Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
ここのところずっと蝉のことを考えていたから!?というわけではないが、なんとなく想い出したので・・・またもや長文ご容赦ください。
・・・
「Sweet」ではない「Suite」。お部屋の話。
しかし、歌が進んでゆくとそれは「Sweet」。過ぎ去った時間の味の話。
因幡晃氏が作曲&歌う、Shoyanは詞だけの提供曲だけれど、なんともなんとも甘い、極甘い切ないフレーズの羅列で、本当なら悶絶人事不省に陥る内容なのだけれど、やはり曲がShoyan作ではないので悶絶は昇りつめずに、いつも途中の踊り場で休憩のままだ。

でもそれでいいのだ。
これがShoyanご自身のメロディーとボーカルだったら耐えられない(;´∀`)。泣いちゃう・・・リアルに耐えられない。あれもこれも想い出してしまう・・・。

因幡氏のクリアなハイトーンボイスも切なくて、非常にウェットでロマンチックな曲。大好きです。
因幡氏のメロディーは、個人的な感想で言うとチョット昔のお菓子みたいな・・・お塩が多めの餡子のような?そんな"ズッシリさ"を感じるので、途中でお茶が飲みたくなる感じなのだけども、それはいいとして・・・(*´ω`)セツセツトシテ ヨイデスヨ・・・

♪お互いただ男と女じゃいけないのか・・・

ですと!!

この最悶絶フレーズ、、、
急に抱きすくめられたかのような臨場感のあるコトバ。

セミと言えば男と女。
男と女って、実は実際はナカナカ男と女になり切れてはいないってことだよね。人はすぐに"役割"に染まってしまう。幼馴染みだったり、学歴だったり、役職だったり、結婚したらダンナと妻、パパとママ、殆どの人が「誰かの誰か」として生きている。

この歌の二人は、、分かり合うほどに離れていってしまったの?ナゼ?誰かの誰かを捨てて自分の気持ちに素直に従い、男と女になっていくにつれて互いの存在が剥がれていくだなんて哀しすぎる。

どちらかの誕生日という特別な日を共に過ごした二人なのに、なぜ一年後は音信不通なんて悲しい状況になっているのだろう。彼は今でも想いを残しているのに・・・彼女の方に理由があったのですか?

寂。


♪君を抱きしめた去年と同じ夜に・・・

この、♪抱きしめたときにどこかが壊れ・始める現象は恋のパラドックスと言うか、片方はそこから登り始めたのにもう片方は降り始めている、まるでちょうど階に止まったエレベーターが開いたから飛び乗ったら二人上下別々のエレベーターに乗ってしまったような・・・同じホテルの中なのに、時のエレベーターの無情さがある気がする。

ぱっと考えると、彼女の誕生日にスペシャルな部屋を用意したのかなとも思うけど、でも、♪紫の空を見て君が気付いてくれたなら・・・とは、彼の誕生日なのかな。どちらにしろ、あてもないのに独りで部屋を予約して待ってみるなんてサミシスギル(>_<)。。でもね、彼女がこの日どこかでこのホテルの部屋を思い出したとしても、きっと来ないよね(泣)。

来てくれないってわかっているのに、階上テラスのカフェでポットのお茶を飲む間だけその気になって待ってみる・そんな「馬鹿みたい」な慰めの時間は本当は大切。。この歌だって最後には♪オレンジの中にやさしく君を埋めた・・・とある。「やさしく」という境地は、この別離があたたかくて切ないものに昇華したのかなと思う。

・・・

言葉で話して、話しても足りなくて、もどかしくてそっと触れた物質=君の髪。同じオレンジ色が出てくる『オレンジの環状線』でも、♪言葉じゃなくて そっと肩を抱き寄せてくれた、とあるけれど、人は確かな意思疎通を求めて本当に試行錯誤するのだなと思う。言葉重ね?身体重ね?まなざし重ね?いえいえ、遂には互いにまみえない"想い重ね"の境地まで・・・。

空って読み方を変えると「空=くう」だ。オレンジ色に朝焼けした空も、宵闇の裾紫の空も、みなそこには何もない。空を見上げても何もないはずなのに、それでも誰かを想ってしまうのは「繋がっている」って感じるから。隔たりがないから感じられるものがある。相手の心は離れてしまったかもしれないが、あてのない気持ちを受け止め続けてくれる空の広さに涙が出てくる。

一方、目の前にいるのに、心が離れている・って痛感することがある。余談だけれど、私も港を見下ろす高層階の部屋で夜景の中の観覧車を見ながら"心の終わり"を味わったことがある。なんとみっともない惨めな夜であったことか・・・と、この歌を聴くたびに思い出す。でも、今はそんなことどうでもよくて、この甘い甘いShoyanの詩の"彼"に寄り添って慰められている。「あなたも私も不器用ですネ」って(*´ω`)。

歌だってカタチのないものだ。
空即是色、空は色、「ナイはアル」なのだ。

・・・

ナゼ、英語では「semi甘い」なのに、日本語になると「ホロ苦い」になるのだろう。同じ味なのに「甘いと苦い」に分かれてしまうこの感覚。

♪噛みしめるオレンジの甘さと苦さの間に・・・
(@『あの頃のままで』)

という「ちょうどいい時」を見つけられなかった二人はしがらみに対して真面目だったのかなと思う。

それまでの楽しかったことがみな"否定"の作用で苦いものになってしまう。恋の終わりの化学反応は、現実ではみなほとんどが葬ったり流し去ったりしたい苦くて辛いものだ。でも、他の何にも代えがたかったあの逢瀬の黄金の時間を全否定したくない彼の優しさが、Sweetな部分を残してるのが哀しくて愛おしい。

Shoyanの曲には本当にそういう"恋の供養"なニュアンスが多くて、自暴自棄になりそうな世知辛い自分に豊かな心を取り戻させてくれる。

・・・

忘れない、貨物船の航跡はとてもゆっくりと大きな波を作りながら去っていく。忘れないと思っていても、その波はやがて港湾内の潮の流れの中に紛れて見えなくなってしまうだろう。こんな風に、恨みも憎しみもない独りぼっちのBirthday。彼はちゃんと自分自身に整理をつけられて偉いな。きっと辛かっただろうに・・・

想い出はほろ苦いものだけれど、その苦みがあるがゆえに甘さも忘れられず残るものなのかもしれない。高級スウィートのように完璧な間取り・調度ではない、欠けていた二人のひとつになれなかった曖昧な心の部屋。彼がもう少しこのままで、と思っても私は許す。


自分の心は自分では葬り去れないものね(涙)。
追:

♪悲しきBirthday 呼び戻せたら・・・

♪誰よりも遠くで誰よりも早く
 君の誕生日を祝うよ・・・

誕生日はどこかさびしい
独りなら尚更に、今年もまた・・・。
イルカさんや太田裕美氏のチケット告知ページに掲載されている内容と同じような、詳細なガイドラインがシンフォニーヒルズのサイトに載っていた。

席数や席の配置はどうなるのかな〜

で、肝心の感染症対策に関してはなんも明記されていないけど、どうなっているのかな?

「席の移動があるかも」的な一言だけ。

例えば、太田裕美氏のコンサートの販売情報のページみたいに、席の配置を考慮しているとか、チケットはもぎらないとか、会話しないで、プレゼントやめて、体温チェックします、とか、そう言ったこと何もアナウンスしないでとりあえずチケット買ってくださいって、なんかちょっと性急におもえちゃう。

マスク着用してくださいもない。
何も対策しないで行っていいのかな?

それともどこかに明記してあるのかな?

3ヶ月先はもう大丈夫なのかな?


明日にでもまたよく調べてみよう、、、。
かつしかB.Dライブ、やるのか〜

これは行く人は命かけても行くだろうが
家族のために行けない人もいるだろうな

私はどちらだろうか?
難しい判断だな。

どんなに家人に反対されようとチケットは買う、多分。
(その前に売り切れちゃうかもしれないが)

その日に開催できるか出来ないかはまだ別として、ともかくチケットを販売しよう・開催の告知だけはしておこうということかもしれないし、そういうことだったらほんとに励みになるから嬉しい。

三か月後は一体どんな世界にシフトしているのでしょう?

その頃私は何をしているのだろう。8月に入ってからの毎日は虚しく、予約キャンセルの連絡と里帰り問い合わせの両極端で混乱しています。

医療現場の次に最先端じゃなかろか>飲食店。

新しい自分に飛び移りたいです。




こうせつおいちゃんがこんな試みを!(@_@)
近況もわかって、しかもお元気そうで、しかも新しい音楽活動!しかもコロナに負けるなソング!

https://youtu.be/Lj41vzf2Gmk(歌詞ありアレンジ&伴奏)

https://youtu.be/_JTGJqfDjYE(ギター一本Ver.)

※コピペしてください

パンダさんはこんな事態になってから、毎日欠かさずSNSで小さな言葉でメッセージを発信し続けていらっしゃる。イルカさんや拓郎さんやそのほかラジオの番組があるアーチストも結構いて、意外にみんなヤルな・・・(*´ω`)。

でもですね、ここで「Shoyanも何か発信して!」とはならぬのです。こういう流れに続いて「Shoyanも」とは安易すぎるのだ・とか、ちょっと捻ってみる。

・・・本当は、Shoyanはこの禍の中で、実は、意外と、静かに何気にこのままフェイドアウトしちゃおうとか思われているのでは?なんて、ファンにあるまじき想像をしていたのです。数々のライブの延期日程があるから、それはナイだろうとは思うのですが、、、、

でもね、なんとなく、、このまま一切謎で音信不通で、なんにもリアクションしないのもShoyanらしいかも?など、迷走瞑想してみるのだ。

もちろん、入念にリモートなイベントを何か画策されているかもしれないし、本当にまったく近況がわからなくて、心配と期待?がないまぜになっています。

ただ、特別なことはなくてもいいから、一言の近況だけでいい。Shoyanがお元気でいてくれるなら、それだけで私は頑張れる。今はじっと信じているだけです。

「ステイホームで小太りになったよ(≧▽≦)」とか
「美容院に行かないから髪が伸びて結わけるよ☆」とか

そんな楽しい近況だったらどうしよう(笑)とか、すんごく妄想に耽っている私です。こんなシビアな状況下でそんな脱線妄想ばかりしているのをお許し下さい。心配の壺は違うもので先に満たしちゃうと・・・


で、何が言いたいかというと、Shoyanは何もしなくても、それが「らしい」ような気もします・ということです。


(*´ω`)♪
蝉で想うことも多くなったので、とうとうこの曲に着手してみる。いつにもまして個人的だがお許しを。
・・・

この歌は自分の中ではかなり重要な位置づけにある一曲なのだ。当時の本当に新しいShoyanの強烈な"鉤爪"だったと思う。今でも私の心臓にガッチリ食い込んで緩むことはない。

6年の無断欠席休養クンを経て、93年に復活して『海がここに来るまで』という凄いアルバムをひっさげて還ってきたShoyan。どの曲も凄かった。全部の曲がエッジが効いていて、濃くて雲の上に見上げるようで貴かった。伊勢正三の歌を聴き始めてからの期間も浅く、中身の伴わないファンだった自分は「こんなに凄いミュージシャンのことを私は好きだったのだ」って畏れ震えるくらい衝撃のアルバムだった。

・・・のだが、しかし、

『夏の沈黙』は逆に凄く個人的に愛されているような、「感じる」部分が近しくて、一対一で面と向かって愛を説かれているような胸の熱さを感じた。当時の、あまりに哀しい孤独を認めたくなくて幸せぶって誤魔化していた私に、「君だけの誰も知らない町を探しに行こう」って手を差し伸べてくれた解放の歌だった。

この歌がなかったら『バルコニーの休日』などの眩しさにこのアルバムの印象は全然違っていたかもしれなくて、その後の私の想い方も違っていたと思う。私が伊勢正三の歌に惹かれる理由はこういう『夏の沈黙』のような一対一の胸が触れ合うような歌から始まっているのだ。
・・・

いくつかの比喩、「まるで幼い少年」と「雨上がりすぐにおろすような白い靴」は、きっと同義で、同じ"白い"シーツの森で互いの"違い"を確かめ合うような交わり方をする男女のカンケイとは逆行している。そんな強めのウブさから始まるのがすでに心揺さぶられる。

七つも涙があったのなら、それだけの時の流れ=付き合ってきた期間の長さもかなりあるわけで、恋がずっと恋でいられないことなのかと想像する。互いの存在が日常に近づくと・・その分の特別感は薄れて、傷つけることや放置することにも無頓着になってゆく。

でもそんな澱み始めた現状に、男は初心に戻りたいと想い、女はあどけなさを外部に預けてしまう。ここではすでに互いの向かう方向は正反対に思える。なのに彼女が「旅行しよう…」って提案する。一縷の救いに思えるが、それは積極的じゃない「つぶやく」というところがまた強くなくてたまらない。もうぶつかり合いたくない彼女の脱力を感じる。

「も一度~二人の」と言うが、旅に出て二人は新しい二人になれるのか?むしろ別離の決定打を見つけてしまうようなことにもなるかもしれない。それでも二人は恋の新陳代謝に向き合わなくてはいけない。こういうことを繰り返していくといつしか達観して「愛したくて好きにはなれない」という境地に辿り着くのだろうか? ?否や?

・・・

でも肝心の"ふざけた夏の沈黙"って何だったのだろうと今でも思う。

「わからないで聴いているのかねキミは」

と呆れられてしまうかもしれないが、なごり雪の"ふざけすぎた季節"だって私は具体的には考えていない。安易に定義してしまったら歌が狭くなってしまうような気がして、置いておいていいのではと思っている。

楽しいことが当たり前の夏、盛り上がってはしゃげる夏、それが沈黙してしまうのは、新鮮な楽しい材料が尽きたから・・・

そんな夏の抜け殻・恋の抜け殻はもう捨ててしまおう、そして新しくまた"二人の"時間をゼロから作ろう見つけようと言う彼は、この第一段階の恋の終わりの際でいくつかのことが「分かる」ようになった。果たして彼女の方はどうなのか?二人は"誰も知らない町"に辿り着けたのだろうか・・・

その"誰も知らない町"ってきっとこの二人にとっての"並行世界"なのかもしれない。二人一緒の哀しくない方へ乗り継ぐのか、それとも互いが知りえない分かり合えない隔絶の道を辿るのかは描かれていない。

その、映画のラスト20分を見逃したようなもどかしさが聴き手に在って、更にShoyanの無二のスキャットで曖昧なまま終わるから後を引く。この色っぽさが"新しいShoyan"の強力な武器だと思った。年齢も40代を迎えて、堪らない色気を醸し始めたShoyanの最初の一撃だった。

当時24歳だった私は「オトナの歌だなぁ」って嘆息した。でも、こういう機微をわかるようになりたいと思った。四半世紀以上の時間が流れて、毎年毎年毎年聴き続けてきて去年、Shoyanがちゃんと学力試験のようなRe-bornを出してくれて、ひとつの答えを見つけることが出来た気がする。

もちろん歌の答えは一つではなくて、正解もないのだけれど、沈黙や孤独の中に在る豊かな虚しさも大切なものだと思えるようになったのだ。

・・・

以前どこかで書いたかもしれないが、この歌の頃、毎年軽井沢に遊びに行くような暮らしをしていた(単に近場に滞在する用があったので)。この歌もそこでよく聴いた。冷涼な森の空気と哀しい都会からの避暑客の賑わいをいつも重ねて思いだす。道端のギボウシやワレモコウの花の可憐さと、この歌『夏の沈黙』のサウダージがセットになって、今でも伊勢正三というアーチストへの深い思慕を湧きたたせる。

今年は軽井沢のライブがなくて本当に寂しいが、そんな遠い昔のことからまた想いなおしてみるのもいいかと思っている。駆け抜けてしまうだけではもったいないShoyanの歌と過ごしてきた日々を、改めて愛おしみたいこの沈黙の夏に・・・。

この大好きな歌、いつかまたステージで聴ける日が来ますように(祈)。



※しかし93年の夏はもの凄い冷夏だった。お米の収穫量が激減で、タイ米などが店頭に並んだ年でしたね。本当に暑い夏は沈黙していたことを思い出します。

※※ナゼ涙が「七つ」なのだろう。「七つのなでしこ」みたいに「な」のつくものは「七つ」なのかな(*´ω`)。と、七氏は喜ぶのであった♪ 

※※※ベースのイントロとトロンボーンの余韻・・・
大好きな『Heartbeat』にも通じるようなJunchan仕様のアレンジで、本当に私の好きな色の歌なんだ>『夏の沈黙』。
※書き散らかしています


いつまでたっても明けない梅雨。

朝目覚めて「今日も雨音がする」と、いいような悪いような・・・?
雨、キライじゃないのでいつまでもそのまま寝床に居たいけれど、働かなくちゃいけないから起きる非ロマンチック(;´∀`)。

この長雨は、きっと誰かが誰かのことを想い過ぎているから降りすぎるのよ。想いの粒子に水分が付着して雨粒になるんです・・・。などといつもの持論を言っていられぬほどの過度の雨量に水害の恐ろしさを思う。早く晴れて色々前に一歩踏み出せるようになるといいのにと祈る。

・・・

でも、雨が少しでも小やみになるとすかさず蝉が鳴き始める。時雨・・・蝉の鳴き声を雨に例えるなんて、本当に素敵な日本人のセンス。そこでフト想うのだけど、Shoyanの歌に出てくる蝉の鳴き声ってどんなんなん??

20年ほど前の夏、蒸し暑い小雨そぼ降る中、九州長崎に生まれて初めてひとり旅をしました。確か広島原爆の日に長崎にいる・と思ったので八月初旬だと思う。歴女の端くれ的な私はずっと憧れていた長崎で、鳴滝塾(シーボルト記念館)や出島跡や唐人屋敷跡などへ路面電車に乗って出かけてみた。

鳴滝塾跡の裏手は山で、そこがもの凄い蝉の鳴き声で溢れていて驚いた。全部クマゼミの鳴き声なのだ。シャワシャワシャワというその大合唱は関東東北育ちの私にはほとんどの初体験で「異国にきた!!」と大実感したのだった。海に近い湿気た空気と、西の果ての歴史の匂いがして、そんな些細なことなのに忘れ難い一瞬だった。

と、話がかなり逸れてしまったが・・・
九州生まれのShoyan、やはり歌に登場する蝉はクマゼミですか?

『もしかして二人は』にも蝉の声が出てくるけど、クスノキも出てくる。クスノキは九州などではとても一般的な樹だと聞いた。だからやはりクマゼミのシャワシャワ大合唱のことなのかな?
『月が射す夜』の♪季節が動くときの蝉の声、はツクツクボウシのことかな。夏がどんなに暑すぎても、ツクツクボウシが鳴き始めると如実に風に秋が混ざり始める。冬が完全に去った新しい山中でのハルゼミの宇宙的な鳴き声(謎)や、うすら寒い梅雨の中にも夏が入り込んでくる頃真っ先に鳴き出すニイニイゼミのように、去年もここで書いたけど、蝉は季節の定規の目盛りなのだなと思う。

『夏の沈黙』では都会人の孤独と、刹那にしか生きられない蝉の声に痛み(傷み)を重ねている。この場合、種類は関係ないかもしれない。都会の人は蝉の種類なんて気にも留めないだろう。都会の蝉ってどこにいる?閑静な住宅街の狭い公園か、街路樹の根元か団地の植え込みか、御苑や城郭公園や大学の構内か・・・そんな小さなかぎられた場所の中で何世代も生を重ねていくのだろうか。狭くても意外と緑が点在しているから昔よりは都会の中に蝉が増えていると聞く。それはそれでいいのかな都方蝉。

例えば世田谷あたりでおばあちゃんが独りで住んでいた古いお屋敷の庭にいた蝉たちは、7年経ったらもう地主も代替わりしてアスファルトの駐車場になっていたりして、地上で羽化しようと這い出たくても出られなくて絶望するに違いない。そういう閉塞感を妄想するくらいこの歌の蝉は哀しい。

※それ以前に養分を吸っていた樹が根っこごと撤去されてすべての命は速攻跡形もないかもしれないけれど(悲)。

去年の夏はRe-bornの発売もあって嬉しすぎて、「幸せ過ぎて、もうこれ以上の夏はない・このまま終わらないでいて今年の夏」って思っていた。今年の夏になってこんな状況にシフトしてしまった今、本当にそうだったと思って哀しい。歳を取るごとに夏が哀しくなってゆく気がして、蝉の声の暑苦しさの温度は年々下がっていく。そして時々、べるがのヒグラシの大合唱を思い出して哀しい。

過ごしてきた時間も距離も場所も遠いShoyanの、胸の中の蝉の声はやはり、この自分とは違うのだろうなって想う。

日本って狭いようで広いです。
その場所その場所で生きるしかない蝉たちの絶唱が今日も「生きろ生きろ」って私たちを駆り立てる。

・・・
こんな禍の中でも遊びに行きたいと思う人たちの心もわからず、都会から帰省してきた娘や孫を連れて飲みに出てくる人たちの心もわからず、ひたすらに怯えて戸惑うこの一週間だった。

人生は短い・楽しもう!と言いながら、大きな観光バスの中でマスクをつけて無表情に並んだまま私たちの町を通過していく人たちの虚ろな娯楽と、アスファルトに阻まれて羽化できないで死んでいく蝉の一生を、つい一緒に考えてしまったりして、気欝な雨季の憂きの中にいる。

サービス業なのに誰にも会いたくないという複雑な沈黙の中に居ましたが、なんとか元気を出そうと思っています。


つづく



※※地面に転がっている蝉って、本当に死ぬと手脚がちぢこまって合掌しているようなスタイルになるそうですが、生きて合唱、死んで合掌、なのだなと思って深い・・・。

ナニガイイタイノカ ジブン(*´ω`)

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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