった。
せつない愛の粒をパンニングするのにBossaの揺らぎはとてもマッチする気がして、時にはそんな容れ物もいいなと思うのです。
~時は
ここに時の正体が散りばめられている。ただ一方向に流れてゆくだけではない、時を経て飴色になった象牙のように曖昧な出処と行方とが陰陽のようで非常に美しい。この歌の真意なのだと想うのです。この頃、Shoyanはその”時の本質”にお気づきになられたのではないだろうか。そんなひとつの到達を感じる一曲でもあるのです。
ジャスミンの、官能と癒しのふたつの意味。
いつかの軽井沢大賀ホールで佐藤準氏と歌ってくれたあの数分が私の一生の想い出です。ステージで歌われることはほとんど無いけれど、いつか自分の時が止まるその刹那までずっと聴いていたい宝物の一曲であります。
※追
『水槽の街』は私にとって伊勢正三の音楽と自分の心の中とをダイレクトに繋ぐ臍の緒のような存在で、時間と想いの行方を何十年も共に見つめてきた大切な曲だ。1994年当時アルバムに収録されたこの歌を聴いた時、私の心は寸分たがわずShoyanの歌の世界と嵌って離れなくなった。
この歌は私の顕在意識と潜在意識のどちらにも深く入り込んで、きっと何かを少しづつ動かした。辛いことも奇跡も伴って今ここに在る。実際は全部自分自身の責任なのだけれども、この歌はどこか聴く者の行方をも孕んでいた気がしている。
もう何年前になるだろう、Shoyanが大久保氏と風を再び始めたいと願いながらチケットまで発売済だったのに実現されなかったあのツアー。それが不可能になった時にShoyanが選んだ”ひとり旅”というスタイルのことを想うとこの曲がまず浮かんでくる。
平成・2000年代の伊勢正三が”風”をまた始めるのならば、絶対に歌って欲しい曲があった。
『時の流れ』がそれです。
果たして、そこまでの何十年の間にこの歌がコンサートで歌われたことがあったのだろうか?
もちろん、風のオンタイムではステージで歌われていたと思うけれど(1977年の音源がありますね)、ソロ〜フッカツ以降は個人的にはこの歌の印象ってほとんど無くてずっともどかしかった。
示唆的なフレーズが沢山あってメロディーも演奏もめっちゃカッコイイこの歌、ブラスとギターの風通しのいいサウンドがアニキっぽくて憧れた。こういう歌があるから風は深いんだ、と独りで息巻いていたし、ステージ映えするだろうなぁ〜とずっと想って待っていた。
だから、風ひとり旅で演奏されるようになって感激した。永き時間を重ねられたShoyanの中でこの歌の存在感が濃くなってきたのかもしれないと感じた。この今も一線で演奏されることを尊く想う。
・・・
♪目の前の砂時計をうら返せば
時はすぐに流れてゆく
この砂時計の砂は物質だ。
昔、”アレとコレ(物質)の距離があるからソコからココまでの時間が発生する”というようなことをどこかで聞いて、なるほどと思いながら歌を聴いてきた。砂も上から下に移動するから時間を計れるのですよね。
そしてこの歌も基本的に”時は流れてゆくもの”という前提だ。この頃のShoyanの歌の中ではまだ時は留まったり重なったり共時したりしない。自分では干渉できない運命のような不可避なもの・そんな存在として歌われていたように思う。
それがこの後解釈が広がっていき、様々な歌が生まれていくことに繋がっていく。これは”時間”というものの考え始めな、出発点の曲だと思うのだ。
♪どんなに遠くに離れても
季節の風が追いかけてくる
どこかでぼくが立ち止まらないように
時は流れてゆく
この彼の立場は言い換えると
「時が流れてゆくから
ボクは立ち止まらないで前に進むのだ」
てなふうに聴こえる。
自分でも何十年も前に聴き始めた頃は、四季や時間の流れって絶対的で不変だと思っていた。だから、”時”は自分を立ち止まらせないように分岐・別れの直後から強制的に先に運んでくれる単純明快な存在だと思っていた。
サラッとカラッとひとつの別れのあとの再出発のようで、少し”空元気”とも思える内容に若さを感じるのです。
でもこの何十年も聴いてきて歳を重ねると、実はそうとも言えないんじゃない??と想う気持ちも並行して湧いてきた。時間も季節も実はあやふやで、そして流れない時もあるのではないか?と。
タバコも砂時計も”反映”に過ぎない。
目に見える物質だから時が流れていくを感じることが出来るのだけれど、でも、自分の意識がそんな物質の変化と添えなくて独り動けなくなってしまったらどうする?
実際のところ時間は手を掴んで連れて行ってはくれない。
自我が傍観者であるうちはその時の流れは目の前の通行人だ。
この”僕が立ち止まらないように”と思えるようになるまでの苦悶はこの歌ではまだ埋もれて語られてはいない。
その時全てだと思った”君”が目の前から消え去ったあと、”君がいたから”こそ流れていた時間が欠落してしまって自分が空っぽになってしまう。そんな時、時間の本流はどこにあるのだろうか?
この歌の内容からは少し脱線するかもしれないけど、弱い人間は時の流れに置いてけぼりにされることも多々あると近頃では思うのです。
そして物質のない世界=心の中・意識の世界では時間はどんな風に在るのだろう?そのあやふやな”時の真実”の部分をShoyanご自身もその後何十年も歌の中で考証されて来たのではないかと思っている。
♪いつになれば ずっと前の出来事だと想えるの?
♪今でもまだ ほんの前の出来事だと思えるの
(水槽の街)
そして
♪その時 同じこと 同じ素振り
瞬く間さえないくらい
(テレポーテーション)
まで。
それが興味深くてずっとShoyanの歌たちを追ってきた私なのですが、物質的に離れていてもソコとココで同じ時間が流れているという最近のLOVEタイムラインの到達点は納得の極みなのだ。
と、そこに行き着いて今振り返ると、この『時の流れ』はすべての根本にあるはじめの一歩な曲だと思っているわけです。
・・・・・
♪君はわかっていたのかもしれない
を想うに、
それこそが自分と他人(愛した存在)はそもそも”別タイムライン”だったのだ・という前提が虚哀しい。
♪壊すためにつくる積木のように時は流れてゆく
という凄まじい特級フレーズの意味は、密かにShoyanの歌たちに潜む虚無を如実に語っている。
伊勢正三の歌たちのそこここに潜んでいる冷徹なリアルの象徴。恋人たちの甘い時間や、努力や思いやりという心尽くしや、子どもの成長や仲間との信頼関係なども、みないつかは色褪せてしまうのだという、人間不信とも思える虚しさをはらんでいるようで震えるのだ。
嫌なことを忘れられるのも時の流れだけれど、良いことすらも劣化して風化していくのだと言う。このクールな虚しさ、堪らんのです。伊勢正三って凄いなぁ・・・と平伏するこの至高フレーズです。
別れの直後から、君がいたさっきまでの時間はもう別のタイムラインで、分岐したらもう一切交わらないよ・振り向きもしないよ・無かったことレベルだよ、、、という”理想”みたいなものがここにあるけれど、そうもいかない剥がれきれない現実もあり。それをまたその後追求していくShoyanの二重スタンスが興味深いと思っている。
・・・
(そしてまだ続く^^;)
♪別れることが終わりならば
別れることが始まりだと言えないだろうか
この逆説引用はある意味、別れを認めたくない強がり理論なのかもしれないけれど、十代の自分にはモノ凄く大切な導きとなった。
この後、
「想い出すなら忘れよう」
「寒さの中にかくれているのは暖かさ」
「悲しさは楽しさにも似て」
「悲しみなんて幸せの前触れ」
「遠ざかるほど君は近づく」
「気にしながら見過ごしてたの」
などなどなど、物事の表裏や多角的な視方を示してくれるShoyanの歌の黎明だったと思う。失恋して哀しい寂しいこの世の終わりだ・じゃなくて、そもそもの
「”別れ”って何よ!?」という考え方が本当に面白くて興味を惹かれた始まりでした。
※『夏この頃』の"山で死んだあいつ〜今朝早く男の子が生まれた"もその類かもしれない。
季節の風が吹いてきたことでやっと自分の胸の中の風車が回りだした。それが自分時間の再開。
季節の風は”他”や”偶然”みたいなものだろうか。
もしくは”縁”みたいなものかもしれない。
また春が巡るように
人は本当はひとりではなくて、
孤独だけれど一人ではないのだよって、
時の流れに漕ぎ出すための帆を張れたなら、
そこに感じられる季節の風がある。
何かを壊すために時は流れていくけれど、
でも・・・
時計の針が時を流しているわけではないって、Shoyanの歌の中でさえその意味は彩りを増していくから、聴手だって自分時間のバリエーションを増やして行けばいいのだ。
この歌をステージで聴く時は、歌をお作りになった時のちょっとツッパった感じの若き日のShoyanと、熟成に熟成を重ねた今の熟れ旨味マシマシのShoyanとを同時に感じて考えてみたりします。
これからも”新しい時の流れ”を感じられるように、そして自分がそこを吹き抜ける季節の風でいられるように、これからの時間、一音たりとも聴き逃がさぬようにと想う2026年の幕開けです。
またもやのとりとめなき、ご容赦。
冷たく 透き通る前に・・・
温もりで滲む・とは
きっと暖かい息
寄り添いの体温
カップから立ちのぼる湯気
二人だけの部屋の
現在進行形が包み込む密室の曇りガラス
けれどそれがいつしか、立ちはだかる現実の前で冷たく透き通る=すべてがあらわになって我に還ってしまう時が訪れてしまう。
そうなる前に
愛し合っているまま
あたたかい苦しみのままで
二人のことを永遠にしてしまいましょう
という別離なのだよなと。
何年経っても涙する。
真冬の黄昏時、日没に背を向けて
奈落のような暗い空に想うのは
いつも同じこと・・・
#冬の恋~parallel
妹のままでいたほうが
よかったかもしれない
今更ながらこれ、妹(のような存在)のままでいたらどうなっていただろう?などと思うことがある。
結局近い将来、彼がこの街を離れることになって淡く終わるのか・・・
それともその何年も何十年も先の未来にまた巡り合い新たに始まるものがあったりしたのじゃないだろうか、そんな風に”しないこと”の方が未来が多様であるような気がしている。
それでも恋というものはどうしてもその渦中ど真ん中に飛び込んですべてを見極めたくなるのかもしれない。その欲求は(単なる性欲ではなく^^;)抑えがたく、”過ち”だとしても身を投じてしまいたくなる。
妹を超えたら、、その身を重ねたら彼を繋ぎ止めることが出来るのではないかと無意識に想っていた可能性も無きにしもあらず?
それとも、いっときの想い出だけあればそれでいいと自分を慰めようとしたのだろうか。
『JUN』の時に”未遂美”ということを考えた。
普通の物事は何でも一応やってみる・チャレンジしてみる、ということのほうが前向きだしポジティブだし生産的なのだと思う。
けれど、”始めないこと”が満たしてくれることもあるのだと最近実感することが多い。
妹的存在のままなら、ずっと・・・たとえ逢えなくなっても、忘れられてしまっても、哀しくはないじゃん?
切ないだけじゃん(涙)。
恨まなくてもいい
憎まなくてもいいんじゃん
ずっと愛していられるのに・・・
本当に好きな人とは一線超えないほうが心は溶け合うのかもしれない。
そんなことを想わせてくれる『海岸通』。
♪夜明けの海が悲しいことを
あなたから教えられた海岸通
これは直接実際に教えてもらったわけではなく、彼女がその時を迎えて自分で気付いてしまったことなんだよねきっと。
本当は凄くナマナマしい歌なのだと、そんな視点を忘れないで聴いていきたい今日此の頃なのです。
(最近こういう後付けが増えていて恐縮です(汗)。書き急ぎ過ぎ自分^^;)
と、そんな慌てものですが、今年も無事にかつしかの駐車場を予約完了!次の日の渋谷の駐車場も予約完了っ。なんと一日24時間1500円平置き♪
で、今週はまた汐留に山田パンダさんのLIVEで行くのでそこでも前回と同じ地下駐車場を予約っ。駐車場予約三昧(笑)。
ギリギリセーフでアメリカ大統領来日と被らずに済みました。一足先に秋の東京を下見してきます。
プロフィール
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
このブログサーバーが落ちて表示されない場合は↑に避難しています。
