Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

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冷たい雨の一晩が過ぎて
朝に晴れて雲が流れたら
高い山々は半分くらいまで
雪に覆われていた
紅葉の山に白く粉砂糖のように
青空の中で朝日に光って
それはとても美しいものです


私の住む町は周囲を高い山に囲まれている。3000m級のガチな山々だ。それがあまりにも急にそこに在るので、人の暮らす町と大自然の境目が無くて本当に不思議な風景だと思う。台風さえ避けてしまう巨大な物質がそこに在る。

なので、町中にある最新設備の県病院などに防災ヘリで山岳遭難者が運ばれてくる。一刻を争う速さで屋上にヘリが降りてくる様子はいつ見ても緊張するものです。

この、風の『あいつ』という歌が作られた当時は、2019年の今とは全然違う登山環境だっただろうと思う。化学繊維の高機能性ウェアもなかっただろうし、スマートフォンもGPSもない、雪崩ビーコンもない、登山靴やロープの品質だって全く違うものだっただろう。食品だって今みたいな多彩なインスタント・レトルト食もなかったよね。

この歌の彼は、どのようにして「山に還っていった」のかはわからないけれど、当時は救助の様子だって全然違っただろうと思う。とても些細なことで遭難が成立してしまっただろうし、捜索も救助も困難だったはずだ。今はその3000mの山頂からほんの数分でヘリで病院の屋上に運ばれてくるというのに。

現代だったら助かっていたかもしれない・・・
だけど、だから、彼の存在はそのまま山の一部になって、そこでそのまま"そっちの世界の者"になったのだ。もちろん今だって収容されず行方不明のままの人もいる。でも、この頃は大自然の中での死が、今よりもっともっと身に近いものだったのろう。
そんな、環境の変化・移り変わりを最近はこの歌によく感じるのです。

※還っていったのはこの彼の身体なのか、魂だけなのか、それはわからないけれど。

・・・・・

ウチの店によく来てくれる近所の年配男性がいる。私の父と同じ世代の方で、今はおひとりでお住まいでいらっしゃるので外食もよくされるのである。仮にYさんとお呼びする。

その来店時にはいつも色んな武勇伝を聞かせて下さるのだが、先日、海外の高峰で遭難死したある若者の話をしてくれた。
(当時、全国ニュースにもなった)

亡くなったのはそのYさんの旧友の息子さんで、第一線の登山家だったのだ。その彼はYさんも小さい頃から一緒に遊んだり、可愛がりつつ成長を見守り続けた若者だった。その法要が最近あったと話してくれた。

その彼のことをYさんは思い出話の中でしきりに「あいつは」「あいつが」と呼んでいた。『夏この頃』でも"山で死んだ"のは"あいつ"だったよね。

"あいつ"って言うフレーズは悲しい。
その当の本人はそこにいない・ってことだものね。誰かと誰かがそこにいない人のことを話す時に使うフレーズ・・・しかも、かなり遠い何か隔たりがある人のこと。

もう死んで会えない人のことを、恋人や友人はどんな思いで語ればいいのか・・・しかも若くして亡くなったりして"ただそれだけのはなし"と淡々と捉えなければ、どこまでも底のない悲しみに引き込まれ続けてしまいそうだ。距離を置かねば、、、そのやるかたのなさに後を追ってしまいたくなる場合もあるのではないか。

"あいつ"という言葉の"距離感"を具体的に気付いた今日この頃。
この歌のイントロは雪解け水の小さなせせらぎみたいで、人の命を奪う山と、誘う山の眩しさが綺麗だ。

「忘れちまえよ」と言いながら「また山で迎えよう」と、忘れきれない大切な友人、知人、恋人・・・一人の人間の死は、大自然の中ではひとつの事象にすぎないけれど、生きていく人間にとっては本当に深くて抜けない心のくさびだ。しかも、登山はある意味当人が積極的にそこへ近づく作業だから、どこか、否定しきれないその別離なのだ。♪山男にゃ惚れるなよ(山男の歌)という歌があるけれど、そのリアルな答えがここにある。

私は個人的にはこの恋人だった彼女は、本当にちゃんと忘れることが出来ると思うのだ。忘れるということは「なかったことにする」わけではない。その、距離を受け入れるってことだ。「思い出一つ何も残さない」なんて、でもそれはやはり「愛」ならば残っていると思うのだ。彼女はそれをちゃんとわかって忘れて、先の人生を生きていくのだと思う。

・・・・・

歌を作った当時のShoyanの身近にそういう人がいたのか、どこかで目にしたニュースからなのか、それとも純粋にShoyanの編んだ物語なのか今の私にはわからないけれど、Shoyanが永い間かけて色々な場面で計って(測って)きたもののうちの、"死んでしまった存在との距離"を想う歌だ。物質がない・時間もない・距離と言えない距離を表す言葉かもしれない「あいつ」。

・・・・・

今この山深い町に住んで高い山に囲まれていると、毎日のように登山関連のニュースも目にするし、周りに登山を日常の趣味にしている人が沢山いる。遭難のリアルを事細かに知ることが出来ると、人の生命と運命と大自然が同時に存在してるのがよくわかる。

生きることと死ぬことは表裏一体なのだと
確認したくてみんな山に登るのかな?
昔も今も・・・

こちらからその雪の頂はよく見えるけど
そちらからこの小さな私が見えますか?


山を見るたびに、いつもそう想います

2009年09月25日記に加筆
 

※※「あ・い・つ」の意味って、私思うに「あそこに いる やつ」のこと、ってことにしておきたい(*´ω`)。
ここじゃない、あそこにいる人のコト。


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伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

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