Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。 管理者∶No Name 七氏−1.0

2025/10    09« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »11
何故か今、空前のgardenブームが起こっている我が家である。
各曲が、どうしても突っ込みたいところ、確かめたいところが満載で、本当に愛すべき作りこみだなって15年も経ってまた盛り上がっている。

最近また新たな釣りを始めようかと思っているところで『南の魚のミステリー』は再ブレイクの最たるものだ。
この歌はShoyanの音楽の原液みたいなもので、自分の塩梅になるまで丁寧に調整したから、全部聴くのに時間がかかったのも事実(かかりすぎだよ15年(笑)!)。



時の流れとサカナの理由・・・
何故その鱒が棲むのは"湖"なのか、納得がいったあたりから歌の中に入れるようになった。

今までの沢山の歌の中にこの"ミステリー"は少しづつちりばめられ、時には隠され、濃さや香りを変えて施されていた。
それがステキな隠し味になってきたのだと思っていたけど、ここではすべてのフレーズが主力のFW!一切の守りがなく攻めの一手!歌詞やShoyanの声に、いくつあるのか聞き分けが大変なほどの色とりどりの楽器の音たち。まさに溺れるには最高なのだ。そして私はこの曲のとも子氏のピアノが結構好きだったりする。
だから、この歌を初めて聴いた時、

「一曲にこんなに盛りだくさんに詰めちゃっていいのかな?」

なんて、ドキドキしたものだ。

数々のスパイスだけで作ったマサラみたいで、それに眩しすぎて・・・
ただ、今聴くと、このShoyanの胸中に非常に共感共鳴出来そうで(それこそ妄想の王道なのだけど(^^ゞ)自分の汚れた心とか穢れた人生も帷子一枚くらいは禊が出来て、天の川のほとりまで登ってこれたのかなとも思う。Shoyanのいるその"美しい世界"にはまだ及べないけど、カササギの橋の袂でそのせせらぎを眺めて想うことはできる。

♪ここにいるだけで・・・
"解る"ってこういうことなのかな・と
本当は一度、聞いてみたいナ

・・・

「何も知らなくて 決めなくて」
ということは非常に大切なコトで、"確実にしないことが永遠"なのではないかと思うんだ。それは文字や指輪や約束とは反対にあるもののようだから、つい見過ごされてるようなコトだけど・・・
でも、命に限りがある人間がせめて出来るのは、非時の花を摘んで、愛する人に束の間の香りを捧げるくらいなのかもしれない。その束の間の香りも胸の中の宇宙では永遠のものに出来ると
私は想ってるけど・・・それはその時が来てみないとワカラナイ。
それまでもう少しCoolでいてみようか・・・(ムリムリ?)

・・・

Shoyanはよく「鱒」って言うけど(サケ科・という意味で?)でも、ヤマメはヤマメでイワナはイワナだと思う。
やっと始まった謎解き。
彗星も来るっていうし、"奇跡の軌道"何周目か数えてみたい季節だ。
一見、超叙情。

70年代フォークの"和テイスト"ムーブメントの中で、出てくる単語は意識して?王道のジャパニーズアイテム。その頃、急速に失われて行こうとしてた日本の民俗を見直して歌に留めようとした動きがこの頃あったのかな。
(ナカッタカナ(^^ゝ)

『フォークソング』という括りを如実に感じる歌だ。
清純の原風景のスライド写真・・・
前後のストーリーは具体的ではなくて、「誰と誰がいつ何をしてどうしたのか?」ということは主軸じゃないように思われる。言葉と景色の美しさと、過ぎた日の甘苦さを"通り雨"に託して堪能する歌と思う。

ドラマチックなメロディーの素直さに何度聴いても飽きない系の超スタンダードナンバーだ。ただし、そこに一抹の色気(オトコの)が隠れているのがShoyanらしくてイイんだ♪

~♪赤い鼻緒切らして 上目づかいに笑った
  かわいそうなくらいの 小さな胸元

これってば、シチュエーションを具体的に絵にすると・・・

☆女の子の下駄の鼻緒が切れた
→しゃがんで現状確認
→「困ったナ」
→しゃがんだまま彼に上目づかい(甘えた笑顔)
☆彼は立ったまま上から何気なく見下ろす
→下駄の足元を見ようとするも
→先に浴衣の胸の袷に隙間が・・・目に入るワケ
→瞬間的に分析・・・モチロン、即素肌なワケで・・・

着物の場合、豊かで大きな胸より小さな薄い胸の方が隙間が出来やすい。
そこに目がいくShoyanの創作触覚!
タマラナイワケデ・・・
しかも、普通に聴いていると意識せずに背景に溶け込んでしまっているのがニクイ♪
たぶん、そのつま先はマニキュア(ペデキュア)もせず、その長い髪も茶髪ではなく、キュッとまとめたりして、うなじが湿っていて後れ毛が素直に肌に乗っている・・・と、

"純"や"うぶ"が幻じゃなかったあの頃、夢のような"リアル"があったんだ。「昭和は遠くなりにけり」かな・・・と平成最後の夏に想う。
・・・

個人見解だけど、地方都市である我が町は今でも夏には町ごとのお祭りがある。

テキヤさんの怪しい屋台
地元歌手の歌謡ショー
夜神楽
石畳
苔むした路地
夜温が下がる夕立の雨・・・
真っ暗な宵闇に電球の灯かり

そんな祭りの風景がまだ在る。
昭和40~50年代のままのブロック塀の町。
Shoyanが今、KAZEの頃の歌を歌うとき、その大都市の街のホールで、地方都市や町のホールで、いつもどんなことをイメージしながら歌うの?と想う。

場所によって違うの?
それともShoyanの胸の中の時間はいつも同じなの?って・・・

~♪思い出すなら 忘れよう

そういうことなの?って。

遅過ぎたKAZEひとり旅。そして更に遅すぎる今年の風が聴こえるツアー。だけど、何度演奏してもそれは始まったばかりの旅。時が流れ過ぎて、今までの何十年ものことはなかったことになっているのかな。

なんだか最近の私、"時の流れ"に拘らなくてもイインじゃないかって想い始めている。「流れる」ってことは「流れない」ことでもあるんだよネ。今のShoyanは私の知らないShoyanだ。

あの熱い時代だけが伊勢正三なのかなって、中州に一人取り残されたような心持ちで一連の風リバイバルイベントを眺めている。

・・・

しかし、歌に戻れば、指を切断して誓うほどの約束なんて本当は存在するのかな?柔らかな皮膚と皮膚の僅かな面積の触れ合いが切ない"指切り"。縁を結ぶには儚すぎて頼りないもの・・・その行為こそ"通り雨"。

 つかの間の雨
 夕立ちの短い雨は忘れかけてた夏の香り
 通り雨過ぎたあとに残る香りは夏この頃
 夏・通り雨・短冊を濡らして
 夏雨あと 割れた西瓜 汗の匂い
 君の涙の夕立も晴れて・・・

ぱっと思いついただけでも彩り豊かなその匂い立つ短い雨の景色。

"雨の刹那さ"は時代が移っても変わらないと思う。雪よりも圧倒的に強い場面転換をするくせに、時間的に儚い"雨"のイニシアチブ・・・
『通り雨』は幼い頃大切にしていた絵本のような歌。
純粋無垢な弱き者だった頃の自分で聴いている。
約束の場所に現れない人を待ち続けているような、そんな気持ちで聴いている。


あ、ピノ・ノワール以外にもブドウが出てきてた!
♪誰もシラーない木星!

 m(_ _)m シツレイシマシタ
さてさて、、、
JUNのフレーズたちはまるで波に運ばれる流氷のカケラのように、浮いたり沈んだり、付いたり離れたりしながら現れたり消えたりする。聴くたびに新しい発見があってどんどん好きになる。
そのランダムさが永く聴く秘鑰で、普段からかなり回数多く聴いている曲。
何度聴いても大好きな曲なのだ。

昔、発売当時聴き始めたころはもう少ししっとりシンプルなつぶやき系(ジョアン系?)で聴きたいなどと思ったりもしたけれど、今になるとこのアレンジで素敵だったと思う。
九月でもなく冬でもなく、やはりこの季節の雨は"生命"なのだから、この活き活きした感じがピッタリだったのだ。

この言葉の羅列、フォトグラフィカルなShoyanの"置き方"、それは『謎』の仮縫いでパイ生地の様に含みのあるサックリ感。摘み取るSceneはどれも共感が濃くて、聴くたびにその傍らに寄り添える気がする。

本当に・・・すぐ傍で眺めているものがある。

メロディはロマンチックなのに洗練されていて軽快洒脱なアレンジ。
数ある曲の中で一番オトナっぽい曲かもしれない・とか、自分的にはこういう曲が"Shoyan的AOR"だと思っているのだ。

・・・・・

で、『思い出より美しいもの』って何?
と、これがこの歌の大切なフレーズの一つなのではないかといつも考えながら聴いている。

今まではごく自然に「思い出ほど美しいものはない」と思っていたけれど、もう何年もこの歌を聴き続けているうちに、この『思い出より美しいもの』ってナニ?ととても気になり始めた。
なんとなく、それが何なのか漠然とはわかっているつもりだけど、それこそ言葉にしたらハズレてしまいそうで・・・
カタチにする自信もなく感じている範囲にとどめて長い間様子を見ていた。

だがしかし、最近になってココに想い着けたのだ たぶん。

Shoyan、、、
"思い出"とは"過去の事件"のことで、誰かと誰か達が関わりあった"結果"なのだと思うのですが、でも実はそれ以前の、自己完結の「相手に関われなかった"未遂"という状態」が「もっと美しいものだった」のではないでしょうか・・・?
と・・・

"関わらなかったこと"は、何も産まないし残さない。
でも、完結・完成だけが真理ではないと思う。

一つの例として、
「告白して付き合い始めたけど結局別れた」
「告白も出来ないままに離れて、そして今でも好き」
の、美しさの違いなんだ。

芽も出さない"種"のまま、あるいはまだ雌蕊だけのままであることは、潔くって切ない。
その潔さを「美しい」と言うのではないだろうか?

50年近く生きてきて、想い出になれなかったコトたちも増えた。でも、"あったことだけ"を懐かしむのではなく、"なかったこと"にソッと寄り添う時間も増えた。

そんな、今と昔をあざなうもの・・・
毎年巡る季節の中で、巡らないで後ろに去って行くだけの自分の人生を振り返る時、"思い出より美しいもの"に慰められるのもイイジャナイ?と思う様になった。"しなかったこと"にも価値があるなんて・・・そう想えば何も残せなかった人生でも好きでいられるかもしれない。

それは始まらないから終わることもない。
保留のままの、優しい未遂の美なのだ(涙)。


そう思う毎度の雨の季節・・・
雨はやっぱり絶えないもの。
カンケイしない関係みたいに・・・♪

・・・

追伸
※しかし、僭越ながら?
 何故かこの歌は我が町の景色にも合うので聴いていて心地良い。
 雲の切れ間の空の碧さ
 葡萄の木陰、微発泡・・・
 人気(ひとけ)のない平日のミレーの展示室
 ・・・美術館の庭
 昭和な町と旧い石垣
 そんな地方都市にも似合うと言ったら怒られるかな(^^ゝ


 Campagne et Champagne・・・どちらでも♪


当時、どれだけ嬉しかっただろう。

「ひさしぶりのアルバムです」
「いつもありがとうSHOZO」
「もどかしいくらいはつばいびのびて」
「しょうがないやつだ」

Shoyanからファンレターのお返事をもらったみたいに本当に嬉しかった。
なんて素晴らしい試みだろうって思った。
発売時に出演されたFMの番組で、

「事務所にファンから問い合わせの電話が来るらしいんだけど、アルバムの発売日が伸びましたって言うと 「慣れてますから」なんて言われるんですよ(汗)」

みたいなことをおっしゃっていた。
「慣れてますから」と言ったかどうかは覚えてないけど、よく電話問い合わせをしたなぁ。生きてるファンもいますよっ!って伝えたかったんだ。(´・ω・`)学生時代の若気の至りなのでお許しヲ・・・イマハモウ ソンナコト ヒツヨウナイノネ 


でもこの、正真正銘"伊勢物語~カ・キ・ツ・バ・タ!!"で、語尾までも折句でまとめた凝った作りで、彩り豊かな材料をちりばめたこの歌はShoyanの、あるジャンル中での大傑作と想うのだけど、LIVEで演奏されるようなタイプの歌じゃないので普段はちょっとベンチに控えてるみたい。でも私は好きなんだ。CDに焼いて車などで今もよく聴いている。このホヤホヤ~ン♪としたサウンドも好きなのだ。何度聴いても飽きないというか。毎回ちょっとづつグルグルと新しい発見がある。

だって、語句の選び具合が絶妙なんだもの。
言葉の連鎖がとても自由で、でも嵌め込んでいく言葉ひとつひとつに一本筋が通っていて、Shoyanらしい丁寧で粋な構成だ。

「理路整然の恋」
「我慢とはプライドの躊躇」
「アバンギャルドに慣れてる彼ならルージュおもいきり地味にしなさい」

こんな深い言葉を縦読み言葉遊びの中に入れる作業、こういうのこそアタマで考えられるコトじゃなくて、"集中力の先の脱力"で拾うフレーズなのでは?と思う。
※原詞はひらがなだけど漢字で書いてみた。

まず、シノヅカ選手をピックアップするあたりが渋い!この"オンナと恋"の教訓歌にはシノヅカ選手がピッタリ。スポーツマンらしからぬ線の細さとしなやかさ、女性にモテそうなあの白面のキャラをここに持ってきたこのチョイスは最高だと思う。
※前にも「ナガシマさん」を引用したShoyanは、やはりGファンなのかな?
 
他にも今となっては懐かしくなっているフレーズもある。「BE・LOVE」なんてよくご存知だったなって(´∀`)(歌詞では「Be Love」)。当時のこの本はレディースコミック(いわゆるレディコミ)誌で、大胆なラブシーンが載っているイメージ?があったのでドッキリしたのだけど、それは他誌だったかもしれない。当時、青年誌じゃない成人女性向けコミック誌にもエロス解禁なムーブメントがあったはずなのだが、「BE・LOVE」は真面目なレディコミ(?)だったかもしれないので、実際はどういうニュアンスで引用されたのか、実はちょっと保留したまま聴いて今日に至っている。
アダルトな内容をすまし顔で「つんと」読んでるって意味なのか、キャリアガールが漫画なんかをすまして読むって意味なのか、意味なんかないのか!?(笑)でもそんな、成人女性が読むコミック誌が歌詞に出てくるなんて超斬新!さすがShoyan!と当時思ったものだ。
※ちなみに、今現在も刊行されていることに驚き!
※※十代後半、近所の書店でアルバイトをしていたのでこの頃の雑誌など懐かしい。

"女性賛歌・そしてややアイロニーを込めて"愛のカタチを歌う歌になっているところがこの歌最大の魅力で、ただの言葉遊びじゃないのがスゴイんだ♪こんな風に直接的な言葉を羅列して、女子の世界を語る伊勢正三の歌は珍しいと思う。

やはりやや特異ではあるけれども、そんな位置づけが自由さを産んで沢山の作品の天井の高さになっている。こういった実験的な歌のモチーフに「オンナ」を持ってくるところがShoyanの歌作りの発想基本に触れるようで、素通しのメガネみたいな歌にニヤリ・なのだ。

しかし、あとをひくのだよなコノ歌 (´∀`)ネー
最近はちょっぴり懐かしい気持ちで聴いている。

2012年06月13日
『男は明日はくためだけの靴を磨く』

これが一番長い題名かな?
風ひとり旅で聴いて改めて気になった曲。正直、今まではあまり気にならなかったというか、私には一番縁の遠い世界に思っていた。男一匹、男はつらいよ・・みたいな世界かと・・・がしかし、気付いたら随分身近な歌になっていた。なんだか今の自分みたいじゃない?
※ちなみに、寅さんシリーズは大好きだ(=´ω`)

~過去のことは思い出さず
  これからのことはわからない・・・

この歳になってもまだ先のことが見えないなんて、それはそれでチョット困ったものだけど、女だって歳を重ねていけば、誰もが幸せのエスカレーターに自動的に乗れるとは保障されてはいない。坂道を降りるどころか、道もない藪の中を突き進んで頬も腕も枝葉で切り、傷だらけで踏破しようとすることだってある。

街の中の孤独は胸の中の自問自答と似ている。

「やさしい女」ってなんとなく、母親も含まれる?
「恋心をポケットに入れて」とあるから、リアルな恋愛対象の女性のことなのだとは思うけど、独り暮らしってなんとなく「かあちゃんゴメンヨ」というニュアンスもあるようで、無条件の与愛に応えられないもどかしさではそれと同じな気がする。
この男、どうしてこんなにしてまで今だけを精一杯生きているんだろう?しかもひとりで・・・

"動けない不自由"を"関わらない自由"にすり替えて、その日暮らしを気楽と思えば寂しさを肯定できるものね。これもLOVESONGのうちだと思う。自己を愛してやるという大切な作業、男と女の色っぽい物語だけが歌になるのではなく、孤独な"愛未満"な心情もLOVESONGになるのだと、そう思いながら聴いている。

・・・

後半の転調するトコロが好き♪
俄然ヤル気が湧いてくる。

~窓辺で枯れてゆく 一輪ざしの花でさえ
  この部屋の中で 精一杯に咲いていた

ここが好き。
一輪ざしということは、根っこはない切花なんだね。そんな未来のない花の希望ってなんだろう・・・?

以前、友達がくれた薔薇の切花、花を落としたあと水に挿しておいたら根が出た。土に植えたら根が付いて新しい花を咲かせるまでになった。人の夢や希望なんて、先々どんな風に変わってゆくかは誰にも判らない。イケルと思ったことが頓挫したり、無理!と思ったことが成就したり、心の底から愛したものを憎んだり・・・。

だから、だから、ほんの今日と明日のことを丁寧に取り組もうよって、"明日"の積み重ねが"未来"を構成するのだよと、そういう歌だと思って聴いている。
しかし、「夢をくつがえす」って?
変更するってコト?
諦めるのではなく「くつがえす・覆す・靴返す」?
この部分だけチョットダケわからないままなんだ。でも、この男、まだ「そんな小さな生きざまを見つけたい」って目標があるからイイナ♪先のこと、ちゃんと考えているんじゃん・・・と、信念・みたいなものを持っている限り、その人は孤独じゃないと思う

♪時の流れに 身をまかすのもいいサ ~

「アレコレ心配するより 今日笑ってご覧?」

と、言われてるみたい。
女は笑顔でも磨いて明日に備えるとしましょう(*^^*)☆
※曲中、パーカッションの他に手拍子・ハンドクラップが入ってる??? だから聴いたあとやる気が出てくるのかな。
(手拍子じゃないかも^^;)

2011年09月29日



♪Lady in the Rain
 その時は思い切り心細くなるがいい・・・

この歌はなんとなく特別
ずっと好き

つい最近思ったのだけど
Shoyanが"伊勢正三"になったのは
この歌あたりからじゃないのかな・・・と

ナゼそう思うのかわからないけど
『北斗七星』まではまだ"風"やそれ以前のShoyanで
『渚ゆく』のこの歌からは
今現在まで続く新しいひとりの"伊勢正三"
が生まれたような、なんかそんな感じ・・・
と、また小生意気なコト書いてみる(^^;)

って、その違いってナニヨ!?となると
また具体的に言うのはムツカシイのだけど
(単にレコード会社変わったとかじゃなくて)
とにかく今の多面体で奥行きのあるShoyanは
風のままでは生まれなかったのではと思う

(※以下、チョイ乱暴に生意気書きます)

"往年のフォークシンガー"と"伊勢正三"は違う
Shoyanは過去だけの人ではない

その懐かしのシンガーだってヒット曲があって
カラオケ伴奏でステージやっても
今でもソレで充分暮らしていけて
地位も名誉も?ある歌手は多く
すごいことだと思うけど
Shoyanがそういう古い人たちと違うのは
・・・やっぱり
"何かに気付いている"ということだと思う

才能があったり幸運だったりして
デビューしたりヒットしたりして
「自分て特別な人間なんだわ(;゚∀゚)=3!!」って
それに一生しがみつく人もいるようだけど
それだけで終わらないで
その先にも果敢に探検に出かけたShoyanの
最初のスケッチがこんな"慈しむ心"だったのでは?
と、思う

L・カールトンが
「僕の音楽は神様からのギフトだから」
って言っていた
Shoyanもなごり雪や22才の別れを得た時
それだけで終わらなかったのがスゴイのだ

・・・・・

どこか、木洩れ日のある場所で
ヨチヨチ歩きの子供が倒れこむように突進してきて
パッと抱き上げるパパの手・みたいな
こんな目線がサイコウなんだ

十代の頃初めてこの歌を聴いてから
いつか自分に子供が産まれたら
この歌を子守唄にしようって思っていた

♪ふ~しぎぃな~
  かんばせいしょーん
   ふ・れ・あ・い・・・

って、頬ずりしながら歌ってやりたかった(愛)

叶わなかったのもまた
それもいいのだと今は思える

赤ちゃんも仔猫も
小鳥も流れる雲も雨も
同じ意志で繋がっている
それは言葉じゃなくて
無意識のうちの連鎖みたいな・・・
なんか、そう、人間で言う"愛"よりも
モット更に深くて広い"アイ"がアル

その辺に気付くと人に優しくなれる気がする

アナタはワタシ
ワタシはアナタ

そういうことになるから
私はこの歌が好きなのかな・・・☆


 

自分の心の持ちようなのか
歳をとったからなのか
2018年の春はあまりにも駆け足で
ソメイヨシノも咲き始めたら
あっという間に満開になった
薄ピンクの花は黄砂に揉まれて
すでに散り始め
アスファルトの上にはもう
花びらの渦が巻いている
咲くのも散るのも早すぎる気がして
何だか気持ちはざわめくのだった

~花びらが散ったあとの
 桜がとても冷たくされるように
 誰にも心の片隅に 
 見せたくはないものがあるよね

花が散って花柄がボサボサしてる桜は地味だ
でも初夏になれば青葉が茂った枝先で
宝石のように光る小さな桜の実や
触れれば手が染まりそうなくらいに
紅く染まる秋の葉
近寄れば匂ってくるその樹の甘い香りがある

桜の樹のそれらが全部好きだから
私はそんな風に思ったことはないけれど
この歌を作った当時の若き日のShoyanは
まだ少し"人から目線"だったのかなって思う

実際、この人の世の現実は
去ったものには触れぬが善なのかもしれない
咲き誇る花だけを愛でて
満開だけが全てだと思って浮かれているのは
たぶん人間だけなのだ
いいことや楽しかったことだけを重んじる
そんな自分勝手な人のココロ・・・

でも、それでいいのだと思う
ずっと、重たい石を抱いていくのは
きっと疲れてしまうから・・・

冷たく、触れないままでスルーしたいのは
そんな自分のアヤマチ・・・
でも、また次の春が来ると
その桜は咲いてしまうんだよね


「振り返るのはやめよう」とShoyanは歌う

しかし

「くり返すのはとめられない」

のかもしれない

冷たくされても桜は桜
自分の落とした枯葉さえ自らの栄養にしてまた貯えていく
誰かに切り倒されたり、虫に食われようとも
やはり切り株の横から芽が出たりする
そんな風に自然に時の流れに身を委ねることが出来たなら、もう少し楽になれるヨ、って


引き返すことの出来ない人生だけど
人の心はずっと揺れ動き続けて
様々なカタチの花びらを散らしてゆく
その時間の花びらは
風が集めて何処かへ還していく
それでいいのだと思う

私はこれからもここで
そのこぼれた花びらを拾い集めて
いくつかの短編でも編めたらいいなと
いつも想っています
~君から借りたノートを返した その後で・・・

この独特の季節感 二十四節気でもなく七十二候でもなく、受験~卒業の頃のくすぐったい切なさというのは 、古い時代にはなかった不思議な 新しい日本人の感性だと思う。

明治維新以降(実際は もう少しあと)、日本も西洋化が進んで 一貫した学校教育が始まると、進級したり卒業したりすることが 日付で決まって進められていくようになった。そうした生活が始まってこその季節感だと思う 。

もちろん、"別離・旅立ち"に叙情を感じることはそれ以前にもあって「春は名のみの風の寒さ」という感じ方も古来、それぞれ色々な歌に詠まれてきたと思うけど、"春"という季節に"別離"をシンクロさせるようになったのは近代の意識なのでは?と思う 。

元々、春は物事が生まれ出、 復活する歓びの季節だったはずだ 。それが"去る"というニュアンスを含むようになったのは 、近代~現代の新しいライフスタイルが産んだ日本人の歴史的な美意識の変遷だと思う 。

(と、勝手に妄想してみる)

"生まれることと去ること"の矛盾を美意識にする、そんな感性に誇りを持ちたいと思うのだ。その、実は新しい感覚を言葉にしてメロディーにして、この『暦の上では』や『なごり雪』など、
春の別離を歌というカタチにして世に出した伊勢正三という人の仕事って、本当に先駆けだなと想う

・・・

この歌の好い所は、ふんわりシュークリームみたいな作りになっているトコロ♪男女の深い心の機微とかじゃなくて、彼と彼女が人形劇のキャラみたいに歌の景色のアクセントになって置かれている。この素朴さにホッとする 。

~君の涙が雪に変わって   
 僕の肩に落ちた・・・

ここでも、冬の涙が暖かい 。
Shoyanの歌の象徴的な"寒い季節の涙" そして雪* 。とてもメルヘンチックな描写でホント素敵だ。

でも一方で 、

~下りの汽車の時間
~野球帰りの子供たちの声

なんて、とても写実的でリアルだ 。
そのフレーズを、転調した最後に置いて 、

~まだまだ寒い日が続く・・・

と、余計なことは言わないで、ふと切り抜いた"午後のひととき"だけを残して終わるのが本当に見事だ。この歌は意味深な言い回しとか派手な描写があるわけではないけど 、飽きの来ない線描、ほんの少しの彩色で洗練されている超級名曲だと想う 。

※当時「ボタンダウン」なんてフレーズを意識的に使ってみたくて使った・・・様な気がするんだけど、、どうかな?(^^ゝ♪

しかし、最近取り沙汰されている秋入学制度が導入されたら、また学生生活も彩のニュアンスが変わるのかな?また次の時代の歌が出来たりするのだろうか・・・(遠)。
もう、このごろでは学生時代のことはいつの間にか忘れてしまっていた 。それでも大学施設などがまとまって近所にあると、日々、色々そんな風景も目にする 。学生さんたちがリアルに21世紀も勤しんでいる 。

立春、如月。
"卒業"まではまだ少しある。
君の涙の雪が肩に降り積もるのか溶けちゃうのかはまだわからない♪ 青春てあやふやなもの。だけど、君と交わしたこのほんの一瞬・ひとときは、その後の人生でいつまでも胸の片隅に潜伏し続ける1ページだろうと想う。

夢や挫折や、現実やしがらみが積み重なって、清濁混然とした社会に出ていく前の何気ない純粋なこのひとときが、かけがえのないものだったって気付くのはいつのことだろう・・・


(追)
Shoyanは以前ラジオで
「カレンダーの紙の裏に絵を描いたりします(笑)」
なんておっしゃっていた

そういうのをとっておいて、何年か後で見たりすると楽しいだろうね♪

プロフィール

HN:
No Name 七氏−1.0
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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