Nanashiのものろーぐ
こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。
『男は明日はくためだけの靴を磨く』
これが一番長い題名かな?
風ひとり旅で聴いて改めて気になった曲。正直、今まではあまり気にならなかったというか、私には一番縁の遠い世界に思っていた。男一匹、男はつらいよ・・みたいな世界かと・・・がしかし、気付いたら随分身近な歌になっていた。なんだか今の自分みたいじゃない?
※ちなみに、寅さんシリーズは大好きだ(=´ω`)
~過去のことは思い出さず
これからのことはわからない・・・
これからのことはわからない・・・
この歳になってもまだ先のことが見えないなんて、それはそれでチョット困ったものだけど、女だって歳を重ねていけば、誰もが幸せのエスカレーターに自動的に乗れるとは保障されてはいない。坂道を降りるどころか、道もない藪の中を突き進んで頬も腕も枝葉で切り、傷だらけで踏破しようとすることだってある。
街の中の孤独は胸の中の自問自答と似ている。
「やさしい女」ってなんとなく、母親も含まれる?
「恋心をポケットに入れて」とあるから、リアルな恋愛対象の女性のことなのだとは思うけど、独り暮らしってなんとなく「かあちゃんゴメンヨ」というニュアンスもあるようで、無条件の与愛に応えられないもどかしさではそれと同じな気がする。
この男、どうしてこんなにしてまで今だけを精一杯生きているんだろう?しかもひとりで・・・
"動けない不自由"を"関わらない自由"にすり替えて、その日暮らしを気楽と思えば寂しさを肯定できるものね。これもLOVESONGのうちだと思う。自己を愛してやるという大切な作業、男と女の色っぽい物語だけが歌になるのではなく、孤独な"愛未満"な心情もLOVESONGになるのだと、そう思いながら聴いている。
・・・
後半の転調するトコロが好き♪
俄然ヤル気が湧いてくる。
俄然ヤル気が湧いてくる。
~窓辺で枯れてゆく 一輪ざしの花でさえ
この部屋の中で 精一杯に咲いていた
この部屋の中で 精一杯に咲いていた
ここが好き。
一輪ざしということは、根っこはない切花なんだね。そんな未来のない花の希望ってなんだろう・・・?
以前、友達がくれた薔薇の切花、花を落としたあと水に挿しておいたら根が出た。土に植えたら根が付いて新しい花を咲かせるまでになった。人の夢や希望なんて、先々どんな風に変わってゆくかは誰にも判らない。イケルと思ったことが頓挫したり、無理!と思ったことが成就したり、心の底から愛したものを憎んだり・・・。
一輪ざしということは、根っこはない切花なんだね。そんな未来のない花の希望ってなんだろう・・・?
以前、友達がくれた薔薇の切花、花を落としたあと水に挿しておいたら根が出た。土に植えたら根が付いて新しい花を咲かせるまでになった。人の夢や希望なんて、先々どんな風に変わってゆくかは誰にも判らない。イケルと思ったことが頓挫したり、無理!と思ったことが成就したり、心の底から愛したものを憎んだり・・・。
だから、だから、ほんの今日と明日のことを丁寧に取り組もうよって、"明日"の積み重ねが"未来"を構成するのだよと、そういう歌だと思って聴いている。
しかし、「夢をくつがえす」って?
変更するってコト?
諦めるのではなく「くつがえす・覆す・靴返す」?
この部分だけチョットダケわからないままなんだ。でも、この男、まだ「そんな小さな生きざまを見つけたい」って目標があるからイイナ♪先のこと、ちゃんと考えているんじゃん・・・と、信念・みたいなものを持っている限り、その人は孤独じゃないと思う
変更するってコト?
諦めるのではなく「くつがえす・覆す・靴返す」?
この部分だけチョットダケわからないままなんだ。でも、この男、まだ「そんな小さな生きざまを見つけたい」って目標があるからイイナ♪先のこと、ちゃんと考えているんじゃん・・・と、信念・みたいなものを持っている限り、その人は孤独じゃないと思う
♪時の流れに 身をまかすのもいいサ ~
「アレコレ心配するより 今日笑ってご覧?」
と、言われてるみたい。
女は笑顔でも磨いて明日に備えるとしましょう(*^^*)☆
※曲中、パーカッションの他に手拍子・ハンドクラップが入ってる??? だから聴いたあとやる気が出てくるのかな。
(手拍子じゃないかも^^;)
(手拍子じゃないかも^^;)
2011年09月29日
♪Lady in the Rain
その時は思い切り心細くなるがいい・・・
この歌はなんとなく特別
ずっと好き
つい最近思ったのだけど
Shoyanが"伊勢正三"になったのは
この歌あたりからじゃないのかな・・・と
ナゼそう思うのかわからないけど
『北斗七星』まではまだ"風"やそれ以前のShoyanで
『渚ゆく』のこの歌からは
今現在まで続く新しいひとりの"伊勢正三"
が生まれたような、なんかそんな感じ・・・
と、また小生意気なコト書いてみる(^^;)
って、その違いってナニヨ!?となると
また具体的に言うのはムツカシイのだけど
(単にレコード会社変わったとかじゃなくて)
とにかく今の多面体で奥行きのあるShoyanは
風のままでは生まれなかったのではと思う
(※以下、チョイ乱暴に生意気書きます)
"往年のフォークシンガー"と"伊勢正三"は違う
Shoyanは過去だけの人ではない
その懐かしのシンガーだってヒット曲があって
カラオケ伴奏でステージやっても
今でもソレで充分暮らしていけて
地位も名誉も?ある歌手は多く
すごいことだと思うけど
Shoyanがそういう古い人たちと違うのは
・・・やっぱり
"何かに気付いている"ということだと思う
才能があったり幸運だったりして
デビューしたりヒットしたりして
「自分て特別な人間なんだわ(;゚∀゚)=3!!」って
それに一生しがみつく人もいるようだけど
それだけで終わらないで
その先にも果敢に探検に出かけたShoyanの
最初のスケッチがこんな"慈しむ心"だったのでは?
と、思う
L・カールトンが
「僕の音楽は神様からのギフトだから」
って言っていた
Shoyanもなごり雪や22才の別れを得た時
それだけで終わらなかったのがスゴイのだ
・・・・・
どこか、木洩れ日のある場所で
ヨチヨチ歩きの子供が倒れこむように突進してきて
パッと抱き上げるパパの手・みたいな
こんな目線がサイコウなんだ
十代の頃初めてこの歌を聴いてから
いつか自分に子供が産まれたら
この歌を子守唄にしようって思っていた
♪ふ~しぎぃな~
かんばせいしょーん
ふ・れ・あ・い・・・
って、頬ずりしながら歌ってやりたかった(愛)
叶わなかったのもまた
それもいいのだと今は思える
赤ちゃんも仔猫も
小鳥も流れる雲も雨も
同じ意志で繋がっている
それは言葉じゃなくて
無意識のうちの連鎖みたいな・・・
なんか、そう、人間で言う"愛"よりも
モット更に深くて広い"アイ"がアル
その辺に気付くと人に優しくなれる気がする
アナタはワタシ
ワタシはアナタ
そういうことになるから
私はこの歌が好きなのかな・・・☆
歳をとったからなのか
2018年の春はあまりにも駆け足で
ソメイヨシノも咲き始めたら
あっという間に満開になった
薄ピンクの花は黄砂に揉まれて
すでに散り始め
アスファルトの上にはもう
花びらの渦が巻いている
咲くのも散るのも早すぎる気がして
何だか気持ちはざわめくのだった
2018年の春はあまりにも駆け足で
ソメイヨシノも咲き始めたら
あっという間に満開になった
薄ピンクの花は黄砂に揉まれて
すでに散り始め
アスファルトの上にはもう
花びらの渦が巻いている
咲くのも散るのも早すぎる気がして
何だか気持ちはざわめくのだった
~花びらが散ったあとの
桜がとても冷たくされるように
誰にも心の片隅に
見せたくはないものがあるよね
桜がとても冷たくされるように
誰にも心の片隅に
見せたくはないものがあるよね
花が散って花柄がボサボサしてる桜は地味だ
でも初夏になれば青葉が茂った枝先で
宝石のように光る小さな桜の実や
触れれば手が染まりそうなくらいに
紅く染まる秋の葉
近寄れば匂ってくるその樹の甘い香りがある
でも初夏になれば青葉が茂った枝先で
宝石のように光る小さな桜の実や
触れれば手が染まりそうなくらいに
紅く染まる秋の葉
近寄れば匂ってくるその樹の甘い香りがある
桜の樹のそれらが全部好きだから
私はそんな風に思ったことはないけれど
この歌を作った当時の若き日のShoyanは
まだ少し"人から目線"だったのかなって思う
私はそんな風に思ったことはないけれど
この歌を作った当時の若き日のShoyanは
まだ少し"人から目線"だったのかなって思う
実際、この人の世の現実は
去ったものには触れぬが善なのかもしれない
咲き誇る花だけを愛でて
満開だけが全てだと思って浮かれているのは
たぶん人間だけなのだ
いいことや楽しかったことだけを重んじる
そんな自分勝手な人のココロ・・・
でも、それでいいのだと思う
ずっと、重たい石を抱いていくのは
きっと疲れてしまうから・・・
去ったものには触れぬが善なのかもしれない
咲き誇る花だけを愛でて
満開だけが全てだと思って浮かれているのは
たぶん人間だけなのだ
いいことや楽しかったことだけを重んじる
そんな自分勝手な人のココロ・・・
でも、それでいいのだと思う
ずっと、重たい石を抱いていくのは
きっと疲れてしまうから・・・
冷たく、触れないままでスルーしたいのは
そんな自分のアヤマチ・・・
でも、また次の春が来ると
その桜は咲いてしまうんだよね
そんな自分のアヤマチ・・・
でも、また次の春が来ると
その桜は咲いてしまうんだよね
「振り返るのはやめよう」とShoyanは歌う
しかし
「くり返すのはとめられない」
のかもしれない
のかもしれない
冷たくされても桜は桜
自分の落とした枯葉さえ自らの栄養にしてまた貯えていく
誰かに切り倒されたり、虫に食われようとも
やはり切り株の横から芽が出たりする
自分の落とした枯葉さえ自らの栄養にしてまた貯えていく
誰かに切り倒されたり、虫に食われようとも
やはり切り株の横から芽が出たりする
そんな風に自然に時の流れに身を委ねることが出来たなら、もう少し楽になれるヨ、って
引き返すことの出来ない人生だけど
人の心はずっと揺れ動き続けて
様々なカタチの花びらを散らしてゆく
その時間の花びらは
風が集めて何処かへ還していく
それでいいのだと思う
人の心はずっと揺れ動き続けて
様々なカタチの花びらを散らしてゆく
その時間の花びらは
風が集めて何処かへ還していく
それでいいのだと思う
私はこれからもここで
そのこぼれた花びらを拾い集めて
いくつかの短編でも編めたらいいなと
いつも想っています
そのこぼれた花びらを拾い集めて
いくつかの短編でも編めたらいいなと
いつも想っています
~君から借りたノートを返した その後で・・・
この独特の季節感 二十四節気でもなく七十二候でもなく、受験~卒業の頃のくすぐったい切なさというのは 、古い時代にはなかった不思議な 新しい日本人の感性だと思う。
明治維新以降(実際は もう少しあと)、日本も西洋化が進んで 一貫した学校教育が始まると、進級したり卒業したりすることが 日付で決まって進められていくようになった。そうした生活が始まってこその季節感だと思う 。
もちろん、"別離・旅立ち"に叙情を感じることはそれ以前にもあって「春は名のみの風の寒さ」という感じ方も古来、それぞれ色々な歌に詠まれてきたと思うけど、"春"という季節に"別離"をシンクロさせるようになったのは近代の意識なのでは?と思う 。
元々、春は物事が生まれ出、 復活する歓びの季節だったはずだ 。それが"去る"というニュアンスを含むようになったのは 、近代~現代の新しいライフスタイルが産んだ日本人の歴史的な美意識の変遷だと思う 。
(と、勝手に妄想してみる)
"生まれることと去ること"の矛盾を美意識にする、そんな感性に誇りを持ちたいと思うのだ。その、実は新しい感覚を言葉にしてメロディーにして、この『暦の上では』や『なごり雪』など、
春の別離を歌というカタチにして世に出した伊勢正三という人の仕事って、本当に先駆けだなと想う
・・・
この歌の好い所は、ふんわりシュークリームみたいな作りになっているトコロ♪男女の深い心の機微とかじゃなくて、彼と彼女が人形劇のキャラみたいに歌の景色のアクセントになって置かれている。この素朴さにホッとする 。
~君の涙が雪に変わって
僕の肩に落ちた・・・
ここでも、冬の涙が暖かい 。
Shoyanの歌の象徴的な"寒い季節の涙" そして雪* 。とてもメルヘンチックな描写でホント素敵だ。
でも一方で 、
~下りの汽車の時間
~野球帰りの子供たちの声
なんて、とても写実的でリアルだ 。
そのフレーズを、転調した最後に置いて 、
~まだまだ寒い日が続く・・・
と、余計なことは言わないで、ふと切り抜いた"午後のひととき"だけを残して終わるのが本当に見事だ。この歌は意味深な言い回しとか派手な描写があるわけではないけど 、飽きの来ない線描、ほんの少しの彩色で洗練されている超級名曲だと想う 。
※当時「ボタンダウン」なんてフレーズを意識的に使ってみたくて使った・・・様な気がするんだけど、、どうかな?(^^ゝ♪
しかし、最近取り沙汰されている秋入学制度が導入されたら、また学生生活も彩のニュアンスが変わるのかな?また次の時代の歌が出来たりするのだろうか・・・(遠)。
もう、このごろでは学生時代のことはいつの間にか忘れてしまっていた 。それでも大学施設などがまとまって近所にあると、日々、色々そんな風景も目にする 。学生さんたちがリアルに21世紀も勤しんでいる 。
立春、如月。
"卒業"まではまだ少しある。
君の涙の雪が肩に降り積もるのか溶けちゃうのかはまだわからない♪ 青春てあやふやなもの。だけど、君と交わしたこのほんの一瞬・ひとときは、その後の人生でいつまでも胸の片隅に潜伏し続ける1ページだろうと想う。
夢や挫折や、現実やしがらみが積み重なって、清濁混然とした社会に出ていく前の何気ない純粋なこのひとときが、かけがえのないものだったって気付くのはいつのことだろう・・・
(追)
Shoyanは以前ラジオで
「カレンダーの紙の裏に絵を描いたりします(笑)」
なんておっしゃっていた
そういうのをとっておいて、何年か後で見たりすると楽しいだろうね♪
この独特の季節感 二十四節気でもなく七十二候でもなく、受験~卒業の頃のくすぐったい切なさというのは 、古い時代にはなかった不思議な 新しい日本人の感性だと思う。
明治維新以降(実際は もう少しあと)、日本も西洋化が進んで 一貫した学校教育が始まると、進級したり卒業したりすることが 日付で決まって進められていくようになった。そうした生活が始まってこその季節感だと思う 。
もちろん、"別離・旅立ち"に叙情を感じることはそれ以前にもあって「春は名のみの風の寒さ」という感じ方も古来、それぞれ色々な歌に詠まれてきたと思うけど、"春"という季節に"別離"をシンクロさせるようになったのは近代の意識なのでは?と思う 。
元々、春は物事が生まれ出、 復活する歓びの季節だったはずだ 。それが"去る"というニュアンスを含むようになったのは 、近代~現代の新しいライフスタイルが産んだ日本人の歴史的な美意識の変遷だと思う 。
(と、勝手に妄想してみる)
"生まれることと去ること"の矛盾を美意識にする、そんな感性に誇りを持ちたいと思うのだ。その、実は新しい感覚を言葉にしてメロディーにして、この『暦の上では』や『なごり雪』など、
春の別離を歌というカタチにして世に出した伊勢正三という人の仕事って、本当に先駆けだなと想う
・・・
この歌の好い所は、ふんわりシュークリームみたいな作りになっているトコロ♪男女の深い心の機微とかじゃなくて、彼と彼女が人形劇のキャラみたいに歌の景色のアクセントになって置かれている。この素朴さにホッとする 。
~君の涙が雪に変わって
僕の肩に落ちた・・・
ここでも、冬の涙が暖かい 。
Shoyanの歌の象徴的な"寒い季節の涙" そして雪* 。とてもメルヘンチックな描写でホント素敵だ。
でも一方で 、
~下りの汽車の時間
~野球帰りの子供たちの声
なんて、とても写実的でリアルだ 。
そのフレーズを、転調した最後に置いて 、
~まだまだ寒い日が続く・・・
と、余計なことは言わないで、ふと切り抜いた"午後のひととき"だけを残して終わるのが本当に見事だ。この歌は意味深な言い回しとか派手な描写があるわけではないけど 、飽きの来ない線描、ほんの少しの彩色で洗練されている超級名曲だと想う 。
※当時「ボタンダウン」なんてフレーズを意識的に使ってみたくて使った・・・様な気がするんだけど、、どうかな?(^^ゝ♪
しかし、最近取り沙汰されている秋入学制度が導入されたら、また学生生活も彩のニュアンスが変わるのかな?また次の時代の歌が出来たりするのだろうか・・・(遠)。
もう、このごろでは学生時代のことはいつの間にか忘れてしまっていた 。それでも大学施設などがまとまって近所にあると、日々、色々そんな風景も目にする 。学生さんたちがリアルに21世紀も勤しんでいる 。
立春、如月。
"卒業"まではまだ少しある。
君の涙の雪が肩に降り積もるのか溶けちゃうのかはまだわからない♪ 青春てあやふやなもの。だけど、君と交わしたこのほんの一瞬・ひとときは、その後の人生でいつまでも胸の片隅に潜伏し続ける1ページだろうと想う。
夢や挫折や、現実やしがらみが積み重なって、清濁混然とした社会に出ていく前の何気ない純粋なこのひとときが、かけがえのないものだったって気付くのはいつのことだろう・・・
(追)
Shoyanは以前ラジオで
「カレンダーの紙の裏に絵を描いたりします(笑)」
なんておっしゃっていた
そういうのをとっておいて、何年か後で見たりすると楽しいだろうね♪
プロフィール
HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。
☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!
☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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