Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
ケイ・ウンスク氏が歌う『雨の日には訪ねて』は、自分で音楽誌を片っ端から見て、調べて聴いた歌だったから想い出深い。90年代中頃まではネットもまだ普及していなくて、新譜情報は自分で毎月活字を追うしかなかった。

今はネットで何でも揃って、椅子に座ってオークションやフリマサイトでも探せばキーワードひとつで欲しいものを知る事が出来るし、お金さえ出せば古いものでも希少なものでも手に入る。映像だって音源だってみんなYoutubeにある。でもその分喜びも少し薄い気がするし、知らない人がアップロードした正やんの映像や情報なんて、自分のものじゃないじゃん!てひねくれたりする(笑)。

世の中がそうなってから逆にそういうのが煩わしくなり、色々サーチしないで話題に遅れている自分です。ひたすら引き籠っているワケです。

・・・っと、脱線しましたが、

この歌、時々引っぱりだしてきては無性に聴きたくなる。自編の雨Best二枚目に『雨の日のイントロ』と共に入っている。

Shoyanの解放された雨遣いの魔法に、吉川忠英氏のメチャ垢ぬけたガットギターの刻みと国吉良一氏のBossaアレンジ&アコスティックなピアノが相まって、非常に高尚な、品のある一曲になっていると思う。

愛の歌でもなく、恋の歌でもなく、哲学的というか、人の感情って水のようで、流動的で翻弄されるものだってサラりと記されている。

雨は何?
気まぐれな男心?自分の心に出来た染み?肩を濡らすサミシサ?今でも二人を繋ぎとめるもの?

変幻自在に例えに遣われる雨の行方が、聴く者の胸の隙間に吹きこんでくる。恋の懐かしさを知る者には、特にその冷たさに熱を感じてしまうほどで、やめられなくなる・・・

伊勢正三という人ほど"雨"の正体に探求を重ねているアーチストは他にいないのでは?と思うのだ。代表曲が『なごり雪』だから、雪の人では?と思うかもしれないけれど、雪以前の「雨」から始まっているその自然現象と、人の「心」の発生理由をきっとShoyanは重ねて何かを見出そうとされているのではないだろかと思っている。ソコガスキデス。


特に二番が好き。
フレーズのひとつひとつが今は実感込めて聴ける。

♪常識と非常識の すれすれのあたり
 あなたは行ったり来たりするけど
 誰もが日常壊せなくて 
 もがいているのよ

この目線、アヤウサこそが花だと思うワタシには意を得たりなフレーズなのだ。フツーが一番、協調が大事、みんなそう言うけど、そうじゃないものにナゼ惹かれる?

この歌を最初に聴いた頃は思いもよらなかったけど、思いがけず日常を壊してみた後で今聴けば、Shoyanが見ていた側に飛び込めたような気がして嬉しくもあるし、また新しい"日常"との闘いの連続なのだなとも思う。

 ♪一度は傷ついて そんなときなぜか
  自分の生き方に戻れるわ・・・

他者と付き合って愛し合って傷つけあうその触れ合いは、自分を一人ではなくしていく。関わりあう沢山の他人の引力に自分というものが引っ張られ、摩耗して揺らいで見失っていく。コトの終わりとは深手を負ったりボロボロになったりするものだけど、でも赤剥けた自分の芯だけになった時、すべてのものが目の前から消えて遠くが見えたりする。

そしていつかやっぱり、懐かしい面影が、その後姿が、風化もせずに佇んでいるのが見えたら、聴こえなくても手を振りたくなる。

私の街で降る雨が、あなたの街に辿り着く頃、その気配にフッと想い出してね、、、って。

・・・

もし出来たなら、ケイ・ウンスク氏のカスレ声じゃなくて、いつかShoyanご自身の甘い声で聴いてみたいと思っていたけれど、Re-bornではそれに近い現象が起きたのでまぁ、、いいかナ?(*´ω`)デモイツカキキタイデス 


今の自分をやっと愛せるようになって、
抱きしめてもらいたい時に聴く歌。


冷たい雨の日だからこそ、
その熱い遠隔抱擁に気付けるのだ。


何度も言うようだけれど、アルバム『メガロポリスの錯覚』は、私には特別に覚醒的なアルバムだった。なんと言っても、ずっとShoyanに歌って欲しいと思っていたBossaNovaなアレンジの曲が二つも収録されていたからだ!

『水槽の街』と『二つの朝』、ダブルJUN!氏たちの最高にWetな完成度の高いアレンジに、Shoyanの抑えに抑えた熱をはらんだ低い声が絡んで、独特の色気を醸している。この頃のShoyanの低音ヴォイスは私の密かな独りだけの宝物だった。今でも好き過ぎて聴くたびに苦しくなる。だからRe-bornで更に厚みを増して戻ってきてくれて、今また本当に悦びなのだ。

この歌のラストの長い余韻を聴き終われば、まるで一編の映画を観終わったかのような充足感を得る。

梶原順氏の至極まっすぐなGutギターの清新さ。浜口茂外也氏の軽やなパーカッションのリズムがWetな中に風通しを感じて飽きない。フルートの息吹とドラムスのロールがドラマチックなエンディングを盛り立てる。そして音が終わった後の静けさに自分の溜息が加わる。

Shoyanの数ある"シネマチック"な曲たちの中でも、特に"視応え"のある歌だなと思う。カメラワーク、コマ割り、サイドストーリーや伏線回収が事細かに想像できる素晴しい歌だ。

真っ白な粉砂糖がかかっているだけの、一皿のガトーショコラのような濃密シンプルさがこの歌の魅力で、何年経っても聴くたびに深くときめくのだ(憧)。

・・・

♪君に一つ預けてる朝を
  も一度だけ僕に返して欲しくて

預けているのは一つなのに「もう一度」とは、ひとつなのに何度もやり取りできるものなのか?しかも彼女はそれを自分の意志で受け取ったのだろうか(後述)?

「預けてる朝」って何だろう。
二人それぞれの「二個」の朝。
一人で迎える朝と二人で一緒に迎える朝「二種類」の朝。
どちらとも言える。

この彼のこの行動からすると、「別れた日」から今日まで心の中は段階を踏んでいて、何かの勢いで破局したものの、今になって幸せだった「二人の朝」の想い出に心が揺れていたのではないだろか。

君と共有していた幸せな時間=朝・を、すべて清算したくて(完全に未練断ち切って)彼女と俺はやっぱり相容れない違う存在なんだ!って確認したくてここに来たのかと思った。

女が一人で夜を問わず外出している=よくないこと、というこの古臭い融通の利かない彼。しかも、思い切れなくて吹っ切れなくて彼女の部屋の前まで行ってみちゃう。どんだけ気になってるねん!と。ここで彼女が「ウェーィ」な感じのオラオラ系の男友達と朝帰りしてきたらどうするつもりだったのだろう?ifの場面を色々想像してしまう。女の私から見たらちょっと情けない彼。勘ぐり&待ち伏せうろうろストーカーギリギリ気質?とさえ思ってしまうほど・・・。

けれど、曲ラストの、そんな彼はこの素敵な彼女に実は想われていたという事実に、こんな彼だってナカナカのイイオトコなのかもしれないとも思うのだ。本当は互いに一歩踏み込めば似たもの同士愛し合えたのではないか?

先に踏み出したのは彼女だった。
この彼女の凄いところは、ちゃんと"自分を愛していること"。しかもその上で彼のこともちゃんと理解している。しかもしかも押しつけがましくもなく、「もしかしたら」という非常に絶妙な加減の備えで彼の好きな香りの紅茶を戸棚に未開封で忍ばせてあるという・・・なんというオトナな女性になったのだろう。

「僕に返して欲しくて」という、誤解の解ける日を彼女は意識してその"朝"を預かっていたのかと思う。でも、ポストに新聞を数日分も溜めちゃうような「好きになったこと(星の撮影)には集中し過ぎちゃう」ような可愛いところもあるのがまたヨイ☆

一番救いのない歌が『ほおづえをつく女』だとしたら、一番報われる歌がこの『二つの朝』ではないかと思っている。(個人の感想です)

・・・

二人で棲んでいた時、きっと彼は「俺に寄せてくれ」と思っていたのかもしれない。融合こそが二人が一緒になることだと思っていたのかもしれない。でもそれが余計に二人の乖離を招いた・・・でも今、この彼女の存在意義そのものである広大な心の宇宙のその寛さを、先入観のないゼロ視点で彼が目の当たりにしたとき、彼女の中に自分がストン、と収まったような気がしたのではないだろうか。


朝は無理矢理に混ぜるものでもなく、ふっと目が覚めた時の、開いたまぶたの先にあるものを自然に見つめることなんだと・・・多分この数時間後に彼は気付く。

・・・ ・・・

だがしかし、これまた25年以上経って今、やはりある意味では「二人の朝は二つの朝のまま」なのではなかろかと想ったりもする。同じテーブルで同じトーストを食べていても、、、なんだかやはり二つの朝な気がする・・・。一個のみかんの中に袋がいくつもあるように、各々の朝がひとつの愛の容れ物に収まっている。そんな調和が幸せの風景なのかもしれない、とそんな風にも考えている。

そしてそれを踏まえたうえで

「あなたはアールグレイ、私はキーマンよ♪」

って平和なお茶の時間を持てたらいいと思う。

※この歌を一番最初に聴いたとき、♪僕の好きだったあの日の香り・でアールグレイをイメージした。ベルガモットの薫りが私は大好きだったからだ。それから何年も経ってラジオか何かでShoyanご自身もアールグレイの紅茶が好きだとかおっしゃっていたような気がする。なんとも他にない香りで、紅茶そのものの香りではなくフレーバーティーなのだけれど、某東急デパートの喫茶店でバイトして覚えた香りなので、今でも忘れ難い。(アイスミルクティー美味しいデス(*´∀`))


紅茶も、ナゼか昔の方が美味しかったような気がする。今は水が変わったせいか、同じブレックファストでもどこか違うんだな・・・

この彼の好きだった香りの紅茶は、本当は何なのかわからない。ストレートなのかフレーバーなのか、茶葉のメーカーによっても違うし、、、けれどそれを知っている彼女は彼にとっては唯一無二の存在なのではないだろうか。「理解されたくば理解しろ」という示唆なのかもしれない。

その紅茶の缶の、封の賞味期限内に開封できてよかったネ☆


追:しかしこの彼女、伊勢正三のラブソング中で一番の"イイ女"ではなかろか。こんな女性が居たら私でも惚れます(*´▽`*)~3 タメイキ。


そしてチョット再びの、

「抱きしめてみても 心は奪えない」
「人の心 人は見えない」

のことを少し・・・追記。


先日、「奪えないのは"無い"からではないか」と書いた。

そして、そもそも奪う必要はなかったのだ、と。

ボクとキミのカンケイは

奪わなくても

欲しい心は

すでに互いの胸に在ったのだと。

同じココロが二人の胸に在るんだから
そのままでヨカッタんだ☆

で、

そしてもしもそれでも「見えない」と感じるなら、やはりそれはそこに無いことと同じであって、”カンケイ"の終焉・もしくは未発動なのだと思う。自分の胸に同じココロがあるのなら、見えなくても在ることはわかるはずだから・・・

・・・

人は大昔から全然全く見えないはずの「心」や「想い」にこだわってきた。その正体を明らかにしようと色んな芸術家が音や言葉や色形で表そうとしてきた。でも作品は終点じゃないんだよね。作品自体に答えはなくて、アーティストの想いと同じ分だけの自分の想いの待ち合わせの目印のようなものかもしれない。

Shoyanの歌ほど深い森は他にはない。
一生かけても聴ききれない想いがあるのだろう。
その想いの最深部には私は到底辿り着けないけれど、せめて峠を越えたら遥か遠くに雪の頂が見えたらいいなぁ。

「ヤッホー!」の代わりに「ショーヤーーン!」って叫べばきっとコダマが還るでしょう(*´ω`)。歌を聴くことってなんか、そんな、感じデス。
お盆も最終日になると、入りの日よりも急に日が暮れるのが早くなって虫の声も増え、この数日の前後ではホントにガラリと季節感が変わる。そして決まって必ずこの歌を聴く。

『汐風』は特別の特別過ぎて、語るのを躊躇するほど好きなのだけど、やはりナカナカ上手く書けない。言葉ではなく胸で感じる歌だから・・・♪

以下、散漫お許しを。

・・・

サンズイに「夕」の『汐風』。

「潮」よりもっと風通しのいい「汐」、大好きな文字だ。『汐風』がはらむ温もりは夕陽の色。元気いっぱいの新しい朝ではなく、日が沈む前の穏やかさなんだ。

 宵闇で君の顔が見えなくなる前に
 もう一度 その笑顔見せておくれ

って・・・。
日が暮れる前にその腕に抱かれてしまえば、夜はもう怖くないのです。

とはいえ、言い出せない恋心・眠れないくらいの恋心・思わず抱き寄せてしまう恋心。ここに駆け引きや躊躇はないのだ。そんな真っ直ぐな、水平線に沈んでしまう太陽を手で掬い上げるような彼の純情がホントに清潔で暖かい。


恋は二段階で始まる。

見かけた君が気になりだして、「好き」という気持ちが発生した独りステージの開幕。そして会う約束をして逢えた時の二人のステージの開幕・・・。独りステージの稽古で覚えたセリフが実際逢ったら全部役に立たなくて、彼女を傍にしてやはり理屈ではなくなって、思わず抱き寄せてしまうこの大いなるナチュラルがたまらなくキュンとするのであります。

彼がこの鄙びた海辺の町でどんな"最後の休み"を得たのかわからないけど、夏のアルバイトの一番かき入れ時の忙しいお盆休みが過ぎた8月最後の週の平日休みなのかな?・・・とか、まだ学生で9月になっても数日ある夏休みのことかな?・・とか、初めて逢っていきなり抱き寄せないだろう・ということは、普段からシフトが一緒なのかな、それとも大学とか予備校でゼミが一緒なのかな、とか。若い人の恋愛を全く知らないワタシには妄想の宝庫なのだ。それだけでも色々想像して楽しい。

君を見かけたのはずっと前なのに、"夏の恋"はこのままで終わるかも・・・と、何やら純情には共通点があるようで、こういう"男心の双葉"のような、恋愛前段階の青みかんのような時間の香りがあるよね。

♪思わず抱き寄せた 壊れそうなほど
♪壊れるくらい離さない
♪壊れそうな気持ちだったの?

『秋の葉の栞』の時に、「抱きしめちゃだめだ壊れちゃうから!」なんて思ったけれど、相手を粉々に砕いて、そのすべてを自分の中に取り込んで一体化してしまいたいほどの衝動、そして実力行使。その恋の一体化願望、当時それに私自身も実生活で悶絶していたので、本当にこの『汐風』の青々とした甘酸っぱい煩悶が我がことのように今でも愛おしい。

日焼けと海水で汗ばんだ腕についた砂が、陽が落ちる頃には乾いてはらはらと落ちるような、"何かの変わり目"が優しい。

・・・

過去何度もこういう場に書いてきたが、80年代当時のコンサートではこの『汐風』を歌う際にShoyanは、

「この歌をこの世の中のすべての恋人たちに。次もまた二人で来られる様に、今好きな人がいない人は次は好きな人と一緒に来られるように、みんなの顔を覚えていますから♪・・・汐風」

と、この決まり文句を言って、はにかみながら優しく歌ってくれた。

この言葉は当時の私を励ましてもくれたし、慰めてもくれた。寂しい自分だった。どうしていいかわからない心の謎の中にいた私をこの歌は手を引いて導いてくれた。

「切なくてもどかしいことも、悪いことじゃないんだヨ」

って、

「もっと自分の心の中と話をしてごらん」

と教えてくれた。

自分でエレクトーンで演奏するのも好きだったし、海辺(鎌倉湘南)に沢山の思い出があった。10代の当時、とても近くにいてくれた歌だった。

オレンジ色に染まるエレピのイントロ&エンディング。SlowRockな波に揺られるリズム。白い波頭の飛沫のようなShoyanの声。頬を撫でるフルートの風。転調する頃にはきっと陽も沈んで甘い夏の残照に身を任す・・・卓上ピアノのような可愛い音がおさなごころを残していつまでも色褪せない暖かさを残している。そんな蜂蜜色の景色が大好きだった。

アルバム『HalfShoot』は全体的にシンセや打ち込み系の音色だけど、曲の世界はすごくアコースティックだ。とても純粋で切ない。

『汐風』は伊勢正三のLOVESONGというと、真っ先に浮かんでくる曲の一つなのだ。私の原点であるこの歌にこの夏もまた慰められている。

・・・

今年は軽井沢で夏を送れず、『ほんの短い夏』も『月が射す夜』もこの『汐風』も聴くことが出来ないけれど、そんな時は自分で歌いましょう。その歌を自分で歌えば、今年の夏も、いつだってどこにいてもShoyanと共に居られると想っています。

命のある歌をアリガトウ正やん。
何十年もかけて確かめてきた"歌のぬくもり"よ今こそ、と、遠くで強く抱きしめております☆


猛暑だって愛おしい季節の瞬間です。
山の中から海を想って、秋の"音連れ"を待つことにします。


今年も アイヲコメテ☆



・・・

追:

♪ダイヤル回したよ・・・なんて、今の若い人たちはピンと来ないだろう。この収録アルバムの『HalfShoot』には「アンサーフォン」という単語が出てくる曲もある(『グレー通りの灯り』)色んな過渡期。恋を取り巻くアイテムの多様化が始まった時代だったのだな。

でも、モノや手段が無い時の方が、身一つ心一つで想う時間が永くてよいですネ(*´ー`)。

猛暑お見舞い申し上げます☆
コオロギは鳴き始めました♪


で、追加的なことなのですが、そう言えば、そのRe-bornの二曲以外にも

『アフタヌーン通り25』のイントロ、ピアノが終わって本編の演奏が始まる間の無音部分に実は♪チチチー、チチチーってカウントらしき音が入っているのと、『闇の夜のハネムーン』のエンディングにも謎の電子音が入ってるのと、新録音の『夜のFM』の最後の最後、ピアノが終わったあたりにガットギターのような幽き音が入っているのが気になる。

「なんでそういう重箱の隅つつき隊みたいなことするの?(^^;)」

と、お叱りを受けそうですが(笑)、「何だろう!?」って思ったことは常に後を引いているのだ。

本当はでも、、本当はShoyanはきっともっとわからないようなところにわからないような音を沢山忍ばせていらっしゃるのだろうと思う。でも、私は音楽的な素養も技術的なことも全然ない者なので気付けないのかもしれない。

"言葉"のことは少しはわかれるかもしれないが、"音"のことはほんに素養がナイ(音楽の授業もエレクトーンのレッスンも苦手でした^^;音符・楽譜読めない(笑))ので、Shoyanの歌の半分のことはワカラナイままでいるのかもしれません。

でも、モノを知らないなりに、自分なりになんとか絵を見るように音を聴いてみようともがいています。

体温より高い気温で脳みそが茹だっているので、しばらくはスローに行きます(*´∀`)。


昨夜はペルセウス座流星群の極日だというので、蚊取り線香を焚いてベランダに出てみた・・・ら!

2分もしない間にすごく大きな流れ星がバチバチっと長く流れて!!メチャ感動しました。こういう時のために私の心の中はいつも常にひとつの願いが渦巻いているのですが、、、昨日は猛暑過ぎて消耗し過ぎていたので心は空っぽでした(笑)。願いのない無心の境地にとても綺麗な流星でした。

♪遠い町の海で 流星群見えた・・・

『白い時刻』のここの4行だけは夏の場面?ならば、しぶんぎ座ではなくて、やはり今日みたいなお盆休みのペルセウス座流星群かな。

20年ほど前のしし座流星群は、世の中お祭り騒ぎになるほどの壮大な流星群だった。私はべるがの傍の路上まで行って観た。夜空に絶えず大小の星が降りまくるすごい眺めだった。

けど、Shoyanは後日ラジオか、何かのインタビュー?で「話題になっていたけど、そのしし座流星群見なかったんですけどね」みたいなことをおっしゃっていた気がする。

え~、正やんあの大天体ショーに興味なかったの!?!?って意外に思ったものだ。

それ以前にハワイ島のマウナケアで夜空を見上げると星があり過ぎて「ど~れ~がダブリュWだ!?」って星座さえわからないって、そんなご発言もあったので、星を見上げるのお好きなんだろうなって思っていたのに、、、あの年のしし座流星群を観なかったんかい!!と、ほんとにまだあとをひいています(笑)。

gardenはその後の発売だったので、「ん、こんなところで出てきましたね流星群」とニヤリとしたものです。


♪星が一つ また一つ生まれて輝く時・・・

のように、生まれるのではなくて、
消えてゆく時がこの流星。

本当は星とは呼べないほどの宇宙の小さな塵。
それでも突入の角度によっては驚くほどのスパークで、見る人の心に残る。

子供たちが歌う「星が生まれる時」と、自分にこれから訪れる「星が消えてゆく時」の対比を想ったりする。

大きな星の最期は大爆発だけど、発光して尾を引いて落ちて消える塵の人生もナカナカよいのではないかと思う。
『テレポーテーション』の

♪二人は一つだと~

の、「一つだと」のところに被って早口の別の声が聴こえる気がするのと、

『旅する二人』の

♪愛しい君 ここへおいでよ~

の「おいでよ」の後に一拍置いてワヨワヨワヨって音が聴こえる気がして、そのふたつがずっと気になってしょうがない(*´Д`)。


『テレポーテーション』の方は3文字くらいの"声"に聴こえるから気になるし、『旅する二人』のワヨワヨワヨ)))はエレキギターの余韻とは別物に聴こえるのでなんだかワカラナイのが気になるのだ。

どちらも重要なフレーズ(全部重要だけれども)に被ってくるのでスルー出来ない。

・・・などと言いましても、実は私、耳が遠いし音感もゼロで(家人に言わせると)感受性がちょっとオカシイので(笑)自分だけに聴こえているのかもしれません。

ホント、どうでもいいことで失礼しました(;´∀`)汗。
そんなわけでちょっと確認・と思ってググったら、因幡氏が去年体調を崩されて療養中とのことだった。

もう一年経つし秋冬のライブの予定も一応入っているみたいだけど、こんなご時世だからゆっくりと身体をお大切になさって欲しい。


ほんに、みんな身体のことは他人事ではないのだ。
年齢・立場関係なく、今日という一日一日を大切に過ごしたいものです。


プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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