Nanashiのものろーぐ

こっそり言いたい放題ブログです。伊勢正三的LoveSongの世界に浸るココロミ&more&迷走必至(´∀`) ※無断転載・引用はおことわりいたします。

2025/08    07« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »09
今になって何故かHIRO氏の『祈り』が自分の中から押し上がってきました。

刺さる・の逆で、自分の中から錐の先が飛び出してきたような新しい感覚の一体感であります。思ったことを断片で載せてみます。

・・・

この歌、Shoyan感性の白色矮星というか、ブラックホールよりも恐ろしい、近寄ったものは瞬時に焦げて蒸発してしまうほどの億次元な世界なので、本当は触れたくないのです、怖すぎるんです(諦)。でも、何故か最近近寄ってくるのです。

だって、語れる訳ないではないですかこんな弥勒な世界の異次元の技を・・・(憧)。

ただ「あいうえお」を組み合わせていろは歌をつくるならまだしも、その語頭と語尾を縦読みにしてひとつのフレーズにして意味を繋げる、それを更に3回繰り返す、美しい言葉・無駄のない言葉・由緒正しい時間を背景に持つ言葉、そしてそこに深いメッセージが籠めてあるという。こんな仕業は言葉の神様に宇宙の果て量ぐらい愛されたものにしか出来ないことじゃないですか。この地球上にそんな人、Shoyanの他にいないです。ノーベル文学賞とか吹っ飛ぶレベルの紡ぎ物だと思うのです。

そんな作品を凡人の私が語れるわけはないのです。なんとか気を振り絞って読み進めたって、一回で氷の動悸が襲ってきてハンマーでぶん殴られたようなめり込み感です。

(これ、褒めていると想って下さい^^;)

なのでずっと、HIROさんが良い声で歌う有り難い経典かゴスペルか何かだと思うようにして聴いてきました。真顔ならぬ真耳で聴くと気が狂うのではないかというほどに・・・

ただ、時代が進みました。
この歌が世に出てから五年経ち、この歌に自分は近づけている気がしています。

ここ数年で起きた疫病禍や、それによって戯れ名を全うして亡くなった有縁の街の達人や、パニックの幕開けのような豪華な御船の孤立事案、本当に許せぬ奴が思いがけぬ理由で滅んだり、ちょうど始まった大河ドラマでは背守をつける者共の話だったり、たった数万円のために自分の人生を棒に振る荒んだ者たち、、、私にとっては予言の書のように聴こえました。

寒気もしたけれど、胸に抱きたいほど近しいものにも思えたのです。
世に「必然」というまやかしの言葉がありますが、作者Shoyanの中で、この歌は「自然」=「おのずから然り」だったのではないでしょうか。そこが凄いなぁって、何年も聴き進めてきて改めて今思っています。

・・・

船と二艘の舟。
「ね」と「ふ」は二回とも『ふね』でした。

♪胸の片隅にそっと繋いでる〜風を待つ舟
♪それが僕らだけの箱舟でもいい
♪青春の難破船〜男なら漕ぎ出す

と、Shoyanにとって『舟』は余程の重要なアイテムなのだろうか。なんとなく、ご自身の自意識・自覚が水の上に在る舟のような感触なのでは?と、勝手に生意気に想像しています。

・・・

二篇目の♪永久は無間川〜

パッと聴きは辛そうなのだ。
絶望かと思う無間の真暗闇を感じるのだけれど、Shoyan御本人の注釈を読むと愛の世界らしいのだ。ビックリなのだ。二艘の御舟がアナタとワタシなのならば、無間苦の流れの上で”板子一枚下は地獄”という危ういラフティングだとしても、焦げる寸前のカラメルのように、聴こえている音はハードなのに実際口に入れて味わったら甘いという・・・隠された愛の舫い綱がたまらない二篇目です。

でもここで「許せぬ奴」「滅び」など、暗い言葉が出てくる。

続くクライマックスの三篇目も「我を殺す」「世の終わらむ」「荒んで」などと物騒なフレーズが出てくる。この全編無意識の作為の結果がこの暗い言葉たちなのが興味深い。Shoyanのその自覚の覚悟を見切った、その時のお心の内が強く発露したのかなと、非常にストレートに闇を感じることが出来るのです。

ラスト、 注釈では

「はたと 楚歌 焦りて」



「周りからの孤立無援を覚えながら」

とされている。

楚歌の意味は全くそのとおりだと思うのですが、私はここで傍らの虞美人の役割を考えたい。

ガチの戦ならば、城が落ちれば主には死しかないが、孤独と孤立は違う。我を殺す=迎合ではなく、新しい自分の確立なのだと思いたい。

四面から聴こえる楚歌(アイデンティティ・過去)は捨てるべき価値観かもしれない。身ぐるみ剥がされてみっともない身一つに成り下がっても、自分が一番愛したもの(虞美人)ひとつ傍らにあれば、我を殺すど真ん中に死地を開くことも出来るのではないか・・・と思うのだ。

「虞や虞や、汝を如何にせむ・・・」
とは、自分の本心を活かすのか殺すのか・という問いなのではと想うのだ。

そんな正反対なことはこの節には書いてないが、波を立てても添い進む二艘の御舟を私はそこに持ってきて考えてみたい。

自分の道って辛い。
 何気なく過ごしてきた日々が急に終わろうとしている。抗えない流れ、どうしようもなさに無力で叩きのめされ、自分の心もやけに荒んでいる。その中で生きるのか、 殺すのか、殺されるのか・・・


『祈り』ってなんだろう。
その心の荒みを払って希釈するための手段かな。

『呪い』は貧しい者たちの唯一の最終兵器なのだそうだ。
『祈り』は身体どころか、心ひとつあれば誰にでも生み出せる最初の光、なのかもしれない。

宵闇・真暗・夢・逢う夜
そこに灯す想いの集約。
セントエルモの火のように、苦しみと希望の分子がぶつかり合って心が具現化して光ればいいなと思う。そんな小さな光でも誰かのためになるかもしれないと信じて祈ろう。

この、全編重々しい、一見陰鬱にも傾きそうな歌だけれど、一番底には”希望”が忍ばせてあると信じつつ、伊勢正三氏が現す大きな闇の暖かさに抱かれる想いで聴いているのです。


☆2020/04/08 (Wed)『騅不逝』

4年半前に書いた時は怯えていて散らかったことしか書けなかった。今はもう少しだけ書けた。また数年経ったら何か想えるのかもしれない。その時が楽しみでもあり、恐くもあり・・・

・・・

この歌ができた時、
Shoyanはものすごいガッツポーズをされたのではないだろうか。
こんな詩が書けたら後は何も要らなくなってしまうのではないかと思うほど。
だけれども、きっとShoyanは途方もなく貪欲な方だと思うので、きっとこれで終わらない。

逆にそんな人だからこの歌が降ってきたはずだと私は思っているのです。火に油ではなく、熱した油に水を注ぐような、そんな異端の勢いをShoyanは得られたのではないかと感じているのです。

だから、此処から先もっと凄いのが控えているはず。
たとえまだかけらも見えなくても、すでに何処かに存在し始めているのではないかと感じている次第です。

と、近年中最高レベルの支離滅裂乱暴な長文でした。 
どうぞ、どうぞご容赦いただければと思います。
(平身低頭)
脱線は続きます。
※画像はタップすると大きくなります。

・・・・・


地下駐車場から出てきたら雨だった。

歩いている内に止んだけれど、汐留の高層ビル群が重々しく、海も近いし、繁華街と少し違う雰囲気があった。




せっかくなのでゆりかもめに乗ってお台場へ。
 
気づけば人工物しか写っていない。



ゆりかもめも首都高と並走しているので、横を車が走ってまさに♪気付いてくれない〜・・・なのですが、モノレールと違って螺旋になっているので感慨深いものがあります。



直前まで激しい雨が降っていたので人影も少なく、どこか寂しい都会の海でした。でも、蒸し暑くて海辺の湿気が激しく、10月だけど半袖でも暑いだろう〜♪でした(*^^*)



帰る間際になってイルミネーションと東京タワーが同時に点灯して一気に秋めいていました。




ライブ終了後は首都高に直接乗らずに下道を少し。銀座有楽町を抜けて・・・新しい歌舞伎座を横目に晴海通りを皇居方面へ。

ここからいろんな道に分かれている。
東海道?
甲州街道?
大山街道青山通り雨通り?
君に逢えない水曜日。
はたまた水戸街道、中山道??

次はかつしかですが、また同じ道で来ようと思っています。

と、その前にShoyan、日曜日は愛知のコンサートですね。イイ調子継続されていることでしょう☆素敵なライブになることお祈りしています(^^)。


だんだん東京に車で来るのが楽しみになってきました。進歩です(*´∀`*)っっv

※何年も使っているボロスマホのカメラなのでお見苦しき写真ご容赦下さい(汗)。




ちょっと脱線♪


10月も下旬になろうというのに私の心のマウナケア(謎)はまだ初冠雪せず、街路の銀杏も青いままです。

そんな暖かさの中、一昨日は汐留に行ってまいりました。山田パンダさんの4月の四谷のライブの折、半年後にまたライブをするよ〜とおっしゃっていたので期待して待っていました。

今回はメモも持っていかず 何も記録を取っていないので うろ覚えですが、、、

浜離宮に面した運河沿いの、食事も充実しているライブハウス。70人くらい収容の余裕のあるお店でとても楽しめました。Shoyanとのいわゆる『正パンコンビ』の曲や前回と同じような選曲に加え、『欅並木』『ゆりかご』など、泣ける曲もあったりして、『どうにかなるさ』のカバーなども、、聴き応えバッチリでした。

MCも相変わらず面白く、オリンピックのブレイキンやスケボーの話題からの自作スケボーの話。名曲『きっぷ』からPASMOなどの電子決済と今の子どもたちのお金の認識の話など、多岐にわたるパンダさん目線のお話はいつも興味深いです。

声もますますのダンディぶりでカッコいいし、男性が歳を重ねるって素敵だなぁと思わせてくれるので、山田パンダさんは我らの希望の星であります(*´∀`*)。
(フフ、Shoyanはこれにきっと前代未聞のSexyさが加わるに違いなし。密かに楽しみにしているワタシ)


なんかな〜、、、こういうお酒や軽い食事の楽しめるライブいいですね(涙)。勝鬨橋や汐留のビル群の夜景に潮の香りのロケーションも良いし、良い時間を過ごせました。また来年の80才のお誕生日にバースデーライブを企画するかもとのことで、それもまた楽しみです。パンダさんスゴッ!

そんなスタンス・ご様子拝見すると嬉しくなっちゃう・・・年齢とか関係無く、音楽っていつでもみんなを楽しませて感動させることが出来るものなんだなと、安堵&確信であります。

・・・

汐留にも首都高の下に旧い大規模な地下の平置き駐車場があって、しかも予約可能なので安心して利用しやすく、スマホのカーナビと併用すればますます東京攻略が捗るぞと思いました。次は家のボロ軽を労るために(;´∀`)近所に出来たカーシェアリングで車を借りて出かけようかと思います。

会社の契約のゴタゴタは学校側の都合で二転三転していますが、私は自分の役割を邁進するということで、活力をもらった東京行きでありました。


会場の様子、右側にすぐカウンターやキッチンがあって、席までスタッフさんがドリンクやお料理を運んでくれます。



当日は演奏中の撮影も録画もOK(というか野放し^^;)だったのですが、さすがに演奏中はそのような気にはなれず、雰囲気だけ載せておきます。


外には隅田川越しの夜景。左に勝鬨橋が見えるのですが写真を撮るの忘れました。


この文字が嬉しくてアップで(笑)。


改めて載せておきます♪




パンダさんのライブにきたらこんなお花が!



ずっと前から思っていたのですが、突然ちょっと書き留めておきます。

Shoyanの歌を聴くようになって、ある程度の年月と量を積み重ねてきましたが、そんな追いかけ聴手の私なりに改めて伊勢正三の音楽で”ここが好きなんだ!”って想うことを少し・・・

私がShoyanスゴイ!と想うことの一つに

『数あるそのすべての曲で無駄なリピートがない!』

ということがあります。
曲のラストで何度も何度も同じフレーズを繰り返して、やたら盛り上げようとする作りの曲が世の中多々あると思います。大御所の・名曲の・中にも沢山あります。コンサートなどの生のステージにおいては増し増しになって、更に客席を巻き込んでの感動の大団円、フィナーレ、ですが、実を申せば私はそういう作りの曲が苦手なのであります。もちろんそれがいいのだと楽しみになさっている聴き手もたくさんいらっしゃるのもわかります。

これは全く個人の感想なのですが、せっかく歌の輪郭や中身を受け取って心に収めようとしているのに、いつまで経っても終わらないから、直前の感動は薄れ具体的なメッセージもかすみ、同じメロディーに洗脳されていく過程がもったいないと思うのです。

Shoyanの曲はレコードのオリジナル音源でも、ステージの演奏においても、まったく全然そういう『聴き手に強いる繰り返し』が一切ないので、いつも聴き終りの快感の絶頂で感動を自分の心にしまえるので素晴らしい!と思っているのです。

そんなことしなくても、一度聴いてもらえればわかってもらえるでしょう?♪・という、Shoyanから聴き手に対する信頼感のようなものを感じるからかな。

※リピートではなく、フリーのギターソロやバンドの掛け合いなどで演奏が続くのも大歓迎です♪

何度も繰り返すアノ手法は聴き手に対して何をしてくれてるのか?
ビートルズの『ヘイ・ジュード』リスペクトなのか?

歌い手側の自己満足のようなものをうっすら感じてしまう私の心の狭さよ(汗)なのですが、ともかくも、Shoyanのこのスタンスは凄いなって想っているのです☆

そして、もうひとつ、

先日、あいみょん氏と吉田拓郎氏の歌のことで家人と話していたのですが、Shoyanていわゆる『正やん節』ってないよね、と。それが凄いよね、と。

他のアーティストの話になりますが、特定のアーティストの作品をある程度曲数聴き込んでいくと結構その方独特のメロディーライン・節回し・ニュアンスって多々出てくると思うのです。(私においてはキリンジの堀込ご兄弟やスガシカオ氏などでもそう思うことがありました)それがもちろんそのアーティストのアイデンティティなのかと思うのですが、でも、でも!
伊勢正三の曲ってそれがないんです。

毎回毎度まったく違うメロディー・フレーズが生み出されて作品になっていると思うのです。なのに”伊勢正三”という強い統一感に見事収まっていて、それがまた毎回美しい。Shoyanの曲はいつも美しいんです。なので、飽きるということがないんです。既視感ゼロなので、毎回新たな感動があるし退屈しない、これ、すごいことだと想っているのです。

楽譜も書けない音楽知識ゼロなのでうまく説明できませんが、世界中に星の数ほどいる音楽家・詩人の中で、私がどうして伊勢正三氏の音楽を愛しているのかという根源は、Shoyanの曲は『オリジナリティの塊だから』なのだと思います。

といいますか、、、私は『他と一緒がイヤだ』という人間なので、まったく他の色に染まらず全部自分で自分を現わしている伊勢正三という人を、尊敬してお慕いしておるということなのだと想います。

たいていの人は小さな自分を他から持ってきたもので大きく見せようと自分の外側に貼り付けて量を増していこうとしますが、Shoyanはすべて自分の中に取り込んでご自身の感性を通したもので創作されているのだと、その徹底ぶりがカッコイイと思っておるのです。


・・・最後鼻息荒くなってしまいましたが(笑)、普段想っていることを改めて言葉に表してみるのもいいのじゃないかと、こんな試みでした。

一気書きの乱文、失礼いたしました(汗)。




でも、ホントに想っている大事なことですヨ☆
なんだか懐かしい気がする 堤防と 野球部。

先日から始まったNHKの朝ドラですが、私は結構興味深く拝見しておるのです。舞台は福岡の糸島。主人公は今高校生で、のんびりした平野と低い山、そして海と漁港、堤防に突堤、学校帰りの自転車なんかが出てくるナカナカに私の想像を掻き立てる良い舞台なのです。

主人公の友人には高校の野球部の男の子たち、漁港で自転車を立てて話などしている風景は非常に良いです。しかも卑弥呼さまも出てくるという!?設定がオモロです。

糸島のその風景、どこか懐かしいような遠景です。お話はどう進んでいくのかわかりませんが、そんな朝の小さな風景に癒やされているこの頃です。

・・・

話変わり・・・

実は、先週から急に仕事場が慌ただしく変化しそうな展開になってきました。私が管理人として雇われている会社と学校側でどうやら(急に)大学も含めての大規模な契約が切れて新しい会社が入るらしく、またもや私は自分の身の振り方を考えねばならなくなってしまいました。どんだけ流浪なの〜〜〜(;´∀`)。

新しい会社と学校側からは早々に慰留の打診があるので、うまく行けば(条件が折り合えば?)このまま同じ場所で同じ寮の管理人を続けられるかもしれません。でもこのままいくと今年いっぱいで管理会社が変わるらしいので、来年の自分はどうなっているのか、わからなくなってしまいました。(しかもまだ確定ではなく、高校の寮だけは現会社で残る可能性も!?ワケワカラン)

昨年の今頃の自分の書き込みを読み返したら、ものすご混乱していて、ちょうど遺跡発掘の面接〜採用〜肉体労働という、今読んでも自分で自分が可哀想に想えるほどの内容でした(汗)。しかも、よもや今またそんな心持ちでおるとは・・・

ただ、こんどは同じ会社内で清掃や電話受付の仕事をするか、違う会社で管理人として残るか、環境が変化するだけで無職になるわけではなさそうなので、なんとか奮い立たせて頑張るのみです。

しかし、半年ごとに人間関係が何十人も変化していくこの状況、若い頃に経験しなかったから今まとめて来ているのかな?遺跡発掘も、中国語も、みんなShoyanの歌と出会う前のすごく幼かった頃の私の初心です。鏡の中の時計は逆回りするのかなやっぱり・・・

なんだか人生まとめの時期に入らされたのか・・・それとも、やっと本来の自分になれるのか??

自分の気持ちを落ち着かせるために非常に個人的なことつぶやきました。
ご容赦下さい(._.)

さて、私の流浪道、これからまたどうなりますやら(*´ω`*)v
ここに来て急に話題の紫金山・アトラス彗星ですが、今日の仕事終わりにそのまま車を走らせて裏の山の集落に登って観に行ってみました。

雲がかかっていたのに薄雲越しに縦に長い尾が見えて、肉眼でも観ることが出来ました。想像以上に大きな彗星です。見え始めて30分ほどで3000m級の山々に沈んでいきました。

先客で来ていたカメラマンのお兄さんからファインダーに映るくっきりした彗星の姿も見せてもらったり、自分でもステージのShoyanを観るために買った双眼鏡でじっくり観てみたり、とても貴重な時間を過ごしてきました。月曜日なので仕事がしんどかったですが、小さなグダグダ気分は吹っ飛びました(笑)。

前回彗星を見たのはヘールボップ彗星です。
別府の街で振り返り様の夕景の山の端に、美しく浮かんでいました。あのヘールボップ彗星の美しさは忘れられません。初めての九州、大分、別府に行けた記念の日の彗星です。黄昏の美しい山の端、暮れなずむ青い海に浮かぶカーフェリーさんふらわあ号、家々の灯がすこし寂しくまたたく別府の街。

その時の私は前世の私なので、もうどこにもいませんが、あの日のあの別府の街と彗星のことはShoyanの歌と共にまだあの時にあるのだなぁ。全部忘れたいような前世ですが、忘れたくない時間もあったと、、、そんな気持ちをかき集めてくれたほうき星。別物ですが8万年の彗星を観てほんのり過去を想い出しました。


この紫金山・アトラス彗星は都会からでも見えるそうです。
次の8万年後、地球もこの彗星もあるかどうかはわからない。ずっと不変で永久みたいな星空だけど、こんな訪問者が寄ってくれたりして、宇宙は意外と身近で変化に富んだものなのかもしれないです。

それを儚いととるか、悠久ととるか、それは自分のこころ次第で☆
※少し言葉は足りないのですが、載せられる分だけ載せておきます。

・・・

ここ数年、個人的にはライブではずっと重々しいイメージに聴こえていた『涙憶』だけれど、この夏の空前の『THE伊勢正三4枚目gold』ブームで初心に戻った感がある。

4枚目に収録されている音源はおそらく映像化された『伊勢正三One heart1  session』のエンディングで使用されていた音源だと思う。あのコンサートには自分も行っていた。ゆえにとても想い出深い音源だ。

この渋谷公会堂の『涙憶』は本当に何度も繰り返して聴いた。アルバムに収録されているオリジナルの涙憶もシンプルですが、もっとシンプルな、Shoyanひとりでガットギターを爪弾いて歌っているスタイルが歌の”胸の中”そのものな気がして、曲を内側から見ることが出来るくらい近く感じた。

そんな、懐かしい憧れとともに、素直に切なくなって涙こぼれる気持ちがこの夏蘇ってきた。

しかも丸山氏との共演で更なる”今”のもどかしさ・問いかけが付加されて、『涙憶』のもっと深いところまで感じることが出来ていると、今思っている。

・・・

「その言葉・この言葉」とは、「ごめんね」なのかなとずっと想って来たけれど、どうしてこんなに頑なに双方”そう”言わないのだろう。

意地っ張りの度を超えている。

「君を傷つけた僕だけが君を癒せる」

ということは、、、この断絶の直前には彼の一方的なエゴが炸裂したのだろう。けれどケンカは両成敗・・・その彼のエゴを引き出してしまったのは、これまた彼女の無意識のエゴなのかもしれず、堂々巡りの原因のエゴの釣り針なのだ。

「そう君が言えば僕も変われる」
  =
「あっちが謝るのが先よ」

という不変の不毛。
でも、これは互いが向き合ってるからこその干渉なのだよね。

その不毛、その煩わしさ、それがそのまま平行線ならふたりの未来は成就しないし、何年一緒にいようがそう思ってしまった瞬間にふたりは別物になる。

”胸に閉じ込める”とは、胸という檻があるということ。人は自分の心の中は他とは違うものだと思っている。そして他人の心にも入れないと思っている。

けれど、

僕の胸に抱きしめることと
君の胸に埋もれることは
同じことなのだ

「何故君と出会う  その訳を
   偶然のかけら拾うわけを」

その”理由”とはなんだろうか?
運命みたいなものだろうか。
では必然とはなんだろうか?

人は自分の目の前に現れたものと対峙するしかないのだ。
それが此の世に生まれてしまったということだ。

そして人生は短くて、けんか断絶している暇などないと気づけば、何時間もかからずに目の前のもう一人の自分と微笑みあうことが出来るのではないだろうか。

「愛は時に煩わしさのためにある」だなんて超〜リアルな見解は、煩わしさとはマイナス要因ではなく摩擦熱の一種なのだと知っている作者Shoyanの先達目線なのかと感じられたりして面白くも思う。


愛に役割なんてない。

言葉に囚われずに
涙で心の檻の鍵を開けて
涙で自分と相手を貼り合わせて
涙で本当の気持ちを洗い出す・・・

「涙の記憶」とはなんだろう?と
今でも私には答えはわからないけれど
涙には心のロックを外すPasswordが記憶されているような気がしている。

だから、どんなに辛い涙でも
目を背けずにその中をよく覗き込もう
涙の根本理由に気付けたら
きっと次の扉が開くから・・・

・・・

”偶然のかけら”に翻弄され続けてきた自分でも、流す涙に記憶されてきた何十年かを今愛おしく思える。その涙が塩辛い一粒の結晶になるくらい、Shoyanの歌は永く聴けば聴くほど濃くなって私の胸の中に降り積もっていく。

心と心の一体化を考え始めるキッカケになった歌『涙憶』。今また改めて大好きです(涙)。新しい気持ちで聴けるこれからの時間をしあわせに想います。




※『涙憶』のことを書いていて人生を語るとは思わぬ展開だった。それだけ永い時間聴き続けてこれたということかな。

※※『One heart1session』のエンディングは擦り切れるほど再生して、一生懸命耳コピしようとギターと格闘した。小指が攣りそうでした(*´∀`*)。

※※※
オリジナル音源ではあのラストの氷柱の雫のような鍵盤の音も堪らないのです。(私は個人的にShoyanご自身の演奏なのでは?と密かに思っていたのですが、Key:エルトン永田氏とクレジットがありますから、エルトン氏かもしれません)ともかくも素敵な合奏であります(涙)。

プロフィール

HN:
No Name 七氏
性別:
女性
職業:
飲食店勤務のち遺跡発掘作業員のち学生寮管理人(いまここ)
趣味:
林道歩き・鉱物鑑賞
自己紹介:
伊勢正三ファン歴は浅いです。ソロの正やんしか知りません。行けるコンサートも少なく、ラジオ番組などは聴いたり聴かなかったりなので、既出なことも知らずに勝手なことを妄想して書いたりしています。「ものろーぐ」カテゴリの文章は最近の曲をのぞいて、以前書き溜めておいたものを手直しして載せています。

☆提供曲などに関してべいどん氏のご協力をいただきました。心から深謝いたします。ありがとう!

☆ミラーサイト(予備)
http://shoyanlove774.jugem.jp/
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