Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。
『夏は知ってる』
作詞:伊勢正三
作曲:南こうせつ
作詞:伊勢正三
作曲:南こうせつ
ずいぶん昔に一度この歌のことを書いた。
セルフカバー『スモークドガラス越しの景色』の際にも引用した。南こうせつおいちゃんの1983年発売のアルバムの曲なのだけど、隠れ名曲というか、知ってる人は多くないのでは?と思うようなマニアックな年代の曲だ。
私が知ったのも、さだまさし氏のラジオ深夜番組においちゃんがゲスト出演して新曲としてオンエアされたものを聴いたからだ。(当時、さだ氏の三国志語りを聴きたくて録音してたのだ(笑))
セルフカバー『スモークドガラス越しの景色』の際にも引用した。南こうせつおいちゃんの1983年発売のアルバムの曲なのだけど、隠れ名曲というか、知ってる人は多くないのでは?と思うようなマニアックな年代の曲だ。
私が知ったのも、さだまさし氏のラジオ深夜番組においちゃんがゲスト出演して新曲としてオンエアされたものを聴いたからだ。(当時、さだ氏の三国志語りを聴きたくて録音してたのだ(笑))
でも自分にとっては岐路というか、伊勢正三に目覚める大きなきっかけの歌なので、何かにつけ想い出します。
昨日、そのサザンのライブ配信で『朝方ムーンライト』という懐かしい曲が歌われた。それを聴いてフト、この『夏は知ってる』をまた想い出した。
※他のアーチストの歌を引用してゴメンナサイ(汗)
サザンのその歌には、
♪吐息のあい間に雨の音がする・・・
という色っぽいフレーズがあるのだけど、
『夏は知ってる』では、
♪midnightの通り雨に気付かないほどfall in love・・・
と、同じようなシチュエーションでも180度違う機微があって興味深いのだ。
クワタさんの言う「吐息」は、きっと愛し合う相手が連続的に漏らす声かと思う。でもその合間に部屋の外に降る雨の音に耳がシフトしてしまう、この"隙"が、愛に混じるCoolさを感じさせるのだけど、Shoyanの描く場面は愛し合う時間の中では一切の外部が遮断されていて、部屋の外で降る真夜中の通り雨の気配に気付かないほど、ひたすらに夜通しfall in loveしてるというタフさ、そして一途さ。この♪さらけ出してたパッション!という熱が堪らないのだ。
この情熱、只者ではないと。さみしがり屋同士が求め合うから、それはとてもDeepなものになってしまうのか・と聴いた当時から思っていた。
しかも、それは40年近くの時を経て、
♪静かな雨音に目覚めるように
誰にも気付かれずそばにいて・・・
誰にも気付かれずそばにいて・・・
と、ソコに肉体さえ不要な深いラブシーンに昇華した。
さみしがり屋同士の求めあいは接触を通して様々な摩擦や破壊を経ただろう。しかし、その先でやっと「さみしさ」の理由に気付いたとき、自分たちこそがその真夜中の雨だったのだとわかるのかもしれない。(ちょっとイミフメでスミマセン)
人を愛することは、雨が降ることに似ている。
(おっと、♪君をつたう雫になる・・までいってしまった。汗)
『夏は知ってる』は、そこにまだ辿り着けない、過渡期の振り返りが切ない歌だと思う。
・・・
「肩紐と水着の痕が別々に君を包んで」
「無邪気に落ちた細い肩紐を白く残して灼けた痕が」
「君の水着の痕、それは夏の日の消印」
「無邪気に落ちた細い肩紐を白く残して灼けた痕が」
「君の水着の痕、それは夏の日の消印」
少しづつ、同じところで揺れている"君"の面影が好き。
君の肌の手触りは、その日焼けの痕と同じようにいつか薄れ・消えてゆくもの。しかも、その"肌"があるからこそ、人は互いを重ねても重ねてもひとつになれないのだ。ならばどうすれば・・・?
君の肌の手触りは、その日焼けの痕と同じようにいつか薄れ・消えてゆくもの。しかも、その"肌"があるからこそ、人は互いを重ねても重ねてもひとつになれないのだ。ならばどうすれば・・・?
・・・
♪若さゆえ愛と思った・・・
なんて、歌を聴いた当時の14歳の自分には通俗的なフレーズに聴こえた。
「その時愛と思えば愛でいいじゃないか」と生意気に。
「その時愛と思えば愛でいいじゃないか」と生意気に。
でも何十年もの時間が経ってみると、実際"若さゆえ"と思えることが自分自身にも多々あった。結果を生まない愛は、本当は純粋な"欲"だったのかもしれない。それが良いとか悪いではなくて、愛には必ず裏地があるのだということだったかと思う。
(おっと、♪きっと同じ哀しみも愛も・・まで。汗汗)
この歌を知った14歳の頃、歌詞カードなんてないからラジオのエアチェック音源を何度でも聴いた。この頃は自分も身にそぐわない思春期以上の気持ちが昂ぶっていた。激しい気持ちを抱えて、誰も知らない苦しさと格闘していた。だから余計に今でもこの歌が忘れられないのかもしれない。
最初は作詞もこうせつ氏だと思っていたが、それから少し時間が経ってから作詞が伊勢正三だと知って「やっぱり伊勢正三って人の歌はいいなぁ、自分こういうのすごく好きだ」と思った。
伊勢正三の歌は他の歌手のどの歌よりもいつも必ず一歩深い。一歩深いということは聴き手の心の中まで一歩近いということだ。そういうところに私は激しい興味を持ったのだろうと思う。
それが一番新しい歌でもまったく同じように感じる。Re-bornの曲たちなどは特に、Shoyanの息遣いが近くて近くて・・・くすぐったいほど近い、ここまで来たか・・・と。
14歳前後に出会う歌ってすごく大切。
その大半が伊勢正三の歌であったことは私の大きな幸せであったと、再認識している永い歌なのだ。
その大半が伊勢正三の歌であったことは私の大きな幸せであったと、再認識している永い歌なのだ。
・・・
(追)
※実際に『青い目のジュディ』という歌があることを知ったのは、だいぶ後になってから。もっと調べてみたらその"ジュディ"は実在の女性歌手だったのですね。どの部分をくちづさんだの?と今でも思う。
独りくちづさまないで・・・
ハモりのないメロディーは寂しすぎる・・・と?
自分が産まれたころの歌だなんて、、想像するのもなかなか難く、ここでも及ばない自分がうらめしい。Shoyanの引用の空気感がわからないのが悔しい・・・
ハモりのないメロディーは寂しすぎる・・・と?
自分が産まれたころの歌だなんて、、想像するのもなかなか難く、ここでも及ばない自分がうらめしい。Shoyanの引用の空気感がわからないのが悔しい・・・
夏は何を知ってるのだろう?
何度か前のあの遠い夏の、苦くて熱かった自分の胸の内を・・・かな。
プロフィール
HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
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